第十章② 五人組とエドガー・ロジャース海賊団
管理人の屋敷を出た五人は無駄な言葉を交わさず坂を下り、そのまま港へ向かった。潮の匂いが濃くなり、ラ・カレータの桟橋には小型の連絡船が停泊していた。
「ポート・ロイヤル行きだ。乗るか?」
無精髭の船乗りが顎で示すとルキフェルは黙って銀貨を数枚渡した。
「五人だ」
他の乗船客も続々と乗り込む。商人風の男、荷を抱えた女、顔を隠した水夫。連絡船は低く軋みながら岸を離れ、トルチュ島がゆっくりと遠ざかる。甲板に立つ五人は自然と固まっていた。マテオが水平線を睨む。
「ポート・ロイヤルはトルチュより物騒だ。今までより気ぃ引き締めなきゃな」
「ああ。フランソワでさえ、あまり立ち寄らなかった場所だ。着いたら、すぐエドガーの元へ行く」
ルキフェルが答えると風が赤いサッシュを揺らした。ニールが神妙な面持ちで言う。
「直行か。手土産もなし?」
「時間が惜しい」
ルキフェルの言葉にジャスパーが鼻を鳴らす。
「匂いが濃くなってきたしな」
船は進み、陽が傾いて空の色が金から赤へ、赤から紫へ変わる。
「ソフィー、無事かなあ」
コリンが波を見つめたままぽつりと呟くとマテオが鼻を鳴らした。
「あいつなら心配要らないだろ。ただ……」
マテオが口を噤んでいるとニールが首を傾げた。
「ただ、なんだって?」
マテオは欄干に凭れたまま頭を掻いた。
「いや、なんでもねえ」
コリンはチラリとルキフェルを見上げるも、彼はほとんど上の空でポート・ロイヤルの方向を見つめていた。やがて、水平線の向こうに街影が浮かび上がる。彼らがポート・ロイヤルに到着した頃、すでに夕刻だった。港はざわめいている。酒場の灯り怒号、笑い声、金の匂いと血の匂いが混じる空気。
「なるほどな。トルチュ島より荒れてる」
マテオが桟橋の上で呟いた。五人は言葉少なに歩き出すと港を彷徨った。大小さまざまな帆船がひしめく中、やがて湊の奥に巨大な船体と夜の影をまとった黒を見つけた。他の船より一段高く重く、沈黙している。まるで海そのものが形を成したかのような存在感。甲板には灯りが点り、見張りが立っている。船首像が不気味に光を反射した。
「……あれだ」
ルキフェルの声は低い。リヴェンジ・クイーン、エドガー・ロジャースの根城。五人は足を止めず、黒船の影へと足を踏み入れると桟橋の上に一人立つ人物がいた。夕闇に溶ける長身、端正な横顔、風に揺れる長い外套。エドガーの右腕、フェルナンドだった。桟橋の欄干に肘を預け、まるで絵画のように黄昏れている。五人が桟橋を鳴らした瞬間、フェルナンドの視線が逸れて彼らを一瞥すると緩く微笑んだ。
「……来たんだね」
ルキフェルは足を止めずフェルナンドとの距離を詰めた。
「お前の船長に会わせろ。この間の返事を聞かせるためだ」
「返事、ね。案内するよ」
フェルナンドは肩を竦めると緩やかな手招きをする。その所作ひとつが優雅だ。フェルナンドがタラップを歩いていき、ルキフェルも後に続こうと一歩踏み出すと急にガシッと肩を掴まれてた。思わず身震いしてルキフェルが振り返ると、ジャスパーが鋭い目つきで見据え、ルキフェルの肩を掴む手に力を込めた。ルキフェルはジャスパーを見上げたまま口を開く。
「どうした」
「嫌な予感がする」
「なぜ?」
「勘だ」
ジャスパーが唸るように応えた。ルキフェルは仲間たちの顔を順に見ると、マテオもニールもコリンも顔を顰めている。三人とも自分に決断を委ねているらしい。ルキフェルは肩に乗ったジャスパーの手を掴んで引き剥がした。
「ここまできたら行くしかないだろ」
