第九章② 五人組
二日後、ソフィーが旅立つ前日。朝から彼女は落ち着きがなく、階段を駆け上がっては廊下を行き来し、荷をまとめては解き、また畳み直す。決断が遅れた分だけ、時間が追い立ててくるのだろう。宿の空気そのものがどこか急いている。
この日の夕方、ルキフェルは仲間と呑みに行く約束をしている。ジャスパーたちが二階で騒がしく出発準備をしている間、ルキフェルは一階の食堂に残っていた。窓から差し込む夕陽がテーブルの木目を赤く染めている。向かいに座るカルロータはいつもの余裕ある笑みを浮かべてグラスを傾けながら言う。
「もしサン・マロに行くことになったら、私たちを頼りなさい。宿の名前は『ラ・プティット・トゥル』にするつもり。いかにもでしょ?」
「いかにも、だな」
ルキフェルは眉をわずかに動かした。可愛らしい名の裏に情報が見下ろす場所を作るつもりなのだろう。
「サン・マロはすっかり自由港だ。前より荒れているかもしれない。妙な連中も増える」
「覚悟の上よ。それに、久しぶりに諜報活動ができるかもしれないわ。この感じ、危険な綱渡りみたいでゾクゾクする」
カルロータは楽しげに肩をすくめた。彼女の目はすでに次の舞台を見ている。ルキフェルは情報を扱う者特有の光だと思う。刃を振るう者とは違う。血ではなく、噂と密書と裏切りで盤面を動かす人種。危険を恐れないのではない。危険を愉しむ。
「……んで? ディッキーも行くのか」
「表向きは宿の従業員。裏では……まあ、あの“ぼったくり宝石商”にそんな裏側があったなんてね。お互い良いコンビになれると思うわ」
宝石商の顔と情報屋の顔、どちらも嘘ではないのだろう。カルロータはくすりと笑い、ルキフェルも小さく鼻で笑った。
「好きにしろ。ただ、足元は見誤るな」
「言われなくてもあなたもね、ルキフェル」
カルロータは椅子を引いて立ち上がった。夕陽が彼女の横顔を照らしている。輪郭は柔らかいのに影は鋭い。ルキフェルは背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「……やれやれ」
危険なゲームに酔う連中を横目に見ながら、自分は別の綱を渡る。落ちれば海だが、その海を守ると決めたのは自分だ。階上からジャスパーの笑い声が響くと、ルキフェルは立ち上がった。
「行くか」
今夜は嵐の前の酒だ。明日から世界が少しずつ動き始める。
酒場通りの喧騒は海風に煽られてさらに膨れ上がっていた。石畳にこぼれた酒が甘く匂い、ランタンの橙が人の顔を赤く染める。笑い声は高く、怒号は低く、どれもが夜を歓迎している。マテオの豪快な声が響き、誰かが肩を叩き、誰かが樽を転がす。祝いでもあり、弔いでもある夜。誰もが飲まずにいられない理由を抱えている。四人の仲間の少し後ろをルキフェルは歩いていた。暗褐色の髪に潮風を受けながら、通りの熱気をどこか遠くから眺める。情報か。エドガーに返事を寄越す前に整理しなければ、まだ分からないことが多すぎる。それに、旧ブルボン派とあの手紙の一文が妙に引っかかっている。
「了解した。すぐそっちに向かう」
誰が、誰に向かうのか。何を了解したのか。西の果てまで影が届くということはただの残党ではない。少なくとも名ばかりの亡霊ではない。政治か。口に出すほどの確信はないが、海賊の刃だけでは届かない領域があることは分かる。
「おいルカ、お前も何か飲まねえか? 今日ぐらいさあ……」
マテオが振り返ると、ルキフェルは小さく首を振った。
「……後で合流する。少し気になる店がある」
ルキフェルは調を緩め、通りの熱から外れた。笑い声が背中で弾け、ランタンの光が薄れていく。石壁の影が濃くなり、潮の匂いが強まった。
