第二章① マクシム
西方海軍 ブレスト司令部
通達第五一号 五月一日付
第七艦艇部隊 部隊長 マクシミリアン・ブーケ殿
下記の者を貴隊に配属する。
氏名:リゼーヌ・ボルド
年齢:二十歳
階級:二等兵
役職:航海天文学士
当該兵はこれまでトゥーロン司令部所属、特殊戦技部隊(通称:第六部隊)において東洋知識分野の専門担当として勤務していた。なお本人の強い希望により、第七艦艇部隊への転属を許可する。現在、第六部隊にて継続中の任務が存在するため任務終了後、今夏を目途に貴隊へ合流させる予定である。貴隊は現在謹慎処分中と承知している。合流時期については柔軟に対応されたい。
以上。 ブレスト司令部
自分の執務机の上に山のように積まれた書類を前に、リラは淡々と仕分けを続けていた。署名、押印、保管、日常の動作を繰り返していると一枚の通達文が視界に入る。五月一日付、ブレスト司令部。彼女は指先で紙を引き寄せ、ざっと目を通した。
「……また面倒を増やしてくれるわね」
もうすぐ六月に入る。宿舎の空気は穏やかであるはずなのに、どこか張り詰めていた。
マクシムはリハビリの成果で脱臼した左肩こそ元に戻したものの、今度は無茶をしてグウェナエルと実戦形式の稽古を行い、縫合した傷を開かせて医務局通いに逆戻りしている。今もおそらく医務局だ。常識で考えれば間抜けだが、リラは知っている。あれは間抜けではない。
あの嵐の日以降、彼が抱え続けているもの——耐え難い痛み、消えない苦しみ、誰にも触れさせない孤独——は剣より鋭く、薬よりも効き目がない。リラも、この宿舎に居座るグウェナエルもシャルルも、三人とも気づいているが何も言えない。深く踏み込めば壊してしまう。だから距離を保ったまま見守ることしかできなかった。執務室の扉が控えめに三度ノックされ、リラは書類から視線を上げる。
「どうぞ」
軋む音とともに扉が開くと、現れたのは大きな荷物を両手で抱えた青年ジョルジュだった。
「お久しぶりです!」
彼の変わらない明るい声との屈託のなさに、リラは一瞬だけ目を瞬かせる。およそ一ヶ月ぶりだろうか。何も告げず、いつの間にか宿舎を出て行った男が何事もなかったかのように戻ってきた。
「……久々ね。今までどこにいたの?」
落ち着いた声で返しながらリラは椅子から立ち上がると、ジョルジュは少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
「孤児院に戻ってました。施設の手伝いに。何も告げずに出てしまって申し訳ありません」
素直に頭を下げるジョルジュの様子を見て、リラは肩の力を抜いた。
「構わないわ。それより、元気そうでよかった。……おかえりなさい」
彼女の言葉に、ジョルジュの顔がぱっと明るくなる。
「ただいまです!」
リラが口元を緩めると、ジョルジュは室内を見回して声を落とした。
「あの……隊長は、どちらへ?」
「今日も医務局よ」
リラは書類を束ねながら答え、ジョルジュは唸りながら頷いた。
「やっぱり……まだ完治はしませんか。ルキフェルにあれだけやられて重傷でしたからね。歩くだけでも大変そうでしたし……見ていて胸が痛みました」
彼の言葉にリラの手が止まると自分の胸元を指先で軽く示した。
「でもね……一番痛むのは、ここだと思う」
ジョルジュは深く息を吐いた。やがて、リラは視線を机へ戻して先ほどの通達文をちらりと見やると、空気を変えるように敢えて軽く言った。
「それより、夏に新人が来ることになってるの。後輩よ」
「え、そうなんですか!?」
ジョルジュの声が一段高くなり、リラは紙を差し出した。
「これ」
