第九章④ 黒い帆と白い百合
ルキフェルがカフェから戻ると食堂にはまだ灯りが残っていた。木の長卓に四人が揃っている。酒は置いてあるが、誰も酔ってはいない。
「まだ寝てなかったのか」
ルキフェルが声をかけると、マテオが椅子を後ろ足で軽く揺らしながら顎を上げた。
「今さ、ソフィーの見送り行かないかって話してたんだよ。ルカも行くか?」
「夜が明ける前に港に出るらしい。人目が増える前に発つつもりだって」
ニールがにこやかに言葉の続きを紡いだ。ジャスパーは腕を組み、コリンは頷いている。ソフィーの名が出た瞬間、ルキフェルの脳裏にあの医師の凛とした横顔が浮かんだ。
——自分の中の恐怖と向き合わなければ、本当に強いとは言えない。
あの言葉、胸の奥を抉るような響きだった。正直、腹も立った。図星だったから。あの時、自分は戦う理由ばかりを見ていて、向き合う理由を見ていなかった。あの一言がなければ、記憶を追おうとは思わなかっただろう。自分の過去と向き合う覚悟も持てなかったかもしれない。結果として、知らなかった真実にいくつも辿り着いた。痛みもあったが、必要な痛みだった。そして今、彼女は自分の恐怖に真正面から向き合うためにフランスへ戻る。敵の本拠地へ、一人で。
——強いな。
戦い方は違う。背負っているものも違うが、あの女は逃げない。ルキフェルの目尻が優しげに下がって口を開く。
「まあ、あの女も微力ながら奮闘していたからな。見送りしないわけにもいかない。感謝はしてる、大いにな。……俺も行こう」
ジャスパーがにやりと笑いかけるが茶化さない。マテオも何も言わず、ニールは穏やかに頷き、コリンは鼻を鳴らした。
夜明け前の空気は刃のように澄んでいる。湊へ向かう五人の足音は重くもなく、軽くもなかった。ルキフェルは久しぶりに外套を羽織っている。
「……さむっ」
無意識に漏れた声を誰にも拾われなくてよかったとルキフェルは内心で思い、フードを深く被った。他の四人は平然として、上着すら羽織っていない。
——俺だけか。
身体が冷えているのか、さっきまでの話の余熱が急に抜けたせいか。五人組がラ・カレータへ着くと海からの風が一段と強まった。潮の匂い、帆布のきしむ音、まだ完全には明けきらない空が薄青く港を包んでいる。ルキフェルはフードをさらに深く引き下げると顔半分が影に沈んだ。五人組が東洋キャラバンの帆船を探しながら港湾区を進んでいくと、朧げな灯りの下に一人立つ影を見つけた。鞄を持った細い背中、冷たい風が亜麻色の髪を揺らしている。ソフィーがいた。水平線の向こうから朝陽が顔を出し始めている。夜と朝の境目、別れには妙に似合う時間帯だ。ソフィーはまだこちらに気づかず、海を見ている。ルキフェルが足を止めると風が外套の裾を揺らした。
「その格好で、本当に海軍に戻るのか?」
振り返ったソフィーの目に驚きはなく、一瞬だけ安堵のようなものがよぎった。来ると思っていた顔だな。他の四人は、自然とルキフェルの背後に並んでいた。ルキフェルが前、ジャスパーが彼のやや斜め後ろ、マテオは腕を組み、様子を見る位置。ニールは空気を測り、コリンは一歩踏み出せる距離。それぞれの癖が、そのまま並び順になっている。
「相変わらず、気配を消すのが上手いのね」
「案外、君が鈍感なだけかもしれないよ」
ソフィーの軽口にニールが返す。ニールの声色は柔らかいが、どこか探っている。ソフィーの精神の揺らぎを測っていルらしい。コリンが前に出た。
「……ソフィー。無理はしないで。でも、逃げる必要もないと思う。自分で選んだなら、それはもう“間違い”じゃない」
ルキフェルは横目でコリンを見た。こいつは真っ直ぐだ。ソフィーに対する評価は、コリンの中でとっくに固まっている。ジャスパーは冗談を挟まない。
「問題は海軍だ。あいつら、本当に得体の知れないことを考える。……気をつけろよ」
ジャスパーは敵を疑うが、人は疑わない。だからソフィーには警戒を向けず、環境を警戒する。マテオは何も言わず腕を組んだまま、目だけはソフィーを見ている。覚悟はあるかと無言で問う視線に、ソフィーは首を振った。
「平気よ。簡単にくたばるわけにはいかないから」
ルキフェルの胸の奥で何かが鳴った。強い、無謀ではない。自分の恐怖を認めた上で、それでも進む人間の声だ。
「ほう、ずいぶん強気だな」
