第一章① 五人組
*偉人の言葉
先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ。
——孫子
ポート・ロイヤルの昼は今日も騒がしい。怒鳴り声と酒の匂いと、潮の臭気。港で交わされる取引も笑い声も、人間もどれも等しく汚れている。
第八船団はまだ出航していない。帆は畳まれたまま、桟橋に繋がれた索具がギシと鳴る。人員は揃った、あとは物資の積み込みと最終調整だけ。
「干し肉、あと二箱で十分。水樽はこの航路なら二割増しでいい」
甲板に広げた計算書を指で押さえながら、ニールは淡々と告げた。弟のフェリス、本当の名はフレデリック。二人で並び、航海日数と消費量を照合している。数字は裏切らない、海もまた条件さえ揃えば裏切らない。裏切るのはいつだって人間だ。捕虜として連れられたはずの自分が、今は航海士の役職を与えられている。皮肉だが、都合は悪くない。
第八の船長とクォーターマスターが身内だと判明した瞬間から、この船は監獄ではなく足場に変わった。エドガー海賊団は八つの船団を持つ。第三、第四、第七はカリブ近海に残留。召集令状という名の戦争への誘いを、他海賊団へばら撒いているらしい。第一であるリヴェンジ・クイーンはすでに北東へ、目的地はフランスの自由港サン・マロ。他の船団も続いて出航済み、第八も準備が整い次第動く。ニールは紙から視線を上げた。風向きは変わり始めている。アーシャが帆柱にもたれながら空を見上げた。
「まあー、焦りは禁物だよね。カリブからフランスまで、どうせ長旅だし。その間さ、作戦立てちゃおうか?」
そう言って、アーシャはニールにウィンクし、フェリスが計算板を閉じる。
「やられたらやり返す。兄さんは仲間が消えて不安だろうけど……まだ巻き返せるよ」
「ははっ、僕はそんなひよっこじゃないさ」
ニールは肩をすくめ、潮風のように軽やかな笑みを浮かべた。
「こう見えて、フランソワ海賊団の航海士だったんだよ? 知識と頭脳が僕の持ち味でね」
「うわー、兄貴の腹黒いところ出てるー」
「さすが兄さん。どうせえげつないこと考えてるんだろうなー」
アーシャがわざとらしく身震いし、フェリスも笑う。
「うるさいなあ、もう」
ニールの爽やかな笑顔は崩れないが、青い瞳はすでに遠くを見ている。アーシャが腕を組んだ。
「それにしても兄貴がフランソワ海賊団にいたなんて、ほんとびっくりだよ。あとで詳しく聞かせてねー」
三人の笑い声が甲板に弾け、船員たちもつられて笑う。第八はまだ平和だが、反撃の狼煙はもう上がっている。火は海からは生まれない。いつだって、最初に燃えるのは頭の中だ。
第一船団、リヴェンジ・クイーンは蒼を裂くように進んでいた。風は順調、帆はよく張っているが、その中心でルキフェルはメインマストに縛られていた。胸から腕、腰、脚まで幾重にも巻かれた荒縄。三日目だ。甲板では下っ端の水兵たちが砂と水を撒き、石で板を擦ってゴリゴリと乾いた音を聴かせ、やがて水が広がってルキフェルの足元にまで届き、編み上げの革ブーツの先端から冷たい水がじわりと侵入した。ルキフェルは思わず溜め息を吐いた。彼は用を足す時だけ見張りが縄を緩め、船首側へ連れていく。それ以外はただの柱。
ルキフェルは辺りを見渡した。水兵の数、動線、声の飛び交い方、帆の張り具合。八百……いや、七百強か。この規模のガレオンなら、そのくらいは乗せられる。石で甲板を磨く水兵は二十前後だが、交代要員の姿が見えない。昼前だというのに上甲板の掃除が終わっていない。普通なら甲板磨きは朝の日課だ。少なくともフランソワ海賊団ではそうだった。他がどうかは知らんが、明らかに生活のリズムが乱れている。監督者らしき姿も見当たらない。命令が曖昧か、あるいは恐怖で統制しているか。船は整っているが、人間が整っていない。
「……ふん」
ルキフェルはこっそり鼻を鳴らした。縛られているのは自分だが、縛られているのはこの船も同じかもしれない。石を持つ水兵の手元、足取り、互いに交わす視線には焦りがある。怒号がない代わりに妙な静けさが漂っていた。
——エドガー。お前、急いでるな?