ジャスパーの勘を疑っているわけではない、絶対的な信頼はあるが今は引けなかった。五人はタラップを上がって黒船の甲板へ足を踏み入れると、船員たちの視線が一斉に集まった。誰も刃には手をかけない、今回の自分達は客人らしい。フェルナンドが五人組を振り返った。
「今日は歓迎モードだ。安心していいよ」
六人は船内へ向かった。通路は暗く、灯りが揺れる。潮と油と煙の匂い。ジャスパーは思わず目を細めた。やがて、フェルナンドが重厚な扉の前で足を止めるとノックもせずに押し開ける。
「船長。お目当ての人が来たよ」
船長室、窓の外には紫に沈む海を前に立つ男、エドガー・ロジャースは煙草を指に挟み、ゆっくりと煙を吐いて振り返った。
「……わざわざ来たのか」
「どうせ来ると分かっていたくせに」
ルキフェルが吐き捨てるように言うと、エドガーは煙草を指先で揺らしながら椅子に腰を下ろした。
「さあ、返事を聞かせてもらおうかどちらの血を流すべきか、決まったか?」
船長室の空気が張り詰める中、ルキフェルは一歩前へ出た。
「俺は……参加しない。血は流させない」
フェルナンドが壁際でわずかに眉を上げ、マテオの義手が無意識にきしむ。ルキフェルは続けた。
「お前を止めに来たんだよ、エドガー」
エドガーはゆっくりと目を細めた。
「……理由は?」
ルキフェルは懐に手を入れた。取り出したのは例の封筒、机の上へ放ると乾いた音が鳴った。
「これ、お前が出した返書だろう? あの旗偽装の一件、あの貿易商から俺が密かに引ったくったものだ」
ルキフェルは包み隠さず言うとエドガーの視線が封筒へ落ち、フェルナンドが小さく笑う。
「これはこれは、相変わらず抜け目がない」
ルキフェルはフェルナンドの声を無視してエドガーを捉える。
「お前が起こそうとしてる戦争、後ろ盾がいるんだろう? やめとけ、利用されてるだけだ」
船長室の空気がぴたりと止まり、やがてエドガーが低く笑った。
「……利用? それがなんだ」
ルキフェルが言葉に詰まっていると、エドガーは椅子に深くもたれた。
「フランソワを奪われた復讐と海上統治の夢。この二つが同時に叶うなら別に利用されていようが構わん。オレの方こそ存分に利用してやるだけだ」
エドガーは煙草を灰皿に押しつけると火がジュッと消える。
「フェルナンド。お前は下がってろ」
「了解だよ、エドガー船長」
フェルナンドは一瞬だけルキフェルを見つめて微笑むと船長室を出ていって扉が閉まる。室内にはエドガーと五人だけ。重い沈黙でジャスパーが口を開く。
「案外、あっさり認めるんだな。煙の話を持ち出すまでもなかった」
エドガーは小さく鼻で笑う。
「もとより、この封筒の存在がバレるのも時間の問題だった。あの間抜けな貿易商が、お前たちに乗っ取られたと聞いた時は腹抱えて笑ったさ。ちゃんと返書がお前たちの元にあるって確認も取れていた。賭けだった。この返書を読んだお前が、戦争に靡いてくれるんじゃないかと」
ルキフェルの瞳がわずかに細くなる。
「買い被りだ、俺は参加しない。フランソワが望まない。……あの人は言っていた。自分にとっての自由は海そのもの。陸に追われた者に居場所を作る。人として過ごせる場所を……それに比べ、お前は海上統治と言ったな?」
エドガーの目が細くなるが、ルキフェルは続けた。
「支配だ。支配は海賊が最も軽蔑するもの。海賊社会にあってはならないものだ。フランソワの意志も引き継いだ上で、俺はお前を止める」
エドガーはゆっくりと立ち上がると椅子が軋んだ。
「……綺麗事だな。自由を守るために血は流さない? 理想だけで海は守れん」
