第十章① 五人組
宿。いや、今では主人を失った空き家に戻る頃、朝の光はすでに高く昇っていた。ルキフェルは仲間たちと言葉も交わさず自室へ向かい、扉を閉めると張り詰めていたものがふっと緩んで外套を脱ぎ捨てた。床に落ちる布の音さえ、どうでもいい。彼はそのままベッドに身を投げると視界が闇に沈んだ。
夢だった。暗い部屋の隅、湿った空気、壁も天井も輪郭が曖昧な底のない空間に、翡翠の双眸を光らせた巨大な狼が寝転がっていた。そこそこ、どころではない。人の背丈に迫る体躯が闇の中で毛並みだけがわずかに浮かび上がる。狼は鼻を鳴らし、退屈そうに牙を見せびらかした。
「やることが多いな、全く」
獣の喉から出ているはずなのに、不思議と聞き慣れた声音だった。ルキフェルは壁にもたれかかるように立っている。
「うるさいな。お前に指図される覚えはない」
狼の口角が上がって牙が白く光る。
「また俺の出番が来たら、いつでも呼べ。破壊するのが俺の役目だ」
戦、復讐、血、理性を越えた力を引き受ける影に、ルキフェルは目を細めた。
「二度とお前なんかに飲まれたくない」
遠吠えが闇を裂いた。長く深く、底のない夜に響く声を聞きながら、ルキフェルは口元を歪める。
「……悪くないじゃん」
狼の姿がゆっくりと闇に溶けると、ルキフェルは踵を返した。闇の奥へ、自ら進むと遠くに光が滲んで夜が割れた。その光に包まれた瞬間、目を開けると見慣れた梁が視界にぼんやりと広がった。
窓の外から差し込む、白い昼の光。もう夜明けではない、すっかり昼だった。ルキフェルはゆっくりと身体を起こした。まだ夢の残滓が胸の奥に引っかかっているが、重くはない。鏡の前に立つと、翡翠の瞳と傷だらけの顔がまず目に入った。寝癖はなく、相変わらずきっちりと撫でつけられたオールバックのまま。
「……つまらん」
誰にともなく呟くと喉の乾きを覚えて自室の扉を開け、階段を降りる。木の軋む音がやけに現実的だ。昼の光が窓から差し込み、空き家の内部を淡く照らしている。その時、食堂の方から騒がしい声が聞こえてきた。
「なあ、まだか? こっちはウズウズしてるんだ!」
「ちょっと急かさないでよ。最終調整してるんだから……」
マテオの声とコリンの苛立ち混じりの返答だ。ルキフェルは足を止めず、食堂の扉を押し開けると、食堂内では四人がテーブルを囲んでいた。マテオは椅子にふんぞり返りながら、義手をテーブルの上に差し出すように置き、彼の隣でコリンが工具を広げ、真剣な顔で金具を締め直している。
——ああ、修理か。
昨夜のやり取りがルキフェルの頭によぎる。「もっと銃の反動に耐えられるように」とか何とか。テーブルの向こう側では、ジャスパーとニールが二人を眺めていた。
「力任せに撃つ前提なのがまず間違いだろ」
「壊す前提で強化しようとするの、発想が海賊すぎるよね」
ルキフェルが扉を閉めると、蝶番の音に気づいてニールとジャスパーが振り返った。
「おはよ」
「夜型人間さん、もうすっかり昼だぜ」
ニールが穏やかに言い、ジャスパーがにやりと笑う。ルキフェルは片手を軽く上げて応えた。
「騒がしい目覚ましだな」
ルキフェルが空いた椅子へ向かうと、ジャスパーが顎で彼を指した。
「それで? あの東洋人からなんか聞けたか」
「旧ブルボン派について詳しくな」
ルキフェルは椅子に腰を下ろしてコップを手に取ると、マテオが眉を顰めた。
「……それ、なんだっけ」
「昔、ベルナルドが言ってたやつ」
ジャスパーが呆れたように言うと、ニールが待ってましたとばかりに口を開いた。
「旧ブルボン派というのは、かつての王家の血筋を正統と信じる一派のこと。現王朝を認めず……」
コリンの工具の音が止まった。ニールの声は落ち着いている。理路整然、聞けば分かるが、ルキフェルはほとんど聞いていなかった。彼の頭の中にあるのは、あの封蝋の赤と短い文言、強い筆圧、濃い黒のインク。言葉より、物の方が早いと思い、ルキフェルは立ち上がった。