ルキフェルの唇の端がわずかに上がった。船上の鐘が乾いた音を立て、甲板の上を吹き抜ける風に鈍い金属音が揺れる。三十分、砂時計がひっくり返された合図だ。どうやら操舵手はまだまともらしい。単純だが、狂えばすぐ分かる仕事だ。時間を刻むことだけは正確に守られている。ルキフェルは目だけを動かした。
「早く次の持ち場行け!」
「掃除、全然間に合ってないぞ!」
怒鳴り声が飛ぶ。水と砂を撒き散らしながら、若い水兵たちが石で甲板を擦っていく。磨くというより、削っているに近い。焦りが音に出ていた。怒鳴っているのは年嵩の男たちで、おそらく先輩格。ルキフェルの目に、彼らの腕や胸元から覗く刺青が入った。錨、絡まるロープ、歪んだハート、誰かの名前らしき文字列。英語か、あるいはそれに近い何か。船の横顔を彫り込んだ者もいる。元はイングランドの水兵だな。追い出されたか、流れてきたか。どちらにせよ海軍上がりの匂いがするが、その統率は海軍のそれとは違う。規律ではなく苛立ち、責任ではなく圧力。下っ端が間に合わないのなら手を貸せばいい。船は全員で動かすものだ。それをせず怒鳴ることで自分の立場を確認している。ルキフェルはわずかに口元を歪めた。
——手伝えばいいのに。
支配は伝染する。上が恐怖で押さえつければ、下もまた更に下を押さえつけ、階段状に歪みが広がる。フランソワの船では違った。朝の甲板磨きは下っ端の仕事だったが、遅れれば誰かが自然と手を貸した。笑いながら、文句を言いながら同じ船の上に立っていた。ここは違う。時間に追われ、誰も余裕を持っていない。三十分ごとの鐘は正確に鳴るが、人間のほうが狂い始めている。ルキフェルは空を見上げた。
船尾側、操舵輪のそばでエドガーは腕を組み、甲板を見下ろしていた。空回りする下っ端、威圧だけで統率を取ろうとする古参。エドガーは空を仰いだ。焦ってはいないが、始まったばかりの航海でこの空気は好ましくない。三週間以上、このままでは軋みが先に折れる。
「……どうしたもんか」
エドガーは目を閉じ、息を吐いた時、彼の脳裏にメインマストに縛られた青年の姿が浮かんだ。縛られてなお観察している目、折れていない。エドガーの口元がわずかに歪んだ。共通の的を作ればいい、敵を一つにすれば船はまとまる。エドガーは船歌を歌っていた数人の水兵に歩み寄り、低く囁くと水兵たちはニヤリと笑い、船尾を降りてメインマスト付近に近づいた。
「よお、兄ちゃん。退屈してんだ」
英語混じりの荒い声にルキフェルは顔を上げるとロープが解かれ、甲板に叩きつけられて肺の空気が一瞬で抜けた。周囲から笑い声が爆発し、ルキフェルは囲まれた。数人、いやもっといる。遠巻きに賭けを始める者もいて声が上がり、金属音が床になって硬貨が転がる。
「……マジかよ。この船、賭け事禁止してないのかよ」
血の味を舌で感じながら、ルキフェルは呟くと反射的に船尾を見た。操舵輪の近くにエドガーがいて、遠くからこちらを見て笑っている。ルキフェルは思わず舌打ちした。
「暇つぶしかよ」
ルキフェルは囲む男たちを見回した。腕の太さ、足の位置、呼吸、重心、数は多いが連携はない。一人が殴りかかってきた、ルキフェルは反射で避けて肘で相手の喉を打つと、相手はその場に崩れ落ちた。二人目は拳を振り上げて向かってくるとルキフェルは受け流すと膝裏を蹴って転がし、三人目はルキフェルの背後から襲うが、ルキフェルは振り返りざまに相手の鳩尾に一発喰らわして沈めると周囲から歓声が上がった。
「ほらな!」
