第八章⑥ ルキフェルとコリン feat.長老
そのうち、やっと管理人の屋敷に辿り着いた。坂を登りきるころには太陽はすでに真上。石畳から立ちのぼる熱がじわりと靴底を通して伝わる。腹の奥が鳴ったが、気にしている余裕はない。ルキフェルが門番に軽く顎をしゃくるだけで通された。もはや顔パスだ。屋敷の中は相変わらず静まり返っている。コリンが小声で言った。
「ほんとに行くんだね」
「呼ばれてるからな」
「連れてこいって言われただけでしょ」
「十分だろ」
二人で廊下を進み、突き当たりの重い扉の前に立つとルキフェルがノックをした。返事はない。ルキフェルが躊躇いなく扉を押し開けて踏み込んだ瞬間、低い声が部屋の奥から響いた。
「きたな」
コリンの肩がびくりと跳ねる。分かりやすい。ルキフェルは口元を歪めた。
「長老さん、今日こそ連れてきたぞ」
部屋の奥、灯の下にゆらりと影が揺れる。いつもの煙だ。長老が煙管をくゆらせながら姿を現すと、コリンが引きつった笑みを浮かべた。
「……ど、どうも」
声が微妙に震えている。長老は目を細め、煙を細く吐いた。
「まったく……ルキフェルの坊や。お前も遠慮というものはないのか」
「遠慮してたらここには来ない」
「そうか。まあ、いい」
長老の視線が、ゆっくりとルキフェルからコリンへ移る。
「今日は何の用だ」
ルキフェルは部屋の中央まで歩み、立ち止まった。彼の背後でコリンがごくりと唾を飲み込む音がする。長老は煙を吐きながら、ジオラマ越しにルキフェルを見ていたが、ルキフェルは視線を逸らさない。
「単刀直入に聞く。フランソワについてだ」
コリンの肩がぴくりと動くが、ルキフェルは止まらない。
「あの人の過去について。俺は……あの人のことをちゃんと知らない。けど、向き合わなきゃ見えてこないものがある」
ルキフェルがジオラマの縁に両手をつくと指先がわずかに白くなった。煙の向こうで長老の目が細まる。
「だから……あの人の過去について、何か知ってることがあれば教えてほしい」
ルキフェルの言葉が落ちると、部屋の中に煙の匂いだけが濃くなって長老はゆっくりと歩き出した。ジオラマの外周を靴音ひとつ立てずに回ると、彼はルキフェルの正面で止まって煙管をくゆらせ、ふっと吐き出した濃い煙がルキフェルの顔にかかった。
「っ……」
ルキフェルが思わず咳き込む隣でコリンが慌てて彼の袖を引く。
「だ、大丈夫……?」
長老は二人の様子を眺めながら低く言った。煙の向こうで目だけが光る。
「過去を捨てて海に出て死んだ男。そいつの過去を掘り返すことは墓荒らしと同じことだ」
ルキフェルの咳が止まると涙目のまま長老を睨み返すが、長老はジオラマの小さな船を指でなぞりながら続ける。
「海賊は海に生き、海に死ぬ。特にカリブの連中はな。“どうせ死ぬなら、潔く”が信条だ。だからこそ、フランソワの死は話題だ。あの最期は、綺麗すぎた」
ルキフェルの脳裏に街で飛び交っていた噂がよぎる。英雄だの殉教者だの、伝説だの。長老は煙を吸いながらも琥珀色の目がまっすぐルキフェルを射抜く。
「海に沈んだ男なら……過去も沈めたままにしとけ。迷信深い奴らがお前の言葉を聞けば墓泥棒扱いだ。襲われても文句は言えん」
煙がゆっくり天井へ昇る。長老の言葉を受けても、ルキフェルは目を逸らさなかった。煙の向こうに立つ男を真っ直ぐに睨み据える。
「それでも、何も知らないのは嫌だ。横暴だって分かってる。自分が墓泥棒だってことも……それでも、知らないままは——」
「なら、尚更だ」
長老の煙管がかすかに鳴り、ルキフェルの言葉を断ち切るように続けた。
「フランソワ……あいつはな。お前のためなら、自分の記憶ですら封じた男だ」
長老の口から煙がゆっくりと吐き出され、ルキフェルの呼吸が一瞬遅れて喉がひりついた。
「……フランソワが、俺のために?」