「……おい?」
ジャスパーが怪訝そうに眉を上げるが、ニールの講釈はそのまま続いていく。戦力規模だの地方豪族だの、思想の潮流だの。それらを生活音のように背に受けながら、ルキフェルは食堂を出た。階段を上がり、自室の扉を開けると机の上に放り出したままの封筒があったので無造作に掴むと、ルキフェルは踵を返して再び階段を下りて食堂の扉を押し開けた。ニールの声がちょうど一段落する。
「——というわけで、表向きは静かだけど思想はかなり過激だよ」
ルキフェルは何も言わず、テーブルの上に封筒を置くと乾いた音が響いた。
「……これだ。理屈より、実物を見た方が早いだろ」
ニールがテーブルの上の封筒を指先でつついた。
「これは?」
「その紋章、リー・ウェンによれば旧ブルボン派を象徴するものらしい」
ルキフェルが応えると、コリンは工具を握ったまま視線も上げずに言った。
「あー、あれね」
明らかに半分しか聞いていない返事。マテオは腕を組んだまま義手をテーブルに置いている。
「開けねぇのか?」
ニールが封筒を持ち上げ、指は封蝋の縁をなぞっている。
「読んでいい?」
「好きにしろ」
ルキフェルが答えるのとほぼ同時に、ニールは慎重に封筒を開いて便箋を取り出すと視線を落とし、数秒ののち眉を上げて紙をひらりと振って置いた。
「了解した。すぐそっちに向かう。……え、これだけ?」
ルキフェルは椅子に寄りかかった。
「リー・ウェン曰く、その手紙は返書じゃないかと推測していた」
「返書?」
「ああ。元の依頼状が別にあって、それに対する返答だろうってな。この手紙は、あの旗偽装で乗っ取った貿易商から引ったくったやつだ」
ジャスパーが吹き出す。
「コソ泥すんなよ」
「臭うからだよ。百合といえばフランス。そんな意匠のものが、ヨーロッパ行きの船から見つかったんだから怪しいだろ」
ルキフェルの翡翠の瞳がわずかに細まり、テーブルの上の封筒を指先で軽く叩くと、ニールが紙を見下ろしながら顎に手をやった。
「つまり……この向かう先に、本命がいる可能性があるってことか」
コリンの工具が金属を擦る音を立てる。
「ちょっと静かにして。細かい調整なんだから」
「オレはもう十分静かだろ!」
「さっきから足で床叩いてる!」
マテオが苛立つも義手の修理はまだ終わらない。ニールは封筒を睨み続けていた。
「……てことは、旧ブルボン派はカリブにも根を張ってるってこと? うわあ、思想が極端に強い人ってやること気持ち悪っ」
「王様ごっこに海を巻き込むなって話だ」
マテオが鼻を鳴らすが、ルキフェルは首を振る。
「いや。旧ブルボン派が直接カリブに来てるかは知らんが、手紙を出すくらいはできる」
「じゃあ、何が引っかかってる?」
ニールが目を細めると、ルキフェルは机の上の返書を引ったくってひらりと振る。
「俺は今まで、 “旧ブルボン派の連中の文”だと思っていたが……違う気がする」
「違う?」
ジャスパーが眉を寄せ、ルキフェルは紙を指で叩く。
「了解した。すぐそっちに向かう。これは理念の文じゃない。動く側の文だ」
「それで?」
マテオが腕を組むと、ルキフェルは仲間たちを見渡した。
「返事を書いたやつ……俺はエドガーだと思う」
コリンの指が止まり、ジャスパーの目が鋭くなる。
「……本気で言ってるのか?」
「ああ。エドガーは今、戦争を起こすつもりでいる。それも踏まえればタイミングが重なりすぎている」
ニールがゆっくり息を吐く。
「つまり……旧ブルボン派がエドガーに接触した?」
「可能性の話だ。エドガーが思想に染まったとは思わん。だが、利用される可能性はある」
コリンの工具が小さく鳴り、ジャスパーが舌打ちする。
「クソ貴族どもが、海賊を駒にするってか」
沈黙の中、マテオはルキフェルに目を向けて低く言う。
「止めるんだろ?」
「ああ、海を守るためだ」
ルキフェルは返すと、ほんのわずかだけ声を落とした。