——リー・ウェンのところに行くか。
あの男は煙の向こうで世界を見ている。知らない顔をして知っている。旧ブルボン派について、何か一つでも掴めるなら。だからこそ、今は飲んで笑うより拾いに行く。酒場通りの喧騒はもう彼の背後で溶けていた。夜は深く、海は暗い。ルキフェルはその暗さのほうへと足を向けた。彼の様子を見送りながら、ジャスパーはふっと鼻で笑った。
「相変わらず、群れるのが嫌いなやつだな」
「ま、それでも一番強えんだから文句はねえよ」
マテオが言いながら近くの店の戸を勢いよく開け放つと、熱気と酒の匂いが一斉に流れ出た。
「ヨーロッパの情報が聞きてぇんだ!」
「なんか持ってるやつはいるか!」
四人は奥の席を探しながら歩き出したが、店の中央付近で足を止めた。壁に打ち付けられた大きなコルクボードの前に人だかりができている。釘で留められた紙片、手書きの張り紙、どこから流れてきたかも分からない噂話が届いている。
「……なんか殺気立ってるね。見てくる」
ニールが目を細め、好奇心と警戒が同時に灯る顔をした。誰も止める間もなく、彼は人混みに紛れ込むとコリンが腕を組んで鼻を鳴らす。
「まったく、遅れてやってくる情報に価値ってあるのかな。ヨーロッパの話なんて、この島に届くまで一、二ヶ月はかかるでしょ?」
ジャスパーが帽子の縁を押さえながら肩をすくめる。
「おいおい、お子様はジュースでも飲んでな」
「情報の価値は手にする奴が決めるんだ。新しいから価値があるとは限らねぇ。古いから無意味とも限らねぇ」
マテオが低く言い、コリンは「うーん」と唸りながらボードを見つめていた時、怒号が一斉に上がった。
「おい、何してる!」
「勝手に持っていくな!」
人垣が波打ち、押し返されるように一人の影が飛び出した。ニールだった。顔色が明らかに悪く、手に一枚の紙を握りしめたまま半ば引きずるように三人のもとへ戻ってきた。
「……これ」
ニールが震える指で紙を机の上に置くと三人が覗き込み、最初の一文を読んだジャスパーとコリンの動きが止まった。
《一ヶ月前 トゥーロン徒刑所にて/旧フランソワ海賊団 残党の一斉斬首》
「……なんて書いてあるんだ」
マテオの声はやけに遠く、ジャスパーが機械のように読み上げる。
「一ヶ月前……トゥーロン徒刑所にて……旧フランソワ海賊団……残党の一斉斬首」
言葉が落ちて音が消え、マテオの視界が白く染まった。ジャスパーが掠れた声で続ける。
「……具体的な日付は、書かれてないな。そういや他の連中がどうなったのか……おれたちは知らなかった。まさか、こんなことに……」
トゥーロン、フランス本土。逃げ延びたと思っていた連中が捕まり、そして……。マテオが拳で机を殴りつけ、鈍い音が店内に響いた。
「ルカに知らせるんだ!」
マテオは声を荒げニールが唇を噛んだあと呟く。
「でも、どこ行ったの……」
コリンがチラシから顔を上げた。
「たぶん、あそこに向かったと思う」
四人の視線が交わる。知らせなければならない。酒場の喧騒は続いているが、彼らの世界だけが温度を失っていた。この夜はただの飲み明かしでは終わらないと誰もが悟っていた。
ルキフェルが石畳の細い路地を抜けると酒場通りの喧騒が一段低くなった。怒号と笑い声は背後に遠ざかり、代わりに潮の匂いとどこか甘い香の気配が混じる。通りの端に店はあった。控えめな木製の看板、揺れるランタンがひとつ、外壁には東洋の意匠を焼きつけた陶板が嵌め込まれ、波のような文様が薄い灯りに浮かんでいる。店の奥には海風が抜ける小さなテラス席。
「ちゃんと店になってるな」
