第二章② サミュエルとペネロペ
——マルセイユ。
港を見下ろす丘の上。オリーブの銀葉が風に裏返り、糸杉がまっすぐに空へ伸び、白壁の屋敷は昼の光を受けて輝いていた。バルコニーからは地中海の蒼がゆるやかに広がる。帆船のマストが規則正しく並び、帆布が風を孕んで白く膨らむ。潮の匂いと遠くの鐘の音。
長い金髪を三つ編みにまとめた大柄な男——サミュエル・バティーユはしばらく景色を眺めていた。がっしりとした肩幅、年齢相応の落ち着きを帯びた横顔だが、その瞳はどこか少年のように海を追っている。やがて、サミュエルは室内へ戻った。室内は質素で余計な装飾はない。壁に一枚、若い女性の肖像画。机の上には海図と封蝋と一通の手紙。サミュエルは椅子に腰を下ろし、改めて手紙を手に取った。上質な紙に端正な筆記体、インクの払い方に躊躇いがない。
ロザリー、サン=ジェルマン=アン=レーに住む彼女との文通はここ最近の小さな愉しみだった。美の話ができる数少ない相手だが、今日の文面は少々刺激が強い。
ひと月ほど前かしら。
たいそうなご身分の知り合いがね、守ると言いながら本質は束縛するようなことを言うのよ。拒んだら、今度は「だったら奪うまでだ」ですって。……だから、その口の端を噛んでやった。今では笑い話だけれど。
サミュエルは眉間に皺を寄せて息を吐いた。
「……噛んだのか」
想像はできる、彼女はそういう女だ。誇りを傷つけられれば容赦しない。文面の線は揺れていない。怒りの跡も狼狽もない、筆致はあくまで端正で誇り高い。自分の人生は自分で守るという彼女の矜持がインクの濃淡から伝わってきて、サミュエルは苦笑した。
「……やれやれ」
自分を守る術を持つ女であることに安堵しながらも、口の端を噛まれた「たいそうなご身分の男」にほんの少し同情する。いや、同情はしないか。守ると言いながら縛る者を、サミュエルは美しいとは思わない。窓の外で帆船が潮流に従い、無理なくゆっくりと方向を変える。「守る」とは、ああいうことだ。舵を奪うことではない、風を読むこと。サミュエルは再び手紙を読み返すと最後の一文に目が留まった。
あなたは海図の曲線を美しいと言ったわね。私は選択の自由こそが美しいと思うの。
サミュエルの口元がわずかに緩んだ。
「……相変わらずだ」
彼は壁の肖像画に視線を向ける。若い女性の穏やかな微笑、今は絵の中にいる彼女もまた美しかった。サミュエルは新しい便箋を引き寄せ、羽ペンを取るとインクを含ませる。
「……君は噛みつくより、もっと洗練された拒絶を選べるはずだが」
そう書き出そうとして、サミュエルは手を止めた。いや、それは彼女の選択だ。彼は小さく息を吐き、改めて書き直す。
「君が自分の自由を守れたことを喜ばしく思う。束縛は美ではない。選択こそが美だ」
バルコニーから吹き込む風が手紙の端を揺らした。南仏の光はどこまでも穏やかだ。この静けさがいつまで続くかは知らないが、今はただ美しいと思えること自体が彼にとっての救いだ。その時、扉がやや遠慮のない音で叩かれた。コン、ではない。ドンッに近い。サミュエルは視線を上げるまでもなく口を開いた。
「入っておいで」
彼の返事の直後、勢いよく扉が開いて現れたのは小柄な影。
「おつおつー!」
ペネロペだった。彼女のショートヘアが潮風に揺れ、日差しを受けてきらりと光る。造船所帰りなのだろう、手の甲には黒い油の跡、ズボンの裾にも木屑と鉄粉がついている。だが、サミュエルは眉ひとつ動かさず、彼女の手を一瞬だけ見て言った。
「……よく働いた手だな」
「え、なに急に。口説いてる?」
「違う。美しいと言っただけだ」
「やめて、真顔で言われると怖い」
ペネロペは笑いながらはズカズカと靴も遠慮なく床を踏みしめる。
「孤児院帰っても暇なんだよねー。子どもら昼寝だし。だから寄っちゃった」
