第二章④ リゼーヌ
それから、トゥーロン司令部。地中海の光は眩しいが、第六部隊の研究室はどこか閉ざされている。机の上には図面、分解された部品、試作品の金属片。火薬の匂いと油の匂いが混ざる実験的な空間の片隅で、一人の少女が動いていた。
——リゼーヌ・ボルド。彼女は机の上に散らばっていた書類を淡々と束ね、使い込んだ羽根ペンを拭い、インク瓶の蓋を閉めた。自分の陣地をまるで撤収する前のように整えていく。最後に、彼女は机の奥から何かを取り出した。簡素な星図盤、紙と木製のリングを組み合わせた持ち運び用の観測道具だ。金属の縁は少し擦れ、夜の甲板で何度も風に晒されたことを物語っている。自作だ、身軽に持ち歩けるよう何度も改良を重ねた。釘の位置、角度、紙の厚さ。誰に頼まれたわけでもない、自分が必要だから作った。彼女が星図盤を丁寧に鞄へ入れると、背後でひそひそ声とくすりとした笑いが耳に入った。
「また星か」
「羅針盤で足りるだろうに」
「この時代に航海天文学士なんてな」
「まあ、東洋知識がある人材は貴重だけど」
リゼーヌは振り返らない。最初は笑って受け流して耐えていたが、ある日を境に堪忍袋の緒が切れた。
「星読みなんて」
その一言が彼女の胸に残った。星は方向を示す。羅針盤が狂った夜でも、雲が裂ければそこに答えがある。見上げる者だけが知っている。それを知らない者に笑われるのはもう十分だった。スザンヌと同じ部隊に行きたいと思ったのは、理屈ではない。あの人なら星を笑わない。だから、採用担当者の執務室へ押しかけて「第七に移りたい」と真正面から詰め寄った。研究室では見せない目で。……そんな昔の話ではない。まだ数ヶ月前のことだ。リゼーヌは鞄を閉じると立ち上がった。
「……星は北を指してる」
彼女は誰にも聞こえない声で呟いた。研究室の窓の向こう、地中海の空は澄んでいるが、彼女の視線はもっと遠くを見ていた。その時、研究室の窓辺に足音が近づく。
「やあ」
カップを片手に現れたのは第六部隊の総監督。この部署きっての技術者であり、発明と改良に人生を捧げている男だ。作業用制服の袖はインクと油で汚れ、眼鏡の奥の瞳は常に何かを計算している。
「今日、出発なんだってね」
彼が湯気の立つカップを揺らしながら軽い調子で言うとリゼーヌは姿勢を正した。
「はい。本日付で移動命令が出ています」
「うんうん。第七、だったね。旅のご武運を祈るよ」
「ありがとうございます」
監督はカップに口をつけて一口啜ると視線を横に流した。
「ああ、そういえば聞いたかい? 君が行こうとしてる部隊。なんか、隊長さんの髪の色が変わったらしくて」
彼は噂話をする時、決まって声が弾んで早口になる。リゼーヌの指が鞄の持ち手をわずかに強く握った。
「……髪の色が?」
「そう、報告書が回ってきたよ。軍内の医学専門家ですら原因不明、お手上げ状態。で、なぜかボクのところにも『何か知らないか』って回ってきたんだけど、さっぱりだね。お医者さんが知らないことはボクも知らん。ボクは武器とか帆船の構造の方が好きでね。人間にはあんまり興味がない」
監督は涼やかな目つきでさらりと言った。もちろん悪意はない、ただの本音だ。
「元は黒髪らしいんだけど、朝起きたら明るくなってたと。しかも白髪じゃなく、灰色だって。脱色もしてないんだとさ。さっき他の連中に話したら、一部のやつは『呪いじゃないすかね』なんて妙に興奮して語って。内容はよく知らんけど」
監督がくすりと笑い、研究室の奥で誰かが「東洋の妖術かも」と冗談めかして笑った。リゼーヌは笑わない。灰色、黒から灰へ。彼女は鞄に向かって目を伏せた。精神的負荷、羅針盤では測れない何か。
「……変化には理由があるはずです」
「君らしいね。理由を探すのは悪くない。だが気をつけたまえ。第七は今、色々と騒がしいらしいから」
監督は肩を竦めるとカップの底を覗き込み、残りを飲み干した。
「まあ、星読みくん。向こうでも空を見上げてやってくれ」