長老は煙の奥で目を細めるだけで、ルキフェルの胸の奥で何かが弾けた。
「……じゃあ、なんだよ……!」
ルキフェルの声が震える。抑えようとしても抑えきれず、ジオラマに置いた拳がギシリと音を立てて、コリンがびくりと肩を震わせた。
「……あんた、フランソワから何か聞いてたのかよ? あの人の過去、知ってるじゃないか!」
ルキフェルはなお長老を睨み上げ、十九年分の苛立ちが一気に噴き出すも煙の向こうの影は動かない。
「……誤魔化すなよ。俺は……自分が本当は誰なのか知りたいだけなのに……」
怒りなのか悲鳴なのか、自分でも分からない。長老に向けられたものなのか。それとも、もう海の底に沈んだ誰かに向けたものなのか。あるいは、自分自身か。部屋の奥で風が窓を鳴らす。ルキフェルの視線は焦点を失いかけていた。
「……なんで、みんな俺から隠すんだよ」
ルキフェルの拳が震える。怒りよりも焦燥、焦燥よりも恐怖。自分が空っぽかもしれないという恐怖。コリンが小さく名を呼んだ。
「ルキフェル……」
ルキフェルは聞いていない。煙の匂いがやけに重たかった。長老はしばらく黙っていたが、やがて煙管を机へ置いた。
「若造。知るということはな、奪うことでもある。お前は、自分が何者か知りたいと言う。だが、あいつは……お前が何者でもなく生きられるように封じた」
煙の残滓がゆっくりと消えていく中で、ルキフェルはゆっくりと目を閉じた。
「……それでも、俺は知りたい」
ルキフェルが目を開けると、翡翠の瞳は揺れながらも光を失っていなかった。長老は煙を細く吐きながら目を細める。
「その覚悟が口先だけじゃないことを祈る」
ルキフェルは奥歯を噛みしめて睨み返すが、長老はもう彼を見ていなかった。興味は完全に隣へ移っていて、煙の向こうで口元がわずかに歪む。
「さて、今回はどんな面白い話をしてくれるんだ?」
コリンがびくりと肩を震わせた。
「……ネタギレデス」
「まあまあ、そんなに警戒するな」
正直に言ったはずが、長老がくくと低く笑う。煙が天井へ昇っていく。ゆらり、ゆらりと。コリンはその動きを目で追ったあと、ふと長老を見上げて少し迷ってから口を開いた。
「じゃあ……いつも吐いてる煙のこと、知りたいです」
長老は再び煙管を手にすると、器用にくるくると指先で回した。回る拍子に煙がまた細く流れる。
「ああ、これか。煙管って名前らしい。タバコとも言うそうだ。俺は昔からこれが相棒でな。管理人の仕事は一族が代々担ってる。束ねるのも、なかなか骨が折れる」
「……うん、突っ込みたいところは色々あるよ?」
コリンは長老をじっと見上げたまま言った。ルキフェルが横目で彼を見る中で、コリンは構わず続けた。見た目は三十代半ばだが、この島で長老と呼ばれ続けている男に対して。
「その見た目に反して、妙に中身が老練すぎるのがね。他で見ないけど……どこで手に入れたの?」
長老は煙管を口元から外し、わずかに目を細めた。
「貰いもんだ。報酬とも言うな」
「……報酬?」
コリンの喉がかすかに鳴るも長老は説明せず煙を再び吸い込んだ。コリンの背筋を冷たいものが走り、長老は煙を細く吐き出しながら緩く首を振る。
「吐いているというより吸っている」
コリンが即座に眉をひそめる。
「……いやいや、吐いてるじゃん」
「吸うのが目的だ。吐いているのは副産物」
「よくわかんない!」
コリンが素直に白旗を上げると、長老は煙管をくるりと指で回しながら二人を交互に見た。
「……そうだな」
長老がぽつりと呟きながら書棚の前へ歩み寄った。彼が並んだ背表紙の中の一冊を、躊躇いなく指先で引くと、コリンが「あっ」と声を上げた。
「やばい……あの人、スイッチ入っちゃった」
ルキフェルはぐいと袖を掴まれる感触に腕を持っていかれるかと思った。
「じゃあ、ぼくたちはこれで——」
「ついて来い。ちょっとした賭けをしようじゃないか」
