第九章① ルキフェル
夕食後の食堂はいつもより静かだった。酒と煮込みの匂いがまだ残る空間に、五人だけが取り残されたように座っている。蝋燭の火が揺れ、影が壁をゆっくりと舐めた。ソフィーの姿はない。彼女は皿を片付けると「おやすみ」とだけ告げて階段を上がっていった。
ここ数日、彼女は人前にいる時間を意図的に削っているようだった。ルキフェルたちも引き止めなかった。信頼していないわけではないが、これは自分たちの話だ。苦楽を共にした時間、血と塩と火薬の匂いが染みついた記憶の延長線上にある「自分探し」だ。無意識のうちに線が引かれていた。踏み込ませないためではない、踏み込ませない方がいいと思っただけ。テーブルの上には蝋燭と空の皿、そしてルキフェルの拳。ニールが腕を組み、ゆっくりと息を吐いた。
「……つまりフランソワは君のために秘密を徹底してたってことだね」
ルキフェルは視線を落としたまま、マテオがグラスを指で回しながら低く呟く。
「ゼフィランサスの名を出させないために羅針盤まで捧げた……か」
「しかもエドガーも同じ島の出身で全部知ってる可能性あるって……情報量、えぐくない?」
コリンがまだ少し整理が追いついていない顔で口を挟み、ジャスパーは椅子にもたれて天井を見上げた。
「で、ゼフィランサスはお前に名前をくれて、フランソワは秘密を封じた。エドガーは今、復讐に燃えてる。お前、今どんな気分?」
ルキフェルは指先で無意識にテーブルを叩いていた。
「……わかんない。嬉しいのか、腹立ってるのか、悲しいのか……全部、混ざってる」
蝋燭の火が揺れ、ルキフェルは目を瞬かせて顔を上げた。
「でも、一つだけはっきりした。フランソワは俺を守ろうとしてた。これだけは確かだ」
「……じゃあ、君はどうしたいの?」
ニールの問いにルキフェルは一瞬だけ扉の方を見て、上の階のソフィーの部屋を意識したが、すぐに仲間へと視線を戻した。
「まずはエドガーだ。戦争だの復讐だの、その前に俺はあいつから聞く」
マテオが鼻を鳴らす。
「止められると思うか?」
「止めるかどうかは知らない。でも、聞かなきゃ進めない」
蝋燭の炎がぱちりと弾け、ルキフェルはその火を見つめていた。揺らぐ橙の芯の奥にまだ名も持たぬ誰かの輪郭を探すように。
「長老にあれだけ大口叩いたのに、いきなり実の父かもしれない男と……故郷かもしれない場所まで出てきた」
ルキフェルは懐から銀の羅針盤を取り出して蓋を開いた。中には、あの日フランソワがねじ込んだ石。針はその石に阻まれ、いまだに動かない。石を外せば真実は動き出すのだろう。一瞬だけ指先が石に触れかけるが、すぐに離した。
——フランソワが止めたものを俺が勝手に解いていいのか。
「怖いか?」
ジャスパーは天井を仰いだまま続ける。
「まあ、怖いよな。何も言わないだけで」
……こいつはほんと、なんでもお見通しだな。
ルキフェルは羅針盤の蓋を閉じると金属が触れ合う音がやけに乾いて響いた。
「ますます分からないな。フランソワがここまでして秘密を隠していた理由。それに……俺の師匠と先導者も。何も知らなかったはずない」
ルキフェルの背後で、窓の外を見ていたマテオがゆっくり振り返る。
「なあ……ずっと気になってたんだ。今までの情報を整理すれば、ルカがエル・イエロ島出身の可能性はあるが……説明つかないこともいくつかある」
ルキフェルは無意識にグラスを取った瞬間、マテオの声が鋭く割り込んだ。
「所作が綺麗なんだよ」
グラスがルキフェルの口元でピタリと止まった、ステムを三本指で持ち、指は揃い、角度はわずかに内へ傾けられている。
「島育ちがどんなのかは知らねえが……その持ち方はどこで覚えた?」