外套の奥でルキフェルはわずかに笑った。不敵な調子を装いながら内心では冷静に判断している。この女は守られる側ではない。戦場で刃を振るわずとも、自分の信念で立つ人間だ。それが五人の共通認識だった。ニールは頭脳として、コリンは勇気、ジャスパーは芯、マテオは覚悟として見ている。そして、ルキフェルは対等な航海者として見ていた。風が強くなって帆船の帆が鳴り、朝陽が水平線を押し上げていく。ソフィーは一度だけ五人を見渡した。彼女の視線を受け止めながらルキフェルは思う。
「……あなたたちは、島に残るの?」
彼女は確認している。心配ではない。立ち位置の確認だ。敵か、同じ方向か。ルキフェルは頷いた。
「ああ。ただし長居はしない。しばらく腰を据えて、マクシミリアン殺しの算段を立てる」
反応を見るためにわざと直截に言った。案の定、ソフィーの表情がわずかに硬くなるが、取り乱さない。感情を押し込め、状況を整理しようとする目だ。
「そんな話、初耳よ。あなたたちが隊長を狙ってるなんて」
隊長という呼び方に、ルキフェルは鼻を鳴らす。
「気が変わった。だが、あいつらに借りがあるのは確かだ。返すには……準備が要る。俺たちは真実を暴くために動いている。お前も、あいつの“秘密”を追ってるなら無関係じゃないはずだ」
借り。恨みではない、理屈の通らなさへの違和感だ。ルキフェルが言い終えた時、港の風が一段強まった。ソフィーは五人を順に見た。
「……分からないことばかりよ。でも、真実を知るのが怖くても避け続けることはできないと思う」
ルキフェルの胸の奥がわずかに揺れた。恐怖を知っている声だ。彼女の言葉にニールが肩をすくめる。
「あーあ、優等生だなあ。君がもたもたしてるうちに、僕らが先に海軍の闇ごと殺しちゃうかもしれないよ?」
軽口だが、半分は本気。ニールはソフィーが揺らぐかどうか試している。ソフィーは一歩も退かなかった。
「別に、引いてほしいわけじゃない。私は隊長の秘密を暴くっていう、大きな野望を持ってる。……それに、あなたたちも少なからず興味がある」
ルキフェルは思う。言い切った、こいつは自分の欲を認めた。正義ではなく、野望だと。その正直さは嫌いじゃない。海鳥の声が遠くで鳴く中、ルキフェルは低く笑った。
「都合のいい話だな」
ルキフェルはフードを払った。芝居がかっているのは自覚しているが、場を整えるための動作だ。
「だが、俺は嫌いじゃない。そんな都合のいい話に、乗ってみるのも悪くない」
「……待ってくれるの?」
ソフィーの問いに、ルキフェルは口元を歪めた。待つ? 待つという言葉は、彼の辞書にない。
「残念だが、俺はそんな優しい男じゃない。あいつがそれだけの大物だと分かったら、改めて首をもらいに行く」
「……隊長が、大物?」
ソフィーの瞳が揺れ、ルキフェルは一瞬だけ目を逸らした。
「いや。なんでもない」
本当は何かが引っかかっているが、今は言わない。その方が面白い、その方が真実は浮かび上がる。朝日がさらに昇り、ソフィーはふっと息を漏らすように笑った。ルキフェルは視線を横へ移すと、コリンが口を尖らせて立っていた。まだ少年の輪郭を残す顔だが、その目は甘くない。
「ぼくは正直、不満だけどね。でも、ルキフェルがそう言うなら仕方ない。運がいいよ」
ああ、こいつはまだ怒ってるな。自分よりも先に死地へ向かうかもしれない人間に対する、不器用な不満だ。コリンはにやりと笑う。
「失敗したら……大きな声で笑うかも!」
「それは困るわね」
ソフィーが肩をすくめると、コリンはぷいと顔を逸らした。素直になれない奴だとルキフェルは思う。次に前へ出たのはニールだった。彼は首を傾げ、穏やかな目でソフィーを見ている。
「僕は、君みたいな生き方が嫌いじゃない。君が海軍の差し金かもしれないし、ただ運が悪かっただけかもしれない。それでも……自分の意思で戻るっていうなら、それは立派な選択だ」
ルキフェルはわずかに目を細めた。ニールはいつも感情の温度を一定に保つが、今はほんの少しだけ真剣だった。ソフィーは即答した。
「もちろんよ」
「僕らはいずれ海に戻るよ。やりたいことをやる。それが僕らの流儀さ。軍でやっていくのは簡単じゃないだろうけど……頑張りなよ」
ニールは肩をすくめる。諦めではない、選択の重さを知っている者の言い方だ。ソフィーは小さく手を振った。その手に、ほんの一瞬だけルキフェルは視線を止める。敵かもしれないが、今は違う。今は同じ海を見ている者同士だ。その時、ルキフェルの隣でマテオが胸を張った。