ジョルジュは紙を受け取ってざっと目を通すと眉を寄せた。
「……あれ? ボク、この子知ってます。たしか……スザンヌと遠縁にあたる家の子で、スザンヌ曰く小さい頃からの友人だって言ってました」
「そうなの? よく知ってるわね」
リラは目を細め、声音にわずかな探りが混じる。ジョルジュはあっけらかんと笑いかけて止まった。
「あー、実は孤児院へ戻る途中でスザンヌのご実家にお邪魔して……」
リラの目がすっと鋭くなり、ジョルジュは思わず叱られた子犬の顔で一歩引いた。
「あなた、令嬢のご実家をアポ無しで訪問したってこと?」
「……すみません。正直に言います。全くその通りです」
ジョルジュの方がしゅんと落ち、リラはしばし彼を見つめたあと深く息を吐いた。
「本当に……あなたという人は」
リラの声には呆れとわずかな安堵が混じっていた。ジョルジュは通達文をもう一度、じっくりと読み直す。
「第六ってことは……兵器開発に携わってたんですよね? しかも東洋知識が専門分野? 相変わらず第六は何を考えているのかよく分かりません」
半ば呆れ、半ば感心といった彼の声音に、リラは椅子の背に寄りかかる。
「まあ……もともと癖の強い人たちの集まりだから。技術開発のスペシャリスト。……マニア、とも違う気がする。技術者や研究者が多く配属されていて、海軍の中でも特殊武装や新戦術を試験的に導入している実験的部隊よ。新兵器の開発と研究も彼らの仕事。……とはいえ、情熱の注ぎ方に偏りがあるみたいだけど。最近の月例報告では東洋技術に強い関心を示しているとか」
ジョルジュが目を瞬かせる。
「……もしかして、それもリゼーヌが絡んでるんですかね?」
「さあ? でも、最近の東洋ブームに乗っているみたい」
ジョルジュは「へー」とだけ返すが、裏では思考が動いていた。
——東洋人のアドバイザー?
ジョルジュの脳裏にリー・ウェンの顔が浮かぶが、すぐに首を横に振る。
——いやいや、そんな馬鹿な。リー・ウェンはブレスト周辺を拠点にしてるはず、第六なんて南方の部隊と接点があるとは思えない。
ジョルジュは思考を振り払い、何事もなかったかのように通達文を机へ戻した。
「……面白い新人になりそうですね」
その時、執務室の扉が開いた。現れたのはマクシムだった。包帯は新しく巻き直されたばかりらしい、肩のあたりがまだわずかに硬い。
「戻りました」
リラとジョルジュの視線が同時に彼に向く。マクシムはジョルジュを見て、わずかに目を細めた。
「……ずいぶん久しいですね。元気ですか?」
「ボクは変わらずですよ! 隊長こそ、お怪我の具合は?」
ジョルジュは明るく発するとマクシムは肩をすくめた。
「まあ……また怒られましたね。医務局ごと出禁になりそうです」
「本当に出禁にされたら、今度こそ自分で縫ってもらいますよ」
リラは眉を上げて淡々と言い、マクシムは苦笑する。
「それは勘弁願いたいです」
リラはマクシムの執務机を指差した。
「机の上、整理しておきました。皆が戻ってきた時、今より荒れていたら洒落になりませんから」
「……そうですね」
マクシムはゆっくりと執務机に面した椅子へ腰を下ろすと一瞬だけ目を閉じ、何でもないことのように言った。
「今日の夕飯、どうしましょう」
ジョルジュがぱっと手を挙げた。
「あ、ボク作りますよ! こう見えて孤児院では調理係もしてましたから」
「へえ」
マクシムの口元がわずかに緩む。
「では、お願いしましょうか」
「任せてください!」
彼の明るい声が部屋に響き、少しだけ宿舎の空気が温かくなる。
夜の食堂。ジョルジュの手料理は、意外と美味かった。香草の使い方が絶妙で味付けも優しい。あのグウェナエルでさえ皿を置きながらぼそりと言った。
