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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】5・6巻「胎動編」  作者: セキユズル
第八章「——フランソワは俺の育ての親だ。
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第八章⑤ ルキフェルとコリン feat.ヤン

 トルチュ島の朝は早い。夜の湿り気がまだ石畳に残っているうちに、港はすでに目を覚ましている。鉄槌が船体を叩く乾いた音、帆を広げる軋み、魚を並べる木箱の擦れる音、酒場の裏口が開くたびに漂う昨夜の酒と塩の混ざった匂い。島は眠るというより静まるだけだ。止まってなどいない。


 朝食を済ませたあと、ルキフェルはいつものように鏡の前に立った。濡らした手で前髪を払い、櫛で後ろへ流す。鏡の中の男は今日も翡翠の目をしていた。昨夜の会話が脳裏に過ぎり、眉がわずかに寄るが考えるのは後だ。机の上に放り出していた封筒を手に取り、フランソワの帽子と共に麻の荷物袋に押し込んで部屋を出て、階段を降りて玄関扉を開けたところで彼の背後から声が飛んだ。


「どこへ行くの?」


 ルキフェルが振り返ると、ソフィーが階段の上から見下ろすようにこちらを見ていた。穏やかな笑みを浮かべてはいるが、目元が疲れている。


「港で人と会う約束をしている」


 ルキフェルが扉を抜けると、コリンが花壇の花を弄りながら待っていた。朝の光を受けて、少年の瞳がやけに澄んでいる。二人で坂道を下りていく道すがら、コリンが口を開いた。


「長老より先にリー・ウェンのところ行くんだね。あの人のとこ行っても、何か分かるとも言えないけど」

「あいつの元へ行くのは、自分探しのためじゃない。ただ、気がかりなことがあってな」


 コリンが横目でルキフェルをチラ見したが、ルキフェルは少しだけ足を早めた。市場通りに差し掛かった瞬間、鼻を刺す匂いが広がる。乾いた粉に焦げる寸前の香り。甘いのに刺すような刺激。そうだニールが言っていた。これはスパイス、異国の匂いだ。魚の生臭さともラム酒とも違う。島の空気、はっきりと混ざり込んでいる外の世界。ルキフェルは歩を緩めず、視線だけを動かした。色とりどりの布、見慣れぬ文字、東洋の商人たちの静かな佇まい。そして、そのどこかにいるはずの男、リー・ウェン。


 二人が市場通りを突っ切って港湾区に出ると、喧騒はさらに濃くなった。荷を担ぐ男たちの怒号、綱を引く軋み、海面を叩く波音とカモメの甲高い声。東洋のキャラバンが着いたあの桟橋へ向かうと、まだ木板の色が他より新しい。香辛料の匂いもわずかに残っているが、そこにリー・ウェンの姿はなかった。当然だとルキフェルは思う。あの男が目立つ場所で待つはずがない。ルキフェルは近くで荷を整理していた東洋人の男に声をかけて簡潔に特徴を伝えた。細身、静かな目、商人然としているが隙がない。男は一瞬だけ考え、すぐに頷いた。


「ああ、彼なら……あちらへ」


 ルキフェルの視線が指差された方角を辿る。坂を上がった先、石壁の残骸に崩れかけた塔。かつてバッカニアの時代に築かれたとされる要塞跡地、今はただの廃墟、その名も旧砦跡地。風の抜ける、見晴らしのいい場所だ。


