第一章② ルキフェル
第一船団、リヴェンジ・クイーン。海は穏やかでも甲板は荒れていた。支配と暴力が日常。怒号と嘲笑が空気の一部。
ルキフェルは今日も殴られていた。最初の頃は反撃したが、勝てば勝つほど恨みは増え、報復は倍になる。だから今は耐える。船員の拳がルキフェルの腹に沈み、別の船員の膝が彼の脇腹を打つ。数人に甲板に叩きつけられ、また立たされる。第五と違い、ここに良心的な医者はいない。治療係はいるが、命じられた最低限をこなすだけ。与えられるのは必要最低限の食事と最大限の暴力。それでも、くたばるわけにはいかないから生きている。
ルキフェルが殴られながらぼんやり考えていると、視界に布袋が侵入してきて髪を掴まれて顔を上向かせられると同時に喉が焼けた。飲料水と称して渡される一杯だけのラム酒。せめてもの情けか。いや、情けなんてものは最初からない。掴まれた髪を離され、ルキフェルの顔が甲板に音を立てて沈む。周囲の騒めきが引くと、ルキフェルは身体を強張らせながら立ち上がって脇腹を押さえながらマストに背を預けた。その光景を眺めていた一人の船員が拳を眺めては舌打ちする。
「あーあ、なんか飽きてきた。こいつ、ずっと黙ってばかりだし」
周囲から笑いが漏れ、船員はルキフェルに近寄って見下ろすなり、腰の短刀を抜いた。
「その顔に新しい傷つけてみるか」
周囲の男たちがルキフェルの肩と腕を押さえ、ルキフェルは声をあげて振り切ろうとするも船員たちはビクともしない。刃が頬に触れ、ひやりとした感触と共にゆっくりと右頬を横に裂かれた。皮膚が開くと同時に焼けるような痛みが走るが、ルキフェルは歯を食いしばる。ここで暴れたら全てが水の泡だ。やがて刃が離れると温かいものが筋となって顎を伝って流れ落ち、シャツと甲板に滴って赤い染みを広げる。短刀を濡れた布で拭きながら船員が笑った。
「ほら、完成。自分の血は自分で拭けよ」
船員が布巾を投げ捨てると笑い声と共に男たちは散っていった。ルキフェルはゆっくり顔を上げると右頬を押さえた。熱い、屈辱が喉の奥まで込み上げる。ルキフェルは拾われた布巾を手に取り、床に落ちた自分の血を拭き取っていった。赤を擦っては広がる。何度も何度も擦り、甲板の木目に血が染み込んでいく。痛みも屈辱も全部。サン・マロに着いた時、この傷は消えない証になる。ルキフェルは血を拭き終えると布巾を投げ捨て、ゼエゼエと息を整えながら再びマストに背を預けた。
それから暴力の質が変わり、殴る・蹴るだけだったものが今度は刻む行為へと変貌した。最初に狙われたのは、あの斜めの裂傷痕。一番目立ち、一番古く、一番消えかけていた傷をなぞるように刃が走る。一日一回、古い傷の上から新しい傷を重ねる。浅くなりかけた線を再び開き、乾きかけた記憶を引き裂く。包帯は巻かれない、薬もなく血は止まるまで放置される。十分に癒えぬまま、また翌日になると刃が入る。古い傷痕をなぞるうち、顔は古傷と新傷の重なりで、どこが元の皮膚だったのか分からなくなる。ある日、刃が引かれた瞬間にルキフェルの視界が揺れ、足元が抜けて膝から甲板に崩れ落ちて誰かが舌打ちする。騒ぎの向こうからエドガーが歩いてくると無言でルキフェルを見下ろして命じた。
「おい、やりすぎだろ。運べ」
数日間、ルキフェルは高熱と咳が続いた。身体は火のように熱く、喉は裂けるように痛い。古傷と新傷がようやく洗われた。治療が入ったのは死なせるわけにはいかないから。生かすための治療、玩具を壊さないための手当て。それでもルキフェルは生き延びた。もはや理屈ではない、執念。亡きフランソワの意志、どこかで生きているかもしれない仲間との邂逅、海の向こうにいるスザンヌ。剣舞を通して見つけた己の想いだけが、彼の芯に残っている。ルキフェルは熱に浮かされながらも意識の底で何度も繰り返した。まだだ、まだ終わらない。まだ自分は沈まない。ルキフェルが倒れたのをきっかけに、周囲の視線の意味も変化が生じた。何をされても耐える捕虜、殴られても刻まれても、熱に浮かされても死なない。ルキフェルが船医室で苦しんでいる間、甲板では妙な空気が流れ始めていた。水桶を運びながら一人が声を潜める。