コリンの声に被せるように長老が言った瞬間、手前に引かれた一冊がコクンと鈍い音を立て、書棚全体が低く唸るような音とともに後方へ滑って壁が裂けた。奥には薄暗い廊下、湿った空気が流れ込む。その向こう、遠くには浜。ルキフェルは目を細めた。
「……賭け?」
突如、ルキフェルの背後からシャツが引かれた。
「ちょ、ま——」
彼のシャツの裾を頭から被ったコリンが、ルキフェルの背中に張り付く。ルキフェルは怪訝な顔をした。自分の背中に伝わる吐息が熱い、頬が背に押し当てられる感触が妙に生々しい。シャツはめくれ、腹に冷たい風が差し込む。鬱陶しいし、暑いし、重い。
「……離れろ」
「いきたくない……」
「……雷に怯える犬か」
ルキフェルは呆れ半分で吐き捨てるが、振り払わないあたりが甘い。長老は彼らの様子を眺めてくつりと喉を鳴らし、琥珀色の目を愉しげに細めた。
「安心しろ。今回は死なん。さあ、ポート・ロイヤルへ行こうか。久しぶりにな」
長老が一歩、暗い廊下へ足を踏み入れながらニヤリと笑った。ルキフェルの胸の奥で何かがわずかに軋んだ。
——長老は、どこまで知っている?
ルキフェルはコリンを引き摺るように長老の後を追った。岩壁の裂け目のような通路は昼だというのに薄暗く、潮と岩の匂いが混ざり、足元には細かい砂と海水が滲んでいる。長老の背を追いながら、ルキフェルの背後でコリンが半泣きの声を上げる。
「ほんとに行くの……?」
「賭けを受けたんだ。今さら引けるか」
三人が岩壁を抜けた瞬間、視界が開けた。そこは人目から完全に隔てられた小さな入江だった。波は穏やかで音もほとんどない。そして、あの小舟が浮いていた。コリンがごくりと喉を鳴らす。
「風、ないよね?」
「いらんのだろ」
理屈のわからないものに対して、ルキフェルはあえて無頓着を装うが、胸の奥では警戒が脈打っていた。長老は迷いなく小舟に乗り込むと黒い外套が揺れた。
「来い」
ルキフェルはコリンの襟首を掴み、半ば引き摺るようにして舟へ押し上げた。
「ひっ、ちょ、待って——!」
「落ちるなよ」
最後に自分も飛び乗るとぐらりと小舟が揺れた。長老は外套の内側に手を差し入れ、ひとつの鍵を取り出す。星型、奇妙な意匠だった。船尾中央に据えられた真鍮の円盤状の装置へ鍵を差し込むとカチリと乾いた音が鳴り、低い振動が舟底から伝わった。
「……っ」
コリンが息を呑む。船尾の羽状の推進器がゆっくりと動き出し、海面を掻くでもなく叩くでもなく、空気を切るように回転すると小舟は前へ進み始め、入江からゆっくりと遠ざかった。
「……相変わらず異物だな」
ルキフェルが呟くと、長老は煙管を咥えたまま視線を前方へ向ける。
「世界にはな。お前たちがまだ知らん理屈が山ほどある」
小舟は湾を抜け、外海へ出た。波は荒れていない。それでも普通の舟よりも滑らかに進む。遠くにポート・ロイヤルの影が見えた。正面からではなく、裏手。崖と湿地に隠れた、公式の地図には載らぬ側面。長老がわずかに口角を上げる。
「久しぶりだな。裏口から入るのは」
コリンが小さく震えた。ルキフェルは前を見据えたまま低く言う。
「……賭けってのはなんだ」
返答もなく、小舟は速度をわずかに上げた。ポート・ロイヤルの裏側へ、陽光の届かぬ場所へ、からくり船は浅瀬を滑るように進んだ。やがて岩壁の影にひっそりと口を開けた狭い水路へ入り込み、外からは決して見えない角度で曲がる。波は穏やかだが、岩肌は鋭く、普通の船なら躊躇するような細道だ。そのまま洞門をくぐると視界が一瞬、暗くなって開けた。小さな入江は三年前と何一つ変わっていない。朽ちた桟橋、崩れかけた石壁、半ば歪んだ砦の残骸の中で一本だけ手入れの行き届いた木製の桟橋が、異様なほど整然と存在している。ルキフェルは息を吐いた。
「……まだ生きてるな」