「……礼を言う」


 礼を告げたルキフェルが踵を返すと、コリンが彼の横で小さく口笛を吹いた。


「なるほど。いかにも情報屋が行きそうな場所」


 二人で石段を登り始める。坂は急だ。港の喧騒が少しずつ遠ざかっていく中、坂を上りながらコリンが横目でルキフェルを見ては、石段を二段飛ばしで上りながら口を開く。


「それにしても、約束があるって言う必要あった?」


 ルキフェルは眉ひとつ動かさなずソフィーの声を脳裏に浮かべた。


「とくに考えずに言っただけだ。聞かれたから答えただけ」

「これだから無愛想って言われるんだよ」


 コリンは小さく鼻で笑い、ルキフェルの足がほんのわずかに止まる。


「……誰にだ」

「いや、一般論。というかさ。君って、他の女の子にはほんと雑だよね」

「雑じゃない。必要以上に近づかないだけだ」

「それを雑って言うんだよ。ほら、宿の娘とか市場の子とか。話しかけられても素っ気ないし」


 コリンは悪びれもせず言い、ルキフェルは視線を前に戻した。


「用がない」


 コリンはじっとルキフェルの横顔を見た。彼の無表情の奥に、ほぼ確実に一人しかいないことを知っている。


「まあ、無愛想っていうより一途すぎるって感じかな」

「殺すぞ」

「ほら、それ。図星じゃん」


 ルキフェルは胸の奥で騒つくものを自覚しながら舌打ちした。


「関係ないだろ」

「あるよ。めちゃくちゃある。スザンヌさんのことになると途端に言動バグるし」

「殺すぞ」


 二度目。今度は本気度が少し上がっている。コリンはひらひらと手を振った。


「はいはい、分かってるって。でもさ、優しくする余裕くらい持ちなよ。君はもう逃げ回る子どもじゃないんだから」


 ルキフェルの翡翠の瞳が一瞬だけ細くなった。坂の上に旧砦跡地の崩れた石壁が見えてくる。やがて、二人が旧砦跡地に足を踏み入れると周囲の空気が変わった。朝の港にあった喧騒はここにはない。代わりにあるのは湿った石と長年染みついた火薬と酒の匂い、それと人の視線だ。重いというより、陰湿。崩れかけた石壁の隙間から誰かの目がこちらを測っている。


「……やっぱ、ここだよね」


 コリンがこっそり呟いた。塔は半壊しているが、足場はまだ生きている。ルキフェルは無言で先に立ち、崩れかけた階段を上がった。石の縁を踏み外せば、そのまま下まで落ちる。塔の屋上は意外なほど見晴らしが良かった。海も港も、島の裏手の森も見える。情報屋が好む理由は分かる。ここはすべてを見渡せる場所だが、リー・ウェンの姿はなかった。屋上の隅で座り込んでいる男がちらりとこちらを見てくる。ルキフェルは彼の視線を正面から受け止めて告げた。


「東洋人の商人だ。背は高め、着流し風の上着」

「ああ。あいつなら、さっき酒場通りへ向かった」


 男が鼻で笑い、ルキフェルの眉間がわずかに寄った。


 ——ニアミスか。


 無駄足。苛立ちが胸の奥で小さく火を噴くが、顔には出さない。


「そうか。じゃあ、これに見覚えはないか」


 ルキフェルは麻袋から例の封筒を取り出した。少し擦れた封蝋、赤い蝋に刻まれた百合の意匠を男に見せると、他の男たちがぞろぞろとやってきて顔を寄せた。


「百合?」

「百合といえばフランスだな」

「王家の紋章か、貴族のどっかだろ」

「けど、この封蝋は見覚えがない。島じゃ見ねえな」

「……そうか。礼を言う」


 ルキフェルは封筒を懐に戻した。情報は金だ。だが今のやり取りは、あくまで挨拶代わり。二人で塔を降りる途中、コリンが口を開いた。


「手応えゼロだね」

「ああ」


 塔を出ると日差しがやけに明るかった。さっきまでの陰湿な空気が嘘のよう。


「酒場通り、行く?」


 コリンが問うと、ルキフェルは一瞬だけ港の方角を見て歩き出した。無駄足でも空振りでも構わない。この封蝋の意味を知らないままにはできない。酒場通りへ向かう坂を下りながらコリンが言った。