「あいつさ……顔は元からおっかないけど、うちに来てからもっと怖くないか?」
「あれ、悪ふざけで傷つけるからだろ。元の傷をなぞったら、そりゃ深くなる」
「いや、あの斜めのやつ。あれもう消えないよな。薬も包帯も少ないし、あの船医もケチなとこあるしな」
「バカ、あれは船医じゃなくてヤブ医者だろ」
小さな笑いが起きるがすぐに消え、誰かがぽつりと呟いた。
「それにしても……傷つけられても熱出しても、よく死なないよな。どんだけ強靭だよ」
「お前、知らないのか? あいつ、船長の悪友——大海賊フランソワの元でクォーターマスターやってた男だぞ」
「……マジかよ。顔怖いけど若いよな?」
「でも……なんか納得できる」
「だから死なねえのか」
「いや、死なねえっていうか……死なせねえ顔してるんだよな」
ルキフェルが再びマストに縛られた日からリンチの輪はわずかに狭くなる。殴る者はいるが、以前のような嘲笑は減り、刻む刃は入るがどこか慎重になる。恐怖はじわじわと逆流していた。何をしても壊れない男、何をしても折れない男。そういう存在はやがて標的から忌避へと変わる。
ある日、ルキフェルは甲板の騒めきを聞きながら目を閉じていた。微熱がまだ残っていた、身体は重い。意識もどこか霞がかっている。マストに縛られたまま、ルキフェルは浅い眠りに落ちていると足音がゆっくりと近づいてきた。
——今日もか。
ルキフェルが片目だけ開くと視界の端に入ったのは見慣れた長身、エドガーだった。
「……何しにきた」
ルキフェルの声は掠れているが、棘は失っていない。エドガーは腕を組み、しばらくルキフェルを見下ろした。
「お前も折れないやつだな」
ルキフェルは鼻で笑うと真正面から問う。
「サン・マロに着いたら、何をするつもりだ」
エドガーは視線を海へ向けたまま答える。
「まず他の船団と合流。揃ったら……旧ブルボン派とのやり取りを控えてる」
波音が間を埋め、ルキフェルは薄くせせら笑った。
「ふわっとしてんな。やっぱり焦ってるだろ」
「いや、違うな。今は情報が少ないだけだ」
エドガーは一歩近づくと屈み込み、ルキフェルの耳元へ顔を寄せて声を落とした。
「実はな……海軍にスパイがいる」
「……何?」
ルキフェルの顔から熱が引き、エドガーは愉快そうに目を細める。
「準備はしてたさ。フランソワが死ぬずっと前、去年からな。旧ブルボン派との接触も、スパイの存在もオレは知っていた。スパイは海軍の中枢にいる。サン・マロに着いたら、旧ブルボン派を通じて海軍内部の情報が一気にオレの元へ集まる段取りだ。そこからが本番」
ルキフェルはエドガーの横顔を睨み上げた。エドガーは衝動に飲まれた男ではない、焦燥に駆られた愚か者でもない。こいつはずっと動いていた、フランソワが死ぬ前から。エドガーは背筋を伸ばすとルキフェルに背を向けた。
「お前はオレを感情で動いてると思ってるだろうがな。感情だけで八船団も動かせねえ」
ルキフェルは息を吐いた。熱はまだあるが、頭は冷えている。エドガーは振り返らずに言った。
「お前がオレを止めるだの何だの宣告するより、ずっと前から計画は動いていた。フランソワの死は……オレを焚き付けたきっかけだ。もちろん、復讐は完遂させる」