「知らねえよ。普通だろ」
「“普通”なんて言葉が罷り通る世界じゃねえだろ、オレたちは」
親友の言葉に対してルキフェルの口から整った所作とは裏腹に舌打ちを交えたが、マテオは淡々と続ける。
「所作はな、人を一番裏切らねえ。言葉より正直だ」
ジャスパーもニールも黙ったまま俯き、コリンだけが視線を二人の間で往復させている。マテオは顎でルキフェルのグラスを指した。
「まず……グラスの持ち方。貴族の女によく見られる仕草だ」
「は?」
ルキフェルが反射的に振り返るが、マテオは動じない。
「オレは何軒も貴族の屋敷に潜り込んだことがある。ニールも気づいてるはずだ。それは身体に染みついた教育だ。島で育った多民族集団なら二言語習得は分かる。フランソワとエドガーが証明だ。だが、一度身についた所作は消えねえ。何が言いたいかっていうと……ルカ。お前、島出身ですらない可能性がある」
蝋燭の火がふっと揺れ、ルキフェルはまだグラスを持ったまま低く言った。
「そんな重大なこと、なんで今まで教えてくれなかったんだ」
「船の上は基本ジョッキだろ。細いステム付きのグラスなんか、ここじゃ滅多に出てこねえ。今回が初めてだ」
マテオは肩をすくめ、ニールも頷いて口を開く。
「それに、テーブルマナー自体は前から綺麗だよ。ナイフとフォークの持ち替えも自然だし、肘も張らない。パンのちぎり方も丁寧だ」
ルキフェルは顔を顰めた。
「……普通だろ」
「“普通”は人によって違うんだよ。少なくとも、島育ちの荒くれ者の“普通”じゃない」
ニールが淡々という横で、ジャスパーが肘をつきながら笑った。
「うん。十年前からそう。お前だけ妙に上品だった」
「は?」
「飯の食い方、酒の飲み方、立ち上がるときの椅子の引き方。ずっと変わってない」
「……なんでチーズ切るのだけは上手いの?」
コリンがぽつりと呟くと、ルキフェルは一瞬だけ視線を落として吐き捨てるように言った。
「……フランソワと師匠との生活の延長線上で覚えただけだ」
「じゃあ料理経験はほぼゼロだね」
ニールの断言にマテオが盛大に吹き出した。
「ははっ、確かに! 切るの専門かよ!」
「うるせえ」
ルキフェルの眉間に皺が寄り、コリンが慌ててフォローに回る。
「で、でも、チーズの切り分けは完璧だよ!? 均等だし、崩れないし!」
「そこ評価されても嬉しくねえ!」
食堂にささやかな笑いが落ちるが、蝋燭の火は揺れたままだ。笑いが落ち着くと、ルキフェルは銀の羅針盤は再び懐へ収め、ジャスパーが椅子を軋ませながら足を組み替えた。
「で、どうすんだよ。エドガー、そのうち来るんだろ?」
「フランス海軍相手に戦争か」
マテオがため息をつくとルキフェルの肩に手を置いた。
「誘われたんだってな」
ルキフェルの翡翠の瞳の奥で蝋燭の火が揺れる。
「……エドガー戦争への返事もしなければ。……避けられない」
ルキフェルは一度言葉を切り、仲間たちを見回した。
「お前たちはどうしたい?」
ジャスパーが顎に手を当て、ゆるく首を傾げて考えてから肩をすくめた。
「……参加したところでフランソワが帰ってくるわけじゃない。海に身を投げたっていうソフィーの証言が覆るわけでもないしな」
ニールは黙って頷き、マテオは腕を組み、コリンは不安げに唇を噛んでいる。やがて、ジャスパーは真っ直ぐルキフェルを見た。
「お前が決めろ。自分探しも戦争も、全部ひっくるめてだ。おれたちは、お前と一緒にいたいだけだから」
飾り気のないジャスパーの本音に、ルキフェルは何も返せなかった。言語化できずにいた感情を唐突に掴まれたような感覚。怒りも、迷いも、未練も、全部見透かされている。彼は視線を落とし、長い沈黙のあとで掠れた声が溢れ落ちる。
