第八章④ 五人組
しばらくの間、食堂には温もりが残っていた。皿の上にはパン屑、空になりかけたボトル、蝋燭の炎がゆらゆらと揺れて壁に海賊たちの影を伸ばしている。ルキフェルは残ったワインをゆっくりと口に含んだ。酸味の奥に甘みが残り、舌の上で転がす。今日の出来事を無理に考えないようにするための、ささやかな時間稼ぎだ。ジャスパーがグラスを揺らしながら言う。
「それにしても、リー・ウェンか。東洋人ってのは、みんなあんなにフットワーク軽いのか?」
「いや、あいつが特殊なだけだろ。あんな遠出してまで“想い”を届けに来る商人、そうそういねぇよ」
マテオの言葉にもルキフェルは何も言わずグラスの中の赤を見つめていた時、食堂の端で絶叫が上がった。
「よっしゃあああああ!!」
ルキフェルの意識が現実に引き戻され、ニールとコリンがテーブルを挟んでトランプを広げていた。クリベッジの盤の上で駒が最後の穴に到達しており、ニールが立ち上がりかける勢いで叫ぶ。
「百二十一点! 完全勝利だ!」
「ちょっと待って、数え直そうよ!」
「数えた! 三回数えた!」
「うるさい、静かに喜べ!」
コリンの抗議とニールの勝利宣言、それとマテオの苛立ちが入り混じり、食堂の静寂はあっさり粉砕された。ジャスパーがワインを口に含んだまま片眉を上げてチラリと横目でルキフェルを見る。
「あいつら、騒がしいな。……椅子が軋んだ音と同じくらい」
「ぶっ」
ルキフェルが盛大に吹き出し、喉で引っかかったワインが逆流し、咽せ返る。胸が熱い、鼻に抜ける。最悪だ。マテオが即座に布巾を掴み、飛び散った赤を拭き取っていった。
「……っ、ゲホッ、ゲホッ……!」
「はいはい、刺さってる刺さってる」
「……っ、ジャスパー……てめえ……!」
ルキフェルが咳き込みながらジャスパーを睨みつけた。翡翠の瞳が本気で怒っているにも関わらず、ジャスパーは涼しい顔でグラスを傾けた。
「ん? 何のこと」
ルキフェルのこめかみに青筋が浮く横でマテオが笑いを噛み殺し、布巾で最後の滴を拭い取った。
「ま、落ち着けよ副船長殿。図星ってのは刺さるもんだ」
「副船長言うな」
ルキフェルの声が若干掠れていた。端のテーブルでは、まだニールとコリンが騒いでいる。
「再戦だ!」
「絶対やらない!」
ルキフェルは小さく舌打ちし、もう一口ワインを飲み直した。まあ、いい。椅子の軋みも東洋人も、フランスも。今はこうして騒がしい夜の中にいる。その事実だけが妙に心地よかった。ジャスパーがまたグラスを掲げる。
「乾杯でもするか? 椅子のために」
「ぶっ飛ばすぞ」
カルロータが皿を抱えてやってきた。
「なになに、恋バナ?」
「なんでもない! 皿片付けるの手伝う!」
椅子を引く音がやけに速く、ルキフェルはほとんど反射で立ち上がっていた。おまけに声も上擦っている、本人だけが気づいていない。残った皿をまとめる手つきは異様に素早く、彼は誰とも視線を合わせなかった。一枚、二枚、三枚。手際よく重ねると、彼はカルロータの後ろにぴたりと付いた。
「ありがと。助かるわ」
「……別に」
ルキフェルとカルロータが厨房へ消えていくと、ジャスパーが腹を抱えて笑い出した。
「ははははは……っ、わかりやすすぎるだろ……!」
マテオがワインを口に含みながら呆れたようにため息をついた。
「……なあ。改めて思ったんだが」
「なんだ?」
「アイツ……ナイフとフォークの使い方もだけど、グラスの持ち方も綺麗だよな」
ジャスパーは笑いを止めて自分の手元を見る。彼の手は無意識にボウル部分を掴んでいるのに対して、さっきのルキフェルは──。
「ああ。あいつ、昔から食事の時だけ妙に洗練された動きするんだよ。今さら何を不思議がる」
「いや、違う」
ジャスパーの言葉にマテオは首を振る。