エドガーがゆっくりと振り返ると風が彼のマントを揺らした。エドガーの瞳の奥に暗い火を見つけ、ルキフェルは血の乾きかけた頬を歪めて吐き捨てる。
「海軍相手に復讐、それも戦争でか。強欲なやつ」
「なんとでも言え。もうこの船でオレを止める奴はいない」
ルキフェルはふと甲板を見回した。怒鳴る水兵、怯える下っ端、統制のない作業。ルキフェルの胸の奥に嫌な確信が芽生え、エドガーに鋭い目つきを向けた。
「ずっと気になっていたが、この船のクォーターマスターは誰だ?」
沈黙の後、エドガーは狡猾に笑った。
「クォーターマスター? そんなものねえよ。オレ一人で十分だ」
ルキフェルの目がより一層鋭くなり、喉から低い声が漏れて縛られた縄を軋ませた。
「……あり得ない。この船はお前一人のものだって言いたいのか?」
「元からオレのものだ。リヴェンジ・クイーンは、オレの夢の結晶なんだからな」
ルキフェルの中で何かが弾け、縄を引きちぎりそうな勢いで身を乗り出すと怒鳴り声が甲板に響く。
「ふざけるな!! 海賊船にクォーターマスターがいないだと? それじゃあ、ただの独裁だ! ただの軍艦と変わらねえ、クォーターマスターはどうした!」
ルキフェルの問いは刃のようだった。エドガーの表情がわずかに歪む。
「……とっくに海の藻屑だよ」
ルキフェルの視界が赤く染まり、声が震えた。
「……てめえ、海賊を名乗る資格ねえぞ」
ルキフェルの血の滲む頬から新たに熱が走る。この船はもう海賊船ではない。ただの暴力装置、支配の箱。だから甲板は腐り、水兵は怯え、リンチが日常になる。均衡が崩れた船は必ず沈む。ルキフェルは荒い息のままエドガーを睨みつけた。
「お前は夢を語ってるつもりかもしれねえがな、それは海賊の夢じゃない。ただの王様ごっこだ」
エドガーの笑みが冷え、甲板のどこかで縄がきしむ音がした。
「吠えたところで、お前の立場は変わらん。お前はこの船じゃ、捕虜なんだよ」
ルキフェルの胸の奥で何かが爆ぜた。
「……エドガー。お前は海賊社会にいちゃいけない人間だ。なおさらだ、俺は海を守る。そのために——俺はお前を殺す」
ルキフェルの怒りが甲板中に響いた瞬間、風が止んだようだった。水兵たちが息を呑み、エドガーは冷たい目でルキフェルを眺めながら口を開いた。
「……言ったな? この船の主人に“殺す”と言って楯突く。ただの捕虜……いや、もはや敵だ。主人に牙を剥く獣だ」
獣。その単語が甲板に落ちた時、エドガーは水夫たちを見回してせせら笑った。
「縄を解け。獣には罰として躾を与えてやろう」
水兵たちが一瞬戸惑い、すぐ動く。さっきまでの忌避、不気味な存在として距離を取っていた視線が今度は好奇へと変わり、騒めきが熱を帯びた。縄が解かれると、複数の腕がルキフェルを押さえつけて膝をつかせた。彼らはルキフェルの腕を後ろに引いて押さえつけたままエドガーの言葉を待つ。エドガーはゆっくりと歩み寄り、倒れかけたルキフェルを見下ろした。
「今から、こいつの刑罰を行う。内容は鞭打ち。それも……九尾の猫だ」
水兵たちの口元が歪み、騒めきが歓声に近い音へと変わる。九本に裂けた革の鞭。叩けば皮膚は裂けて肉が抉れ、血は飛び散って傷は深く残る。ルキフェルは額に汗を浮かべながらエドガーを睨んだ。取り押さえていた男たちがルキフェルから手を離し、甲板に集まった水夫たちは鞭打ちの準備が始まる。刑罰用に罪人を縛るための格子が船尾階段の隣に設置されていく。ルキフェルは膝をついたまま周囲を見回すと、水夫たちが囲うように集っていた。ルキフェルが思わず舌打ちをした時、短いロープが彼の足元に乾いた音と共に投げられ、誰かが笑う。
「作れ」
誰かが呟いている。罪人は自ら九尾の猫を作らされる、それがこの船の流儀”らしい。エドガーが歩み寄るとルキフェルの前に膝を折って目線の高さを合わせ、薄ら笑いを浮かべながら囁いた。