「……わかった、必ず結論を出す。それまで待っていてくれ」
誰も茶化さず頷いた。火はまだ消えていないが、今は暴れてもいない。選ぶのは彼だ。そして、彼の側には変わらず四人がいる。
昼の浜辺は妙に静かだった。トルチュ島の陽は容赦がなく、白く焼けた砂が光を跳ね返し、海面は刃物のようにぎらりと瞬くが風は弱い。帆を張るほどの勢いもなく、ただ水面を撫でるだけの浅い呼吸。ルキフェルは靴を脱いだまま歩いていた。足裏に伝わる砂の熱さが現実を教えるように心地よい。波が寄せては引き、寄せては引く。嵐ではないが、凪でもない。一定に見えてどこか荒れている。まるで今の自分みたいだ。仲間の前では「結論は出す」と言ったが、出せる気配がない。自分が何者なのか。その問いが波のように何度も頭を打つ。波は一定の間隔で寄せては返す。その規則正しさが、かえって苛立たしい。
——俺は、誰だ。
砂を踏むたび足跡が刻まれ、すぐに波にさらわれて消える。名前を与えられた瞬間のことを思い出していた。“ルキフェル”。あの黄金の瞳が放った、断定の響き。あれは祝福だったのか。それとも、別の何かだったのか。それ以前の自分は何者でもなかった存在か。それとも、何かを失った存在か。ゼフィランサスは、自分を知っていた。フランソワは自分の記憶を封じた。二人とも何かを隠していた。それを全て自分一人のためだと言う。
「だったら俺は、どれだけ危うい存在なんだ」
白い泡を含んだ波が彼の足先を濡らした。
「エル・イエロ島か」
島の名を口の中で転がしてみる。懐かしいような、知らないような、奇妙な感覚。だが、島はどこだ。座標も分からない場所へ向かうなどただの夢想だ。現実にいるのはエドガーだけ。あいつは生きている。あいつは知っているが、その口を開かせるには戦争への返答がいる。
——また復讐か。
一度、獣になった。血に濡れ、怒りに呑まれ、理性を削り落とした感触は、忘れていない。あれを、もう一度選ぶのか。仲間は自分についていくと言った。それは信頼だが、同時に重い。もし自分が復讐の航路を選べば、彼らはまた血を浴びる。自分のために。……意味はあるのか。フランソワは死んだ。海に身を投げた事実は変わらない。戦争を起こして何が戻る。自分は何を取り戻したいのか。波が砕け、ルキフェルは砂の上に立ち止まって遠くの水平線を見た。
——海は変わらない。俺だけが揺れている。どこへ向かうのかも分からぬまま、ただ波に押されて漂っている木片のようだ。
「……ルキフェル」
自分はこの名で進むのか、それとも——。答えはまだ出ない。白い浜辺に長い影だけが伸びていった。
ルキフェルが宿に戻る頃、陽は傾きはじめ、白く焼けた壁に薄い影が伸びていた。ルキフェルは誰とも目を合わせず、階段を上がると軋む木の音がやけに乾いて響いた。自室の扉を開けると、薄暗い室内に窓から差す光の帯が壁に掛けられた剣を照らしている。ルキフェルが手を伸ばして柄を握ると、ひやりとした感触が掌に馴染んだ。机に放っていた剣帯を無言のまま締めると金具が触れ合う小さな音が部屋の空気を震わせた。それから、ルキフェルは再び階段を降りて食堂に足を踏み入れた。食堂ではジャスパーが椅子を揺らし、マテオは窓の外を見ている。ニールは帳面を閉じ、コリンはパンの端をいじっていた。ルキフェルは立ち止まらず、「中庭にいる」とだけ告げて玄関を出た。