「オレはマクシミリアンを倒す気満々なんだがよ。どうやらコリンが義手の修理に本気出すらしくてな、しばらくは無理そうだ」
……え、そうだったの? そうなんだ、知らなかった。いや、聞いていなかっただけかもしれない。
ルキフェルの思考が一瞬だけ止まってるとコリンが顔を赤くし、ジャスパーが即座にマテオの横から口を挟んだ。
「先に言い出したの、マテオじゃなかったっけ?」
「そうだよ。なんか文句あんのか?」
「いんや。どうせキミのことだ」
ジャスパーは肩をすくめ、楽しそうに続ける。
「もっと銃の反動に耐えられるように作れ、とか無茶言うんだろうなって思っただけさ」
「うっせえんだよ、ジャスパー!」
「ぐえっ」
鈍い音と共に義手の拳がジャスパーの腹にめり込み、ジャスパーはその場に蹲ってルキフェルは片目を瞑りながら見下ろしていた。
……気の毒に。
義手の一撃は洒落にならない。冷たい鉄の重みがそのまま衝撃になる。
「とにかくオレは強くなるんだよ! いいな!」
「……はいはい。やれやれ」
マテオが吠え、ソフィーが呆れたように笑う。二人のやり取りを見ながら、ルキフェルは少しだけ距離を置いて眺めていた。こいつらはこうやって熱を逃がす。怒りも悔しさも、恐怖も。殴って、笑って、からかって均衡を保っている。この女は今、この光景を見ている。自分たちを単なる悪として切り捨てられない理由を。まあ、そうだろうな。海賊は無法者だが、支配者ではない。
ふと自分の言葉が胸に戻る。海の上では王冠も王座も要らない。ここにあるのは拳と意地と、選択だけ。腹を押さえていたジャスパーがゆっくりと立ち上がった。まだ義手の一撃の余韻が残っているらしく呼吸は浅いが、彼は何事もなかったようにチラリとソフィーを見やり、少しだけ気恥ずかしそうに口を開いた。
「おれからは別に言うことはないよ。軍医さん」
軽口の形をしている。だが、その声はさっきよりも低い。
「一度も治療を受けられなかったのが、残念だったってくらいさ。そんだけ」
ジャスパーは怪我を誇らないが、死線は何度も潜ってきた。その中で、あの軍医の手を借りる機会がなかったことをどこかで惜しんでいる。ソフィーが目を瞬いた。
「……でも、それって医者としては一番嬉しいことよ。患者が無傷でいてくれることほど、誇らしいことはないもの。腕をふるう機会がなかったってことは、あなたが命を落とすほどの怪我をしなかったってこと。こんなに喜ばしいことないわ」
ソフィーの言葉にジャスパーは視線を逸らした。照れか、困惑か。数秒の沈黙のあと口元を歪めるが、声に棘はない。
「……ったく、いい女風吹かせてくれるじゃないの。そんなこと言われたら、もう怪我なんてできないね」
ルキフェルは小さく鼻で笑う。お前は元々、簡単に怪我する奴じゃないだろ。
「なるべく、みんなに私の出番がないのが理想よ」
ソフィーはそう言ってから少しだけ表情を変え、五人を順に捉える。
「でも、一度でも医者として、あなたたちと関わった身だから。……いえ、契約なんてなくてもいい。もし誰かが傷ついたら、必ず助けに行く。軍医としてじゃなくて、一人の医者として。それが私の恩よ」
ルキフェルは彼女の言葉を聞きながら観察していた。嘘はない、誇張もない。自分の立場も危険も理解した上で選んでいる。ジャスパーが鼻を鳴らした。
「へっ……そう言われたら、ますます怪我できねぇな。死んでも来んなよ?」
「生きてる限り行くわよ。私が行かなくちゃ、意味がないでしょう?」
ソフィーは肩をすくめ、ルキフェルはそこでようやく小さく息を吐いた。意味か。この女は海軍でも、海賊でもなく、医者であろうとしている。ルキフェルが隣を見るとマテオは腕を組み、ニールは穏やかに笑み、コリンはじっとソフィーを見ている。夜明けの光が水平線をさらに押し上げた。風は冷たいが、今の空気は悪くない。ルキフェルは一度だけ周囲を見回し、人の数が多くなっていることを察知して口を開いた。
「──それじゃ、俺たちはもう行く」
「……お別れね」
マテオが踵を返し、肩越しに振り返った。
「オレたちはオレたちで、いずれ復讐を果たしに来るつもりだ。覚悟しとけよ。次は見逃さねぇ」
「ふふ……覚えておくわ」