「……シャルルよりマシ」
「比較対象が私なのが気に入りませんね」
シャルルが苦笑する。剣術以外の感想になると途端に雑になるのがグウェナエルだ。相変わらず口から飛び出す言葉の切れ味も鋭い。マクシムはひと足先に席を立った。
「お先に失礼します」
彼は皿を流しに片付けると食堂を出て宿舎の廊下を歩いていった。武器庫の隣の簡素な個室、入浴用の部屋だ。湯気が立ちこめる中、彼は衣服を脱いで身体と髪を洗う。水は病を運ぶと言われるが、自分は入浴派だ。むしろ洗わないほうが不衛生だと、どこか理屈で押し通している。マクシムが濡れた髪をかき上げた瞬間、エル・イエロ島の空気がよみがえった。潮と果実の匂い、遠い島に住む多民族の者たちの笑い声と焚き火の煙。
——レオンはどうしているだろうか。
自分が彼の制止を振り切って島を出た日のことを思い出す。彼はまだ根に持っているだろうか。マクシムが湯に肩まで沈めると別の顔が浮かんだ。ソフィー、あの嵐の日の記憶が否応なく蘇る。生きていてほしいと願ってきた。兄でありながら、そばにいられなかった幼い日々。自分が消えたせいで背負わせた重圧、後継であるはずだった立場、海軍へと追いやった遠因。せめて生きていてほしい。それだけが償いだった。
「ソフィー、あの子は危険ですよ」
シャルルの声が脳裏に木霊する。正義を信じすぎている。軍人としては正しいが、自分にとっては邪魔になる。分かっていた、彼女の真っ直ぐさは刃だ。
嵐の甲板で血まみれの自分を支える彼女。彼女が敵へ飛び出そうとした瞬間、喉が裂けるほど叫んだ。今度こそ失うのか。それから抱きしめた一瞬、冷たい雨の中の温もり。
「あなたに……ここは似合わない」
呪いのように吐き捨てた言葉、突き放した衝撃、遠ざかる手。名乗れなかった、守りたいと叫べなくて傷つけた。
「……バカだな、おれは」
マクシムは湯の中で呟いた。彼の胸の奥の嵐はまだ止まない。やがてマクシムは湯から上がると身体を拭き、簡素な衣を羽織って階段を上がり、自室の扉を閉めると急に力が抜けた。入浴で温まった身体が重い、まぶたが落ちると同時にベッドに腰を下ろして横になると天井を見つめる間もなく意識が沈んでいく。せめて、無事で。その願いだけを胸に抱えたまま、マクシムは眠りに落ちた。
「君は一生、誰も愛せないんだよ」
声が先に来た。闇の中でゼフィランサスの笑いが遠くから響く。
——ふっ……はははは……
部屋なのか、船なのか、嵐の甲板なのか分からない。影が伸び、壁が歪み、足元が海になる。
「ラウルは死んだ」
その言葉が海水のように口の中へ流れ込む。
——死んだ?
「今の彼は“ルキフェル”だ」
影が翡翠色に変わり、剣が振り下ろされる。キィンと音が反響して自分の剣が折れ、柄だけが手に残った。
「選べない者は、結局すべてを失う」
声が変わる。ベルナルドだ。血が石畳を流れている。いや、これは甲板だ。いや、医務室だ。
「正義とは、常にどちらかを切り捨てることだ」
切り捨てる。その言葉と同時に腕の中の温もりが消える。
「隊長は、私のことを見捨てませんよね?」
ソフィーの声が真正面から突き刺さる。雨、嵐、抱きしめたはずの身体が手の中から滑り落ちる。
「あなたに……ここは似合わない」
自分の声が冷たい。違う。違う、そうじゃない。「兄だ」と言え。言え。言え……声が出ない。
「ベルナルドを殺したの、君だろう?」
マルセロ。夕陽の中で影が重なる。唇に触れた感触が突然血の味に変わる。
「因果応報だ」
石畳が割れ、海が赤くなる。
「君も、いつか同じ選択を迫られる」
選択。選択。選択。誰を守る? 誰を捨てる?