かつての仮住まいの気配は消え、そこはもう情報屋の仮の隠れ家ではなく、ひとつの顔を持った場になっていた。ルキフェルが扉を押すと、室内の客はまばらで声も低く、杯が触れ合う音もどこか遠慮がちだ。ルキフェルは迷わず奥のテラスへ視線をやると、ランタンの淡い光の下で黒檀色の髪を後ろで結った男が茶を啜っていた。
「来ましたか」
ヤンの声に応じ、ルキフェルは歩み寄って柵沿いの席に腰を下ろすと、海から吹き上げる夜風が腰に巻いた赤いサッシュの裾を揺らした。ヤンは微笑を浮かべるが、彼の目は油断なく細めている。
「やあ、ルキフェルさん。あなたがここを訪ねてくるとは、少し意外でした」
「知りたいことがある」
ルキフェルは背もたれに身を預けて腕を組むと、店の者が彼に近づいた。
「ご注文は」
「紅茶を」
酒を頼む気はなかった。頭を鈍らせる暇はない、浮かれる夜でもない。手元に何かがあればいい。ルキフェルと店主の間に注文が伝わるのを見届けてから、ヤンが問いを投げた。
「で、今回は“どの国の話”を?」
「フランス海軍の動向。それと、旧ブルボン派と新政府の関係だ」
ルキフェルは目を細めると、ヤンはにこやかに笑った。
「やはり戦の匂いを感じていますか。最近、同じ目をする人間が増えました。あなたもその一人、ということですね」
「この島での動きと無関係とは思えない。エドガーは動く。あいつが向かう先にフランス海軍がいるなら、知らずにいるわけにはいかない」
ヤンは懐から革張りの手帳を取り出し、数枚の紙を抜き取って机の上に並べた。ランタンの光に照らされ、港の配置図や艦隊の印が浮かび上がる。
「先月、マルセイユ港で目撃された艦隊の配置。王党派の極秘集会の噂。そして……」
ルキフェルは指先で紙の端を押さえ、資料に目を落とした。
「……旧ブルボン派の復権。あるいは、それを利用する貴族連中。どちらにせよ、均衡は崩れつつある」
「その通り」
均衡という言葉が剣舞の残響のようにルキフェルの胸の奥で反響する。ヤンは茶杯を傾けた。
「ただし、どちらにも味方するふりをしながら、それぞれを天秤にかける奴もいます。混沌の中では、真実を語る人が一番早く殺されるので」
ルキフェルは少しだけ目を伏せた。視線が落ちた先で、ランタンの光が茶器の縁をかすめて揺れる。
「……それでも、誰か一人でも救えるなら真実を掴む価値はある」
彼の胸のどこかが熱を帯びていた。誰か。その像は輪郭を持たないはずだった。守るべき仲間、海、均衡、自由。だが、一つだけ鮮明な色が浮かぶ。銀色の髪、潮風の中で笑う横顔。そして、あの瞳。ルキフェルの目元が柔らかく緩むと、ヤンが目を細めた。
「“誰か”? あなたがそんな言葉を口にするとは、珍しいですね」
「……ただの昔話だ」
ルキフェルは肩をすくめたが、口元に浮かんだ微笑はどこか柔らかすぎた。ヤンは含みを持たせて言う。
「あなたの“誰か”が、戦の向こう側にいることを祈りますよ」
戦場の男でも、刃を握る時の冷えた表情でもない。あの日、波止場の石段で肩が触れそうな距離で座っていた時と同じ、どこか不器用で少しだけ熱を隠しきれない顔だ。
——その瞳も好きよ。
ルキフェルの脳裏に蘇る声はやけに鮮明だった。綺麗だ、透き通っていると。見ていると魅入ってしまうと。あの時、ルキフェルの胸の奥で何かが解けた感覚を今も忘れていない。ちょうど店主が素朴な陶器のカップに注いだ紅茶を運んできた。湯気が立ち上って灯りの中で揺らめく中、ルキフェルは三本の指で縁を支え、残りは添えてカップを手に取った。
「……この香りは」
「桂花茶。中原の花を乾かして混ざってます。あなたの好みかは知りませんが」