ソフィーは微笑むとコリンが去り、ニールが最後に手を振る。ジャスパーは一瞬だけソフィーを見て、何も言わず背を向けた。ルキフェルも仲間の後に続こうと踵を返しかけたが、彼女の胸元がキラリと光って思わず足を止めた。
……あれ。
ルキフェルは何気ない動作のように視線を落とすと、彼女の胸元に銀の鎖、龍と蛇が絡み合う意匠と淡く光を宿すアクアマリンを見た瞬間、ルキフェルの胸の奥がひどく締めつけられた。理由は分からない。初めて見るはずの代物なのに、なぜか知っている気がした。
「その首飾り……本物か?」
「……本物よ」
ソフィーが指先で鎖に触れる仕草を見た瞬間、ルキフェルの胸の奥で何かが軋んだ。守られている、大切にされている。誰かの想いがそこにある。ルキフェルはほんのわずかに目を細めた。
──俺のものだ。
唐突にそんな感覚が走る。理屈ではない、所有欲でもない。もっと根の深い、原始的な確信だが、同時に冷たい自覚もあった。違う、あれは奪って得られる類のものじゃない。ルキフェルはいつもの調子で低く笑った。
「……お宝だな。次に会うときは、それを貰いに来る。お前が真実を掴めなかったら、な」
挑発だが、内側では別の声が囁く。愛された証、守られてきた証。そういうものは、自分のような人間には縁がない。だからこそ、欲しくなる。
「これは、何があろうと渡せないわ。私にとって、大切なものだから」
「……そういうものこそ、俺たちは欲しがる。分かるだろ?」
ルキフェルは淡々と告げたが、内心で苦笑する。
「俺たち」と言う言葉選びと海賊という仮面だが、本心はもっと個人的だ。分かるわけがない。奪ったところで意味はない。欲しいのは物じゃない。その意味と背景、記憶だ。ソフィーはルキフェルから視線を逸らさなかった。彼女の真っ直ぐな目を見て、ルキフェルは奇妙な安堵を覚えた。
ああ、そうだ。この目だ。こういう受け止める目を、自分はどこかで見た気がする。誰だったか、思い出せないが何か大切なものを自分も受け取ったことがある気がする。何かは分からない。名前も顔も、ただ胸の奥が騒ついた。
記憶を辿れば、分かるのだろうか。
ソフィーはルキフェルに微笑むと軽く敬礼し、ルキフェルの胸の奥で何かが引っかかった。敬礼、海軍の所作。自分たちは海賊。本来なら交わるはずのない立場。それでも今ここにいるのは海賊でも海軍でもなく、同じ夜明け前の港に立つ二人の人間だ。潮の匂い、冷たい風、朝焼けの光、同じものを見て、同じ空気を吸っている。それなのに、立場ひとつで剣を向け合う側に立たされる。王だの正義だの、血筋だの。そんなものがなければ、もっと単純に笑って話せる相手だったのではないか。なんだ、それは。なんで、こんなにも面倒くさい。なんで、こんなにも勿体ない。ルキフェルはふっと視線を外すと、これまで聞いた中で一番穏やかで、一番個人的な声で問いを落とした。
「……なんで、海軍なんだ」
不意打ちに近い問い。敵としてではない、一人の人間としての疑問。ソフィーは少しも慌てず問い返した。
「そっちこそ……なんで、海賊なの?」
潮騒、遠くで軋む船の音の中、どちらともなく息を漏らすように笑った。
「……もう、二度と会いたくないわね」
ソフィーが困ったように笑いながら言った。個人的な願いであり本音であろう。凛とした声の中にほんの少しだけ揺らぎがあった。ルキフェルは首を傾ける。
「どうだろうな。お前が海軍で、俺たちが海賊である限り……遅かれ早かれ、また巡り会う」
ルキフェルはまっすぐに彼女を見た。
「そのときは──互いに、“嘘のない顔”で会えるといい」
挑発ではない、願いに近い。ソフィーは小さく息を吐いた。
「ええ……だから、急がなきゃ」
「何を?」
「真実を」
「そうだな」
ルキフェルは笑ってフードを深く被り直した。外套の中で、指先がわずかに震えていることには、自分でも気づかないふりをする。ルキフェルが踵を返して歩き出した。彼女の視線が背に刺さるが、振り返らない。彼の胸の奥には、あのアクアマリンの淡い光がまだ残っている。自分のものだと思った自分をすぐに打ち消す。
——違う。あれは……守られるべきものだ。
陽は昇り、闇は薄れるが彼の中の欠片はまだ霧の中にある。足音がひとつ、またひとつと暗い街へと溶けていく。自分が彼から向かう先は、真実を覆う闇の中だ。
やがて夜は終わり、朝が来る。




