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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】5・6巻「胎動編」  作者: セキユズル
第九章「そのときは──互いに、“嘘のない顔”で会えるといい」
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第九章③ ルキフェルとヤン

 海風がクロスを揺らし、灯りの影がわずかに揺れたヤンが控えめに口を開く。


「なら、わたしたちと一緒に行きますか?」


 彼の問いに、ルキフェルは視線を上げて一瞬だけ目を細めた。誘いか、あるいは探りか。ヤンの言葉はいつも柔らかいが、その奥にある意図を見誤ったことはない。情報屋は同盟を作らない、必要に応じて並走するだけ。ルキフェルは息を吐いた。


「いや、しばらくはここにいる。エドガーの動向が気になるんでな」


 エドガー・ロジャース。あの男が何を考え、どこへ向かうのか。それを見誤れば海は一気に血で染まる。ヤンは一瞬だけ何かを測るように視線を巡らせて頷いた。


「飲む気も失せた。そろそろ宿に戻るとしよう」


 ルキフェルが仲間に声をかけてテラスを去ろうとした時、ヤンの声が彼の背後に届いた。


「ルキフェルさん、まだあなたには話があります……さきほどのことで」


 ルキフェルは足を止めて振り返ると、ヤンは座ったまま真っ直ぐにこちらを見ていた。その眼差しには先ほどまでの傍観者の色がない。ルキフェルは一瞬だけ仲間たちを見る。


「悪いが、みんなは先に宿に戻ってくれ」


 マテオがじっとこちらを見て何か言いたげだったが、結局何も言わない。ジャスパーは軽く肩をすくめ、ニールは頷いてコリンの肩を軽く押した。


「長話すんなよ、ルカ」

「ちゃんと戻ってきてね」


 ルキフェルはわずかに顎を引いた。四人が店を出ていって扉が閉まるとテラスには、再び海風の音だけが残った。ヤンが息を整えるように吸い込んだ仕草を見て、ルキフェルはわずかに目を細める。


「で?」


 ルキフェルが促すと、ヤンは一瞬だけ視線を落として言った。


「さきほど、あなたは血で染める覚悟と言いましたね」

「……それがどうした」


 ルキフェルは目を細めるとヤンは続ける。


「あなたが戦争を止める側に回るのであれば、伝えるべき情報があると思って引き留めました。例の封筒の続きを、話しましょう。もしエドガー・ロジャースが戦争を起こすつもりなら……裏に旧ブルボン派が関わっている可能性があります」