賭け声が混ざり、ルキフェルは顔を顰めた。本気を出すつもりはなかったが、身体は鈍っていない。縛られていても筋肉は死んでいない。ルキフェルは四人、五人と甲板に転がし、六人目の肘を捻ったところで笑っていた男たちの顔色が変わっていった。ルキフェルは一人から蹴られ、横から殴られ、背後から棒で突かれて視界が揺れ、甲板に叩きつけられた。ルキフェルが身起こすと数が増え、蹴りと拳と踏みつけの連続に息が詰まった。誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かがさらに賭けを上乗せする。ルキフェルは歯を食いしばった。甲板に落ちる血がゆっくりと水に混じり、ルキフェルの頭上で棍棒が振り上げられる。
「待てい!」
怒声を孕んだ大声に棍棒は宙で止まり、甲板上に水兵たちの呼吸だけが荒いまま残った。ルキフェルは薄く目を開けて顔を上げると、エドガーが船尾からゆったりと降りて歩いてくる。木目をギシギシと踏みしめる彼の歩調が、船員たちの熱を冷やしていった。エドガーは倒れたルキフェルの前で足を止めると周囲を見渡す。
「……あまり半殺しにしてやるな。こいつはな、殺すには惜しい男なんだ」
数人が顔を見合わせ、エドガーはわずかに笑って血に濡れたルキフェルを見下ろした。
「勘違いするなよ。あくまでオレの玩具だ。お前たちに貸してやってるだけ。好きにしてもいいが壊すな」
「へい」
「了解です、船長」
周囲で一斉に声が揃い、ルキフェルの胸に鈍い怒りが灯る。所有物。自分は今、エドガーの所有物という認識が腹の底を灼く。
「……チッ」
ルキフェルがわざと大きく舌打ちを鳴らすと、エドガーの視線が戻って一瞬、二人の目がぶつかった。エドガーは部下たちを振り返りもせず、ルキフェルを見下したまま言う。
「分かったな? 早くこいつを縛れ」
船員が即座に動き、ルキフェルは腕を掴まれると乱暴に引き起こされ、マストへ押し付けられた。縄が食い込んで傷口に触れ、皮膚が擦れて締め上げられるとまた柱に固定される。エドガーは鼻を鳴らして踵を返した。遠ざかる彼の背をルキフェルは鋭い目を向けて歯を食いしばった。
——くたばるわけにはいかない。あいつの思い通りにはさせない。
血の味と縄の締め付けに煽られる。潮風が吹き荒れるも火は消えないどころか盛っていった。
同じ海の上、第二船団はリヴェンジ・クイーンの黒い影を遠くに保ちながら進んでいた。距離はあるが、完全には離れない。まるで主艦を見失わないように慎重に追従している。メインマストの見張り台、ジャスパーは片手を額にかざして水平線を眺めていた。遠くに見える黒船、恐らくルキフェルがいる。何をされているのかは想像がついて胸の奥が騒つくが、それでも表情には出さない。その時、索具が揺れる音して下から荒い声が飛んだ。
「おい。上の人が呼んでるぞ、赤いデカブツ」
赤いデカブツ。赤髪で長身、単純なあだ名だ。ジャスパーは軽く手を挙げると慣れた足取りで索具を滑るように降りていった。体重移動は最小限、手綱を握る感覚は身体に染み込んでいる。ジャスパーが甲板に降り立つと一等航海士が手招きしていた。彼の隣には通訳役らしき船員が立っている。
「なんすか?」
ジャスパーが訊くと航海士は聞き慣れない言語で短く話し、隣の船員が訳す。
「サン・マロに着く前に寄れる補給港はどこだ? だってさ」
「ああ、一番近いのはアゾレス諸島だな。あそこ経由でフランスに入ることもある。途中でスペインのカディス寄りも可能だ。けどまあ……サン・マロ直行でいいと思うぜ。風も波も今は安定してる。物資もまだ余裕ある。始まったばっかだけど、おれの勘は外れたことねえ」