エドガーの顎がわずかに上がった。窓の外、夜に沈みかけた港の灯りが暗い瞳の奥で揺れる。
「友を奪われて、このまま黙ってろと言うのか? フランソワ。あいつは“悪”として断罪された。追われ、囲まれ、海に沈んだ。オレは耐えられない。あいつを奪ったフランス海軍を、思想を赦せと言うのか?」
ルキフェルの背後に控える四人の呼吸が揃って浅くなるが、ルキフェルは動かず、翡翠の瞳で真っ直ぐエドガーを射抜いた。
「だからと言って、現王党の対抗勢力と手を組むなんて正気じゃない。唆されてるだけだ。お前、感情に飲まれるようなやつじゃなかっただろう?」
その一言が刺さったのか、エドガーの肩が強張った。
「死んだ友人が汚名を着せられてるんだ! オレは納得できない! オレだけ生き残ってるなんて……!」
エドガーの怒声が室内を震わせ、窓の硝子がかすかに鳴った。エドガーが机を叩くと灰皿が跳ね、灰が机の上で散る。エドガーの根底にあるのは怒りだけではない、残された者の罪悪感、生き延びてしまった者の歪んだ呼吸。ルキフェルはその揺れを見ている。
「……お前、フランソワと長い付き合いだったんだってな。ともにエル・イエロ島出身として、ゼフィランサスの弟子として」
エドガーの動きがぴたりと止まり、彼の瞳がはっきりと揺れた。
「……誰から聞いた?」
ルキフェルは答えず一歩踏み込むと床板が軋んだ。
「ゼフィランサスだって、お前が戦争を起こすために剣を教えたわけじゃないだろう。頼む、戦争なんてやめてくれ。聞きたいことがあるんだ。お前が生き延びた理由は、たぶんそこにある。エル・イエロのこと、フランソワのこと、ゼフィランサスのこともだ。どうしても知らなきゃいけない」
煙が立ち昇る中、エドガーはじっとルキフェルを見ていた。怒りでも嘲りでもなく、測るような目で。
「……ルキフェル」
エドガーが低く名を呼ぶと口元がゆっくりと歪んで狡猾な笑みが完成した。
「——悪いな、聞いてやれない」
「……え?」
——バンッ!
ルキフェルがわずかに眉を動かした瞬間、船長室の扉が蹴破られて木片が飛んだ。現れたフェルナンドの背後に、屈強な男たちが廃いてくる。ジャスパーが反応するより早く、二人がかりで床へ叩きつけられると腕を捻られ、背中を押さえつけられた。
「ッ——!」
マテオが義手で一人を弾き飛ばす。
「ふざけんな!」
別の男がマテオの背後から腕を回して首を絞め上げると、マテオの義手が空を切った。
「ぐっ……!」
「ちょ、待——」
ニールは刃に手を伸ばす間もなく壁に叩きつけられ、腕を背後に捻り上げられる。コリンが後退するが、彼の背後ではすでに影があった。フェルナンドは優雅に腕を回し、コリンの体を拘束すると彼の喉元にナイフを押し当てた。
「動かないで」
ルキフェルは仲間が拘束されて血が一気に巡り、反射でカットラスを引き抜くと鋼が鳴った。
「離せ!」
ルキフェルが一歩踏み出す瞬間、エドガーの声が空気を裂く。
「動くな! 下手に動けば仲間が死ぬぞ」
エドガーの声を合図に、フェルナンドがコリンの喉元の刃を少し食い込ませると薄い赤が滲んだ。マテオの首が締め上げられ、ジャスパーが床に押さえつけられ、ニールが壁に固定されている。ルキフェルはカットラスを握る手を震わせて、呼吸が荒いままエドガーに目を向けた。
「……卑怯だ」
エドガーは首を傾けた。煙のない空気の中で彼の声だけが冷たい。
「戦争を止めに来たんだろう? だったら現実を見ろ。理想だけで仲間は守れない」