「……続けろ」

「あなたが戦争に首を突っ込むなら、あなたも旧ブルボン派について詳しくなるべきです」


 二人の視線が真っ直ぐに交わる。ヤンは椅子に座り直して姿勢を正した。


「あまり公には言えないことですが、わたしたちもフランス沿岸部を拠点にしている以上、戦の気配を無視するわけにはいきません」

「……旧ブルボン派の何を知っている」

「あなたが思っている以上に、根が深いですよ」


 ルキフェルは椅子を引いて腰を下ろしながら声を二段ほど落とした。


「お前たちリー・ウェンは、組織で動いてるんだってな」


 ヤンは一瞬だけ瞬きをし、やんわりと微笑んだ。


「よくご存知ですね」


 ルキフェルは肘をテーブルに置き、指先でカップの縁を軽くなぞった。


「サン・マロで冬籠してる時、フランソワが教えてくれた。ま、その情報の出所も大体わかるけどな」

「我々が組織であると、なぜ知っているのですか?」


 ヤンの目がわずかに鋭くなる。普通の海賊ならここで踏み込みすぎるが、ルキフェルは踏み込まない代わりに横へずらす。


「簡単な話だ。昔、一緒に生活してた武人がいた。俺の剣の師匠でな。東洋人なんだ」


 ルキフェルの声音に懐かしさが混じる。彼の言葉を聞いた瞬間、ヤンの瞳に明確な変化が走った。驚きではない。評価だ。ルキフェルは続ける。


「組織で動く者の呼吸ってのは、独りの商人とは違う。言葉の選び方、間の取り方、視線の置き所。全部が自分の背後を守ってる。お前はさっき、わたしたちって言った」


 ヤンは数秒間ルキフェルを見つめ、それから小さく息を吐いた。


「……なるほど。武人の観察眼というわけですか」

「ただの癖だ。集団で生きる奴は、無意識に仲間を守る言葉を使う。俺もそうだ」

「あなたは、ずいぶんと良い師に学ばれたようですね。ええ、我々は単独ではありません」


 ルキフェルはわずかに目を細めて笑みを浮かべた。


「安心しろ。お前たちの仕組みに口出しする気はない。俺が知りたいのは、戦がどこまで広がるか」


 ヤンはしばし沈黙した。情報屋の顔に戻るか。それとも、ヤン・ジュンジャーのままで話すか。一瞬の選択ののち、彼はゆっくりと口を開いた。


「あなたが想像しているより、事態は深いかもしれません」


 ヤンはルキフェルを観察するように見ていた。剣士の顔だが、今は政治の話をしている男の顔だ。


「あなたのこれまでの発言を思い返すと、どうやらフランス国内の政治事情には多少お詳しいようですね。いま実権を握る現王朝——オルレアン朝、その配下にあるフランス海軍。そして、王位の復権を唱える旧ブルボン派。三勢力の構図も頭に入っているようですし」


 ルキフェルは肩をわずかに揺らした。


「詳しいってほどじゃない。旧ブルボン派は、現王朝に不満を持ってる連中。昔の王家を担ぎ上げて、もう一度玉座に戻そうとしてる囲いだろ」

「ええ、整理は正確です。旧ブルボン派は、かつての王族を“正統”と信じる者たちの集まり。現王朝と対立しています。」

「で、その“神輿そのもの”はどうしてる。囲いがギャーギャー騒いでる中、当のブルボン家は何して、何を思ってるんだ」


 ルキフェルは腕を組んだ。海風が吹き、ヤンは一瞬黙ったが、あっさりとした返答をした。


「遊んでいます」

「……は?」


 ルキフェルが言葉を失っていると、ヤンは淡々と続ける。


「肝心のブルボン本家は王座から遠ざかって久しい。長い間、実権を持っていません。名誉はあっても権限は曖昧。政治の前線からは退いている。ですから多くは、パリを離れたリゾート地に移り住んでいます。海辺、温泉地、狩猟用の別荘。大富豪の豪遊ですよ。特に本家は顕著です。ブルボン本家の長男さまがしょっちゅう外出しているという話は貴族社会でも有名ですね。舞踏会、狩り、賭博、愛人……話題に事欠きません」


 正統王家と呼ばれる一族の実態にルキフェルは無言で海を見た。


「……つまり、いま血を流してるのは現王朝。騒いでるのは旧ブルボン派。その中心にいるはずのブルボン家は別荘で酒飲んでるってことか。港に着いた時の海賊と変わらないんじゃないか。旗の色が違うだけで、中身は似たようなもんだろ。血は下が流して、上は遊ぶ」

「それ、不敬ですよ」

「海賊に敬意を求めるな」


 ルキフェルの内心では冷たい違和感が広がっていた。王を掲げる者たちは血を流す。王そのものは遊ぶ。それなら、誰のための戦だ。ルキフェルの表情を翳りを、ヤンは見逃さなかった。


「とはいえ、遊んでいるからといって何も知らないとは限りません。何もしないこともまた選択ですから」


 ルキフェルはヤンの言葉をしばらく咀嚼していた。


「……本家が戦争に絡んでると思うか? 囲いを手先にして、裏から糸を引いてる可能性は」


 ヤンは珍しく即答せず一度、息を止めると視線を天へ向ける。彼が思案する癖をはっきりとルキフェルを見た。


「それはないと思います」

「……なんでそう言える」

「理由は情報源です。わたしたちが把握している限り、ブルボン本家は現体制に対して積極的な干渉をしていません。むしろ、距離を取っている。囲いが騒いでいることすら把握しているか怪しい」