扉が閉まる音が夕方の空気に溶け、石畳の隙間から伸びた草が風に揺れている。空はまだ青いがどこか柔らかく、夜の気配を孕んでいた。ルキフェルは中庭の奥の方へ歩き、人目の届かない場所で立ち止まると目を閉じた。足の裏に伝わる石の硬さ、その下にある土の重み、大地の沈黙。風が頬を撫で、遠くで海が鳴り、布がかすかに揺れる。呼吸を整え、吸って吐く。思考を追わない。問いも答えも一旦手放して立つ。風が背中を抜け、胸の奥に溜まっていた騒めきが少しずつ沈んでいった。揺れの中心に静かな芯がある。しばらくして、ルキフェルは目を開いた。夕陽が斜めに差し込み、石畳を橙色に染めて自分の影を長く伸ばしていた。
「まずは基本から」
ルキフェルは足を半歩開いて膝をゆるめ、重心を落とすと両腕をゆっくりと持ち上げた。空気を掬うように、波をなぞるように押し、引き、沈め、巡らせると一つ一つの動きが途切れない線になる。まずは己の軸。呼吸と重心を合わせる。足裏から腰へ、腰から背へ、背から指先へ。余計な力を抜くたびに内側のざわめきが形を変え、ゆっくりと円を描く動作の中でルキフェルは目を細めた。風が袖を揺らし、石畳に足音が刻まれる。基本の型は単純で飾り気がなく、逃げ場もない。だからこそ、誤魔化せない。ふいに、空気の密度が変わった。風向きが変わったわけでもないが、視線というものは気の流れを乱す。ルキフェルは動きを止めて横目をやった。
宿の外堀の向こう、石橋の欄干にもたれるようにしてヤンがこちらを見ている。表情は読めない、観察する目をしている。興味か偵察か、あるいは好奇心か。どれでもいい。ルキフェルは視線を戻すと足裏で地を踏み、重心を沈めて吐息を落とした。
「……勝手に見てろ。俺は今、自分を見たいんだ」
幼少の記憶が浮かび上がる。小さな手、まだ傷の少ない指、甲板の揺れ。
——呼吸は動きの源だ。
ルキフェルは胸に手を置き、ゆっくり吸って吐いた。今も同じように胸が上下する。
——目で追うんじゃない、心で感じるんだ。
ルキフェルは腕をゆるやかに持ち上げる。風を裂くのではなく、風を抱くように。肩の力を抜き、肘を落とし、手首を柔らかく返すと空気が薄い水のように掌を流れていく。一歩、足を送れば石畳の温度が足裏に伝わる。旋回、腰から背骨へ、背骨から肩へ、肩から指先へ。七歳の自分が必死に真似た動き。ふらつきながらも「できたかも」と笑ったあの瞬間が重なる。
——焦らず、呼吸と心を信じろ。
今は誰も手を添えてくれないが、体は覚えている。右腕が円を描き、左腕がそれを受ける。受け流す、包む、かわす。応用、攻撃を想定した空間にゆるやかな波を送る。力で止めない。流して、逸らして、溶かす。風が衣を揺らし、剣帯の金具がかすかに鳴る。リー・ウェンの視線はまだあるが、もはや意識の外だ。ルキフェルは目を閉じた。呼吸、重心、軸。胸の奥に渦巻いていた問いが少し形を変える。自分は誰だ。その問いにすぐ答えは出ないが、今この瞬間に地を踏み、風を受け、呼吸と共に動いているのは紛れもなく自分だ。ルキフェルは旋回の終わりにゆっくりと両掌を重ね、腹の前で静止すると鼓動が整った。
「……できるかなじゃない。繰り返すだけ」
ルキフェルが目を開けると視界の端でヤンの影がわずかに揺れたが、もう気にしない。木陰はひんやりと涼しく、葉の隙間からこぼれる光が地面にまだら模様を落としていた。ルキフェルが動きを止めた途端、静寂の奥から別の影が浮かび上がるのはエドガーの顔だ。
「お前、ほんとうざい」
ルキフェルの舌打ちが乾いた砂に吸い込まれたが、先ほどまでの濁った苛立ちはない。頭は澄んでいて、思考が水面のように波立ちながらも底が見えた。ルキフェルは幹に背を預け、深く息を吐いて腰を下ろすと足元に落ちていた細い枝を拾い、砂地に線を引いていった。無意識に描かれたのは三本の直線。中央に一本、左右に二本。
「そんなに戦争したいかよ。フランス海軍は間抜けかもしれないが、馬鹿じゃない。兵站も艦隊運用も、数も質も上だ。正面から当たれば消耗戦になる。……勝ちに行ってるのか、あいつ」
