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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】5・6巻「胎動編」  作者: セキユズル
第二章「大事なのはな……寄り添うことだ。それだけでいい。業は消せぬが、背負う重さは分けられる」
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第二章③ 各地にいるマクシム隊

 ブレスト医務局。消毒薬の匂いが漂う診察室に奇妙な静けさが落ちていた。扉が開いた瞬間、医師が素で悲鳴をあげる。


「……ひっ」


 診察室に現れたのは灰色髪の男——マクシムだった。彼の付き添いとしてリラとジョルジュも入室し、医師がマクシムを凝視しているとリラが咳払いをする。


「驚かせて申し訳ありません。本人です」


 ジョルジュはマクシムの後ろでおろおろしている。医師は額の汗を拭き、無理やり平静を取り戻した。


「ブーケ中尉、ですね。ええ、失礼。どうぞ」


 椅子に腰掛けるマクシムの動きは重く、視線は落ちたまま包帯の交換が始まる。


「傷の経過は良好です。炎症もなし。発熱もなし」


 淡々とした声で告げていくが、医師の視線はどうしてもマクシムの髪へと向かう。


「それで……髪の件ですが」

「朝、起きたら突然、こうなっていました」


 リラが口を開いたあと医師は手袋をはめ直し、髪を慎重に観察して一本、摘み上げると光に透かした。


「……色素の脱失、というより……白髪とは違いますね。均一すぎる」


 医師の訝しげな横顔を見て、ジョルジュが小声で言う。


「やっぱり呪いとか……」

「やめなさい」


 リラが即座に遮ると医師は首を振った。


「過去に類似例はありません。急激な精神的外傷による白髪化は報告がありますが、ここまで一晩でというのは……うーん、さっぱり分かりませんね」


 医師が両手を上げて溜め息を吐くと改めてマクシムを見た。


「もう一度確認しますが……染めたものではないのですね?」

「……はい」


 マクシムは視線を上げず掠れた声で答えた。彼の拳がわずかに震えているのを見て、医師は深く息を吐く。


「身体的な異常は認められません。栄養状態も正常、中毒症状もなし、外的要因も見当たらない……精神的負荷による急性変化の可能性は否定できませんね。しばらく経過観察とします」


 診察室の窓の外では遠くで灰色の海がうねっている。リラはマクシムの横顔を見つめ、ジョルジュはどう声をかけていいか分からず右往左往していた。


 ブレストの海沿いの道。低い雲が垂れ込め、潮風が重く吹き抜ける。波が石壁に打ちつける鈍い音を背景に、マクシムが歩いていた。彼の背はまっすぐだが、足取りはどこか空虚だ。灰色の髪が曇天の光を受けて鈍く光る。彼の数歩後ろをリラとジョルジュは並んで歩いていた。ジョルジュがチラリとリラを見ると声を落とした。


「これから、どうするんですか」

「……見守るしかないわね。無理に何かをさせることも、無理に元に戻そうとすることもできない」


 リラの言葉にジョルジュは唇を噛んだ。


「でも……あのままじゃ」

「ええ、わかってる」


 リラは前を歩くマクシムの背を見つめた。彼の背中はいつも部隊の先頭にあったが、今は海と同じ色をしている。


「実家に帰っている皆に、何も知らせないわけにはいかないわ。ダヴィットにも、ロザリーにも、イタリアへ帰ったメリッサにも……」

「手紙……ですか」

「そうよ。ただし、あくまで私的な知らせとして。隊長に異変があったことは事実。でも、それをどう受け止めるかは……私たちの問題」


 ジョルジュは少しだけ息を吐いた。

「……戻ってきてくれますかね」


 リラは遠く灰色の水平線を見た。


「戻るというより、新しく立ち直るのかもしれない」

 

 前を歩く灰色の背中は振り返らない。潮風が三人の間を吹き抜けた。



 暗闇の底から引き上げられる感覚。最初に戻ってきたのは痛みだった。背中、いや背中という範囲ではない。肩から腰まで、皮膚そのものが剥がれ落ちたような灼熱に声にならない音が喉から漏れる。