「一つ、報酬を提示しようか。お前が九尾の猫から生き延びたら、あの羅針盤を返そう」
「……お前が持っているのか」
ルキフェルの瞳が揺れ、喉の奥から掠れた声を漏らした。ゼフィランサスの羅針盤。奪われた物を思い出した瞬間、胸の奥が焼ける。エドガーは続けた。
「それから……昔のことを話してやろう。エル・イエロ島と、フランソワのこと。ゼフィランサスのこともな」
ルキフェルは目を見開いて思わず呼吸を止め、エドガーは互いの足元に広がるロープを指で示しながら続ける。
「オレが話せることはすべて話す。どうせ、刑罰からの逃げ道はない。さあ、どうする? ——真実は目の前にある」
エドガーは立ち上がるとルキフェルから離れ、船員たちと笑いを交わした腕。選択は委ねられた、逃げ道はない。残るのは覚悟だけ。ルキフェルは足元のロープを見つめ、震えている手を伸ばすと指先がざらりとした繊維の感触に触れ、自分に引き寄せるように掴んだ。数百の視線が突き刺さる中で、ルキフェルはロープを膝の上に置いて深く息を吸うと半分解した。縄を解く指先は不器用ではない。
元クォーターマスター、結びと解きに慣れた手だ。
よりを解いて繊維を分け、細くして一本を二本に、二本を四本に、やがて九本に分けていく。ルキフェルは一本ずつ先端を揃えて結び目を作るとギュッと引き締めた。結び目が指に食い込んで痛みが現実を固定する。九つ、すべて結ぶと次に持ち手の補強が待っていた。彼は一瞬腰に手をやり、風に揺れる赤いサッシュをするりと解くと柄となる部分に巻きつけ、一重、二重、三重に指先で押さえてキツく締めると赤が縄を包んで九尾の猫を完成させた。鞭を握る彼の手は震えていない。屈辱も怒りもあるが、それ以上に目は燃えていた。
これは屈服ではない、取引だ。真実と引き換えに痛みを受ける。
ルキフェルはゆっくりと立ち上がると九尾の猫を見下ろした。
「……逃げねえよ」
執行者となった船員がルキフェルの手から鞭を取り上げた。赤いサッシュを巻いた柄が無情に奪われると、別の男たちが近づいてルキフェルのシャツを掴んで裂きはじめた。布が破れる音が甲板に響き、熱に浮かされた体が白日の下に晒される。
「格子に縛れ」
エドガーの命令が飛び、二人の船員がルキフェルを捕らえられて船尾横に設置を終えた格子に連行した。ルキフェルは両腕を上げさせられて見物者たちに背中を見せる形で木製の格子へと縛り付けられた。円を描くように水兵たちが取り囲む中、エドガーは格子の前まで歩むと彼らを見渡しながら冷たい調子で重々しく口を開いた。
「上限は三十九回、これが限界だ。それ以上やったら死ぬぞ」
エドガーが格子の前から立ち去り、彼と入れ違いに執行者がルキフェルの背を前にすると九尾の猫が持ち上げた。一撃目、空気を裂く音と共にルキフェルの背中に衝撃が走る。皮膚が裂け、痛みが遅れて爆発する。二撃目、三撃目、九本の先端がそれぞれ違う角度で肉を抉って熱が走り、息が詰まる。ルキフェルの喉から声が漏れそうになるが、飲み込んだ。四撃目、五撃目、ルキフェルの視界が揺れる時、彼の脳裏に別の光景が浮かんだ。朝の甲板、ジャスパーのにやけた顔。
「朝からエロいな」
「殺すぞ」
反射的な自分の返答、楽しそうな視線を向けるジャスパー。
「無駄がないっていうか。重心が低くて、軸がぶれねえ体。動いたときのラインが綺麗なんだよ」
——一番は背中だよな。きれーだよ。
容赦なく鞭が落ちる。六撃目、七撃目、痛みで視界が白く染まる中、ルキフェルは歯を食いしばった。悪いな。また傷、増やして。八撃目、九撃目、背中が裂ける感覚が追い打ちをかけてくるが、意識はまだある。十撃目、汗と涙が混じる。十一、十二、呼吸が荒い。十三、十四、膝が震える。