ルキフェルは息を吐きながら枝先で中央の線を強くなぞり、線の端を横に払ったところで枝先を止めた。
「いや……違うな。勝つとか負けるとか、そういう話じゃねえ」
黒旗、三本の剣。三年前の潮の匂いがルキフェルの胸の奥を刺した。フランソワの声がやけに鮮明に蘇る。
——あいつの夢は海上統治なんだよ。
「……統治」
その言葉を舌の上で転がす。海賊とは何だ。国の旗の下で殴られ、搾り取られ、命令で海に沈められた連中が「もう従わない」と決めて海に出た存在だ。船長は選ばれ、クォーターマスターが監視し、略奪の分け前は規約で決まる。力だけではなく、合意がある。ルキフェルは再び枝で砂をなぞり、船の横に小さく「×」をいくつも書き足す。
「だから、成り立ってんだろ。誰も上に立ちすぎない。立たせすぎない。それが逃げ場だったはずだ」
海軍で殴られた者、商船で使い潰された者、国家に捨てられた者。そういう連中がまた支配される構図を作るのか。ルキフェルは枝を強く握るって押し殺した声で呟いていく。
「海上統治ってのはな、王様になるってことだ。それはもう海賊じゃない。国家の真似事だ。他の連中、それ分かってんのかよ。船長を監視する仕組みがあって、好き勝手できないからこそ海賊だろうが。統治を掲げた瞬間、理想は命令に変わる。命令は逆らえば罰になる。……また同じ構図だ」
ルキフェルは枝で描いた線を指でなぞっていく。
「フランソワが嫌ってたのはそこだろ。自由は支配の不在だ。統治は支配の再構築だ。弔い合戦だけなら、まだ分かる。怒りで動くのは理解できるが、統治を掲げたら他の海賊団も黙ってねえぞ」
ルキフェルの頭は社会の縮図で埋め尽くされていった。海賊社会はゆるい均衡で成り立っている。互いに侵しすぎない暗黙の距離で。それが崩れたら海賊同士の内戦だ。そして、国家がそれを利用する図も持ち上がる。
「……バカかよ。トラウマ思い出す奴もいるだろ。それ、分かっててやるのか?」
海軍で殴られてきた男たち、暴君みたいな船長の下で生き延びた奴ら。支配の匂いを嗅いだ瞬間、恐怖が蘇る。誰かが焚きつけているのか。エドガーか、それとも……。ルキフェルの脳裏に百合の封蝋が浮かんだ。旧ブルボン派。フランスを揺らしたい連中、海軍を混乱させたい連中。
「……ああ。もし統治まで行けば、海賊社会そのものが再編される。復讐だけじゃないな、これ。理想を餌にして構造ごとひっくり返す気か?」
証拠はないが、嫌な感触がある。エドガーの怒りは本物だが、その怒りが利用可能なほど大きいのも事実だ。
「……あいつ、気づいてるのか? 自分が火種じゃなく、導火線にされてる可能性に。海賊社会が壊れたら戻らねえぞ。自由のつもりで、自由を殺すな……」
ルキフェルは砂の上の三本線を消して枝を放ると、目を細めたまま遠くの海を見つめた。
「俺は、そんな戦争に身を投じていいのか?」
風が頬を撫で、潮の匂いが肺に満ちる。胸の奥で何かがざわめく。怒りか、恐れか、それとも期待か。ルキフェルは首を振った。
「……待て。決めるのは頭じゃない。……心だ」
ルキフェルの右手が無意識に剣帯へ触れる。柄の重み、革の感触、慣れすぎた重さ。視線だけ剣をかすめるが、すぐに抜かない。ルキフェルは深く息を吸うと目を閉じた。思い出されるは、七歳の時の甲板、潮風の中で舞う影。リュウの声が遠い水平線から響く。
「迷いが生じるとき、自分の中に答えはあるのに見つけられないことがある。舞を通して心を落ち着かせろ。……舞の中で、剣を用いることもある。覚悟を決めるためだ」