三年前——初めてここに連れてこられた日の、あの息苦しさを思い出していた。この場所は廃墟ではない。眠っているだけだ。ポート・ロイヤルに隠された、伝説と知られざる歴史、そして秘密の産物を奉り、守る宝庫。バッカニア一族にとって最も重要な場所のひとつ。
三人が小舟から降りると、長老が先に歩いた。三人は崩れた石門を潜り、地下へ続く螺旋階段へ足を踏み入れ、足音が螺旋に沿って何度も反響する。三人が螺旋階段を降り切ると、目の前に現れたのは巨大な鉄扉。中央には星型の鍵穴。長老は何も言わず、あの星型の鍵を取り出して差し込むと鈍い音がし、鉄扉が唸り声を上げた。長い年月を擦るような振動と共に、左右にゆっくりと割れると冷たい空気が地下から流れ出した。また、ここに来た。広大な地下室。石柱が何本も並び、奥は闇に溶けている。無数の箱、棚、封印された樽、古文書、武器、奇妙な機械、宝飾品。過去の遺物と宝物の数々。長い年月の重さが無言で訴えかけてくる。コリンが思わず息を呑み、ルキフェルは奥を見据える。三年前よりも今は少しだけ理解している。
「ここは保管庫じゃない。選別場だ」
「覚えていたか」
ルキフェルの言葉に長老がくつりと笑うと地下室の奥へと歩いた。足音が石の腹の中で小さく反響し、湿った空気は古い墓のようで、息を吸うたび肺の奥に年月が溜まっていく気がした。
「どうしても真実を知りたいなら、覚悟があるか試させてもらう」
長老は二人を振り返らないまま石壁の一部に掌を当てて押し込むと、乾いた音がひとつ続いて、地下のどこかで重い鎖がほどけるような唸りと共に壁が裂けた。そこから流れ出した冷気は、海底から浮かび上がる亡霊の息のよう。開けた空間に、薄闇の奥には祭壇。コリンが小さく呟く。
「伝説を祀る場所だよね」
祀るというより、閉じ込めるだ。三年前、ここに立ったのはただ一人、フランソワ。長老は祭壇の前に立ち、飾られている黒旗を見つめた。
「フランソワの死は島の中だけで収まらん。カリブ全体が騒いでいる。“新たな伝説が生まれた”と」
伝説。生きた人間の温度を奪い、代わりに象徴という冷たい名前を与える。長老の横顔は石像のように動かない。
「海に生き、海に死ぬ。自由を体現した男だと称える者もいる」
ルキフェルの胸の奥で何かが軋む。英雄。伝説。その言葉は棺桶の蓋のようだ。長老が二人を振り返り、祭壇を指差した。
「俺たちバッカニアは歴史を編む側だ。値すると判断した。お前は、あの男の最も近くにいただろう。象徴する何かを持っているなら——ここへ置け。そうすれば、話せることはすべて話そう」
賭けの内容が告げられた。水面のない海のように底が見えない。ルキフェルの心臓が早鐘を打つ。
帽子、あの男の。それを置くということは、彼を“物語”にすることだ。血も汗も怒鳴り声も、すべてを黒旗の一部に変えてしまうことだ。
ルキフェルは肩にかけていた袋を下ろすと、袋の中に手を突っ込んだ。指先がざらりと布に触れる。擦り切れた縁、何度も海風に晒されたフェルトを引き出した。フランソワの帽子が地下室の灯りを受けて影が揺れ、ルキフェルの手が震える。祭壇は何も言わず待っている。ルキフェルは帽子を握りしめたまま立っていた。伝説にするか、人として留めるか。その境界線が今、指先にある。荷物袋を持っていた手がふっと緩み、布が地面に落ちる乾いた音が地下室の天井へ吸い込まれていく。もう片方の手には帽子だけが残った。重い。革でも布でもない。もっと別の何かが乗っている。ルキフェルは一歩、踏み出すと靴底が石を打った。音が波紋のように広がり、壁を伝い、天井にぶつかり、戻ってくる。ルキフェルの背後でコリンは息を呑んで背を見つめていた。