淡い金色の液面が灯りを受けて光る。金。思い出すのは海辺で見た夕陽の色の光を受けた、スザンヌの横顔。ほんのり甘い香りが立ちのぼるが、奥には微かな苦味が潜んでいる。あの日の別れのように。ルキフェルは一口だけ口に含んで喉を鳴らした。香りが抜ける瞬間、彼の胸の奥に澄んだ余韻が広がると、茶に向けた評価であると同時に記憶に向けた呟きを漏らした。
「……悪くない」
「それは良かったです」
ルキフェルは胸の奥に残る甘苦さを確かめるようにもう一度カップを傾けた。桂花茶の湯気が夜の海風に溶けていく。
「紅茶とは意外です。てっきり、もっと強い酒でも引っ掛けに来たのかと思いました」
ヤンがくすりと笑った。ルキフェルは涼しい顔で言い返す。
「夜間とはいえ酔っ払うほど暇じゃない。こっちは情報を聞きに来てる」
「はいはい。わたしが集めてる範囲では、北海方面は特に動きなし。けど、王都からの命令が不自然に多いとは感じてます」
「ふうん……そいつは不気味だな」
王都からの命令が増える。中央が焦れている証か、それとも何かを急いでいるのか。ルキフェルが眉を顰めかけた時、通りに面した扉が勢いよく開いてニールが飛び込んできた。
「ルキフェルッ!!」
彼の後ろにマテオ、ジャスパー、コリン。四人とも酒場帰りの浮ついた顔ではない、明らかに血の気が引いている。
「なんだ騒々しい、飲み屋じゃなかったのか」
「それどころじゃないんだ!」
ニールは手にした一枚の紙を、ルキフェルの目の前に突き出した。掲示板から引き剥がしたばかりなのか、端が破れている。ルキフェルの視線が紙と黒インクの見出しに釘付けになり、文字を追うごとに瞳の奥の色がわずかに沈んでいった。
「残党って……」
「仲間達だ。逃げのびたと思っていたけど、一ヶ月前に捕まって処刑されたんだ」
「しかもわざわざ“見世物”みたいな場所で処刑するなんて……新王党、やることが派手だよ」
ニールとコリンの声は震えていた。ルキフェルは黙って紅茶のカップをテーブルに置くと陶器が木目に触れ、小さな音を立てた。ルキフェルは息を詰めて文を読み直すと、張り紙の一文に目が止まる。
民衆の名において、“正義”の剣を振るう。国王陛下のお言葉。
「……やっぱり、あの王様は本気らしいな」
ルキフェルの呟きは低く、感情を削ぎ落とした響きだった。海を統べるどころか、陸まで血の匂いが強くなっている。しばし沈黙が落ち、ヤンが口を開いた。
「——なぜ、彼らが捕まったのか。興味ありますか?」
マテオが片眉を上げ、ジャスパーの口元が引き締まる。ルキフェルの瞳が細まった。
「話してみろ」
ヤンは手帳を広げ、指先が紙の端をつまんだまま止まった。
——“自分がさも手に入れたかのように語れ”。
かつて叩き込まれた内部規則が喉の奥にひっかかる。情報の出所を匂わせるな、組織を滲ませるな、人格を持つな。ヤンは一呼吸置いてから顔を上げた。
「場所は南フランス、トゥーロン。海軍の地方司令部を、旧フランソワ派の生き残りが奇襲したそうです。理由は明白、『フランソワを殺された復讐』だとか」
「……は?」
マテオが声を漏らすが、ヤンはその場に自分がいたかのような調子で淡々と続ける。
「わたし、少し前に牢で彼らと会ってきました。といっても、もう数時間も話せる状況ではなかった。尋問が続いて、衰弱していた。でも……どうして復讐なんて考えたのか、それだけはどうしても聞いておきたくて」
テラスを抜ける風が紙ナプキンを揺らす。誰が仲介したのか。どうやって面会を通したのか。そんな疑問はこの場の誰も口にしない。五人は知っている。情報屋の仕組みに首を突っ込むのは野暮だということを。重要なのは語られている中身だけだ。