「……っ」


 ルキフェルは俯せのまま薄く目を開いた。彼の視界に入るのは粗末な木の床だ。船体の軋み、潮の匂い、薬草と血の混じった、湿った空気。船医室だった。記憶が遅れて戻る。甲板で縛られた両手、鞭打ち三十九回、数えたわけではないが、身体が覚えている。ルキフェルの背後で誰かが言った。


「起きたか。動くな、傷が開く」


 船医だ。濡れた布がルキフェルの背に触れて灼熱が襲ってきた。


「——っ!!」


 肺から空気が強制的に押し出され、ルイフェルの全身が跳ねた。動けば肉が裂けるのが分かる。


「海水で洗うしかない。化膿させるよりマシだ」


 塩が裂けた肉に染み込み、ルキフェルの視界が白く弾けて思わず歯を食いしばった。呻き声が漏れないよう舌を噛みそうになる。傷口に薬草が押し込まれて布が貼られ、剥がされ、また洗われる最中。ふいにあの声が蘇る。


 ——生き地獄を味わせてやる。


 エドガーの冷たい目と笑いもしない口元。あの時はただの脅しだと思ったが、今なら理解できる。殺す気はない、死なせる気もない。——壊す気だ。殺せば終わるが、生かしておけば屈辱も痛みも疑念も、全部抱えさせられる。差し出された手は救いではなく、利用と見せかけの信頼と計算だ。


「……くそ……」

「暴れるな」

「……うるせえ」


 ルキフェルは掠れた声を絞り出した。自分でも驚くほど弱い。血の味が広がり、痛みで視界が滲む。涙か汗か分からない。生き地獄という言葉が波音と重なって息が荒くなる。治療はなお続き、ルキフェルは歯を食いしばりながら初めて心が沈むのを感じていた。真実を追うために耐えてきたはずなのに、その真実すら誰かの掌の上だったのかもしれない。天井を見上げることもできず俯せのまま、痛みと塩と屈辱の中で彼は息を荒く吐き続けていた。


「……まだ意識はあるな」


  突然、誰かの低い声がルキフェルの頭蓋の内側に落ちてくる。エドガーだ、逆光の輪郭だけがはっきりしている。船医が何かを答え、言葉は意味を結ばず音の塊として遠くで崩れる。塩水が再びルキフェルの背に落ちた瞬間、世界が白く裂ける。肉が焼ける匂いと神経を直接引き抜かれるような痛みに喉の奥で空気が潰れた。叫ぶ力すら削られている。熱が内側から滲み出し、皮膚の内側で何かが沸騰している。ルキフェルの意識がゆっくりと海の底へ沈み始めた。