「ワイングラスってさ、ボウル持つやつ多いだろ。あれが“普通”みたいな空気あるじゃねえか。……オレはそういう連中を見てきたし、大抵ボウル持ちだ。けど、あいつ……ステム持ちだぜ」
「へえ?」
ジャスパーが眉を上げると、マテオは自分のグラスを持ち直す。
「いいか? ステム持ちするなら親指と人差し指、中指の三本でステムを持つ。薬指と小指は力ませない。添わすだけ」
「……細かいな」
「細かいから分かるんだよ」
ジャスパーは試しに言われた通りに持ち替える。ぎこちないが、確かに印象が変わって無意識に背筋が伸びる。指先に余計な力が入らないだけで所作が静まった。
「……まあ、悪くはない。けど、そんなに不思議か」
ジャスパーがくるりとグラスを傾けると、マテオは声を落として言った。
「貴族の女はみんなやる」
「……ほう?」
ジャスパーの手が止まり、マテオは自分の手元に目を落として続けた。
「教育を受けたやつの動きだ。叩き込まれた所作。あれは癖じゃねえ。あいつが覚えてないだけで……身に染みついてるもんがある」
厨房の奥から皿の触れ合う音が聞こえる中、ジャスパーはゆっくりグラスを置いた。笑いは消えている。
「……なるほどな」
ニールがトランプを丁寧に揃え、テーブルの端に置いた。
「……気づいちゃったか」
コリンも椅子を引いて立ち上がり、マテオとジャスパーのもとへ歩いてきた。どうやら今夜のゲームは本当に終わりらしい。マテオはワインの残りを一口あおり、グラスを置いた。コリンの声は好奇心半分、遠慮半分だが、視線は真剣だった。
「……やっぱ、貴族出身ってことになるの?」
「まだ可能性の話な。所作だけで断定はできねえ。けど……無意識であの持ち方は普通じゃねえ」
マテオは釘を刺しながら指で自分のグラスをくるりと回すとボウルを握った。ニールは腕を組み、顎に指を当てる。
「そういえば、今日はどこまで思い出せたの?」
あの二対一の面接形式を提案した張本人である。提案だけして市場に消えたくせに、当事者ヅラで聞いてくるあたりが彼らしい。マテオは苦笑しながら今日の成果をかいつまんで話した。記憶喪失、二言語、海賊船長、名付け。ジャスパーは途中で何度も小さく息を呑み、ニールは目を細めながら整理していく。
「……なるほど。ますます“普通”じゃないね」
その時、ルキフェルが厨房から戻ってきた。皿を抱え、厨房の灯りを背にして立つ彼の姿は、ついさっきまで出自会議の議題にされていた人物とは思えないほど普段通りだった。
「チーズ持ってきた」
四人の視線が一斉に向くと、ルキフェルは片眉を上げた。
「……何話してたんだ?」
一瞬空気が止まるが、コリンが一番に口を開く。
「今日、話したことだよ。ほら、自分探しのこと」
「ああ、あれか」
ルキフェルは椅子を引いた。腰を下ろす動作はやはり妙に無駄がなく、背筋が自然と伸び、肘の置き方も静かで整っている。テーブルの上にブルーチーズが置かれると塩気の強い匂いが広がった。ルキフェルはナイフを手に取り、無意識に丁寧に切り分けていく。親指と人差し指、中指で支え、薬指と小指は添えるだけ。それを見て、マテオとニールが目を合わせる。気づいた者同士の無言の確認。
「で? 俺の過去、勝手に決めつけてねえだろうな」
ルキフェルは彼らの視線に気づくことなくチーズを皿に配りながら言い、コリンは小さく笑った。
「まだ仮説だよ。安心して」
「そうか」
ルキフェルは頷き、ワインを口に含んだ。今度は完璧なステム持ちで。マテオがチーズを口に放り込みながら思い出したように言う。
「野菜と肉切るのは下手なのに、チーズ切るのはやたら上手いよな」
「うるさい」
ルキフェルのナイフを置く音がわずかに強い。コリンがくすっと笑い、ニールが肩を震わせる。ジャスパーはワインを揺らしながら楽しそうに目を細めていた。ルキフェルはジャスパーをギロリと見た。
「お前……人のことからかいすぎ」