「返ってきた答えはこうでした。『わかっていた。無謀だと。でも、あの人がいなくなって、俺たちにはもう『海』も『居場所』もなかった。ならせめて、剣を持って死にたかった』と。 処刑を待つより、戦って死にたかった。彼らは、最初からどこへも戻る気なんてなかったんです。捕まったことを……恥じていました」
「……馬鹿だよ。そんなの、ただの自己満足だ」
「そうですね」
コリンの声が掠れている一方、ヤンの語り口に余計な感情はないが、どこか微細な揺らぎがあった。人格を持つな、そう教えられてきたはずなのに。
「でも、それでも彼らは最後まで海賊であろうとしたんですよ。フランソワの残党として」
ルキフェルはゆっくりとカップを持ち上げると桂花の香りが再び立ち上った。復讐。彼らも、自分と同じ場所に立っていたのか。奪われた怒り、失った居場所、海という名の拠り所を抱えたまま剣を取った。無謀だとわかっていながら感傷に浸る暇もなく、血と鎖の中で終わったのか。ルキフェルの喉が鳴って熱いものが胸の内側を通っていき、瞳の奥に冷たい海底のような光が宿る。剣を持って死にたかった。その衝動の形を、ルキフェルは否定できないが同時に思う。死にに行くことは自由ではない。
一方、ジャスパーは紅茶の湯気の向こうを見つめていた。復讐という言葉を耳にした瞬間、彼自身の中で別の問いが浮かんだ人の命を奪い合うことだけが復讐なんだのろうか。三年前の港の匂いが不意に蘇る。潮の湿気。鉄の匂い。そして、布を裂く音。黒い影が駆け込み、ベルナルドの背に刃が沈んだ瞬間、叫ぶより早く身体が凍りついた。自分の声があんなにも遠く聞こえたことはなかった。紺色の服、暗がりに溶ける軍装。あれは偶然でも、事故でもない。奪われたのだ。仲間を。あの時、自分たちは何もできなかった。錨が上がり、帆が風を孕み、港が遠ざかる。コリンが甲板で泣き叫び、ニールはベルナルドの名を叫んだ。そして、港の惨状。あの時、ジャスパーの胸に生まれたのは怒りだけではない。置いていったという感覚と守れなかったという事実。沸々と湧いた記憶は長く胸の奥で燻り続けた炭のような色をしている。その色を指でなぞるうち、ジャスパーは思わず言葉を溢した。
「……でも、おれたちは、復讐する相手を知ってる」
復讐する相手を知っている。誰かを殺したいという意味ではなく、あの無力の正体を知っているという意味だ。現実に刃を向けた男の名前を知っているという意味。だから、ジャスパーは今ここでそれを口にした。彼の言葉にマテオが眉を顰める
「いや待てよ。フランソワは……殺されてねえだろ。ソフィーは自殺だって」
ジャスパーは制すように首を振った。
「ちがう。……もう一人いるじゃないか。かつての、おれたちの仲間。忘れたのか? あいつは……おれたちの目の前で殺されただろう?」
沈黙の中、誰もが同じ港を思い出していた。ルキフェルはカップをそっと置いた。三年前の甲板、自分も叫んだはずだが、声は届かず船は出た。フランソワは正しかった。仲間を守るための判断だった。それでも、自分は置いて行った。守れなかった一人の背中。あの時、胸に空いた穴は塞がっていない。ルキフェルの瞳がわずかに伏せられる。
「……そういえば、いたな」
ヤンがわずかに目を細める。ベルナルドという名に、記憶の断片が引っかかる。マクシム隊にそんな名の軍医が以前いた気がする。断片的な情報が彼の脳裏を掠めた。
「ベルナルドという名の男ですね」
ルキフェルがさらに目を伏せ、マテオは拳を握った。ニールは表情を曇らせ、ジャスパーだけがまっすぐに前を見ていた。
「そうだ。ベルナルド・シルバ。マクシミリアンに殺された。あの時のおれたちは……何もできなかった」
そして、全員の脳裏に同じ光景が重なる。
「殺すなら、早く殺せ」