ルキフェルの胸の奥で何かが軋む。思想ではない、選択だ。刃を振るうか、止まるか。仲間の命か、誇りか。ルキフェルの翡翠の瞳が鋭く光ると血が滾り、理屈も思想も吹き飛ぶ。
「クソが……」
ルキフェルは低く喉の奥から鳴る声を発し、エドガーを真正面から睨みつけた。怒りだ。純粋な剥き出しの怒り。船長室の空気が震えるが、エドガーは微動だにしない。
「……さあ、どうする?」
ルキフェルは歯を噛みしめると握ったカットラスの柄が軋んだ。仲間を振り返ると彼らと一瞬だけ目が合う。コリンは青ざめ、マテオの呼吸が荒く、ジャスパーが歯を食いしばり、ニールの視線がルキフェルへ向いている。ルキフェルはエドガーを振り返って唸った。
「縛るなら俺にしろ」
「まずお前が剣を捨てたらな」
エドガーは愉悦そうに目を細め、ルキフェルの顎が強張って舌打ちした。
「チッ……」
ルキフェルがカットラスを床へ投げ捨てると鋼が板張りを打ち、乾いた音が船長室に響く瞬間、フェルナンドが軽く指を鳴らした。
「放してあげて」
男たちがぱっと手を離すとジャスパーが荒く息を吐き、マテオが咳き込む。ニールが壁から崩れ落ち、コリンの喉元から刃が離れて赤い線だけが残る。ルキフェルが歯噛みしていると背後から衝撃を受け、腕を捻り上げられて膝裏を蹴られ、床に叩きつけられた。容赦なく背中に重みが乗り、手首に縄をかけられる。
「ぐっ……!」
ルキフェルは歯を食いしばるが、反抗できなかった。エドガーが重い足音と共にゆっくり近づくとルキフェルを見下ろした。
「……お前はそういう男だ」
ルキフェルは悔しさも、怒りも、全部込めてエドガーを睨み上げた。エドガーは感情を削ぎ落とした冷たい目を向けたまま口を開いた。
「お前は使える男だと思っていた。戦争に不可欠だとな。……フランソワが側に置いていた男だ、殺す理由なんてない。……他の奴らは別々の船団に引き離せ」
ルキフェルが絶句して息を呑んでいると、男たちが一斉に動き出して仲間たちが腕を掴まれていく。
「ルカ!」
「やめろ!」
エドガーは部屋を見渡して淡々と命令した。
「采配はお前らの好きにしろ」
仲間たちが引きずられていく音、足掻く音、叫び。ルキフェルは身を起こして声を上げようとしたが、自分に伸し掛かる重みが増して息が詰まった。
「離せ!」
「ルキフェル!」
叫びと騒音が遠ざかるとエドガーは深く息を吐いてルキフェルに目を向けた。
「秘密を知られたんだ。誰が大人しく帰すと思った?」
ルキフェルが額に青筋を立てて奥歯を鳴らす。エドガーはルキフェルを拘束する男たちに目をやると顎を一瞬上げ、男たちは目を見開いて戸惑うもルキフェルから即座に離れると壁際に身を潜めた。ルキフェルが息を吹き返したように身を起こすと、エドガーは彼に跪いて耳元で囁く。
「あの女もだ。見つけ次第、捕える」
ルキフェルは大きく見開くと即座にエドガーへ冷ややかな目を向けたが、やがて不敵な笑みを浮かべて壁際の男たちを流し目にチラリと見た。
「そっちで勝手に決めんな。ここにいる奴らも馬鹿だ。すっかりこの“王様”の言いなり、命令を受けるだけの駒」
空気がぴりと張り詰める。フェルナンドの目が一瞬細くなり、男たちは歯を剥き出しに唸る。ルキフェルは笑みを浮かべたままエドガーに視線を移した。
「こんなんで俺から自由を奪えると思ったか? 大間違いだ。くだらない戦争なんて止めてやる。今に見てろよ、俺は自分の死に方すら決めてないんだ」
ルキフェルが言い切った瞬間、エドガーの拳が振り抜かれた。
——ドゴッ。