「君は一生、誰も愛せない」
ゼフィランサスの声が自分の背後から囁く。
「守りたいものがある?」マルセロの声。
「それでも選べないなら、全部失う」ベルナルドの声。
「おれは……まだ……」
誰の声だ? 自分か? それとも——。翡翠の瞳が目の前にある。ルキフェルが剣を振り下ろした。
「もう終わりだ」
違う。終わらせたのは自分だ。嵐の甲板でソフィーの手が伸びてくる。届かない。届かない。届かない。
「兄だと名乗れなかった」
ゼフィランサスが笑う。
「君は孤独じゃない」
彼が手を差し伸べてくる。甘い。冷たい。
「……バカだな、おれは」
笑っているのか、泣いているのか分からない。海が傾き、石畳が崩れ、甲板が割れる。剣が折れ、少女が落ち、血が広がる。
「マクシミリアン」
誰だ。誰が呼んだ。
「マクシミリアン」
今度は優しい声だ。ソフィー? いや——
「お前は、どちらも守れない」
違う。守る。守るはずだった。守るつもりだった。守れなかった。
「誰も愛せない」
「全部失う」
「因果応報」
「折れる」
「突き放す」
「選べ」
「選べ」
「選べ——」
マクシムは飛び起きた。呼吸が荒い、胸が痛い、背中まで汗で濡れている。しばらく、どこにいるのか分からなかった。嵐の甲板も石畳でもない。船長室でもない。——自室だ。朝の光が薄く差し込み、鳥の声が遠くで聞こえる。マクシムが自分の手を見ると震えていた。喉も焼けるように乾いている。しばらく、何もできず呼吸を整えていた。一つ、二つ、三つ。
「……夢、か」
剣が折れる感触も、ソフィーを突き放した手の感触もベルナルドの血も、マルセロの叫びも。全部、まだ生々しい。マクシムは両手で顔を覆ってゆっくりと息を吐いて、まずは落ち着けと自分に命じる。
「……顔、洗おう」
マクシムはふらつきながら立ち上がると鏡台の前へ歩いた。桶に水差しの水を注ぎ。手を浸すと冷たかった。現実だ、夢じゃない。マクシムが顔を上げたところでピタリと動きが止まる。鏡の中にいる男は見知らぬ顔をしていた。髪が漆黒ではない。
——灰、鈍い金属を思わせる冷たい灰色。光を反射するが、艶はない。
「……は?」
マクシムは瞬きしてもう一度見るが、何も変わらない。漆黒は跡形もない。
「……違う」
これは、まだ夢だ。そうだ、悪夢の続きだ。マクシムは目を擦り、強く閉じて開くが鏡は灰色を映す。濡れた手のまま前髪に触れて自分の視界に持ってくると、そこにあるのは鏡と同じ色。指先に絡む髪も灰、何かを焼き尽くしたあとの残滓。
「……うそだ……違う、違う、違う」
呼吸が乱れ、心臓が暴れ出して思わず後ずさると足がもつれて桶が倒れ、水が床に広がる。鏡の中の灰色の男も同じように後ずさっていた。
「……なんだ、これ」
マクシムの指が震え、髪を掴んで引っ張ると痛い。抜けるわけでもない。染まっている、根元から。マクシムの喉の奥から音が漏れ、破裂した。
宿舎中に絶叫が響き、壁が震えた。廊下を歩いていたグウェナエルが立ち止まる。リラも顔色を変えて私室から顔を出した。
「……今のは」
「隊長の部屋だわ」
二人はほぼ同時に駆け出して扉を叩く暇もなく押し開けると、目に飛び込んできたのは水浸しの床と倒れた桶、そして灰色の髪の男だった。マクシムは床に膝をつき、両手で頭を抱えている。
「戻れ……戻れ……」
彼は掠れた声で呟いていた。濡れた髪が頬に貼りつき、その色がはっきりと見える。グウェナエルの目が見開かれ、リラは息を呑んだ。
「……なんだ、それ」
「まさか……」
マクシムは顔を上げたが、目が焦点を結んでいない。笑っているのか、泣いているのか分からない表情だった。
「消えない……全部、消えない……」
廊下から足音が鳴り響き、シャルルとジョルジュが駆け込んでくる。
「何が——」
二人とも言葉が止まった。四人の視線の先でマクシムは床にのたうち回り、絶望に取り乱している。朝の光が容赦なく差し込み、灰色の髪は光を受けて冷たく鈍く光った。
まるで何かが燃え尽きた証のように。




