第三章① リゼーヌ
トゥーロン港。南の光がまだ強いが、北へ向かう船はすでに帆を整え、出港の気配をまとっている。リゼーヌが乗り込むと甲板の隅へと歩き、適当に置かれた木箱の上に腰を下ろして鞄を抱え、背を伸ばして空を見上げた。雲は薄く、昼間の空では星は見えない。それでも、そこにあると知っている。
「……北」
リゼーヌが呟いた時、桟橋の方から慌ただしい足音と声が響いた。
「やばいやばいやばい、間に合ったー!!」
荷役の男たちが振り返ると紺色の制服が桟橋を駆け抜けた。息を切らして鞄を振り回しながら飛び乗る姿はメリッサである。彼女はジェノヴァからの乗り継ぎで一度トゥーロンに降り立ち、どうにかこの北行きの船に滑り込んだらしい。
「セーフ!? セーフだよねこれ!?」
船員が「早くしろ!」と怒鳴るとメリッサは「はいはい今乗りましたー!」と叫び返した。その騒がしさに、リゼーヌはメリッサに視線を向けた。紺色の制服、階級章、立ち振る舞い。同類だと一目で分かる。メリッサもまた甲板に足を着けた瞬間、ぴたりと動きを止めて口を開けた。
「ああああああっ!」
突然の大声に船員たちがまた振り向き、メリッサは指をびしっと突きつけた。
「紺の制服! あなたも士官だよね!?」
リゼーヌは瞬きを一つして穏やかに微笑んだ。
「……はい」
メリッサはまだ息を整えきれていないままリゼーヌをまじまじと見た。
「もしかして……あなたもブレストへ向かうの?」
「はい」
リゼーヌは頷くとメリッサの顔がぱっと明るくなる。
「えへへ、じゃあ自己紹介しなきゃね!」
なぜか照れたように笑い、勢いよく背筋を伸ばしてパシッと敬礼。
「ブレスト司令部所属、第七艦艇部隊マクシミリアン・ブーケ隊所属、メリッサ・カンパネッラ! 階級は二等兵! 部隊では調理師と砲手を兼ねてます!」
メリッサの声が甲板に響いて近くの船員がちらりと見る。リゼーヌは鞄を木箱の上に置いて立ち上がると足を揃え、姿勢を正して敬礼した。
「トゥーロン司令部、第六部隊に所属していました。リゼーヌ・ボルドです。この度、マクシミリアン・ブーケ隊所属となりました。階級は二等兵、役割は航海天文学士です」
メリッサの目がゆっくりと見開かれ、ぱちぱちぱちと瞬きした。
「……マジ?」
リゼーヌはにこやかに答える。
「マジです」
一瞬の静寂のあとメリッサの絶叫が甲板中に轟く。
「ええええええええええええええ!?」
帆の上で作業していた水夫がびくりと手を止め、舵を握っていた男が「何事だ!?」と怒鳴る。メリッサは頭を抱えた。
「第六!? 第六ってあの技術屋だらけの!? え、天文学士!? 星読む人!? うちの部隊に!?!?」
「はい」
「え、え、え、待って待って、情報量多い!」
船がゆっくりと桟橋を離れ始める。縄が外され、水が泡立つ。メリッサはまだ半分パニック状態のままリゼーヌを指差した。
「ていうか、同じ第七ってことは……灰色の隊長のとこ、だよね?」
風が強く吹き、リゼーヌの髪が揺れる。
「……ええ」
リゼーヌの一言が船の進路を決定づけるかのように落ちた。帆が膨らみ、港が遠ざかる。甲板の上、木箱に腰を下ろしたまま二人の距離は自然と近づいていった。
「第六ってどんな感じ? やっぱり難しい計算とかいっぱい?」
「ええ。難しい計算もありますけど……基本は空を読むだけです」
「空を読むだけって言い方かっこいいな!?」
「慣れれば普通です」
メリッサはリゼーヌの顔色を伺うように身を乗り出した。
「士官学校はどうだった?」
「……笑われましたね」
「やっぱり?」
「星読みなんて古い。羅針盤があれば十分だ、と」
「はー? 何それ」
「まあ、慣れています」
リゼーヌが苦笑するとメリッサは肩をすくめた。
「私はね、もっと直接的だったよ」
「直接的?」
「『女が砲手志望?』って顔されたからナイフ投げた。顔の真横、壁に刺さるようにね」
「……それは、やりすぎでは」
「やりすぎた。でも静かになったよ」
リゼーヌは数秒考え、「効果的ですね」と真顔で言うとメリッサは吹き出した。
「好きだわ、あなた」
メリッサの笑い声が風に溶け、やがて話題は自然と第七へ移っていく。メリッサは顎に指を当てた。
「そうだ。ってことは私に後輩ができるのかあ」