鈍い衝撃が頭に瞬時に広がり、ルキフェルの視界が白く弾けて床が近づくと身体が横倒しになった。耳鳴り、血の味、意識が揺れる中で遠くで誰かが叫ぶ。ルキフェルの視界が歪む中、エドガーが覗き込んできた。エドガーの感情を削ぎ落とした顔は近く、目は冷たい。
「貴様、このままで済むと思うなよ。殺しはしないが……生き地獄は味わわせてやる」
エドガーの口元が歪み、ルキフェルは最後の力で目を開けた。
「……てめえ……」
ルキフェルの視界にあるのは、狡猾に笑うエドガーの顔。彼の表情だけが焼き付き、闇が落ちて音が消え、意識が途切れた。倒れ伏したルキフェルを、エドガーは立ち上がって冷ややかに見下ろした。
「こいつはマストの柱にでも縛っとけ。ストレスが溜まった奴らの餌にでもすればいい。近いうち、ポート・ロイヤルを発つ」
エドガーの言葉に男たちが騒めき、フェルナンドが緩やかに歩み寄って床に倒れたルキフェルをつま先で転がすと、ルキフェルの身体がごろりと仰向けになる。
「……ふふ」
フェルナンドは膝をつき、ルキフェルの懐へ手を差し入れた。衣服を探る指先に硬質な感触が触れ、彼は冷たい金属をすぐ掴んだ。フェルナンドが手を引き抜くと、銀の羅針盤が船長室の灯りを受けて鈍く光る。フェルナンドはそれを指先で撫でて薄く笑った。
「へえ……良いもの持ってんね。これはボクが貰おうか」
フェルナンドが自分の懐へ滑り込ませると、エドガーが彼を横目で見る。
「……勝手に決めるな」
「おや?」
フェルナンドは立ち上がると衣服の膝と裾、靴元も軽く払いながら続ける。
「美青年のマテオ氏は、ボクが預かろう。なに、特に役職は与えないよ。ボクのアドバイザーにでもなってもらおうかな」
「おい。オレが船団与えてやったからって調子に乗るなよ」
エドガーが口を尖らせると、フェルナンドは肩をすくめた。
「ああ、それに関しちゃボクは大いに感謝してるよ。——新生、第五船団の始まりだね」
フェルナンドは軽く会釈すると、マントを翻して優雅に踵を返し、船長室を後にする。扉が閉まり、残ったのはエドガーと数人の男。エドガーは一瞬だけ倒れたルキフェルを見る。
「……縛った後は好きにしろ」
男たちが頷くと、二人がかりでルキフェルを担ぎ上げる。ルキフェルの腕がだらりと垂れ、口の端から流れた血の跡が床にわずかに残る。足音と共に船長室の扉が開き、閉まる。静寂の中で煙の残り香だけがゆらりと天井に漂った。
エドガー海賊団は本艦を第一船団と定め、全部で八つの船団を擁していた。海は広いからこそ、統治は分割される。
第六は偵察用の小型船団。速さと目が命だ。甲板に押し出されたコリンは、乱暴に縄を解かれると第六船長が吐き捨てる。
「首の血、さっさと止めろよ。止めたら即働け。言っとくが、逃げようとか思ってんなら海に投げ飛ばす」
船長が背を向け、足音が遠ざかる。コリンは喉元に触れた。彼は薄く固まり始めた血を見てため息を吐くと周囲を見る。同じくらいの年頃の少年たちが数人、甲板の端で縄を解かれていて目が合う。誰も笑っていない。
「……はあ。ここでも雑用係、か」
コリンは呟きながらも目は死んでいない。状況を測っている。人数、配置船の癖、帆の向き、潮の流れ。偵察船団に放り込まれたのは、ある意味皮肉だ。目の役割を持つ船での彼は雑用だが、よく見るn目を持っていのたは彼の方だった。
第二は大型ガレオン。リヴェンジ・クイーンほどではないが、重厚な影を海に落とす。ジャスパーは甲板に立たされ、箒を押しつけられた。
「掃除係だ。怠けたら蹴る」
周囲の男たちの視線が刺さる。荒い、獣の匂いがする。少しでも舐められれば、即座に殴りかかってくるだろう。ジャスパーは肩をすくめた。