「呑気って話は本当か」

「ええ、呑気です。無関心に近い。少なくとも戦を操る側の目ではない。戦を仕掛ける者の視線はもっと濁ります。本家にその色はありません」


 ヤンの脳裏にある青年の姿が浮かんでいた。粗末な外套、少し擦り切れた手袋、庶民を装った軽い笑み。ティエンだった。やけに金を持っている、やけに貴族社会の内情に詳しいが、決して当事者の語り口ではない。少し前、酒場の裏でやり取りをした時のことだ。ティエンは鼻で笑っていた。


「ブルボン家が動くかって? いやー、ないな。あいつら、能無しだし。平和ボケしすぎてて、銃の扱いも知らないと思うけど」


 その場にいたヤンもワンも、他のリー・ウェンたちも一瞬言葉を失った。あの言い方、単なる憶測ではない。知っている者の温度だった。ティエンは自分を庶民だと言うが、立ち居振る舞いの端々に滲むものがある。杯を持つ指先の角度、椅子に腰掛ける姿勢、無意識の目線の高さ、身勝手さの奥に隠しきれない優雅さ。やんごとない身分であることはリー・ウェンの誰もが察していたが、深追いはしない。それが彼らの流儀だ。何より、あの青年は嘘をつくときの目をしていなかった。あの青年の目を今になって思い出す。軽薄そうに笑うが、血の匂いを知らない目だった。権力の冷酷さではなく、退屈を持て余した人間の目。あの青年の正体が何であれ、少なくとも戦を望む人間の目ではなかった。


 ヤンは無言でルキフェルの顔を眺め、口元をわずかに緩めた。


「ここまで整理できれば、あとはシンプル。旧ブルボン派でしょう。奴らは地方に根を張る豪族と結びついています。傭兵部隊を抱えている家もある。本家の意志とは無関係に、自分たちの思想を押し付けることも可能、現王朝に喧嘩を売ることくらい想像に難くありません。奴らは、自分たちの思想を体現するための戦争を仕掛けるつもりなのでしょう。そのために自分たちは直接姿を見せず、海賊という駒を使う」


 ルキフェルの顎がわずかに強張る。駒という単語が胸の奥に落ちた。


「……なんで王座のために、そこまでする」

「血筋の正統性ですよ。重要視”です。あなた方のように絆や経験で結ばれている者には、少し分かりづらいかもしれません」


 ヤンはルキフェルをまっすぐ見る。


「貴族社会では、自分に流れている血がすべてを決めます。生まれた瞬間から、価値が定義される。誰の血を引くかで、尊厳も権利も未来も決まる」


 ルキフェルは黙って聞き、ヤンは目を遠くに向けながら続けた。


「血は物語です。歴史です。正統性です。王座とは椅子ではない。血の証明です。西でも東でも血は重要視されます。王家、名家、武門、宗家……どこも同じです。だからこそ、血が奪われることは存在の否定と同義になる」

「……厄介だな」

「根深い問題ですよ。血に価値を見出す社会は、血を守るためなら他者の血を流すことを厭わない。旧ブルボン派の連中は、『正統なる血を取り戻す』と信じている。自分たちこそが歴史を正す存在だと」


 ルキフェルの眉間の皺が再び深くなる。


「思想のために血を流す、か」

「彼らにとっては、あなた方が血を流すこともまた歴史の必然なのでしょう」


 ルキフェルは椅子にもたれ、視線を夜の海へ向けた。血で価値が決まる世界。なら、血を持たない者は何で立つ。彼の中でゆっくりと別の問いが生まれる。フランソワは血で王になったわけではない。剣で覚悟で、海で立った。それは血より弱いのか。


「……面倒くせぇな」


 ルキフェルが吐き捨てるように言うと、ヤンはわずかに口元を上げた。


「ええ。非常に。ですが、面倒なものほど構造は単純です。思想を掲げる者は、必ず“敵”を必要とする。そして今、その敵に最も都合がいいのが海賊という存在です」

「……なるほどな」


 ルキフェルは指先でカップを軽く回した。翡翠の瞳がゆっくりと光を帯びる。


「だったら尚更だ。好き勝手させるわけにはいかねぇな」


 思想のために海を血で染めるとは冗談じゃない。海は血統の証明書じゃない、自由だ。ルキフェルはしばらくカップを回していたが、何か思いついたようにピタリと手を止めるとヤンに目を向けた。