「フランソワのためでもある」
封筒はテーブルの中央に置かれている中、コリンがぼそりと呟く。
「……まだ締め終わってない」
「今それどころか!?」
「ズレたら暴発する」
コリンとマテオがギャアギャアと叫ぶ中、ジャスパーが苦笑する。
「ほらな。政治がきな臭くても、義手は現実だ」
ルキフェルはため息をつき、ニールは封筒を指で弾いた。
「それにしても、信じられないなあ。フランスの貴族連中と大海賊が裏で繋がってるって大事件だよ?」
「胸糞悪ぃ話だな」
マテオが低く唸るとルキフェルは神妙な面持ちで口を開いた。
「だからこそ、エドガーに直接確認する。止めるのはそれからだ」
「あの人がそんな素直に認めるかなあ。なんか他に証拠ないの?」
ニールが顔を顰めながら紙をひらひら振ると、ルキフェルは黙って視線が落ちると同時に思考が沈み、ニールが思わず身を乗り出した。
「え、ちょっと黙んないでよ」
ジャスパーも目を細める。
「おい、何か思い当たるのか?」
沈黙が張り詰めた時、コリンの声が食堂を切り裂いた。
「よし、完成!」
「よっしゃあああああああああ!!」
マテオが椅子を蹴って立ち上がって義手の拳を高く掲げる。……が、見た目は何も変わっていない。動物の骨を細工して人骨を模した細い指。関節部に埋め込まれた金属軸。肘の内側に仕込まれた歯車と巻取り式の糸車。強いて言えば、剣戟で削れた金属のガード装飾が新しくなったくらい。食堂が沈黙する中、マテオがコリンを見る。
「……え、何が変わった?」
コリンは工具を片付けながら顔答えた。
「五本指。全部動く」
「は?」
「全部」
コリンが指で示すと、マテオは半信半疑で義手を見下ろした。親指、人差し指、中指。そこまでは従来通りだが、薬指が動く。小指も独立して曲がる。カタ、カタカタ。内部の滑車が小さな音を立て、五本の指がそれぞれ別に動いていた。マテオの目がゆっくり見開く。
「……なあ、暗器とか仕込めたり——」
「無理」
コリンは工具を置いた。
「構造上、無理。そんな都合いいもん作れない」
「なんでだよ」
マテオが口を尖らせるとコリンは初めてまっすぐ彼を見た。
「この義手は武器じゃない。設計図を遺したお爺さんは、失ったものを尊厳ある形で補う技術として意味を持たせてる。ぼくはそれを無視して改造したくない」
マテオはしばらく何も言わず、ゆっくりと五本の指を握ると以前より自然にキュッと拳が閉じた。
「……すげぇ」
マテオがぽつりと声を漏らすとジャスパーが口の端を上げる。
「お前、ついにちゃんと握れるな」
「これは大きい」
ニールが小さく頷き、ルキフェルは彼らの様子を見ていたが、サッと封筒へ視線を戻して口を開く。
「……証拠はまだないが、嗅覚はある」
ニールは腕を組み、じっとルキフェルを見た。青い目が据わっている。
「……はい? 証拠はまだない?」
ジャスパーがニールの横からひょいと封筒を奪った。
「嗅覚ねえ。お前の鼻より、おれの方が信用あるだろ」
「おい」
ルキフェルが声を上げかけるが、ニールが身を乗り出して遮った。
「君さあ。あんだけ堂々とエドガーだと思うって言っといて証拠はないって何よ。何もないままエドガーに『これ書いたのあなたですか?』って聞くつもりだったの??」
「可能性として言っただけだ。断言はしてない」
「そこじゃないわ 論点ずらしやめて?」
マテオが腕を組んで参戦し、コリンも工具を置いた。
「そうだぞ。止めに行くんだろ? なら確実な材料は要る」
「エドガー相手に勘で突っ込むなんて無謀だよ」
四方向からの圧にルキフェルは無言を押し通してニールが額を押さえる。
「……ほら、また黙る。やめてその沈黙」
ジャスパーは封筒をくるくる回しながら、ふざけ半分で鼻を近づけた。
「まあまあ。理屈よりも嗅覚だろ?」
ジャスパーがひくと鼻を鳴らすと動きが止まり、アンバーの瞳がスッと涼やかに冷たさを帯び、声色が変わってふざけが消えた。