ジャスパーの言葉を通訳がそのまま伝えると航海士は短く何か返した。
「『君の勘を頼りにしてるよ』だってさ。さすがフランソワ海賊団にいた操舵手は違うな」
ジャスパーは鼻を鳴らした。この船の航海士は言語をほぼ他人任せにしている。フランス語もカスティーリャ語も怪しい。海図は読めても交渉や港のやり取りは通訳頼み。言葉は武器だ。そして、航海の勘も。航海士が船長へ進言に向かう背中を見送りながら、ジャスパーはゆっくりと息を吐いた。信頼は積み上げるものだ、焦るな。今は従順な操舵手だが、フランスに着けば船団は崩せる。舵を握る者が方向を知っていれば、船はどこへでも行ける。ジャスパーの脳裏に、まだ輪郭が幼いルキフェルが笑う画が浮かんだ。カスティーリャ語を教えながら「お前、耳はいいんだからすぐ覚えるだろ」と言ってくれた。ジャスパーは視線を再び黒船へ向ける。
「待ってろよ」
今は潜ってこの船で信頼を得る。舵と言葉を握り、時が来たら一気にひっくり返す。ジャスパーの胸の奥がわずかに高鳴った。ピンチは嫌いじゃない。むしろ、こういう局面のほうが燃える。海風が赤い髪をサラリと揺らした。
第六船団は偵察部隊。どの船団よりも早く海を渡ることを誇りとしている。実際に帆はよく張り、船体は軽く、波を切る音も鋭い。少し離れた海上には第五船団の船影が小さく揺れていた。彼らは一定の距離を保ちながら淡々と後を追っている。第六の甲板では水と砂が撒かれ、朝の掃除がまだ続いていた。コリンはすでに自分の持ち場を終え、濡れた板を踏みながらまだ手間取っている船員たちをぐるりと見回した。
「ふん」
コリンは思わず鼻を鳴らした。怒鳴り散らすだけの船長、右往左往する新米水兵。指示は飛ぶが、統率はない。偵察部隊が聞いて呆れる。速さだけでは部隊は名乗れない。統率も判断も練度も足りない。コリンは息を吐くと桶を床に置き、自然な足取りで持ち場を離れた。階段へ向かう彼の背中には誰の視線も刺さらない。皆、自分のことで手一杯だ。
コリンが一段、また一段と降りれば上甲板の怒号が遠のき、代わりに船体の軋みと海の重い響きが耳に入る。やがて最下層に辿り着くと、コリンは狭い通路を身軽にすり抜けた。小柄な体はこういう時に役立つ。彼は積まれた樽の隙間を抜け、影に溶けるように進んで弾薬庫の扉の前で立ち止まって耳を澄ました。室内に足音はない。コリンは呼吸を整えて中へ滑り込んだ。暗がりの中、昨夜の準備がそこにあった。整然と並んだ弾薬筒の一角に、違和感のない形で紛れ込ませた細工済みの筒と布で包まれた小さな白煙爆弾。コリンはしゃがみ込んでそれらを見下ろした。足音の流れと船体の軋み、風向き、第五船団との距離を頭の中で重ねる。この船はいつか事故る。火薬管理は雑で統制は甘い。怒鳴るだけの船長に慣れない水兵。やるなら今だ。コリンは指を擦り合わせると指先がわずかに熱を帯びる。まだだ。コリンが一瞬、手を止めると脳裏にルキフェルの背中が浮かんだ。
「焦るな。最後に勝てばいい」
コリンの胸の奥がわずかに揺れた。死者が出ることも分かっているが、それでも必要だと判断した。これは整理。不要な船団の削除。コリンは目を閉じた。
——ごめん。
指先が閃き、火種は一瞬で世界を裂いた。轟音、衝撃、船体が内側から弾ける。軽量の構造が悲鳴を上げ、甲板が持ち上がる。火薬が連鎖し、腹を引き裂いて白煙が立ち上る。悲鳴、怒号、木材が裂ける音、用意していた白煙爆弾が爆ぜ、船員たちの視界が一気に曇る。