「そう言えば、さっきベルナルドの名を挙げたな。ソフィーとの一件といい、お前はマクシミリアンと付き合いが長いらしい」


 ヤンは瞬きを一つ落とだけ、ルキフェルは気にせず続ける。


「軍人はみんな良い生まれなんだろうな。ベルナルドなんて名前からして、フランスの隣出身だろう」

「まあ、例外もいますよ。貴族の割合が大きいだけで。特に、今のフランス海軍は実力と能力主義を掲げていますから」


 ルキフェルの眉がわずかに動く。能力主義と言う言葉の裏に、どれだけの血が絡んでいるのか。ヤンはなお続ける。


「とはいえ、先ほど言及されていた女性の件についてはまた別問題ですね。たしかに女性隊員は増えましたが、戦闘部隊に入隊する者は少数。女性士官の多くは内勤寄りか、士官学校を出たら花嫁修行からの婚約という流れです」


 ルキフェルの指先が机を無意識に叩いた。


「ですから、マクシミリアン隊にいる女性隊員はかなり特殊ですよ。……香水ではしゃぐ一面はちゃんとありますが」


 一瞬、ルキフェルの脳裏にスザンヌの顔が浮かんで喉の奥が熱を持った。ヤンが何気なく付け足す。


「そうそう、先ほど仰っていたブルボン家の人間もいますよ」


 ルキフェルの内側で何かが弾けた。


 ——よし。


 内心でほとんど無意識に拳を握る。情報だ、ようやく核心に触れられる。彼女はどっち側なのか。ルキフェルの鼓動が速まる中、ヤンは続ける。


「彼女のご実家は……また特殊ですね。ブルボン家。それも直系ではなく分家。つまり……代々、長男が王座に就いたものとすれば、その弟の血筋家系。何番目かは知りません。家系図、いちいち覚えてないので。要するに、彼女の血筋は王様候補という面では正統ではないですが、由緒正しい血は流れています」


 ——王候補ではない。


 ルキフェルの胸の奥がわずかに軽くなるが、ヤンの視線がルキフェルをまっすぐ捉えたところで次の言葉が容赦なく落ちる。


「さらにややこしいのは……彼女のお父上と兄上、つまり実家全体は現王朝側の支持者であるという点ですね」


 現王朝。旧ブルボン派ではないだがブルボンの血は流れている。さらに実家は現王朝支持。海軍の特殊部隊所属。しかも隔離部屋的な扱い。ルキフェルの頭の中で湯気が立つような感覚が湧いた。待て、整理しろ。彼女は旧ブルボン派ではない。少なくとも、あの血統思想で戦を煽る側ではないが——。


「……なるほどな」


 ——あの王の側か。


 ルキフェルの中で苛立ちがじわりと滲む。守るべき海を血で染める正義。フランソワを“悪”と断じた体制側に、彼女の家がいる。しかも由緒正しい血、血統社会のど真ん中。ルキフェルは思わず息を吐いた。


 ——遠いな。


 血筋、体制も、王家も。自分とはあまりにも遠いが、同時にあの瞳の距離は決して遠くなかった。ヤンはわずかに口元を緩める。


「ブルボンの娘……ええ、なかなか聡明な方ですよ。才色兼備。凜としていて、芯がぶれない。ですが、愛らしい一面もあります」


 ルキフェルは興味がないという顔で脚を組み替えたが、ヤンは続ける。

「御本人曰く、自分は剣よりペンの方が強いそうです」


 ルキフェルの指先がわずかに止まった。


 ——らしいな。


 あの目を思い出す。理屈で斬る瞳だが、情もある。


「……気になるのでしょう。この“誰か”が」


 ヤンがさらりと言い、ルキフェルの視線が冷たく持ち上がる。


「……それで?」

「バレバレですよ」


 ルキフェルの眉間に皺が寄る。ヤンは微笑みながら指折り数えるように続ける。


「話題が逸れるたび、あなたは必ず脚を組み替える。先ほどもそうでした。それから、視線がほんの少し右上に逸れる。記憶を引っ張り出す癖ですね。それに、——名が出た瞬間、椅子が鳴った。そのときの椅子の軋み音。力が入っていましたね。あなたは平静のふりがうまい。でも、身体のほうが正直だ」