「あれはあからさまだったろ。椅子が軋むレベルで動揺してたぞ」
ジャスパーは悪びれもせず返すと、ルキフェルのこめかみがぴくりと跳ねた。
「……俺が敵の女好きだったこと、なんで責めないんだよ」
ぽつりと落ちた彼の言葉に空気が一瞬だけ変わるが、ニールが首を傾げた。
「え? だってルキフェルが昔デートしてたの、その子が海軍に入る前でしょ?」
「デート言うな!! 誇張すんな!」
「いや、事実じゃない?」
吠えるルキフェルに対してニールは真顔、コリンが吹き出す。
「デートって言われると急に甘酸っぱいね」
「甘酸っぱくない!」
ルキフェルは喰らいつく勢いで睨んだが、耳のあたりがわずかに赤い。ジャスパーが追い打ちをかける。
「そうそう。あれ、何年前だっけ。おれと会って一年経ったぐらいだよな」
ルキフェルの動きがピタリと止まり、コリンが身を乗り出す。
「え、詳しく!」
「詳しくいらん!」
「港で待ち合わせしてただろ?」
「してない!」
「してた」
「してない!!」
キャンキャン喚くルキフェルを横目に、ジャスパーは涼しい顔でワインを傾けた。
「敵の女って言うけどさ。その時は敵でもなんでもなかっただろ。好きになる前に旗色確認するやつがいるかよ」
ルキフェルはテーブルの上のチーズを無意味に弄り始めた。コリンは目を輝かせ、ニールは冷静に分析し、ジャスパーは面白がっている。そしてマテオだけが黙ってワインを飲んでいた。視線はグラスの中、仲間のやり取りを聞いている。ルキフェルはふっと息を吐いた。
「……だからって責めないのかよ」
ニールが首を傾げた。
「責める理由ある? 別に海賊になってから口説いたわけでもないし」
「口説いてない!!」
食堂に笑いが弾ける中でルキフェルは舌打ちし、マテオが空になったグラスを置くとカチと乾いた音が鳴った。
「今も好きとか、好きだったとかは問題じゃねえ。けど、傷つけた罪だけは忘れるな」
ジャスパーとニール、コリンの空気が一斉に変わる。さっきまでの騒ぎが嘘みたいに止まった。ルキフェルはしばらく黙っていたが、ステムを持つ指先がわずかに強張っていた。ワインの赤がやけに濃く見えて、ルキフェルはゆっくり息を吐いた。
「……ああ」
ニールはしばらく黙って二人を見比べていた。ルキフェルとマテオ、一方は静まり、もう一方は酔いを含んだ熱を帯びている。ニールは舵を取るように弾む声音で口を開いた。
「少し今後の話がしたいな。まずソフィーのことだけど……ルキフェルの言う通り、彼女の選択を尊重する。それは前提。今はそっとしておくとして……カルロータさんがフランスに渡るなら住まいの件はどうしよう。ブエソル、このまま使えるか検討してみる? それと、ルキフェルの自分探しは——」
ニールがそこまで言ったところで、マテオが片手を挙げた。
「あ、聞き忘れたことあった」
ルキフェルは怪訝な目だけをマテオに向けた。マテオはほんの少しだけ頬が赤いが、水色の瞳は酔っていない。
「目が覚めて暴れ回った時の話、もう一回聞かせろ」
「……フランソワと出会った時のか」
何を言い出すかと思えば。ルキフェルは無意識に指先で自分の頬の古傷をなぞった。
「思い出そうとすると、頭の奥が真っ暗だった。何もなかった。でも一番は、やっぱり見られることだ。この顔も、この目も。全部」
その瞬間、マテオがゆっくりとルキフェルを指差した。酔っているのかと思うほど動きは大雑把だが、瞳だけが鋭い。
「……何してんだよ」
ルキフェルが眉を顰めていると、マテオは口を開いた。
「今、なんで“目”って言った?」
一瞬、ルキフェルの思考が止まるが矢継ぎ早に言葉を紡いでいった。
「いや、だから。目が覚めて鏡を見たら、傷だらけで。目の色も他のやつと違って異質だろ」
「なんで異質だと思った?」