——真実のためなら、どんな屈辱も、どんな痛みにも耐えてやる。
十五、十六、背中はもう自分のものではない。十七、十八、十九、数が遠くなる。二十、二十一、抑えきれず唸り声が漏れるが叫ばない。二十二、二十三二十四、息も絶え絶え。二十五、二十六、二十七、世界が揺れる。二十八、二十九、三十、膝が崩れそうになるが、縛られている。三十一、三十二、三十三、喉から掠れた声が漏れる。三十四、三十五、冷たいものが滴る。三十六、三十七、三十八、視界が暗くなる。
「……俺はまだ、死に方を……決めてない……」
三十九、最後の一撃に体が前に折れ、手首を締める縄に引っ張られて支えられる。ルキフェルは痛みに喘いで血を吐いた。縦横無尽に背を走る焼け具合に意識が遠のきかけるが落ちない、まだ沈まない。自分は選ばれし者ではない、ただ勝手に自由でいるだけの男。誰にも生き方も死に方も決めさせない。
三十九回目の鞭が落ちたあと、甲板はしんと静まり返っていた。さっきまで騒いでいた水兵たちの顔はどれも青ざめており、娯楽を見る目はもうない。あるのは動揺。執行者となった男は荒い呼吸のまま額の汗を拭うと、震える指で九尾の猫を見下ろしたが、結び目に絡みつく赤から目を逸らすように苦悶の表情で九尾の猫を海へ投げ捨てると縄は水面に沈んだ。使用は一回限り、感染防止が表向きの理由だが、それだけではない。もう、あれを持っていたくなかった。ルキフェルの視界が滲み出した時、エドガーの声が落ちる。
「引き離せ」
命令と同時に縄が解かれ、支えを失ったルキフェルの体は格子から引き離されると膝をついて地に臥した。背を撫でる風に、ひりつくような痛みからヒヤリとしたものがたらたらと垂れ、ツーッと肌を伝う気配と共に甲板の木目に赤が滲んでいく。水兵の一人が震える手でグロッグ——ラム酒の水割り——をルキフェルの口元に押し付けると、ルキフェルの喉が焼けて思わず咽せた。水兵はすぐ彼の側を離れると、入れ違いにエドガーが歩んできて膝をつくとルキフェルの髪を掴んで強引に顔を上げさせた。エドガーの目に賞賛はない。
「よく耐えた。ただ残念なことに……羅針盤はこの船にないんだ」
ルキフェルが絶句して息を呑んでいるとエドガーは鼻で笑った。
「昔のこと? 悪いな。オレは過去を振り返る主義じゃない。今さら話すのも面倒くさい。……要するに過
去は捨てた。振り返っても無駄、オレは戦場で友を奪われた恨みを晴らす」
ルキフェルの瞳がわずかに燃え、エドガーは髪を掴む指に力を入れながら顔を近づける。
「戦争はもう避けられない。その前に……お前が死ぬかもしれないな」
髪を掴まれていて手が離れ、ルキフェルの顔がドサッと力なく沈むとエドガーは立ち上がるなり船員たちを見渡して声を張った。
「分かったな? 逆らう奴はこうなる。覚えておけ」
水兵たちは黙って頷く。ルキフェルが掠れた声で吐き出す。
「……卑怯だぞ」
エドガーは肩をすくめる。
「海賊ってそういうもんだろ? まあ、感謝してるよ。これで……オレの地位は揺るがないものになった」
エドガーがマントを翻しながら踵を返した瞬間、ルキフェルの中で理解が落ちた。自分は捕虜。逆らって罰を受けた。しかも、逃げなかった。耐え抜いたからこそ、エドガーは正当な支配者として確立された。公開の場で利用された怒りが膨れ上がる。
「……エドガー……」
ルキフェルは手を伸ばすが視界が歪み、立ち去る彼の背中が波打って冷たい響きが頭の中で反響した。
「こいつはしばらく治療だな。捕虜は捕虜らしく……適当な部屋に監禁しとけ」
足音、ざわめき、誰かの腕に抱え上げられる感覚すらも遠ざかるにつれ、ルキフェルの視界は暗く落ちていった。