 ——昼間の港。潮の匂いは今よりずっと柔らかかった。ルキフェルは仮面越しにスザンヌという光を見つめていた。


「そういえば、なんでこの仮面くれたんだ?」

「背中向けられると寂しいって思ってた。でも本当は……私も見られるの苦手だから」


 風が彼女の銀に近い髪を撫でる。彼女は笑いながら瞳の奥の暗さをルキフェルに向けた。


「親戚とかに見られて珍しいだの消えそうだのって言われるの、ちょっと疲れるのよね。綺麗とか言われるけど……本当は、ちゃんと中身wp見てほしい」


 強い振りをする理由、外に出る理由、息をするための逃避が彼女の口から語られる。


「ノワールの眼はね、そんなのじゃない。ちゃんと人を見てる。嫌な感じがしないの。変かな?」

「……変じゃない」


 ルキフェルの声は少し掠れていた。彼女の頬が染まり、陽光が輪郭を柔らかく縁取る。


「それに……声と瞳が好きって言ってくれたの、嬉しかった」


 ——なんで忘れていた。どうして、あんなにも鮮やかだった時間を。走馬灯か。自分は死ぬのか。彼女の記憶に包まれて死ぬなら、それも悪くない。


 その時、塩水が再び落ちて現実が裂けた。


「意識を保て!」


 誰かが自分の耳元で怒鳴った。今度は顔だ。包帯が剥がされ、皮膚が引き攣って酒精が滲み、神経が火花を散らす。


「……消えないな」


 船医の呟きは乾いた砂のようだった。ルキフェルの脳裏に、また別の記憶が掠めた。六歳、酒精の匂いと揺れる灯り。


「動くなよ。しみるが、我慢してくれ」

「やだ! どうせ治らないだろ!」

「いいや、放ってはおけん!」


 レオンの声が鋭く落ちる。


「顔がどう見えるかなんて問題じゃない。君が生きているかどうか、それがすべてだ」

「……痛いのはいやだ……」

「痛みは生きている証拠だ」


 レオンの手により、包帯が巻かれると海の光が窓から差し込んだ。


「強さは怪我を避けるためだけのものじゃない」


 ルキフェルの熱が上がり、身体が重なった。汗が流れ、天井が揺れ、船医の声も遠ざかる。


「発熱している……」


 ——レオン、羅針盤を奪われなければエル・イエロ島に向かえたのに。


 別れの日、潮風の中でレオンは穏やかに微笑んだ。


「人の中身を見ろ。これだけは絶対に忘れるな」


 レオンの言葉が熱の海の中で浮かび上がる。生き地獄のただ中で、塩と血と薬草の匂いの中で。それでも、まだ完全には壊れていない何かが息をしている。熱はゆっくりと引いていった。あれほど燃えていた身体はやがて冷え、代わりに残ったのは鈍い痛みと皮膚の奥に巣食う違和感だった。船医室の天井は変わらない。


 黒船は何事もなかったかのように海を進んでいる。何日経ったのか分からず、朝も夜も区別がつかない。生かされたまま時間だけが削られていく。やがて、ルキフェルの身体が完全に動くようになった頃だった。


「来い」


 短い命令と共にルキフェルは両腕を掴まれ、船員たちに囲まれたまま船長室へと通された。扉が閉まる音が妙に重い。待っていたのは再び暴力だ。ルキフェルは椅子に縛り付けられ、縄が腕に食い込むとエドガーが近づいて見下ろしてきた。


「さて、聞かせてもらおうか。サン・マロには、フランソワが拠点にしていた入江があるはず。……どこにある?」


 ルキフェルは乾いた笑いを上げた。

「誰が教えるか。死んでも話さない」


 次の瞬間、彼の横から船員の拳が飛んで視界が弾けて椅子ごと揺れた。ルキフェルは唇の端から血が滲むが負けじと睨む。エドガーは息を吐くと机の上に置かれた小さな木箱に手を伸ばして蓋を開けた。彼が中から取り出したのは淡い光を反射する小瓶。薄く、青白い液体が揺れる灯りの下で波打つ。


「……それなら吐かせるだけだ」


 エドガーが船員に目配せすると、船員はルキフェルの顎を掴んで無理やり顔を上げた。


「他に使い道もなさそうだし、お前で試させてもらうか」

「やめ——」


 冷たい瓶口がルキフェルの唇に触れて言葉は途中で潰された。ルキフェルは喉に流れ込む液体を強制的に押し込まれ、思わず咳き込むと口元から青い液が溢れ、首筋を伝って衣服を濡らすと途端にルキフェルの喉が焼け、内臓がひっくり返るような感覚が襲いかかってくる。空になった小瓶をエドガーは無感情に眺める。