「長老のところ行くのに、ぼくって本当に必要?」

「連れてこいって言われただけだ」

「それが怖いんだよ……雰囲気も怖いけどさ。あの人、煙吐きまくってるのがやたら怖いじゃん。匂いもキツイし」

「……たしかに。あの人、いつもなんか煙食ってるよな」

「そう、それ! ぼく、アイルランドでもフランスでも見たことないよ。あれ、この島特有のやつなんじゃない?」


 ルキフェルは顎に手をや李ながら少し考えてぽつりと呟いた。


「他で見ないのは確かだな」

「そうそうそう! それと前にエドガーも吐いてたじゃん。今まで見たことなかったけど」


 コリンが妙に嬉しそうに頷く。ルキフェルの足がほんの一瞬だけ緩む。エドガー。薄く笑いながら同じ匂いをまとっていた男。


「……ああ」

「偉い人の間で流行ってるのかな。島のトップ層だけの嗜みとか?」


 コリンが半分冗談で言い、ルキフェルは鼻で笑う。


「そんな上等なもんに見えたか?」

「いや、全然」


 あの匂い。あの細長い道具。島の市場では見たことがない。荷にもない。取引にも出ない。にもかかわらず、長老は常に持っている。


「……あれは島の産じゃないな」


 ルキフェルがぼそりと言うとコリンが首を傾げる。


「え?」

「市場にもねぇ。商人も扱ってない。あの東洋キャラバンにもなかった」

「じゃあ……どこから?」


 コリンの声が少しだけ低くなる。ルキフェルは答えないが、胸の奥に浮かぶのは、あの言葉。来訪者。新大陸に近づく者を阻む、正体不明の存在。長老は、島の管理人。バッカニアの血を引く男。そして、何かを与えられている。


「……流行りってより、報酬だろ」

「報酬?」

「島を守る対価のな」

「……ぼく、ちょっと怖くなってきた」

「今さらだろ」


 コリンが小声で言い、ルキフェルは肩をすくめて言いながらも視線はどこか遠い。やがて、酒場通りの入口が見えた。


「とりあえずリーだ。煙の謎はその後」


 ルキフェルは思考を切り替え、コリンも頷き、二人は人波の中へ足を踏み入れた。酒場通りは昼前だというのにもう騒がしい。樽を転がす音、笑い声、まだ昨夜の酒が抜けきっていない荒い喉の声。コリンがぼやく。


「ねー、この調子で見つかるかなあ」

「まあ待て。行き先は予想つく」

「え?」

「こっちだ」


 ルキフェルは小さな石畳の路地へと折れた。人通りが急に減り、潮と石の匂いが濃くなる。抜けた先にあったのは、あの空き家だった。……が、一昨日までとは様子が違う。入り口には控えめな木製の看板。室内では東洋人たちが慌ただしく動き回り、外壁には見慣れない陶板が嵌め込まれつつある。波や雲を思わせる意匠。色は深い青と白。その作業を、腕を組んで眺めている男が一人。リー・ウェンことヤン・ジュンジャーだ。


「……いたな」


 ルキフェルが声を漏らすと、ヤンはゆっくりと振り返った。


「おや皆さん。おはようございます。活動的ですね」

「少し聞きたいことがあってな。今、平気か?」

「ええ。ちょうど暇していたところです。では、あちらに参りましょうか」


 ヤンの目がほんのわずかに細まり、空き家の奥の海に面した小さなテラスを指し示した。三人は中へ入ると木材の匂い、乾いた漆喰の粉、どこか甘い香りが室内を満たしている。


「作業中でバタバタしてて、申し訳ありません」


 ヤンは軽く頭を下げ、コリンがきょろきょろと見回す。


「何してんの?」

「飲食店にするんですよ。カフェと言われるものです」

「カフェ?」

「ええ。とはいえ、数日の間の仮住まいといったところですが」

「カフェかー。ぼくたちには馴染みがないやつだね」


 コリンは素直に感心した顔をし、ルキフェルが彼の横から淡々と挟む。


「お前はそもそも呑めるもん少ないだろ」

「え、でもこの間さ……ブランデー飲んだけど」


 その瞬間、ルキフェルの中で砂がさらさらと崩れ落ちるような感覚が身体中を駆け巡った。


「……お前、飲んだのか?」


 ルキフェルはコリンを見下ろしたまま腕を組んだ。


「お酒は! 二十歳超えるまで飲むなってフランソワが言ってただろ!」

「いや、だって……持ってきたのはマテオだし」

「……は?」

「それも航海中のことだよ? ソフィーだって何も言わなかったし」


 コリンの言葉にルキフェルの眉間に皺が寄る。


「……そもそも、なんで二十歳越えないと飲んじゃダメなの?」

「えっと……なんか、フランソワが言ってたから……」


 コリンの純粋な疑問にルキフェルは一瞬、言葉に詰まった。語尾が弱い上に根拠もない、言われたから守っているだけ。コリンがじっとルキフェルを見上げる。


「それ、理由になってなくない?」

「うるさい」


 二人のやり取りをヤンが眺めては着物の裾で口元を押さえた。なんとも微笑ましい。海賊の顔をしているくせに、やっていることは兄弟喧嘩。しかも、兄のほうが理屈に弱い。ヤンは心の中でそっと笑った。