監督が軽く手を振って去っていく。研究室のざわめきが戻り、リゼーヌは窓の外を見た。地中海の空は雲ひとつない青だが、彼女の視線はもっと北へ向いている。灰色の海へ。黒から灰へ変わる髪、呪いという言葉が彼女の胸の奥で引っかかる。星は変わらないが、人は変わる。
「……確かめるしかないか」
リゼーヌは鞄の持ち手を整え、研究室の中央に向かって一礼した。
「みなさん、お世話になりました。ありがとうございました」
誰かが「おう」と手を振り、誰かが「向こうでも星でも読んでろよ」と軽口を叩く。彼女が背を向けた時、監督の声が研究室内を突き抜けた。
「おい! あの試験運用の資料できてるか!? 東洋知見のやつだ、新武器二種の!」
研究室の奥から慌ただしい返事が飛ぶ。
「はい! 今、総司令部に向けて資料まとめてます!」
「頼むよお! うまくいけば予算枠拡大してくれるかもしれないだろお!? そうすりゃ今取り組んでる二種の他にも、もっと色んな実験に回せるんだから!!」
リゼーヌの背後で椅子が軋み、紙が擦れ、誰かがインク壺をひっくり返しそうになり、怒号と笑いが入り混じる。研究室は相変わらず戦場のようだ。人ではなく、理論と金と武器のための戦場。リゼーヌは扉に手をかけて一瞬だけ振り返るなり溜息を吐くと、扉を開けて瞬時に閉めた。ぱたりと音がして世界が切り替わる。廊下は静かだった。石造りの壁に昼の光が淡く落ちている。研究室の喧騒は分厚い扉一枚で遠い。コツ、コツ、と靴音が響く。ひとり分の足音。リゼーヌは歩きながらぽつりと呟いた。
「東洋……」
監督の言葉が引っかかっている。東洋知見と聞いてリゼーヌの口元が思わず緩む。
「港に行く前に寄ろう」
リゼーヌの声はさっきより柔らかく、研究室では見せなかった表情がふっと浮かんだ。どこか解放的な、悪戯を思いついた子供のような笑みだ。廊下の窓から吹き込む風が髪を揺らし、リゼーヌは鼻歌をひとつ零した。軽い旋律、第六では誰も知らない歌。石の廊下に明るい音が跳ねる。北へ向かう前に、星を読む前に彼女は少しだけ寄り道をするつもりだった。
リゼーヌがトゥーロン司令部の石段を降りると港町特有の湿った風が頬を撫でた。リゼーヌはそのまま人通りの多い歩道を進んでいく。南の陽射しは強く、石畳は白く照り返していた。やがて通りは細くなり、商店の数も減っていく。やがて、街外れの静かな一角でリゼーヌ足を止めた。木製の看板、墨のような濃い文字と繊細な波の意匠、東洋の様式を凝らした小さな鍛冶屋だ。リゼーヌが扉を押すと鈴が控えめに鳴った。室内は外よりもひんやりしている。壁には刀身の細い剣、曲線の美しい短刀、見慣れない形の鍋や茶器、木と鉄と炭の匂いが混ざる。店の奥から規則正しい金槌の音がカン、カン、カンと断続的に響いていた。リゼーヌは一歩踏み込むと弾んだ声を張る。
「お邪魔しまーす」
金槌の音が止み、少しの間を置いて暖簾が揺れた。奥から現れたのは一人の男だ。彼は頭に巻いていた布をするりと外すと長く伸びた白髪がさらりと肩に落ちた。若く見えるが、目尻と目元に刻まれた皺が時間を物語っている。彼はこの地に根を張った東洋人だ。男は落ち着いた茶色の瞳でリゼーヌを見詰めると柔らかく笑った。
「いらっしゃい?」
いつもの調子で問う彼にリゼーヌは目を見開いた。
「あ、あの今日は違くて……」
「遠慮するな。まだ火は灯っている」
「いえ、本当に今日はそういうのじゃなくて……」
リゼーヌは鞄の持ち手を握り直した。
「お別れを伝えにきたんです。私、これから北部の方へ向かいます」
男の視線がほんのわずかに深くなる。
「北か」
「ええ。ブレスト方面です」
「……寒いぞ」
「知っています。だから、その前にご挨拶を」
リゼーヌはほんの少しだけ笑う。店内にはまだ熱の残る鉄の匂いが漂っている。男は棚に置かれた小さな包みを手に取った。
「北へ行くなら持っていけ」
差し出されたのは掌に収まる小さな金属片、星の形をした薄い護符のようなものだ。