「さすが、エドガーの元に集まる奴らは荒いね」
彼の五感は開いている。潮の匂い、油、焦げた煙草の残り香、甲板を掃きながら嗅ぐ、聞く、測る。荒くれ者の集団でも匂いは嘘をつかない。
新生第五船団。フェルナンド率いる、新しい船。甲板中央、縛られたままのマテオはフェルナンドを睨みつけていた。
「君が只者じゃないことは分かってるよ」
「芝居はいい、ルカはどうした?」
マテオは唾を吐き捨てるとフェルナンドはくすりと笑った。
「ああ、言っとくけどキミに発言権はないから」
フェルナンドは懐から銃を取り出すと躊躇いはなく近くで作業していた手下の一人に向けた。
——パンッ。
乾いた音と共に手下の頭部が赤く弾けて倒れ、鮮血が板を濡らしていく。甲板上の空気が凍り、誰も声を出さない中でフェルナンドは銃口から昇る煙に軽く息を吹きかけて白い煙を揺らした。
「よくわかったね?」
マテオの背中に冷たい汗が流れる。
「……これが恐怖政治ってやつか」
彼はフェルナンドを再び睨み上げる。怒りはあるが、それ以上に理解してしまった。これはフランソワの海じゃない、エドガーの海はすでに違う。第五船団、空いた枠に座った男は番号より先にやることを理解している。従わせる、従わなければ消す。マテオは歯を食いしばった。エドガー海賊団、終わってやがる。
そして、ニールは薄暗い港を歩かされていた。手首に食い込む縄、背後を二人がかりで押される。
「……僕はどこへ向かうのやら」
ニールは軽く呟く。皮肉のつもりだったが、誰も答えない。石畳の足音だけが続き、本艦から離れていく。港の奥、さらに暗い区画へ。ニールは目だけを動かした。船影の配置、見張りの数、灯りの位置、理屈はまだ捨てていない。
第八船団。八つある中で最も小さく、最も若い船団。小型ガレオンの船長室ではランプの光に二人分の影が揺れている。アーシャ・ストームブレード船長。そしてクォーターマスター、フェリス・ソロウィンド。アーシャが椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
「やっぱさあ。あたし、きな臭いと思うんだよねー」
「マルクさんの件?」
フェリスが腕を組むと、アーシャは頷いた。マルク・ドイチュ、元第五船団の船長。去年の春、ヨーロッパのどこかで壊滅の報せを最初に持ち込んだのは、エドガー・ロジャース本人だった。
「時期、覚えてる?」
「秋……だった気がする」
妙だった。その頃、本艦はポート・ロイヤルから離れていない。遠洋から直接の報せを持って来る位置ではなかった。最初は情報屋経由だと思ったが。
「なんか、第五に乗り込んでいくエドガー船長を見たんですけど」
第八の部下が報告として持ち帰ってきて、アーシャとフェリスは顔を見合わせたが、その時は深追いせず他船団へも報告せず、様子を見ることにした。それが今、アーシャの喉に刺さっている。
「他の島だとさ、マルクさんは“沈んだらしい”って噂程度なんだよ。でもエドガーさん、はっきり言ったよね。“あいつは死んだ”って」
以前なら違った。疑い、調べ、裏を取る男だった。フェリスが低く言う。
「やっぱり……エドガー船長がマルクさんの船に乗ってから、何かあったって言いたいのかい?」
アーシャは肩をすくめるが、目は鋭い。
「まあ、そんなところ。フランソワの件から変わったよね」
エドガーは豪胆に見えるが、本質は策士。感情で突っ走る男ではないはずだった。沈黙の中でランプの火が揺れ、急に空気を変えるようにアーシャが口を開く。
「……てか、いつ出発しよ。航海士、一人足りてないんだけど」