ルキフェルは遺骨を扱うように帽子を両手で持ち直した。選ばれた者しか入れぬ区画に足を踏み入れると冷気が肌を刺すが、胸の奥は逆に焼けるように熱い。長老は何も言わず脇へ退いた。伝説のための空間が口を開けて待っている。もはや自分の鼓動しか聞こえない。ルキフェルは祭壇を前にして、足がわずかに止まりかけるが、踏みとどまる。本で読んだ数々の名。黒旗の英雄。裏切り者。怪物。神話。畏怖が足首に絡みついて、帽子を握る指がわずかに震えた。祭壇の中央に、ほんの少し空いた場所。ここに置けばいいのか。問いは声にならない。
——ここに置けば、あの人は“物語”になる。
ルキフェルは両肘をゆっくりと伸ばした。帽子が祭壇へ近づいていく。これは儀式だ。死に意味を与えるための意味。自分もずっと探していた、あの人の死の意味。……見つけられるかもしれない。その瞬間、ざわりと別の声が彼の脳裏を掠めた。
「フランソワは凄かった。フランスの艦隊を次々沈めたって話だ」
「七年私掠船やって、裏切られて、そこから二、三年であの暴れ方だぞ?」
「エドガーは暴力、フランソワは言葉で人を率いた」
「なあ。結構、男前だったぞ」
笑い声。酒の匂い。死を肴にする声。ルキフェルの手がピタリと止まり、長老の声が静かに落ちる。
「……どうした、ルキフェルの坊や」
ルキフェルは帽子を見つめた。帽子は手を離せば物語になる寸前で留まっている。
「——違う。あの人は、あんな奴らに語られる存在じゃない。あの人は生きていた人間だ。フランソワが海に飛び込んだのは……英雄になりたかったからじゃない」
ルキフェルは帽子の縁を指が強く握り、祭壇の遺物たちを見渡した。黒旗、錆びた剣、沈黙する羅針盤。
「この帽子は、自由の象徴だ。役割も名声も、恐怖も……全部、超えていた。あの人はいつも背負ってたんだ。だから、最期くらい……役割から解き放たれたかったのかもしれない」
ルキフェルの喉がわずかに鳴り、帽子をゆっくりと引き戻した。
「それなら、ここに並べるべきじゃない。あの人の意思じゃない」
地下室が静まり返る。伝説になり損ねた帽子だけが、ルキフェルの両手に残っていた。長老はゆっくりと煙を吐く。
「真実からは遠ざかるぞ」
「構わない! 遠ざかるなら、別の道を探すだけだ!」
ルキフェルの裂けるような声が地下室に反響し、握り締めた帽子の縁がぎしりと鳴った。喉の奥が熱くて声が震えているが、止めない。
「死んで消費されるなんて……俺は耐えられない。フランソワは……生きていたんだ」
ただの名じゃない。ただの黒旗でもない。息が荒くなって帽子を胸に引き寄せた。一瞬言葉が詰まるが、それでも言う。
「俺は、あの人が“生きていた瞬間”を大切にしたい。だって……あの人は、俺を育ててくれた、血のつながりなんて関係ない。俺のそばにいてくれた。叩いて、怒鳴って、笑って……背中を見せ続けてくれた」
ルキフェルの目の奥が焼け、噂話の声がまた脳裏によぎる。凄かった。英雄だった。男前だった。
「伝説なんて、くそったれだ。崇拝して、酒の肴にして、外面だけ称賛して……悪だとか英雄だとか、外から勝手に決めつける奴ら全員クソくらえだ。何も知らない奴らのために、伝説にしてたまるかよ」
ルキフェルは長老の方を真っ直ぐ見て言った。
「過去を探るってことは……あの人が“生きていた時間”も見つけるってことだ。俺は、あの人を“物語”としてじゃなくて人生ごと知りたい。だって、——フランソワは俺の育ての親だ。いつか真実を手に入れても……これだけは絶対に変わらない。伝説なんかで終わらせない」
ルキフェルの翡翠の瞳が祭壇の遺物を越えて、もっと遠くを見ると帽子を抱え直して続けた。
「あの人が生きていた時間の……その先を、俺は歩む」
ルキフェルは口にした瞬間、彼の胸の奥に張り詰めていた何かがすっと解けた。重圧でも怒りでもない。長く背負い込んでいた見えない鎖が一つ外れたような感覚。伝説を拒んだ。それでも彼の背筋は折れていない。むしろ、今の方がまっすぐ立っている気がした。