ルキフェルの呼吸がゆっくり整っていく。覚悟。あのときは分からなかった言葉だが、今は痛いほど分かる。自分の中にいる誰かに向かって、記憶に向かって、未来に向かって。そして、守りたいものに向かって。
「……太極拳は体術じゃない。心と剣をひとつにする修行だ」
ルキフェルは立ち上がると大木から離れて立つと両掌を胸の前へと引き寄せ、衣を整えるように円を描く。動きは敵を想定するものではない、乱れた気配を撫でて均すための仕草だ。掌が空を押し、戻し、呼吸がゆるやかに地へ沈む。外から新たな気配が庭に入り込んだ。ソフィーだった。白い影が石畳を横切るが、彼の重心は揺れない。風が変わろうと空が色を変えようと、まず整えるべきは己の内側だと身体が知っている。
——周りが変わっても俺は変わらない。
呼吸が深くなるにつれ、肩の緊張がほどけ、視界が広がる。両腕が開くと四方に気が配られた。敵を捉えるためではなく、世界と隔てていた境界を溶かすための動きとして。揺れているのは外界ではない、揺れているのは己の芯。その揺らぎを否定せず、そのまま抱え込むように掌が受け、流し、また返す。甲板の上ではためく黒旗がふいに脳裏をかすめた。三本の剣、均衡を崩しかねない構図。かつて聞いた言葉が風に混じって戻る。
「俺にとって自由は、海そのものだ」
記憶は刃のように鋭くはなく、潮のように満ちてきた。海が乱れれば船は沈む。支配が海を覆えば自由は形を失う。
——海が脅かされているなら、俺は自由を守る。
掌の軌跡はいつの間にか波のような円を描いていた。やがて右手が腰へ落ち、刃が抜かれる。鞘鳴りの音が夕空を裂き、剣先が前へ走った。躊躇のない直線、突きは怒りではなく、境界を定めるための意志だ。誰かを斬るためではない。守るために、ここから先は侵させないという宣言のように刃が空を貫く。
——俺は誰を守る。
その刹那、仲間たちの顔が胸裏に浮かんだ。笑い声、肩の温もり、背中を預けた夜の静寂。彼らは判断を委ねた。信じているという重い沈黙で。剣は信頼の重みを受け止めるように震えるが、揺れなかった。低く身を沈めると石畳すれすれを刃が斜めに走る。光が跳ね、燕の影のように素早く弧を描いていった。静から動へ、内側に沈めていた決意が鋭さを帯びる。瞬間、胸に浮かぶのは銀の髪。海の向こうにいる一人の姿が思いのほか鮮明に胸へ浮かんだ。
——スザンヌ。
彼女の瞳の色は海の浅瀬に似ている。胸の内がジワリと熱を帯びた。戦場に立つその人が、誰かの野望のために飲み込まれる光景はどうしても許容できなかった。
——巻き込ませない、今度こそ。
再び立ち上がると片足で大地を踏みしめ、剣を上段に掲げたまま静止が訪れる。
——俺は止める。戦争には参加しない。それが俺の自由だ。
風が止み、葉擦れの音が遠のいて夕陽が刃を染めた。赤い光がゆっくりと鋼をなぞり、血にも似た色を帯びるが、そこに殺気はない。あるのは選び取った覚悟の硬さだけ。フランソワの声が風に混じる。
「誰かから光を奪わずに、希望をもたらすことができる」
誰かの光を奪わずに、希望をもたらせ。かつて聞いた声が穏やかな波のように胸を満たす。
——守るのは人だけではない。海そのもの。自由そのもの。
目を閉じても足は崩れない。やがて、剣先がゆっくりと下りると刃は剣帯へ戻り、金属の音が短く響いて消えた。両手を重ねて胸の前へ、深く礼をした。死者への敬意であり、師への感謝であり、何者でもないまま揺れていた己自身への応答でもある。まだ名づけられていない存在であるからこそ、選ぶことができた事実が、ようやく身体の奥へ落ち着いた。風が再び吹いて庭の木々がざわめき、遠くで波が砕ける音が届く。世界は何も変わっていないが、彼の内側の海はすでに嵐を越えていた。ルキフェルは葉擦れの音と遠い波音、石畳に残る昼の熱が冷めていく気配に身を委ねていたが、やがて視線を横へ滑らせた。