現実問題。第八は慢性的に人手不足。フェリスが深く息を吐いた。
「探し続けるしかないだろ」
「あーあ、なんかちょうどいい人いないかなー」
アーシャが両手を広げた瞬間、コンコンと扉が叩かれる。
「おやすみのところ失礼します! 本艦から使者が来てます。なんでも新人らしいです」
若い部下の声にアーシャとフェリスが同時に顔を上げる。
「そんなことあった!?」
「聞いてないぞ」
部下が扉を勢いよく開け、戸惑いながら答える。
「今、本艦の人こっちに案内しますね」
部下が扉を閉めるとアーシャがにやりと笑う。
「いやー、これで航海士だったら歓迎だなー」
フェリスは笑わず、自然と指を組んで考えている。本艦からの新人、このタイミングとは偶然か、それとも——。扉向こうから足音が近づいき、開け放たれる。ニールは本艦の船員に背後から小突かれるように押されて船長室へ放り込まれた。
「新人を連れてきたぞ」
本艦の船員が室内にいる二人の背中へ声を投げる。窓の外を眺めている後ろ姿、女と男。
「お前ら、人員不足だってな? んじゃ、おれらは帰る。言っとくが、エドガー船長の命令だからな。拒否権はない。挨拶してろ」
ニールを置き去りにして、本艦の船員たちは出ていく。扉が閉まるとニールはこっそりとため息を吐いた。命令か、どうやら船団間の均衡はすでに崩れ始めているらしい。ニールは視線を上げて辺りを見回した。簡素な船長室だな、物が少なく余計な装飾もない。
「……キミが新人だね」
窓際の女がニールに背を向けたまま声をかける。少し低めの、張りのある声で。あれ、もしや女海賊かとニールは一瞬だけ感心する。
「はい。ニール・セイルハートと言います」
とりあえず丁寧口調、余計な敵は作らない。一方、ニールに背を向ける男女——アーシャとフェリスは意図的に舐められないための距離でヒソヒソと言葉を交わしていた。ニールは再び室内をちらりと見回す。やはり物が少ない、必要最低限だ。
「君、少し落ち着きたまえ」
今度は男の声にニールは肩をすくめる。
「落ち着いてますよ。……取り敢えず、顔を見せてくれません?」
「ほう、度胸があるな」
その瞬間、女が鼻で笑って勢いよく振り返る。
「一応、あたしが船長なんだけど?」
女のチャキチャキした口調に続いて、男もため息をつきながら振り返った途端、ニールの頭が真っ白になった。二人ともウェーブがかった黒髪、潮風を纏ったような爽やかな気配、見間違えようがない。
「……え、うそ……」
ニールの喉が詰まった。一方、アーシャとフェリスも同じ表情で固まっていた。金髪碧眼、あの頃より背は伸びたが面影は消えていない。ニールが震える声で言う。
「まさか……アメリアと、フレデリック?」
一瞬の沈黙のあと、アーシャとフェリスは二人同時に飛びかかった。
「にいさああああああああああん!!」
ニールは二人に押し倒され、床に背を打つと「ぐえ」と息が漏らした。二人に両側からしがみつかれ、泣き崩れられる。
「生きてたぁあああああ!!」
「ほんとに兄さんだ……!」
「……こんなことある?」
ニールは天井を仰いだまま呟いて目を閉じる。内心は歓喜で溢れ、頭の中で天使たちがファンファーレを鳴らしていた。泣き崩れていた二人がようやく落ち着く頃、ニールはゆっくり身を起こして息を吐いた。
「……そうか。あの後、トルチュ島に着いたんだね」
アーシャが頷き、フェリスも目元を拭いながら小さく笑う。断片的に語られる三年間、流れ着いた港、拾われた縁、第八船団に身を置くまでの経緯。ニールは黙って聞くうちに胸の奥がじわりと熱を持った。