「自白剤と言うらしい。協力者が手紙に作り方を書いていた。主原料も同封されてな、ほんとポート・ロイヤルはなんでもある。さて……フランソワの入江はどこだ?」


 言うもんかと思ったはずだったが、ルキフェルの口は勝手に開いて言葉がこぼれ落ち、自分の意思とは無関係に吐き気がした。


「……サン・マロから北へ少し進んだ先、街の外れにある。入るなら海からの方が確実だ」

「……なるほど。お前ら、聞いたな? 進路を変えろ。我が黒船は入江に身を隠す」


 エドガーは命令を下すと最後にルキフェルを冷ややかに見下ろした。


「こいつは最下層にでも閉じ込めておけ。陽の当たらない場所に監禁しろ」


 ルキフェルは曖昧な意識の中で連行された。縄が解かれると乱暴に腕を引かれ、引きずられるように階段を降ろされる。船底の湿った空気と暗闇の中で扉が開くとルキフェルは放り込まれ、彼の身体が床に打ち付けられると扉が閉まって鍵が回る音がやけに大きく響いた。暗闇と潮の匂いと木材の腐りかけた匂い、自分の呼吸音だけがやけに重い。


 ……言ってしまった。守るはずだった場所を、仲間の痕跡を。簡単に薬で、力で奪われた。


 ルキフェルは拳を握ったが、震えて力にならなかった。誇りを守るために耐えてきた。嘘を吐かれ、利用され、今は裏切り者のように情報を吐かされた。生かされているが、生きているとは言い難い。暗闇の中で、ルキフェルは身を起こすと膝を抱えた。背中の傷が軋み、顔の傷が引き攣る。熱はもうない代わりに、残ったのは底の見えない疲労と静かな自己嫌悪だった。黒船はサン・マロの入江へ向かって進む。その船底の最下層で、一人の男が光のない場所に閉じ込められていた。まだ息はあるが、何か大切なものが削られていく音がしている。




 六月に入った、ブレスト司令部。

 石造りの廊下は北の湿った空気を孕み、どこか重い。窓の外では灰色の海が低く唸っている。長机を囲む数名の士官たちが書類の束を机上に広げていた。その中で、マクシミリアン・ブーケ隊の報告書一式の端に一際薄い紙が挟まれている。


「例の軍医の件だな……ソフィー・ルノアール少尉はサン・マロ作戦以降、所在不明。確認は?」


 年嵩の中佐が淡々と口を開くと副官が書類をめくる。


「海賊側に拉致された可能性、戦死の可能性、いずれも否定できず。ですが、遺体確認なし。生存証言もなし」

「証拠がないなら行方不明のままか」


 別の士官が小さく鼻を鳴らした。


「しかし、三ヶ月だ。現実的ではない」


 副官が次の紙を取り出し、紙の端を指で押さえる。


「記録上、現在は消息不明。ただし……規定により、三ヶ月経過後は戦死扱いへ移行。名簿から除外されます」


 書記官のペン先が名簿の一行に触れる。「ソフィー・ド・ルノアール 少尉」、まだ線は引かれていないが赤いインク壺はすぐ傍に置かれている。


「……若いな。ルノアール家の娘だったか?」

「ええ。ですが、家柄は関係ありません。規則は規則です」

「ブーケ隊も災難続きだな」

「隊長は重傷、髪の色も変わる奇病持ち。軍医は行方不明。隊員は謹慎。……縁起が悪い」


 乾いた無責任な笑いが漏れるが、その場の誰一人として悪意を持っているわけではない。忙しいのだ。戦況は動き、報告は山積みで誰か一人の不在に時間を割く余裕はない。名簿の上の名前は存在感を失いかけている。やがて、中佐が結論を出した。


「では、暫定措置として消息不明扱いのまま保留。三ヶ月後、再確認。それまでに生存報告がなければ規定通り処理する」


 ペンが走る音と書類が綴じられる音を合図に会議は終わった。扉が開き、士官たちはそれぞれの持ち場へ戻っていく。机の上には閉じられた書類の束。その中で、ソフィー・ルノアールという名前はすでに半分、軍の記憶から滑り落ちかけていた。外では遠くで号砲の試射音が響く。戦は続く、一人の軍医の不在など世界は待たない。