ペネロペがテヘッと舌を出すとバルコニーからの風が二人の間を抜けた。塩気を含んだ暖かい風、ペネロペは室内を見回して机の上の便箋に目を留める。
「また手紙? 最近ずっと書いてるね」
「日課だ」
「へー。恋文?」
「思想の交換」
「うわ出た、難しいこと言う」
ペネロペは勝手に椅子を引いて座ると机の上に肘をついて頬杖をつく。
「相手ってもしかして」
「誇り高い女性、ロザリーだ」
「だと思った。いつもの交換日記」
サミュエルは封蝋を指で押さえている間、ぺネロペは壁に飾られた肖像画に気づいて一瞬だけ視線を止めた。
——サミュエルの奥さん。屋敷の中は当主の彼一人。
ペネロペは問いもしない代わりに軽く指で机を叩く。
「ねえサミュエル。さっき港でさ、貴族の連中が“流行りのお香サロン”の話してたよ」
サミュエルの眉がわずかに動く。
「ああ。近隣に住む貴族から誘われた」
「え、行った?」
「断った」
「なんで? 流行り物嫌い?」
サミュエルは窓の外、海を見た。
「煙に包まれて語る美は信用ならない」
「……あんた、ほんと変な人だよね」
「褒め言葉として受け取ろう」
「いや褒めてない」
二人の間に軽い笑いが落ち、遠くで帆船が舵を切って滑らかな曲線を描いた。サミュエルはそれを眺めながら、ぽつりと言う。
「美しいだろう」
ペネロペも振り返って少し考えてから続ける。
「うん。まあ……でもさ、あたしはああいうのより、壊れた船底を直してまた海に出す方が好きかな」
「それもまた美しい」
「なんでも美にするのやめて?」
ペネロペは椅子の背にもたれかかり、足をぶらつかせながらサミュエルを見た。
「んで、ロザリーの手紙にはなんて?」
サミュエルは便箋を丁寧に折りたたみながら淡々と答える。
「彼女も彼女で、少しばかり戦っていたらしい」
「へー。戦うお嬢様、かっこいいじゃん」
「誇りを守ることも戦いだ」
「うわ出た、思想」
笑いかけたペネロペの口元が少しだけ真面目になって再び窓の外へ目を向けた。
「戦いといえばさ……最近、造船所も慌ただしいんだよね。軍の連中がやたら出入りしてて」
サミュエルの指が封蝋の上で止まる。
「……何かあったのか」
「トゥーロン司令部を襲ったフランソワの元残党が処刑されたでしょ? そのせいか、地中海を荒らす海賊がちょっと増えてるらしいよ。空白埋めるみたいに、対応でバタバタ」
ペネロペは視線を床に落とした。
「……あたしたちさ、フランソワの討伐に行かない方がよかったのかな」
二人の脳裏に同じ光景がよぎる。怒号、血。そして、海へ身を投げたフランソワの背。彼の姿が波間に消えていく瞬間。続いて、嵐と雷鳴、甲板の上で刃を交えた、ルキフェルの翡翠の瞳とソフィーが姿を消したあの日。ペネロペの指先が無意識に膝を掴む。
「フランソワがいなくなったら、全部終わると思ってたんだけどな」
サミュエルはゆっくりと立ち上がり、バルコニーへ歩み出て港を見下ろした。
「海は空白を嫌う。誰かが去れば、別の誰かが入る」
「じゃあ……無駄だった?」
ペネロペは唇を噛み、サミュエルは首を振らずに言う。
「必要だった。だが、必要だったことと痛みが消えることは別だ」
ペネロペは息を吐くと潮風が彼女の短い髪を揺らした。
「あの時さ……フランソワとやり合ってた時……評価してる目、してたよね」
フランソワの目は濁っていなかった。笑っていた。余裕でもなく、狂気でもなく。サミュエルの指がわずかに動く。
「覚えている」
あの瞬間、自分の剣を受け止めながらフランソワは冷静だった。力を読み、間合いを測り。迷いなくこちらを止める判断をしていた。獣のように見えて頭は澄んでいた。ペネロペは両手を見下ろす。今は油で汚れているだけの手だが、あの日は違った。
「……あたしさ。隙ができたから突っ込んだんだよね。でもあれ、わざとだったかもしれない」
サミュエルはゆっくりとペネロペに視線を向ける。
「……気づいていたのか」