「……随分長いこと立っていたな」
よく通る声だった。静けさを破るというより、元からあった音を拾い上げるような声に白い影がわずかに揺れる。ソフィーが肩を小さく跳ねさせた。
「……気づいてたのね」
「最初の足音でな。呼吸も整ってた」
ルキフェルがソフィーと向き直った瞬間、夕映えが彼の顔を横から照らした。ソフィーの息がわずかに止るのが分かる。
……何だ。
ルキフェルは内心で小さく眉を寄せた。彼女の視線の質がいつもと違う。恐れでも嫌悪でもないが、妙に真っ直ぐで探るようだった。
——今さら、この顔に驚くこともないだろうに。
傷は昔からある。増えも減りもしていない。むしろ今日の彼は内側が整っている分、普段より穏やかなはずだった。
「夕飯は、もうできているのか?」
「……うん。声かけに来たの。みんな待ってる」
「なら、行こう。俺も少し腹が減ってきた」
ルキフェルが歩き出す足取りは軽い。剣帯の重みも今はただの重さだ。さきほどまでの張り詰めた気配はどこにも残っていない。ルキフェルがソフィーを通り過ぎると、ソフィーが歩調を合わせてきた。
「一つ、聞いていい?」
「何だ?」
「……決めたこと、あるの?」
ルキフェルの足がわずかに止まると風が抜けた。
「ある」
「私もあるよ」
「だが、今言うと食欲が失せる」
ルキフェルが本気とも冗談ともつかない声音で言うと、彼の隣でソフィーの小さい笑い声が弾けた。
「じゃあ、食べ終わったら教えて。私も話すから」
「腹が満たされて、機嫌がよければな」
二人は再び歩き出すと、石畳を踏む靴音が一定の間隔で響いた。
——守る。
ルキフェルの胸の奥で言葉はもう形を持っている。ソフィーが横で何かを考え込んでいるのか、彼女の視線がまだ彼の顔を追っている。
……何をそんなに見る。
ルキフェルは怪訝に思いながらも気に留めるほどではない。覚悟が決まった今、他者の視線はただの風と同じだ。触れはするが、揺らさない。中庭を抜けるころには、夕陽はさらに低くなっていた。ルキフェルの暗褐色の髪が風に揺れ、影が石畳に長く伸びる。剣を佩いた彼の背中は戦場へ向かうそれではなく、仲間と食事をしに行く背中だった。決断はもう内側にある。あとは言葉にするだけ。ルキフェルはソフィーと共にスタスタと食堂へ向かった。
夕食が終わって騒めきが次第に薄れていく中、ルキフェルは椅子を引いた。皿の上にはまだ少しパンが残っていたが腹の中は十分だ。ルキフェルが食堂を出て階段へ向かい、木の手すりに手をかけたところで背後から控えめな声が飛んだ。
「……ルキフェル」
ルキフェルが足を止めて振り返ると、灯りの下でソフィーが立っていた。
「何だ」
ルキフェルが返すと、彼女は一瞬だけ視線を伏せてから顔を上げた。
「私、フランスへ戻る。隊長がなんで私を突き飛ばしたのか……知りたいから」
ルキフェルは彼女の顔を見つめた。震えてはいない、目も逸らさない。決めたことってそれか、なるほどと内心で呟く。あの時、彼女も「ある」と言っていた。これがその答えか。彼は特に表情を変えず、ゆっくりと背を向けた。
「……そうか」
ルキフェルが階段を上る足取りは一定で迷いも滞りもない。彼女がどう受け取ったかを確かめることもなく、自室の前まで進んだ。
——この女なら一人でも戦えるだろう。
甘さでも過信でもない、ただの判断だ。ルキフェルは扉を開け、部屋へ入ると一度だけ息を吐いた。自分も彼女も、別々の場所で同じものに向かうのだろう。海は繋がっているが、並んで立つ必要はない。