「……これ、変な匂いする」
全員がぴたりと止まり、ルキフェルの視線が鋭くなる。
「なんだと」
ジャスパーはもう一度、封筒をゆっくり吸い込む。
「色んな匂いに紛れてるけど……なんか、あんま嗅いでいたくない匂いがする」
「お前が言うと洒落にならないんだよ」
ルキフェルの声が低くなり、マテオが肩をすくめる。
「まあ、ジャスパーは鼻が効きすぎるのは昔から困らされたよな。強い酒の匂いでもくらっとしちまうとか。海の男にとっちゃ致命的だ」
「だからあんまり飲めないもんね。この間の赤ワインとか酷かったし」
ニールがくすくすと笑い、コリンがジャスパーに目を向けて真顔で聞く。
「どんな匂い?」
ジャスパーは眉を寄せたまま答える。
「……長老の煙と同じ匂いする。まあ、長老より焦げ臭いかな。ほんの少しだけど、紙に染み付いてる」
その瞬間、ルキフェルとコリンが同時に顔を上げて声が重なった。
「……タバコだ」
二人の脳裏に断片が閃く。煙が揺れる船長室、重い沈黙、煙草を指先で転がす男、エドガー・ロジャース。三角帽の影の下、細く吐かれた煙。あの時、確かに煙の匂いがあった。別の記憶では長老の部屋、煙管、煙が天井へゆらゆらと昇る。さらにもう一つ。
「貰いもんだ。報酬とも言うな」
「エドガーも煙吐いてたよね」
「ああ。あれは俺がやったやつだからな」
欲しがったから渡した。——長老の煙とエドガーの煙は同じ、残り香は強烈であればあるほど消せない。少なくとも、ジャスパーの鼻の前では。ルキフェルが口を開き、コリンが続ける。
「……エドガーは煙を吸う」
「長老から貰ったやつ」
ニールが顔を上げる。
「つまりこの手紙、書いたとき近くに煙があった?」
「新しい匂いじゃない。染み付いた匂いだ」
ジャスパーは頷くと、マテオが低く唸たt。
「ってことは……」
「少なくとも、煙草を吸う人間の手元で書かれた。エドガーが煙を吸い始めたのは、長老から渡されてからだ」
ルキフェルの瞳が細くなり、空気が一段重くなるとニールがひたいに汗を浮かべながら目を見開いた。
「……証拠は、まだ弱い」
「だが、嗅覚だけじゃなくなった」
ルキフェルはジャスパーから封筒を奪い返すと翡翠の瞳が光った。
「点がひとつ増えた」
食堂の真ん中で義手の滑車がカタと小さく鳴り、マテオが呟く。
「まさか……長老が黒幕なんてことは——」
「そんなはずない!」
ルキフェルの声が珍しく食い気味に強く響き、一瞬全員が黙った。彼の翡翠の瞳が仲間たちに向けられる。
「あの人は、エドガーの戦争を止められないと言っていた。止められないと言っただけで煽ってはいない。俺はあの人が加担しているとは思わない。……思いたくない、じゃない。思わない」
ジャスパーが肩をすくめる。
「でもよ。そのタバコってやつ、長老とエドガー以外で持ってるやついないんだろ?」
ルキフェルは頷く。
「少なくとも、俺は知らない」
「じゃあエドガーは真っ黒だな」
ジャスパーがあっさり言い、ニールが即座に反応する。
「なんでそう言えるの?」
ジャスパーは口角を上げた。
「勘だ」
「雑。けど、君の勘はいつも信用できる」
「そうだろ? 特に鼻の勘は当たる」
ジャスパーの言葉にニールが呆れていると、コリンがルキフェルを見上げた。
「これからどうするの?」
四人の視線を一身に受け、ルキフェルは即答した。
「ポート・ロイヤルへ向かう。この島であいつを悠長に待ってられない。止めるなら今すぐだ」
マテオがニヤリとする。
「やっと動くか」
ルキフェルは封筒を懐に入れながら続ける。
「それに……あいつには聞きたいことがある。フランソワのこと。そして、ゼフィランサスのことも」
ニールの目が細くなり、マテオが鼻を鳴らす。
「ゼフィランサスね……聞けば聞くほど怪しいな」
「名前が出すぎてる」
ルキフェルは仲間たちに言葉を落としていく。