 北大西洋。灰色の空の下、帆をいっぱいに孕ませた一隻の貿易船が長い航海の終わりを告げるように順調に波を切っている。遥々トルチュ島からやってきた船だ。

 ソフィーは船室でボタンを留めていた。久しぶりに袖を通す紺色の海軍制服。肩章の重み、布地の張りに自然と背筋が伸びる。麻のシャツとサッシュベルトはもう畳まれて鞄の奥に押し込まれていた。この装いで過ごした日々はここで終わる。この船に乗った時点で自分は海賊ではない。


 ここから先は、再び規律を背負う人間……のはずだ。


 鏡代わりの磨かれた金属板に映る自分を、ソフィーは一瞬だけ見つめた。変わっていないようで、何かが変わっている顔。彼女は息を吸うと鞄を手に取って船室を出て、揺れる廊下を進んで狭い階段を上って甲板に出ると冷たい北の風が頬を打った。東洋の行商人たちが甲板のあちこちで思い思いに過ごしている。茶を淹れる者、帳簿をつける者、布を畳む者。異国の言葉が低く交わされ、香辛料と海の匂いが混ざり合っていた。その中で舳先近くに立つ一人の男、ヤン・ジュンジャーは長い外套を風に揺らしながら、じっと進路の先を見つめている。ソフィーは数歩近づき、彼の背に向かって言った。


「着替えた。いつでも船を降りられる」

「そうですか」


 相変わらず、ヤンは必要以上を語らない。しばしの沈黙のあと彼は続けた。


「もうじきブレストです。あなたが降りたら、我々はすぐ発ちます。忘れ物のないように」


 ソフィーは片手に提げた鞄を軽く持ち上げて見せた。


「もちろんよ」


 中身は少ないが、必要なものはすべて入っている。規律、責任、まだ名前をつけられない何か。北大西洋の風が強く吹き抜け、船は変わらず前へ進む。ブレストはもうすぐだ。



 ブレスト港。出入りする軍艦、荷を運ぶ水夫、怒号と笛の音。いつもと変わらぬ軍港の朝。そこへ、一隻の帆船がゆっくりと滑り込んできた。軍旗は掲げていない、見慣れぬ商船だ。


「……どこの船だ?」

「東方商人か?」


 桟橋の水夫たちが眉をひそめる。船体は長い航海の跡を残しているが、沈む様子もなく堂々とした入港だ。やがて舷梯が下ろされ、一人の人物が鞄を手に降り立った。紺色の制服に凛とした立ち姿、風に揺れる金の髪に水夫たちは一瞬言葉を失う。


「……あれ、誰だ?」

「うちの部隊か?」

「いや、見たことねえぞ……」


 彼女は迷いなく桟橋を歩く。石畳を踏みしめる靴音がやけに澄んで響いた。彼女は辺りを見回すと見慣れた色に目を留めた。紺色の制服の男たち——他部隊の隊員たちが荷の確認をしている。ソフィーは方向を定めて彼らに歩み寄った。足取りはまっすぐで迷いはない。彼女が距離を詰めたところで、士官の一人が声をかけた。


「えーと……どなたですか?」


 ソフィーは足を止め、かかとを揃えて背筋を伸ばし、右手を挙げて敬礼した。


「ブレスト司令部所属、第七艦艇部隊マクシミリアン・ブーケ隊の軍医、ソフィー・ルノアール。階級は少尉。およそ三ヶ月前の作戦および戦闘にて所属部隊と逸れておりましたが、このたび帰還いたしました」


 風が港を横切り、水夫の一人がぽかんと口を開けたまま動かず、隊員の一人は目をかっぴらいた。


「……は?」

「はああああ!?」

「ちょ、待て、えっ!?」

「ルノアール少尉って、あの……?」

「消息不明じゃなかったのか!?」

「戦死扱いになるって話、昨日——」


 港に悲鳴にも似た声があがった。ソフィーは周囲の騒ぎを意に介さず敬礼を解き、鞄を持ち直す。


「司令部へ向かいます。手続きの案内を」


 ソフィーの帰還はブレストに混乱を広げた。消息不明。戦死扱い寸前。名簿から消えかけていた名前。その本人が敬礼と共に戻ってきたが、奇跡の帰還は祝福だけでは終わらなかった。