血に濡れながらも、あの男は言った。
「いや、そうはいかない」
その後に広がったのは戦いではない、弄ぶ暴力だ。あの時、燃えた怒りはまだ消えていない。誰もがあの日を覚えている。ベルナルドの死は終わっていない。ルキフェルは紅茶に目を向けたまま口を開いた。
「……あの頃は私掠免状を剥奪されて、大混乱だった。どこもかしこも裏切りだらけで、何を信じりゃいいのかわからなかった。あの男、ベルナルドはそんな中でも、俺たちにとって有益な情報をいくつも寄越してくれた。海軍の動き、補給線の穴、そして……王宮の内情まで」
ジャスパーが目を伏せ、ニールとマテオ、それにコリンも息を呑む中で、ルキフェルが顔を上げた。
「そういえば。なぜ、奴が殺されなければならなかったのか。俺たちは、知らないままだ」
違和感だ、ぽっかりと残った空白。戦場では理由を考える暇などないが、時間が経った今、そこだけが異様に浮いている。なぜだ、あれは偶発だったのか。それとも、意図だったのか。マテオが肩を鳴らした。彼の目は燃えていない。むしろ冷えている。
「なら、確かめに行くか? オレたちも。復讐ってのは、ただの怒りじゃない。筋を通すための行為だ。オレたちが黙ってるのは筋が通らねぇ」
ルキフェルは視線をマテオにやった。筋。海賊は無法者だが、筋だけは外さない。それが誇りだ。ニールが続くように言葉を紡ぐ。
「処刑された仲間たちも、たとえ無謀だったとしても、仲間のために剣を振るった。……ベルナルドもそうだったはず」
「ベルナルド、ちゃんと名前で呼ぶの、初めてだ。でも……覚えてる。いい人だった。いつも、優しかった」
コリンが頷きながら言った。優しかったという言葉が彼の胸に落ちる。殺される直前まで毅然としていた男。あれは覚悟だったのか。それとも守るための虚勢だったのか。自分たちは理由を知らない。それが、どうしようもなく引っかかる。ルキフェルはゆっくりと立ち上がった。椅子の脚が石床を擦る音が妙に大きい。
「——フランソワのために。同胞たちのために。そして、ベルナルド・シルバのために。……やってやろうじゃねぇか。復讐ってやつを」
暴力で返すのではない。覆われたものを剥がす。隠された理由を暴く。奪われた名誉を取り戻す。それが彼らなりの復讐。テラスの向こうで波が砕けた。ヤンは黙って見守り、五人の視線が互いに交わる。もう怒りに流される子どもではない。彼らは知っている、復讐とは刃を振るうことではなく真実に辿り着くまで退かないことだと。ルキフェルは立ったまま仲間たちを見渡した。彼の胸の奥で何かがざらついていた。復讐という言葉を口にした瞬間、どこか懐かしい熱が喉の奥を焼く。あの熱を彼は知っている。理性を追い越して走る衝動、刃を抜くことだけが正しいと錯覚させる、甘い暴力の衝き上げ。それを押し殺すようにルキフェルは口を開いた。
「……だが、お前たちも覚えておけ。マクシミリアンが行った数々の業。もし、それがこの先、明らかになったなら……俺はこの手を、奴の血で染める覚悟だ。如何なる理由があろうとも、な」
彼の言葉の温度が落ちたのを四人は即座に察した。ルキフェルは言い切った瞬間、内側で何かが嬉しそうに笑っている。やれ、正直になれと。
——ああ、危ないな。
ルキフェルが自覚した途端、最初に応じたのはマテオだった。彼はいつものように肩を竦め、唇の端を上げるが目は笑っていない。
「その点については、心配すんな。……なあ、ルカ。お前にとって“人を殺す”ってのは、手に持ってた杯を机に置くくらい容易いことだろ?」
ルキフェルはほんの一瞬だけ眉を寄せた。
——こいつ、何言ってんだ。
だが、マテオの瞳の奥にある意図をすぐに悟った。肯定でも煽りでもない、牽制だ。