メリッサはじわっと嬉しそうな顔を浮かべて続ける。
「聞いてると思うけど、うち今、謹慎中なんだよね。やらかしが多いから」
「やらかし」
「うん、色々と。でも、まあ大丈夫だよ」
メリッサは甲板の手すりにもたれ、船が向かう先を見た。
「ブレストに着いたら宿舎へ案内してあげる。あ、その前に司令部だね。手続きしなきゃだし。何があっても私がいるからねー」
「ありがとうございます」
リゼーヌは頭を下げるとメリッサは照れくさそうに笑った。
「みんな優しい人たちだよ。騒がしくて、あったかいからね」
船は何事もなく北へ進み、数日後には灰色の海の向こうにブレストの城壁が姿を現した。
「着いたね」
メリッサが手すりに身を乗り出し、リゼーヌは黙ってその光景を見つめた。ラド・ド・ブレスト、低く唸る海と石造りの街並み。軍旗がはためき、北の空はどこまでも冷たい。接岸後、二人はすぐに司令部へ向かうと手続きは事務的に進んだ。書類、署名、確認が済むと「第七艦艇部隊所属」の一文が正式にリゼーヌの名の横に刻まれた。それからリゼーヌはメリッサに連れられ、キール通りへ案内された。城壁の外、少し離れた場所に構えられた宿舎。スザンヌから概要は聞いていたが、実際に目にすると印象は違う。
「ほんとに外れなんですね」
「うん。問題児部隊だから」
メリッサは悪びれもなく笑う。石畳を踏みしめながら、二人はラド・ド・ブレストを見渡すと遠くで軍艦が錨を下ろす音が響いた。やがて二人が宿舎に辿り着き、メリッサが玄関扉を押し開けると冷たい空気が流れた。まず向かったのは隊長の執務室。室内にいたのはリラ一人、書類を整えていた彼女は顔を上げ、リゼーヌを一瞥する。
「リゼーヌ・ボルドね」
「はい」
「副官のリラ・シャネルよ。隊長が帰ってきたら皆で挨拶を」
それからリラはメリッサに視線を移した。
「メリッサ。帰ってきたところ悪いけど彼女をお部屋に案内して」
「はーい!」
メリッサは軽快に答え、リゼーヌを連れて執務室を出ると階段を上がった。
「自室は基本二階。確かここ空いてたかな」
メリッサが部屋の扉を開けると質素だが清潔な空間が広がった。二人で簡単に掃除を済ませる。リゼーヌが埃を払って窓を開けると宿舎の外から「隊長が帰ってきた!」とペネロペの声が上がり、メリッサは手を止めて口を開いた。
「行こ」
二人は階段を駆け下りて中庭へ向かうと既に何人かが集まっていた。リラ、グウェナエル、シャルル、ジョルジュ、そして、戻ってきた者たち。再び集まり始めた輪の中でリゼーヌは一人一人を見つめるが、スザンヌの姿だけがどこにも見当たらなかった。リゼーヌの胸の奥がわずかに冷え、まだ立ち直れていないのだろうかと悟る。
その時、廊下の奥から規則正しく乾いた靴音が響いて、マクシムが姿を表すと中庭に集まった騒めきが不意に止まった。風に揺れる灰色の髪を見て、誰もが一瞬言葉を失う。リゼーヌは初めて灰色の隊長を凝視していた。若い、その顔に傷はない。姿勢も崩れていないが、何かが違う。まるで一晩で季節を越えてしまった人のような。マクシムは中庭の中央に立ち、視線だけで既存の隊員たちを並ばせると隊員たちは直ちに整列する。
「今日から新しい隊員が加わった。皆の前で、名前を告げるように」
マクシムのの視線がリゼーヌへ向き、リゼーヌは一歩前に出ると喉が乾きを覚えたまま敬礼した。
「リゼーヌ・ボルドです。この度、第六部隊から編入する形で加入することになりました。航海天文学士です。皆様のお役に立てるよう精一杯努めます」
声が震えなかったことだけが救いだった。沈黙のあとマクシムがふっと微笑む。
「羅針盤がたくさんある世の中だけど、必要ない役割って僕は無いと思うんですよね。——迷った時は星を見ろ。彼女の力を存分に活かして引き出してあげるのが僕達の役目でもあります。年齢も生まれも関係ない。僕達は利用し合うためにこの部隊があるんです。それでは、新たな仲間を迎えたところで。——解散」
マクシムが淡々と告げると拍手も笑いも起こさず隊員たちはゆるやかに動き出し、女性士官たちがリゼーヌの元へ歩み寄った。
「よろしくね」
彼女たちの声は明るいが、リゼーヌの視線は別の方向へ向いていた。灰色の背中、マクシムが誰とも目を合わせず中庭を後にする後ろ姿は妙に遠い。