ブレスト司令部、聴取室重い扉が閉まる。ソフィーは机を挟んで三名の士官と向き合わされた。


「ソフィー・ルノアール少尉。帰還の経緯を述べよ」


 ソフィーは背筋を伸ばしたまま答える。


「はい。私は、フランソワ海賊団の構成員と共に行動していました」


 部屋の空気が変わり、士官の一人のペン先が止まる。


「……繰り返せ」

「フランソワ海賊団の一味と一定期間、行動を共にしていました」


 躊躇はなく言い直すこともない。黙秘も曖昧にもできたが、彼女は事実をそのまま置いた。士官の一人が低く問う。


「自発的か?」

「状況の推移により。ですが、最終的に行動を共にしたのは私の意思です」

「亡命の意図は?」

「ありません」

「機密の漏洩は?」

「していません」


 一問一答は淡々と続くが、書類に並ぶ語句は重い。敵性海賊との共謀、軍規違反、国家機密漏洩の疑い。いずれも軍法上は極刑に足る。それでも彼女の供述はぶれなかった。一貫し、矛盾はない。嘘の痕跡も取り繕いもない。それが逆に重い。数日後、彼女はブレストからパリへ送致された。




拝啓


 皆、それぞれのご実家にて穏やかに過ごしていることと存じます。

 宿舎に残っている者について報告します。グウェナエルも、シャルルも、ジョルジュも、私も体調に大きな変化はありません。日々の雑務を淡々とこなしております。本日筆を執ったのは共有すべき事項があるためです。

 

 何を隠そう、隊長の件です。


 例の戦闘にて負った重傷は医務局担当医師の尽力と本人の忍耐により、リハビリを経て回復しました。左肩も日常動作に支障はなく、剣も握れます。しかし、その後で予期せぬ変化が生じました。


 ある朝、ほんの一晩で隊長の髪色が変わりました。黒髪は失われ、現在は灰色を呈しています。染色ではありません。診察の結果、医師は精神的負荷による急性変化の可能性を示唆しました。極度のストレスが引き金になったのではないか、との見解です。戦闘以降、隊長の精神的疲労は以前にも増して明白になりました。役割柄、これまでも多くを一人で抱えていたはずです。今回の変化がそれと無関係とは考えにくいでしょう。皆にとっても決して無縁の出来事ではないと判断し、私的文書として共有します。


 加えて、もう一件。行方不明とされていたソフィーが帰還しました。

 現在はパリにいるとのことです。司令部からの正式な通達は未だありません。合流時期も未定、そもそも再配属が認められるのかも不透明です。いずれにせよ、重要事項としてお知らせします。新たな情報が入り次第、速やかに共有します。謹慎解除の兆しは今のところ見えません。立て続けに驚かせる内容となり、申し訳ありません。ですが、こちらは持ち堪えています。どうか各自、心身を整えて穏やかに過ごしてください。再び同じ甲板に立つ日が来ることを、私は疑っていません。



敬具 リラ・シャネル




リラが書いた手紙は、季節を運ぶ風のように各地へと散っていった。封蝋の赤が割られるたび空気が変わる。



 シャネル家の邸宅、広間の奥。磨かれた床と整然と並ぶ肖像画。

 庶民の出でありながら貴族社会の端に立つ男、ダヴィットは執事から差し出された封書を受け取った。姉の筆跡だと一目で分かる。彼は読み進めるにつれ、瞳が見開かれた。灰色の髪、精神的負荷、ソフィー帰還。文字は整然としているのに、内容は穏やかではない。ダヴィットはしばらく立ち尽くしていたが、やがて何も言わずに紙を丁寧に折りたたむと自室に戻った。彼は机の上に置かれた剣を手に取って鞘へ納め、衣類など最低限の荷物をまとめて徒歩で出ていった。宿舎の外では貴族たちの視線が冷たい。彼の足取りはもうシャネル家の邸宅には属していなかった。