 これは……なかなかに楽しいですね。


 風がテラスを抜け、陶板の欠片がかすかに鳴る。ヤンは軽く袖を払うように手を動かした。


「とりあえず、座りましょうか」


 テラス席は海風が抜け、作業音が遠くにぼやけていく。木製の丸卓を挟み、三人は向かい合う形で腰を下ろした。ヤンは穏やかな笑みを崩さないまま指を組む。


「それで。わたしに御用があるのでしょう?」


 ルキフェルは荷物袋から例の封筒を取り出すと無意識に指先が慎重になり、紙の端を持って卓上に置いた。


「ああ。これのことなんだが」

「……ほう」


 ヤンは赤い封蝋と刻まれた百合の紋に目を細めると、封筒を手に取って指先で蝋の刻印をなぞった。削れ具合、押印の癖、蝋の質感。ほんの数秒で、いくつもの情報を拾っているのが分かる。コリンが息を呑む隣で、ルキフェルは口を開いた


「知っていることがあれば教えてくれ」


 ヤンは封筒を卓に戻して淡々と告げる。


「結論から申し上げましょう。その封蝋は、旧ブルボン派の象徴です」


 その瞬間、ルキフェルの背中に冷たいものが走り、コリンの肩がぴくりと動く。


「旧……ブルボン派?」


 ——旧ブルボン派。三年前、潮の匂いとランタンの灯りにベルナルドの低い声が蘇る。


「旧ブルボン派ってのは、そのブルボン家の正統性を信奉する保守派たちだ。陰謀には強い。貴族社会特有の繋がりを駆使し、一部の海賊との裏取引も平気で行う。そんな旧ブルボン派の中には、フランソワを支持している者たちもいる」


 ルキフェルの心臓がどくんと跳ねた。ブルボンの名を聞いた瞬間に浮かんだのは、政治でも陰謀でもない、スザンヌだ。


「……くそ」


 なんでだ。突き放して自分から捨てたはずの名前が、こういう時に限って胸を締めつける。落ち着け、ここはカリブだ。テラス、昼、目の前にいるのはリー・ウェン。ルキフェルが封筒を見つめていると、ヤンが口を開いた。


「ご存じでしょう。過去の王権、あるいは血統の正統性を掲げる勢力。いわば亡霊のようなものです。彼らは公には姿を見せませんが、百合の紋は今も使われる。とくに密やかな通信においては。