——暗い、ミステリアス。でも、星読みを馬鹿にしなかった。
北からの風が吹く。中庭の空にはまだ星は出ていない。
この日の夜、宿舎の食堂では久しぶりに香ばしい匂いが満ちていた。
「歓迎会、兼ねてね!」
メリッサが腕まくりをしながら大皿を運ぶ。煮込み、焼き立てのパン、香草の効いた魚料理、彩りも温度も完璧だ。
「やっぱり料理人がいないと話にならんな」
真顔で言うグウェナエルの隣でシャルルが微笑むが、フォークを握る指がわずかに白い。
「ぼくへの当てつけやめてね?」
「いや、お前は頑張ってる。芸術だ」
「慰めにもなってないんだよね、それ」
二人の間にピリッと火花が散るのを見て、ペネロペが笑うとメリッサに目を向けた。
「芸術といえば、サミュエルの料理も美味しいよ? ただ、装飾が凝りすぎて食べるの躊躇しちゃうけど」
「え、そうなの!? 今度、サミュエルさんの手料理見てみたい!」
メリッサが目を輝かせるとサミュエルがわずかに肩をすくめる。
「料理も造形の一部だ。視覚も味覚も、同時に満たすべきだろう」
彼の隣でロザリーが頷く。
「美は一瞬よ。食べられて消えるからこそ価値があるの」
「ほら、始まった」
ジョルジュが苦笑し、アニータはリゼーヌの隣に座って柔らかく話しかける。
「星読みって、ほんとに夜空だけで分かるの?」
「条件が揃えば、ある程度は」
「かっこいいなあ」
隊員たちの間で笑い声が重なり、リゼーヌは少し戸惑いながらも彼らの輪の中にいた。「騒がしくて、あったかい」というメリッサの言葉が今なら分かる気がした。食堂の隅ではリラとダヴィットが控えめに立っている。
「戻ってきたな」
「ええ」
ダヴィットとリラの視線は全体を見ている。笑顔、皿の音、湯気の向こうでマクシムは誰よりも早く食事を終えた。
「お先に失礼します」
淡々と告げると彼は食堂を出て、二階へ向かった。階段を上る音が妙に響く。自室を開けると机の上には司令部からの報告書が鎮座していた。マクシムが封を切ったまま放り出していたもの。彼の視線がそこに落ち、一枚の紙にソフィー・ルノアールの名前が綴られていた。マクシムの指先が紙の端に触れる。
「ソフィー……なんで戻ってきた」
彼の胸の奥で何かが軋む。守るために突き放した。あの時、振り返らなかった。彼女の手を払いのけて。これ以上、巻き込めないと決めたのは自分だ。戻ってくると分かっていたなら、戻る意思があると知っていたなら突き飛ばさなかったのに、手を離さなかったのに。机に置いたマクシムの拳がわずかに震え、報告書の文字が滲んだ。食堂からはまだ笑い声が聞こえる。あったかい空気の輪の中に彼はいない。灰色の髪が灯りの下で鈍く光り、彼は椅子に深く腰を下ろして目を閉じた。壊れたのは髪だけではない。
食堂の灯りがひとつ、またひとつ消えていく。笑い声もやがて遠のき、宿舎は夜の静寂に包まれた。リゼーヌは自室に戻ると灯りもつけず窓を開け、自作の星座盤を手にして簡素なベランダにそっと出た。初夏、風は冷たく乾いている。今日は珍しく雲がなく、月も出ていない。星がよく見える夜だ。リゼーヌは星座盤を構え、ゆっくりと空をなぞった。カシオペヤ、北斗七星、初夏の星々。
「ああ……」
空は嘘をつかない、計算も裏切らない。地上より、よほど素直だ。リゼーヌが夜空を見渡していると遠く北西の空で何かが揺らいでいる。星の瞬きとは違う滲み、霞。最初は目の疲れだと思った。長旅のせいだろうともう一度、瞬きをして目を凝らすが、それでも北西の空だけ輪郭が曖昧だ。
「……?」
リゼーヌは望遠鏡を取り出すと筒を伸ばし、角度を合わせてレンズを覗いた。星はあるが、光が滲んでいる。まるで薄い膜を一枚、空に張ったような。焦点を合わせ直すが変わらない。風は穏やかで雲もないのに天文学士としての直感が微かにざわつく。
「……変だな」
天候の変化? 湿度?気流? 理屈を探すが、胸の奥で違和感がじわじわと広がる。
「……嫌だな。何も起こらないといいけど」
無意識に漏れた自分の言葉に少しだけ苦笑する。星は星、空は空だ。不安は地上のもの。そう言い聞かせるように、リゼーヌは再び望遠鏡を構えた。遠くの霞みは変わらない。北の空は静かすぎる。やがて、宿舎のどこかで窓が閉まる音がした。