——生きていた。祖国から逃がした妹と弟が、ちゃんと生き延びていた。
ニールの中で安堵が広がると同時に、別の感情がじわりと滲む。自分はそばにいなかった、守ると誓ったのに。アーシャが鼻をすすりながら言う。
「でもさぁ、あたしたちだって兄貴が心配で心配で」
「うん、ごめんね」
ニールは苦く笑い、そっと妹の頭に手を置いた。その仕草が昔のままだと気づいてニールの胸が痛む。フェリスが顔を上げて真っ直ぐな目でニールを見つめた。
「それより、兄さんこそ大丈夫だったの? だって……こうして会えたの三年ぶりだよ。エドモンド兄さんもここにいるってことは……ちゃんと看取れたの」
ニールの喉がわずかに詰まった。
「……うん」
フェリスは安堵したように息を吐いたが、ニールの胸の奥では別の記憶が蓋を押し返していた。
エドモンド・グリフィス。あの名はもうない。捨てた、置いてきた、燃やしたはずだった。ルキフェルが本当の名を探しているのに対し、自分は名を捨てた人間だ。その自負、その覚悟、その罪がニールの胸を締めつけるが、目の前には妹と弟がいる。生きているで十分だと自分に言い聞かせ、ニールはゆっくりと息を整えた。
「とりあえず、再会を喜ぶのはあとにしようか」
口調はいつもの軽さを取り戻すが、彼の青い瞳の奥には消えない影が残っていた。
潮の匂いが最初に鼻を刺した。次いで、揺れ。規則的に軋む木の音、帆を孕む風の唸り、甲板を踏み鳴らす足音が近づく。
——船の上だ。
ルキフェルが重たい瞼を押し上げた瞬間、視界に飛び込んできたのは蒼ではなく、荒縄だった。胸から腕、胴、太腿に至るまで幾重にも巻きつけられた縄。彼の背後には太いマストの柱、逃げ場はなく両腕は後ろへ引き絞られ、肩が鈍く軋んだ。
「……は」
ルキフェルの乾いた声が喉の奥で砕けた。頭が割れるように痛む。殴られた衝撃がまだ脳裏に残っていた。ルキフェルの視界の端で船員たちが動いている。誰かが笑い、別の誰かがこちらを一瞥し、嘲るように口角を吊り上げる。
「目ぇ覚ましたぜ、例の英雄様がよ」
「おれたちの玩具だろ?」
下卑た笑い声が潮風に混じって流れていく。ルキフェルは視線を巡らせるが、見慣れた港はない。ポート・ロイヤルの喧騒も、石畳も、灯りもない。あるのは果てしない海だけだった。
——出港したのか。
ルキフェルが歯を食いしばると顎が軋んだ。仲間はどこへ連れていかれた。生きているのかも分からない。ルキフェルの胸の奥がぐらりと揺れたが、沈みかけた何かを無理やり引き戻す。ここで折れたら終わる。ここで諦めたら本当に全部失う。ルキフェルは呼吸を整え、縄の感触を確かめると手首をわずかに捻った。縄が食い込んで痛みが走る。生きている、まだ動ける。
「……死ぬわけにいくかよ」
嘲笑がまた一つ飛んでくる。誰かが甲板を蹴り、波が船腹を叩く。ルキフェルは視線を上げた。帆が大きく膨らみ、空を切り取っている向こうに陽光が白く滲んでいた。エドガーの顔がルキフェルの脳裏を掠める。
——生き地獄だと? なら、見せてやる。地獄に落ちた人間がどんな顔で這い上がるか。
ルキフェルの胸の奥で何かが沸いた。怒りでも焦燥でもない。もっと静かで、もっと深いもの。底の見えない闇の中で小さな火種がぱちりと弾けた。その火種を消させない。仲間の安否もわからず自由も奪われ、剣もない。
「……けど、まだ終わってない」
ルキフェルの唇の端がわずかに持ち上がり、海を睨みつけた。風が強まり、船は進む。黒い船影は蒼の彼方へ。その中心で、檻に繋がれた狼は牙を剥き始めていた。
——物語は、第六巻へと続く