「差出人は?」


 ルキフェルの問いにヤンは首を横に振った。


「そこまでは断定できません。ただし、この蝋の質と刻印の深さ。安物ではありません。地方貴族ではなく、より中枢に近い者の可能性が高いです」


 ルキフェルの翡翠の瞳がわずかに陰り、ぽつりとあの文面を口にする。


「……すぐそっちに向かうと書いてあった」

「その文言が中に?」

「ああ」


 ヤンは数秒黙ったのち目を開いた。


「差出人は命令を受ける側です」

「……なに?」

「“向かう”と言っている。つまり、これは返信です。命令書ではない」

「ってことは……」


 コリンが目を見開き、ヤンは静かに結ぶ。


「あなたは王党派の通信の一端を偶然手にしている可能性があります」


 海風が強く吹いて陶板が微かに鳴った。ルキフェルが腕を組んで唸り、コリンは封筒をじっと観察していた。


「これは自分探しとは方向が違うね」

「だから言っただろ。気がかりなことがあるってな」


 ルキフェルの翡翠の瞳がほんの少しだけ鋭く光る。


「それで、旧ブルボン派はどこに根を張ってる?」


 ヤンの口元がゆるやかに歪む。すっかり情報屋の顔だ。


「それを知りたいのであれば等価交換といきましょうか」


 ルキフェルは一度、ゆっくり息を吐いた。ヤンは急かさず興味深そうに封蝋を眺めている。やがて、ルキフェルが口を開いた。


「この手紙、ヨーロッパに向かってた貿易船から見つかった」

「……ほう」


 ヤンがやや前のめりになり、ルキフェルは封筒を指で弾くとペラペラしてる割に忌々しい百合の紋との距離が開いた。


「お前の推測通りなら、この返事を出したやつはカリブ近辺にいるってことになるが」

「理屈の上では、そうなりますね」


 ヤンの目が細くなり、ルキフェルは苛立ちを隠さず吐き出した。


「なんで旧ブルボン派がカリブにいるんだよ」


 コリンが息を呑んだ。確かに、ここは海賊の島だ。王宮の陰謀とは最も縁遠いはずの場所。ルキフェルはテラスの向こうの港を睨んだ。帆、荷、行き交う船。この中に旧ブルボン派の手が伸びているのか。ヤンはテーブルの上でゆっくりと指を組んだ。


「逆に考えましょう。なぜ“いない”と思ったのですか?」


 ルキフェルの眉が動くが、ヤンは構わず続ける。


「カリブは王権の目が届きにくい。海賊も多く、密輸も盛ん。陰謀を巡らせるには好都合な土地です」


 風が吹き抜け、封筒の端がかすかに揺れた。ヤンの目がルキフェルを捉える。


「それに、あなた方の存在そのものがヨーロッパにとって政治材料である可能性は?」


 ルキフェルの脳裏に、ベルナルドの声がまた蘇る。


 ——君たちを悪と象徴することで、新王党は民衆からの支持を得る。


 ルキフェルの拳が無意識に強く握られた。


「……俺たちは駒か」


 ヤンは否定も肯定もせず微笑んだ。


「駒であることと、盤面を読めることは別問題です」


 ルキフェルは顔を上げてから口を開いた。


「……旧ブルボン派がカリブにいるなら、そいつはただの亡霊じゃねえな」


 港の向こうで帆がはためく。リー・ウェンの言葉は有益だった。封筒一枚で世界の地図が裏返るような話だが、核心が見えない。ルキフェルは封筒を引ったくって懐に戻した。混乱しているのは政治の構図じゃない。返事を出した誰かの正体。ルキフェルの胸の奥がじわりと軋む。

 それにスザンヌ。ブルボン姓は偶然か、必然か。彼女は海軍の軍服を着ていた。王権の剣として、海賊と刃を交えた。だが、旧ブルボン派は王家の正統性を信奉する者たちだ。今の王党と敵対する立場。……彼女はどっちだ? 海軍の人間か、ブルボンの娘か。もし旧ブルボン派に連なる存在なら、もし彼女が“陰謀”の一端にいるなら、自分はどうする? 敵か。それとも……。ルキフェルの喉の奥がわずかに乾き、ため息が零れた。


「……色々と聞きたいのは山々だが、そろそろ次の場所に行かなければならない」


 ルキフェルが立ち上がると椅子がわずかに軋み、ヤンは頷いてから口を開いた。


「ええ。情報は流れます。止めようとしても止まりません」


 どこか含みを帯びている言葉に、ルキフェルは一瞬だけ彼を見た。


「世話になった。また来ると思う」

「ええ、わたしでよければ力になります」


 ルキフェルが踵を返すとコリンが小走りで後を追った。二人で外へ出ると陶板を打つ音が乾いた空気に響く。空き家は少しずつ異国の装いを纏い始めていた。カフェ、仮住まい、情報屋の拠点として。坂道を登りながら、コリンがルキフェルの顔を覗き込んだ。


「……ねえ。さっきから怖い顔してる」

「してない」

「してるよ」


 坂は急だ。石畳の隙間に砂が溜まり、靴底がわずかに滑る。管理人の屋敷は、さらに上だ。ルキフェルは自分の真上を見上げた。青空はやけに澄んでいる。その色を見ても、今日は何も思わなかった。代わりに浮かぶのは翡翠。そして、透き通ったターコイズの瞳。ルキフェルは息を吐いて視線を落とした。坂道は続く。今度は逃げるためじゃない。探すために。

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