——お前だけじゃない、オレもできる。見てきただろ。
マテオは笑いながら刃を向けている。暴走するなら止めるぞ、と。ルキフェルは内心で舌打ちした。人を殺すことを、そんな風に喩える奴を他に知らなかった。杯を置くくらい容易い。軽い、残酷なほどに的確だ。そして、腹立たしいほど助かる。自分は言葉にするのが下手だ。怒りも衝動も、いつも剣に変換してきた。だが、こいつは言語化する。笑いながら刃の輪郭を示す。
——こいつが隣にいるから、俺はまだ踏みとどまれる。
ルキフェルは諦めたようで、どこか安堵したような表情で目を伏せると、ジャスパーが口を開いた。
「ま、どのみち戦うんだ。だったらおれたちも、一緒に地獄まで付き合ってやるさ。なあ?」
軽口の形をしているがその実、逃げ道を塞いでいる。「ひとりで堕ちるな」という意味で。ニールも頷く。
「この道を選んだのは、僕らだ。マクシミリアンが何をしていたのか、それを知ったとしても後悔はしないよ」
コリンは拳を握りしめる。
「ぼくも……ついていく。最後まで、一緒に戦う」
逃がさない。置いていかない。堕ちるなら、全員で。それが彼らの答えだった。ルキフェルが空のカップを机に置いて乾いた音が鳴った瞬間、胸の奥で暴れかけていた獣が息を潜めた。助けてくれと言う代わりに、怒りを語るため振り返って続けた。
「それに……フランスの国王に言ってやりたいんだ。お前の正義なんかのために、大事な者を奪われた奴らの怒りも、憎しみも、悲しみも……お前は全く分かっていないってな」
ルキフェルの胸の奥で何かが再び鎖を鳴らした。怒りというより、もっと原始的なものだ。理性の下に押し込めていた獣が唸り声を上げる。奪われ続けた者の声だが、それ以上に守りたかった者を守れなかった息子の声だった。
「あいつのくだらない“正義”なんかのために、フランソワは狙われたんだ。フランソワは、あの人は海賊として立派に死んだ。だが見方を変えれば、あいつらに殺されたようなもんだ。どれだけ信念を貫いても、結局“悪”と決めつけられて火にくべられるのが、あの国の“正義”なんだよ」
あの人は。ほんの一瞬だけ、声がわずかに揺れる。育ての親。血は繋がっていなくとも、生き方を叩き込んだ男。海の上で立つ意味を教えた男。その背中を、国王の一言で“悪”と断じられた。悪。その言葉がルキフェルの胸の内で反響する。
——悪だと?
鎖がきしみ、首輪を嵌められた獣が鎖ごと引きちぎろうと暴れ回る。あの男の生き様を、あの背中を、あの覚悟を、紙一枚で“悪”にする。それを正義と呼ぶ。ルキフェルの喉の奥が焼け、言い終えた時にはひどく乾いていることに気づく。本当は、もっと叫びたかった。机の縁を掴む指先にわずかに力が入り、木材が軋んだ。落ち着けと命じても、内側では獣がまだ暴れている。父を侮辱された息子の怒り。は理屈では鎮まらない。もし王の前に立てば、もし今、刃を抜けば鎖は簡単に千切れるだろう。その一歩手前で、彼は止まっている。止まれているのは四人の視線があるからだ。木材が軋む音に気づいていたマテオが即座に頷く。
「全くだ。あいつにとっちゃ、オレたちはただの『悪』のレッテル貼られたゴミみてえなもんだろうな。何も見ようとしないで、全部の首を刎ねれば制裁完了ってわけか」
「“正義の名のもとに”なんて言っときゃ、どんな惨たらしいことしても許されると思ってやがる。たち悪ぃぜ、そういう奴が一番」
ジャスパーが苦笑し、ニールが時折乾いた笑いを溢しながら言う。
「青いよねぇ、フランスの国王。まるで世界が善悪だけで回ってるとでも思ってる子供だよ」
コリンがぽつりと言葉を落とした。