「火だ!」
コリンは救助に走るふりをし、崩れる床を駆けた。次の爆発の衝撃波が彼を吹き飛ばし、甲板が割れて視界が回転すると水面が迫って冷たい衝撃を顔面に受けた。コリンは目は閉じたまま数秒だけ息を止め、浮力に任せてゆっくりと水面から顔を出すと、遠くに第五船団の影が揺れていた。コリンは近くに浮かぶ木片へ手を伸ばして掴むと力を抜いた。半ば意識を失った少年として波に揺られる。奇跡は偶然じゃない、準備の結果だ。
第五船団。先頭を進んでいた第六船団が突如として光に包まれ、腹の底を叩き上げるような轟音と共に炎が噴き上がり、白煙が空を裂いた。
「なっ……!」
甲板がどよめく。爆炎の向こうで軽量船の船体が持ち上がり、歪んで崩れる。帆柱が傾き、甲板が割れ、黒い破片が海へと降り注いだ。
「救助だ!」
「生存者を探せ!」
怒号が飛び交う。恐怖と混乱が一気に広がる中、船長室の扉が開いた。ゆったりと現れたのはフェルナンドだ。彼は昼の光を背に、煙を上げる先頭船を細めた目で眺める。
——幕を上げるには、少し派手すぎないかな。
フェルナンドは自分の傍らに立つ無口な副官に軽く肩をすくめた。
「君が指揮してよ。ボクは戦闘時以外、口出しできないんだろう?」
副官は短く頷くと即座に指示を飛ばす。小舟を下ろせ、ロープを準備しろ、漂流者を確認しろ。甲板の端で叫び声が上がる。
「おい、誰か流されてるぞ!」
「すぐ引き上げろ!」
クレーンに吊られた小舟が海面へ降ろされ、煙の残滓と漂流物の中へ漕ぎ出し、やがて一人の人影を抱えて戻ってきた。海水を滴らせる小舟が引き上げられ、煤と海水に濡れた少年が甲板に寝かされる。周囲のざわめきをかき分け、フェルナンドが近づくと目を細めた。よりによって、この子か。
彼が内心で思案していると、怒鳴り声が甲板の空気を裂いた
「どけ!」
縄を解いたのか、無理やり外したのか。荒々しい足取りで人ごみを割って現れたのは、マテオだった。マテオは横たわる少年の姿を見た瞬間に顔色が変わり、膝をついて抱き起こした。
「コリン! おい、しっかりしろ!!」
コリンの睫毛が震え、うっすらと目を開くと視界に飛び込んできたのは、マテオの顔だった。焦りと怒りと安堵が入り混じった、あの顔。コリンが視線をほんの少しだけ横へずらすと、フェルナンドが穏やかに値踏みするようにこちらを見下ろしていた。
——命からがら逃げ出したのに、また厄介なのに拾われた。
コリンは心の中でため息をつくが、今はそれよりもマテオの腕の中。海水で濡れた服越しに伝わる体温は、乱暴なくせに温かい。コリンは目を細めて緊張を解くように体を預けた。嵐はまだ終わっていないが、仲間の腕の中にいる限り次の一手は打てる。マテオはコリンを抱き上げると無理やり人ごみへと飛び込んだ。
「待て!」
「勝手に連れてくな!」
マテオは甲板の怒声を背に受けながら制止の手を肩で払いのけた。少年の濡れた髪から水が滴り、マテオの袖を冷たく濡らしていく。彼は船内への階段を駆け下りると船首側に位置する診察室へ向かい、扉を蹴るように開けると室内にいた船医が顔を上げた。船医は状況を一目で理解したのか椅子を引いて即座に立ち上がる。
「そこに寝かせなさい」
マテオは言われた通り、コリンをベッドに横たえた。船医はすぐに脈を取り、瞼を開いて瞳の反応を確かめると濡れた服をはぎ、胸元に耳を当てる。
「……海水を飲んでいる。だが致命傷はない」