「最初は気のせいだと思ってたけど。あいつ、あたしの方を一回も見なかったよね。でも、あたしの手が震えてたのも……多分、見えてた。なのに、避けなかった。自分から入ってきた気がする」
サミュエルは長い沈黙のあとで言う。
「君が刺さなければ、僕が斬っていた」
「うん」
「どのみち、あの場で終わっていた」
「……そうだね」
それでも選ばせてもらった感覚が消えない。あの男は戦場の主導権を最後まで握っていた。自分の終わり方すら選んだのではないか。サミュエルはバルコニーの手すりに手を置く。
「海賊だったが、覚悟は本物だった」
ペネロペは苦笑する。
「だから余計、モヤるんだよ。結局、あいつが自分で終わらせたよね」
二人の視界はもう南仏にはない。血の匂い、焼けた木板、足元に落ちる赤が甲板に点々と続く。フランソワは呻き声も上げずに立ち上がった。あの時の光景は異様だった。深手を負っているはずなのに背は曲がらず一歩、また一歩。足跡が血でできていく。
「止めろ!」
誰かが生け捕りにしろと叫んだ。サミュエルは覚えている、自分も叫んだ。
「待て、フランソワ!」
フランソワは振り返らなかった。ペネロペの記憶に残っているのは彼の歩き方だ。ふらついていない、急いでもいない。夕陽を背にした彼の姿は、どこか滑稽でどこか誇らしかった。三角帽子が足元に転がっていたのに拾わなかった。
「この首……誰にも渡さない!」
あれは虚勢じゃない、宣言だった。国家に、正義に対して。ペネロペの胸が少しだけ締めつけられる。
「あたし、あの時……追えなかった」
追えば間に合ったかもしれないが、足が止まった。彼の背中は止めてはいけないものに見えた。サミュエルが低く言う。
「……僕もだ。斬れた」
舳先に立つ前、間合いに入れたが振り下ろせなかった。フランソワは振り返らずに言っていた。
「最期くらい、泥臭く生きたクソガキとして死んでやる」
そして、彼は高らかに笑った。愉快そうに、まるで自由そのもののように。身体が宙を舞って風を切り、水柱と音を立てて白波の向こうへ。残ったのは血の匂いだけ。南仏の海がきらめき、ペネロペは目を伏せる。
「……あいつ、あたしに終わらせられたわけじゃなかった」
「ああ。あいつは最期まで自分で選んだ」
しばらく、二人は穏やかな地中海を見ていた。あの日の荒れた海とは違う。
「……行かなきゃよかったってのは違うよね」
「違う。だが、軽くもならない」
「ほんと、めんどくさいなあ」
「海も、人間もな」
ペネロペが苦笑して、ふっと肩の力を抜く。
「……ま、でもさ。部隊、謹慎中だけどさ。いつか解けるでしょ。それまで、今できることやるしかないよね。造船所も忙しいし、海賊増えてるなら船がちゃんとしてないと意味ないし」
ペネロペが自分の手を見下ろし、サミュエルは目を柔らげて頷いた。
「動ける奴が動く。……そうだな、僕もそこに参加していいかな」
「え?」
ペネロペがサミュエルに目を向けると彼はバルコニーの手すりから手を離して口角を上げた。
「屋敷から景色を眺めるのも格別だが、最近は違う風景も見たくてな」
ペネロペの顔がぱっと明るくなる。
「いいよー! じゃあサミュエルも造船所来て。操舵手なら色々学べるよ? あたし、最近船底の補強構造いじっててさ。舵の感覚って構造分かってた方が絶対いいじゃん」
「……確かに」
「ほらね!」
ペネロペはにっと笑う。
「じゃ、決まり。明日来てよ。朝早いからね!」
「朝は得意だ」
「知ってる。年寄りっぽい」
「三十八だ」
「ほら年寄り」
二人の間にようやく笑いが戻った。
「……動くか」
サミュエルがぽつりと呟いた。海に向けた言葉ではない、自分自身に向けたものとして。ペネロペは彼の言葉に頷く。
「動こ」
謹慎は続くが、止まる理由にはならない。海は空白を嫌う。ならば、自分たちで次の線を引けばいい。遠くで帆船が新しい航路へ向けて進路を変えた。