「正義って、なんなんだろうね。人を殺しても、それが“正しい”って言われるなら……ぼくには、それ、ただの暴力と変わらない気がするよ」
ルキフェルはゆっくりと息を吐いた。怒りの熱がまだ胸の奥で燻っている。喉は乾き、呼吸は浅い。自分の内側で鎖が軋む音がする。まだ暴れていると自覚しているからこそ、彼は息を整えた。
「だが、それでも俺が無益な殺生をしようものなら、——誰か、全力で止めろ」
ルキフェルの目は真剣だったが、同時にどこか危うい。自分が自分を信用していない目だ。理性が外れたときの自分を誰よりも知っている目。マテオがすぐさま動いて義手の腕をルキフェルの肩に回した。金属と革の重みが現実としてのしかかる。冷たい。無機質な感触が逆に今ここにいるという事実を突きつける。
「それも心配すんな。オレたちは、そういう役回りだ」
マテオの口調は軽いが、義手の圧は強い。ルキフェルは一瞬だけ眉を寄せたが、義手の冷たさが鎖の軋みをわずかに静める。続いて、ジャスパーが肩を竦めると何の遠慮もなく、ルキフェルの頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
「またボコボコにしてやるよ。この間みたいにな」
この間、甲板に叩きつけられた日だ。四方から殴られ、押さえ込まれ、共に泣き崩れた時のこと。あの日、本気で止められなければ自分はここにいない。あるいは、本当に取り返しのつかないところまで行っていた。ルキフェルは髪を乱されたまま目を細めた。
「……ああ、頼む」
あの日、殴られた熱がなければ今、自分はもう獣だった。ニールが近づき、涼やかな青い瞳でルキフェルの肩に手を置いた。
「大丈夫。君はちゃんと戻ってくる」
コリンは真正面から見つめる。まだ若いが、目は逃げない。ルキフェルが拳を差し出すと、コリンは拳を軽く突き合わせてきた。ルキフェルはわずかに呼吸を整えて鎖の音を遠ざけると四人を見渡す。
「しばらく自分探しは中断だ。気になることは色々あるけど、まずはエドガーを止めなければ」
「……決断、出せたか」
誰もが驚きと感嘆の吐息を漏らす中、ジャスパーが小さく呟いた。ルキフェルは頷き、言葉にするたび声が熱を帯びていく。
「戦争には参加しない。あいつが海の王になるつもりなら、俺は止めたい。海が真っ赤になるなんて耐えられない。フランソワが昔、言ってたんだ。自分にとって自由は、海そのものだって。俺は海を守りたい。お前たちも守りたいし……」
一瞬、ルキフェルの言葉が止まる。喉元まで出かかった名前、スザンヌの形を作ろうとした唇がわずかに動いたが、すぐ飲み込んだ。四人が同時に同じ方向へ首を傾げる。完全に気づいている顔たちを、ルキフェルは無視した。
「とにかく、俺はフランソワの意志を継ぐためにも剣を抜く。守るためだ。これが俺の決断、俺の自由。戦争を止めたら、ベルナルドの死の真相を探ろう。自分探しを中断してでもベルナルドのことを優先したい。……なんにせよ、まずエドガーに会うのが先決だ。この方針に異論はないか?」
「異論? ないな」
「海の王様気取りをぶん殴るんだろ? 面白ぇじゃねえか」
ジャスパーが笑い、マテオが肩を鳴らす。ニールが頷き、コリンが拳を握る。
「理屈も筋も通ってる。賛成だ」
「やろう! 最後まで」
五人の視線が交わる。逃げ場はないが、誰も逃げない。獣はまだ胸の奥にいるが、今は四本の鎖が繋がっている。ルキフェルは言った。
「……行くぞ」
この夜、五人は同時に覚悟を決めた。戦争の前に、海を守るために。そして、失った名を取り戻すために。テラス席にしばし沈黙が残った。五人の決意が交わったあとも桂花茶の香りだけが漂っている。