 ルキフェルの瞳がわずかに細くなる。


「……続けろ」

「彼女の所属を聞いたとき、あなたの目が怒りました。旧ブルボン派でないと知って安堵し、現体制支持と聞いて苛立った。その感情の振れ幅は、政治的関心の範疇を超えています。……あなたは彼女を守りたい。そうでしょう?」


 風が止まったように感じた。ルキフェルはしばらく何も言わず脚を組み直す。


「……情報屋に心理分析まで求めた覚えはない」

「求められてはいません。ですが商売柄、観察は癖でして」

「勘違いするな。俺はただ——」


 ルキフェルは言いかけて止まり、言葉を探しているうちにヤンが追い打ちをかける。


「“ただ”? どう続くのです」


 ルキフェルは目を伏せ、観念したように息を吐いた。


「……放っておけないだけだ」

「そういうことにしておきましょう。ですが、忠告を。彼女は、あなたが思うより強い。守る側と決めつけるのは、失礼かもしれませんよ」


 ルキフェルの瞳が静かに揺れ、椅子から立ち上がった。


「余計な分析はするな」


 ルキフェルはヤンに背を向けるが、歩き出す前に一瞬だけ止まった。


「……剣よりペンか」


 ペンの一語が、ルキフェルの胸の奥で引っかかる。剣ではなく、ペン。ルキフェルの思考は自然とあの封筒へと戻った。旧ブルボン派の封蝋、濃い赤。そして中にあった返書。


 ——了解した。すぐそっちに向かう。


 短い文言だが、筆圧は強くインクは濃く、何より迷いがなかった。ただの事務的な連絡ではない、意志のある文字で。


 ——あれを書いたのは誰だ。


 ヤンは言った。エドガーの戦争の裏に、旧ブルボン派の影があるかもしれないと。ならば、あの返書を書いたのがエドガー本人だとしたら。戦争の引き金を引こうとしているのは思想に煽られた囲いではなく、海賊王を名乗ろうとする男そのものだとしたら。ルキフェルの背筋にぞわりと冷たいものが走る。あの筆跡は躊躇がなかった。命を動かす文字だった。ルキフェルはヤンを振り返った。ヤンは何も言わずこちらを見ている。すでに何かを察している目だ。


「出立前に悪かったな。色々と教えてくれて感謝する」


 ヤンは小さく会釈した。


「商売ですから」

「けど、俺が守るのは海だ。その海で暮らす奴も、戦う奴も含めてな」


 ヤンの目がわずかに細まる。ルキフェルの声は決意の温度を帯びていた。


「海の上では、王冠も王座も要らない」


 王も血筋も、旗印も。海の上に立つのは剣と誇りだけでいい。それ以上の正統性など必要ない。一瞬、ヤンの口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「……ええ。あなたはそういう人だ」


 ルキフェルは答えず踵を返した。扉へ向かう足取りは迷いがない。ルキフェルが灯りの外へ出た瞬間、夜風が頬を打った。桂花の香りはもう届かない、胸の奥にあるのは獣の熱ではない。エドガーが戦を起こすつもりなら止める。その裏に誰がいようと関係ない。海は誰の王座でもない。ルキフェルの背後で扉が閉まる。テラス席にはヤンだけが残され、彼は小さく息を吐いた。


「これは戦より厄介だ」


 剣を持つ男がペンの存在に気づいた。そして、支配という概念そのものを拒絶した。海が荒れる前兆はすでに始まっている。

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