この船の中で唯一まともな人間。フェルナンドの悪戯が過ぎたときも真っ先に駆けつけるのはこの船医だった。船医はマテオを振り返って見据える。
「代えの服は後で助手に用意させる。君は早く牢に戻らないと、もっと大変な目に遭うだろう」
牢。つまり、船長室。第五船団においてマテオは捕虜だ。フェルナンドの監視下で、鎖は見えなくても逃げ場はない。マテオはわずかに顎を引いた。
「こいつのこと頼んだ」
船医が頷くとマテオは診察室を出た。彼の足取りは重く、船内の廊下を進むたび板張りの床が軋む。マテオの足首には嵌められていた鉄の足枷の痕がくっきりと残り、擦り切れた皮膚がまだ熱を持っている。口の端に残る鉄の味はさっきの騒ぎで殴られたか、あるいは縄を無理に外したときに切れたか、どちらでもいい。マテオが甲板へ出ると海風が顔を打った。煙の残り香がまだ遠くに漂っている。マテオは一瞬だけ空を見上げた。第六は沈んだが、コリンは生きている。それだけでいい。彼は大人しく船長室へと歩き出すが、胸の奥では何かが燃え始めていた。
大西洋を渡る船団。風は一定で波も穏やかだが、各船団の内部では別々の火が育っていた。
第五船団。目を覚ましたコリンはフェルナンドの命により雑用係へと回された。水汲み、甲板掃除、物資運搬。少年が黙々と働く傍らで、マテオは相変わらず捕虜扱いだった。捕虜と呼ぶには軽すぎる、実態は見せしめ。マテオは足枷をはめられ、甲板に晒された。日差しに焼かれ、雨に打たれ、波飛沫で濡れる。美青年であるがゆえに目をつけられ、殴る蹴るの暴力が日常となり、倒れればコリンが駆け寄って船医が呼ばれ、フェルナンドはその一連を眺めている。
一方、第二船団。ジャスパーは言葉を武器にしていた。カスティーリャ語、フランス語、断片的な英語。翻訳役としての価値、操舵の腕、第六勘と口の巧さで雑用係から一段、また一段と信頼を積み上げる。ジャスパーは笑いながら、内心では別の計算をしていた。
第八船団。遅れて出港した小型ガレオンは先行する船団の後を追っていた。ニールは甲板で風を読んで航路を修正して物資を確認し、波の癖を計算する。妹と弟がいなければ再び航海士に戻ることはなかっただろう。彼は心の奥底で感謝していた。船長室で、アーシャが海図を見下ろしながら顎に手を当てる。
「兄貴の仲間と、うちらだけじゃエドガー相手に無茶よね。なんか他に協力者とかいないの?」
ニールの頭の中にいくつもの顔が浮かぶ。カルロータとディッキー。先にフランスへ渡った二人は、きっとサン・マロに拠点を築いている。ソフィーはだめだ、彼女には彼女の戦いがある。巻き込むわけにはいかない。それから、リー・ウェン。いや、あの男個人ではなく情報屋組織として。ニールは海図の一点を指でなぞりながら口を開いた。
「まずサン・マロに着いたら仲間の確認。それから、友人の元へ行く。たぶん……そこから先は情報戦だ」
情報。その言葉をきっかけに、彼の脳裏に三年前の船室の記憶が浮かび上がる。潮騒、軋む船体、窓辺に立って苦笑するフランソワ。
「コルヴァンのことは、悪く言うな」
伝説の情報屋。裏社会で囁かれる名であり、フランソワ船団の旗揚げメンバーである十四代目コルヴァン。ワタリガラスを使う家系で、貴族に仲間入りして船を降りた男。
「……貴族に仲間入り……」
ニールは窓の外の海を見つめながら呟いた。
「もし助けてって声をあげたら……助けてくれるかな」
遠い空の向こうにサン・マロがある。そこにはまだ動いていない駒がいる。