マテオが言い切った瞬間、ルキフェルは言葉を探すが見つからない。異質だ。当たり前にそう思っていて、疑いもしなかった。
「……それは」
ルキフェルが答えかけたところで、ニールが腕を組んだ。
「まあ、緑色ってヨーロッパだと不吉だとか邪悪だとか言われがちだからね。毒とか病気とか災いとか。昔の迷信の延長線上だよ。偏見にも程があるけど」
「うん。悪魔の目とか、疫病の目とか言われることある」
コリンが頷き、ジャスパーはすでに酔いが回っているのかテーブルに頬をつけていた。
「へー……」
「……知らなかった」
「いやいやいやいやいやいや」
ルキフェルがぽつりと言った瞬間、四方から言葉が飛び交う。
「お前その目で何年生きてきたと思ってんだよ!」
「自覚ゼロだったの!?」
「そこ無頓着すぎるでしょ!」
「気にしてたくせに知らなかったのかよ!」
「うるさいな……」
ルキフェルは顔を顰めるが、胸の奥では別の感情が揺れていた。異質だと思ったのは自分で決めつけていたからか。それとも、誰かに言われた記憶があるのか。グラスの中の赤が揺れ、翡翠の瞳にわずかな迷いが映った。マテオはしばらく黙り込んで空になったグラスを指で転がしたあと、酔いの熱にやられたように両手で頭を抱えた。
「……えっと、整理させてくれ」
マテオは数秒だけ俯いて食堂の灯りが水色の瞳を影に沈めた後、ガバッと顔を上げた。
「オレが引っかかったのは……見られることへの意識だよ。顔は、まあ分かる。インパクト強いから。……さっきだって、また古傷触ってたし」
マテオの言葉にルキフェルは一瞬遅れて我に返った。無意識に頬へ伸びていた指先が止まり、ゆっくりと下りる。自分でも気づいていなかった。マテオは続ける。
「で、そのあと。目ってわざわざ列挙してきた。普通、“顔”って言ったら自然と目も含むよな?」
ニールが腕を組んで頷き、コリンは首を傾げる。
「ああ……僕も含めるかも。顔って言われたら、目も鼻も口も全部だよね」
「え、でも分けててもおかしくなくない? “顔”と“目”って別パーツじゃん」
「いや論点そこじゃねえ」
マテオが即座に返すと、テーブルに頬をつけたまま酔いが回ってふにゃっとしているジャスパーが、自分の赤髪を指でくるくる弄りながらぼそっと言った。
「おれは目より髪が気になるなあ。目なんてどうでもいい。髪色のほうが目立つだろ?」
マテオは無言、ニールはジャスパーから視線を逸らし、コリンは小さく吹き出してルキフェルは額に手を当てた。
「……お前は今喋るな」
「なんだよ、真面目な空気壊したか?」
ジャスパーはにやりと笑うも、マテオは深く息を吐いた。
「壊す以前に、そもそもお前は議論の外だ」
「ひでえ」
マテオは改めてじっとルキフェルを見た。酔いで赤くなった頬のまま目だけは妙に冴えている。
「……んで。自分の目のこと、どう思ってる?」
ルキフェルはワインを一口飲みかけたまま眉を寄せた。
「どう思ってるって……翡翠の色だろ? 俺以外で見たことないぞ」
またも空気が止まり、マテオの口が半開きのまま固まった。ニールの指先がグラスの縁で止まり、コリンは瞬きを忘れたように目を見開く。ややあってジャスパーがむくりと顔を上げた。さっきまで完全に酔い潰れていた男の目が異様なほど澄んでいる。
「……は?」
ルキフェルが思わず視線を向けると、ジャスパーはゆっくりと上体を起こしてテーブルに肘をついた。
「お前さ。今、ニールが“緑色”って言ったばかりだよな。なんでお前の口から“翡翠”なんてワードが飛び出すの? ……誰も言ってないよな?」
ジャスパーが辺りを見渡すと、マテオが首を横に振ってニールも無言で頷き、コリンは唇を引き結んだ。ルキフェルの喉がひくりと鳴る。
「……いや、別に」
翡翠。その単語は思考を通っていなかった。なのに今、自分の口から自然に翡翠という言葉が出た。
——なぜ?