「東洋ではな、星は“道標”だけじゃない。“忘れるな”という意味もある」
「……忘れません」
リゼーヌは贈り物を受け取ると男はふと目を細めた。
「ところで……私のアドバイスは役に立っているのだろうか」
リゼーヌの表情がぱっと明るくなる。
「はい! それはもう大変お世話になりました。すでに試作品も完成しているんです。これから最終段階に入って、さっそく総司令部に向けてプレゼンするみたいで。貴方の理論がばっちりはまったんですよ! 技術監督も感動していました。発想が違うって」
男は何度か瞬きをして頷いた。
「……それは良かった。だがな、道具を操るのもまた人間だ。使う人間の手によっては武器にも薬にもなる」
男は茶色の瞳がわずかに影を帯び、彼は店内の暖房用の炉の縁に手を置いたまま続けた。
「理論は中立だが、心は中立ではない」
店内に炭の爆ぜる音が小さく響き、リゼーヌは一瞬きょとんとした。
——この人、またなんか深いこと言ってる……。
彼女は心の中で小さく苦笑すると改めて口を開いた。
「でも貴方がこの街にいてくれて、みんな助かっています。第六だって、東洋知見がなければここまで来れなかった。これからもきっと重宝されますよ」
男は彼女の素直な言葉を受け取り、わずかに目を伏せた。
「……できれば穏やかに過ごしたいものだな」
彼の冗談とも本音ともつかない響きに、リゼーヌは思わず口を噤んだ。彼の横顔には遠い国の記憶が一瞬よぎったようにも見える。戦の匂い、異国での暮らし、選んだ沈黙。リゼーヌは星形の金属片を掌で転がしながら口を開いた。
「あの……つかぬことを伺ってもよろしいでしょうか?」
「なんだ」
男が首をわずかに傾げるとリゼーヌは少し声を落とした。
「私がこれから配属になる部隊なんですけど……少し変な噂が立っていて、そこの隊長が灰色の髪らしいんです」
「ほう」
「生まれつきではなくて、一晩で色が変わったそうです。黒髪だったのに。お医者さんも原因不明で、軍内でも騒ぎになっていて」
リゼーヌが言葉にする間、男はしばらく黙って顎に手を当てた。
「その隊長さんには、しばらく黒い物を食べさせるべきだな」
「……え?」
リゼーヌが思わず素で聞き返すと男は口元をわずかに緩めた。
「冗談だ。一過性のものであるなら、そのうち元の色に戻る。身体というものは思っている以上に律儀だ。だが、それでも戻らぬなら……その隊長さんは何か業を背負っているのかもしれんな」
リゼーヌは眉をわずかに寄せる。
「業……ですか」
男はゆっくりと問う。
「因果応報という言葉を知っているかい?」
「過去の善悪の行いに応じた報いを、必ず自分が受けるという法則……ですよね。確か仏教の教えでしたか」
「そうだ」
男の視線が炉の赤い炭に落ちる。
「髪の色が変わるのも、ある意味では報いの形かもしれん。内に溜めたものが外へ滲み出た結果だ」
火の色は赤から灰へと変わっていく過程を、二人は黙って見つめていた。しんとした空気の中、やがて男が顔を上げた。
「……その隊長が怖いかい?」
リゼーヌは一瞬だけ考え、ゆっくり首を横に振った。
「いいえ。噂は聞きました。でも……怖いとは思いません」
男は目を細めた。
「なら、大丈夫だろう。怖がる必要はない。人が変わる時というのは、たいてい何かを抱えている」
炉の火が更に色を失っていくが、男の声はさっきよりも柔らかい。
「大事なのはな……寄り添うことだ。それだけでいい。業は消せぬが、背負う重さは分けられる」
リゼーヌは彼の「寄り添う」という言葉を胸の奥に沈めると星形の金属片が掌でひやりと光った。
「……ありがとうございます」
リゼーヌは一礼した後、名残惜しげに店内を見渡した。鉄の匂い、油の染みた木の机、刃物の鈍い光、それから机の端に置かれた一冊の書物が目に留まる。「月下の詩篇」のタイトル、擦り切れた表紙。角は丸く削れ、幾度もめくられた跡があった。ページの端は指の油で柔らかく黒ずんでいる。長い年月、読まれてきた本らしい。