 サン=ジェルマン=アン=レー、初夏の陽光が差す庭園。ロザリーはティーカップを置くと優雅に封を切った。彼女が読み終えた瞬間、指先がわずかに震える。


「もう待つなんて耐えられないわ」


 彼女の瞳に浮かぶのは、あの無骨な隊の姿たち。私は疑っていません、その一文が胸を叩いた。ロザリーは立ち上がると長いドレスの裾が床をなぞった。待つだけの貴族令嬢ではいられない。



 トゥーロン、造船所。潮の匂いと木屑の匂いが立ち込めている。船体に水をかけながら作業していたサミュエルのもとへ、屋敷の駒使いが息を切らして駆け込んできた。


「旦那様、急ぎの手紙でございます!」


 サミュエルは濡れた手を拭い、封を受け取るとペネロペが彼の横から覗き込み、二人は並んで読んだ。


「……は?」


 ペネロペが素で声を漏らすとサミュエルは速読を終えて息を吐いた。


「よし。帰るか」

「だね」


 二人は手早く道具を片付けた。造船所の仲間が怪訝な顔をする中、「じゃあね」とお互いに軽く手を振り、それぞれの帰路につく。地中海の光が二人の背中を照らしていた。



 トゥールーズ郊外、石造りの小さな家。扉の向こうから現れたのはアニータだ。彼女は配達人から封書を受け取ると自室へ戻り、窓辺で読み始めた。ソフィー帰還。彼女は目を閉じた。この家は彼女の心の最後の拠り所だが、迷いはなかった。


「……帰るわ」


 海軍に入った日の決意が今も彼女の胸にある。



 アンジュ、ブルボン家の屋敷。薄いカーテンが風に揺れる。スザンヌは机に座り、リラの手紙を読み終えた。文字をなぞる指が止まると彼女の頭の中で傷だらけの横顔が浮かぶ。


「まだ帰る理由が見当たらない」


 彼女の帰る場所はブレストではない。今、心が向いているのは別の海。スザンヌは窓の外を見つめた。あの人はどこにいるのだろう。


 ——そして、リラの想いを載せた手紙は海を越え、国境を越えていった。



 イタリア、ジェノヴァ。石畳の中庭に陽光が降り注ぐ。白い壁、赤い瓦屋根、遠くに見える青い海。カンパネッラ家の邸宅は今日も優雅だった——はず。


「ええええええええええええ!?」


 突如、館を劈く悲鳴に廊下で控えていた駒使いたちが一斉に肩を跳ね上げた。彼女たちが持つ銀盆がかすかに震え、カップが鳴る。扉の内側ではメリッサが両手で手紙を持ったまま固まっていた。


「うそ、うそ、うそ……」


 目をこすってもう一度読む。三度目も、四度目も内容は変わらない。——隊長の髪色が変わった、ソフィーが帰還した。メリッサの声が裏返る。


「ええ……他のみんな……これ読んでどうしてるのかなあ……」


 メリッサは部屋の中を小刻みに歩き回った。思考もぐるぐると回る。


 ——もしかして、みんな戻るんじゃない?


 その可能性が彼女の胸に落ちると顔面から血の気が引いた。


「まって……じゃあ早く戻らなきゃ!」


 メリッサはドレスの紐を乱暴に解くと引き出しを開け、畳まれた紺色の制服を取り出した。カンパネッラ家の令嬢は数分後には消え、そこに立っていたのはブレスト司令部所属、第七艦艇部隊の一員だった。メリッサは肩章をつけ、髪をまとめ、鞄に最低限の荷物を放り込むと扉を勢いよく開けた。廊下で固まっていた駒使いたちが目を丸くする。


「お嬢様……?」

「ちょっと北まで行ってくる!」


 メリッサは振り返り、にっと笑った。優雅さはどこかに置いてきた。彼女の足取りは軽く、海はどこまでも繋がっている。


 いざ、ブレストへ。

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