「ポート・ロイヤルへ向かうには連絡船が必要だ。準備を急ぐが、港へ向かう前に長老の元に寄りたい」
ジャスパーが眉を上げる。
「確認か?」
「違う。あの人には世話になった。フランソワの真実を教えてくれたんだ。何も言わず島を出ていくわけにはいかない」
「相変わらず律儀だな、ルカ」
「だから嫌いになれねぇんだよな」
マテオが笑い、ジャスパーがぽつりと呟くとニールとコリンが同意するように頷く。
「順番は間違ってない」
「準備はすぐできるよ」
ルキフェルは立ち上がった。
「行くぞ」
今度は迷いがない。戦争を止めるために、真実を聞くために。
各々が解散した後、ルキフェルは自室に戻って剣帯を手に取ると慣れた動作で肩にかけてカットラスを差した後、机の端に置いてあった羅針盤と三角帽子を見つめた。ルキフェルは手を伸ばしかけて一瞬指が止まるが、羅針盤を懐に入れ、三角帽子を胸に抱くと扉を開けて廊下を抜け、空き家を出た。外では四人がすでに準備を終えていた。マテオは義手の具合を確かめるように軽く拳を握り、ジャスパーは壁にもたれ、ニールは腕を組み、コリンは荷を背負っている。ルキフェルは振り返って宿の看板を見上げた。ブエノスノーチェス・ソルの文字、陽に焼けた木板が揺れている。
「……ここには、二度と戻らないかもな」
「縁起でもねぇ」
ルキフェルが誰に言うでもない独り言をこぼすとマテオが鼻を鳴らした。ルキフェルは小さく笑って皆を見渡す。
「行こうか」
坂道を登り、足音が五つ重なる。向かう先は管理人の屋敷。屋敷の門はほとんど顔パスだった。衛兵は一瞬視線を向けただけで黙って彼らを通す。
「相変わらず特別扱いだな」
ジャスパーが小さく言う。五人は廊下を抜け、長老執務室の扉を開けるといつもの光景があった。重厚な机、壁一面の棚、トルチュ島の精巧なジオラマの前に立つ男。煙が細く天井へ昇っている。長老は煙管を指でくるりと回しながら島を眺めていた。
「……今日は全員お揃いか。またどこかへ出かけるつもりか」
ジャスパーがそっとルキフェルの耳元で囁いた。
「この匂い、やっぱり同じやつだ」
煙草の匂い。封筒に染み付いていた、あの匂い。ルキフェルは表情を変えず一歩、前へ出ると床板が小さく鳴った。
「ポート・ロイヤルへ向かう。その前に礼を言いたくて来た」
ルキフェルは真っ直ぐに視線を向けると、長老は煙を吸い込みながら振り返った。
「律儀な若者だな」
ルキフェルは目を細める。
「察していたかもしれないが、俺……記憶喪失なんだ。フランソワの過去を探ったのは、自分の過去を知るため。俺が本当は誰なのか知りたかった」
「……それで?」
長老の問いに、ルキフェルは三角帽子を両手で持って差し出した。
「これ、あんたに預けたい」
ルキフェルの背後で仲間たちがわずかに息を呑み、長老の目が帽子に落ちた。
「理由は」
ルキフェルは懐へ手を入れ、銀の羅針盤を取り出すと淡く光を反射するそれを長老に見せる。
「……あんたはゼフィランサスの羅針盤をくれた。この羅針盤が次の目的地を指す。そして、真実も」
ルキフェルは言い終えると羅針盤を再び懐へ戻し、帽子をもう一度差し出した。翡翠の瞳がまっすぐ長老を捉える。
「本当の俺が誰なのか判明したら、すぐ知らせる。これは約束だ」
部屋が静まり返り、煙だけが天井へ昇っていく。長老はゆっくりと煙管を机に置いた。
「結果を持って戻る、と」
「そうだ」
「戻らなければ?」
「その時は、俺は俺じゃなかったってことだ」
「筋は通っている」
ルキフェルはわずかに口元を歪めると、長老の口元がほんの少しだけ緩めて帽子を受け取った。
「預かろう。だが、覚えておけ。人は過去を知るために旅をするのではない。過去に飲まれぬために旅をするんだ」
「肝に銘じる」
「だったら行け。海は待ってくれん」
ルキフェルは長老に踵を返した。煙の匂いが背中を追うが、今は追わない。約束を置いてきた。次は真実を取りに行く番だ。