「気になるかい?」
不意に声が飛び、リゼーヌはハッとして顔を上げた。男は壁に貼られた古いチラシに視線を向けていた。
——大海賊フランソワ、死亡。
風雨に晒され、文字は滲んで紙は裂けかけている。彼はリゼーヌを振り返らないまま口を開いた。
「よく読んでいた詩集だ。東方のね」
男はチラシからリゼーヌに目を向けて柔らかく付け加えた。
「私の愛読書だ」
リゼーヌは少し微笑んだ。
「この本……読んだことあります」
「ほう」
「実家にあるんです。父が東洋文化に傾倒していて、よく音読して聴かせてくれました。それが最初で、私もこの本……好きです」
男は目を細める。
「だが君は、星が好きなんだろう?」
「空が好きなんです、昔から。この詩集の中に歌になっているもの、ありますよね?」
「『月影之文』、だな」
「そう、それです。東洋の詩に、西洋の音楽家が音をつけたもの。母がよく子守唄にしていました。私もたまに鼻歌を——」
店の空気が柔らぎ、二人の会話が弾んでいった。やがて、男は深いため息を吐く。
「……君のご両親には、ずいぶん世話になった。ただの流離の旅人だった私に鍛冶の道を示してくれた」
「父はただの東洋オタクですよ。貴方の話にすっかり惹き込まれて、『住まいは私が提供する!』と豪語したって、母が呆れていたと聞いています」
リゼーヌはくすりと笑うが男は笑わず、もっと遠い記憶を探るようにしばらく沈黙している。炉の中の灰が崩れる音が響き、リゼーヌは口を開いて再度一礼した。
「……そろそろ、行きますね。お世話になりました、ありがとうございます」
男はゆっくり顔を上げる。
「たまには星だけでなく月も見上げるといい」
「はい」
リゼーヌは少し笑って扉に向かうと男を振り返った。
「それでは……お元気で。また会いましょう、——リュウ・ヨシマサさん」
鈴の音が鳴り、扉が閉じる。店内の静寂の中に疲れたような溜息が落ちる。
「……また独りか」
男——リュウは再び壁のチラシへ視線を向けた。
——フランソワ。
リュウの胸の奥に、あの声が蘇る。海の匂いとともに。
静かな入り江。陽光が波に散り、帆が風に鳴る。足を組み、海を見つめながらリュウは言った。
「誰もが潮風を求めているようで、結局は風に流されているだけじゃないかと時々思う」
「流されるのが悪いとは思わねえ。問題はどの風に流されたいかだ」
フランソワが笑い、リュウは一瞬だけ目を見開く。
「……ゼフィランサスの風、か」
「ああ。あいつの風は嵐みたいだった。怖くて、苦しくて……でも一度吹かれたら、もう陸には戻れねえ」
「それでも、君は帆を張っている」
「当然だ。あいつが残した風を無駄にしねえためにもな」
潮騒が言葉を攫い、フランソワはぽつりと続けた。
「陸にいれば誰かの都合で風が吹く。海の上なら風は誰のものでもない。……たとえ嵐でも、自分の選んだ風に飲まれるならそれでいい」
リュウはフランソワの横顔を見つめながら寂しげに言った。
「……それでも、風はいつか止むよ、フランソワ」
「そのときは、また帆を張り直すさ」
最後にフランソワは穏やかな笑みを浮かべてリュウを見つめた。
「……俺は結局、あいつの風に生かされてる。忘れられねえんだ」
あれが最後の会話だった。
リュウはゆっくりと目を閉じた。彼の脳裏に浮かぶのは、顔面に傷を刻まれた少年。
「フランソワ……あの子を置いて、遠くへ行ってしまったのか」
リュウはトゥーロンで鍛冶屋を営みながら、裏ではリー・ウェンとして情報を集めている。目的はただ一つ、ルキフェルを探すこと。フランソワ海賊団の残党が捕らえられた時、牢の前まで足を運んだのも彼だった。なぜトゥーロンを襲ったのか。リュウは彼らの最期の言葉を一言一句聞き届け、斬首の瞬間も目を逸らさなかった。
「ルキフェル。君は一体、どこにいる」
リュウは暖簾をくぐって炉の前に立つと金槌を握った。カンという鉄を打つ音が再び店内に響き始める。南の街で一人の男が帆を張り直していた。