ルキフェルの視界の奥がわずかに歪む。波の音、夕暮れ、仮面越しの距離。
「ノワール、あなたの声……やっぱり、好きかもしれない」
あの時のスザンヌが……近い。息が触れそうな距離だ。
「声も好きだけど……その瞳も、綺麗で好きよ」
ルキフェルの心臓が跳ねる。
「……なんで?」
「なんでって……綺麗だから。この間、東洋の商人さんが見せてくれた緑の宝石に似てるなって思ったの。透き通ってて……見てると、つい魅入っちゃう感じ」
彼女は当たり前の顔で言った。緑の宝石。透き通っていて。魅入ってしまう色。ルキフェルの胸の奥がじんわりと熱を帯びる。あのとき、初めて、否定されなかった色。綺麗だと。好きだと。
ルキフェルは我に返ると、四人の視線を受ける中でゆっくりと息を吐いた。
「……そういえば、十六の時だ。スザンヌが俺の目を見て言ってくれたんだ。東洋の商人が見せた緑の宝石に似てるって。透き通ってて魅入る色だって。……だが、彼女は“翡翠”とは言っていない。“緑の宝石”としか」
ルキフェルの口元がほんの少し緩んでいるとコリンが小声で呟いた。
「うわ、惚気話だ」
「ガチのやつ」
ニールが肩をすくめ、マテオはワインを飲みながら低く言う。
「てかあの女、綺麗なだけじゃないだろ。軍人になったってことは芯も相当強い」
ジャスパーは完全に覚醒した目でルキフェルを見つめる。
「……そりゃ、惚れるわ」
「お前らな」
ルキフェルは眉を顰めるが、反論は弱い。彼の胸の奥に残るのは、甘さと痛みの混ざった感覚。そして、翡翠の単語がなぜか今、やけに重い。緑ではなく、翡翠。ルキフェルは椅子の背に頭を預け、天井を仰いだ。
「……俺、なんで翡翠なんて言ったんだろう」
誰に向けるでもない独り言。沈黙。マテオがワインを揺らしながら横目でニールを見る。
「……ニール。講釈垂らしてみろ」
急に振られたニールは「え?」と瞬きしたが、すぐに真顔になった。
「翡翠はね、硬玉。東方では護符として扱われることが多い。災厄を遠ざけ、命を守る石。王侯貴族の装身具にも使われるし、精神の均衡を保つとも言われている。緑色の中でも特に深いものは“高潔”や“調和”の象徴。西ではあまり流通しないけど、東ではかなり神聖視されることもある」
ニールは語り終えるとグラスに口をつけた。ルキフェルはぼんやりと聞き、「うん、初めて聞いたな」と呟いた途端、マテオは目を閉じて額を押さえ、ニールは何も言わず遠くを見る。コリンは小さくため息。もう誰も突っ込む気力がない時、ジャスパーが口を開いた。
「ルキフェル。もしかして……差別、受けてたんじゃないか?」
空気が変わり、ルキフェルは目だけをジャスパーに向けた。
「……根拠は?」
「勘だ。お前、目の話になると妙に身構える。あと、“見られる”って言い方。あれ、経験者の言葉だ」
ルキフェルは数秒黙り、ゆっくり息を吐いた。
「……じゃあ、そうなんだろうな」
認めたいわけではないが、否定する材料もない。彼の胸の奥でうっすらとした既視感だけがあると自覚した時、コリンが身を乗り出した。
「ちょっと待って。君の認知、歪みすぎてる」
「は?」
「知ってるはずのことを知らない。その逆もある。さっきの“翡翠”みたいに。君の記憶喪失は空白じゃない。隠れてるんだよ。意識の下に、ちゃんとある。だから時々漏れる」
コリンの言葉にルキフェルの喉がわずかに鳴った。
「だが、目が覚める前はどうだったのか本当にわからない」
「うん。それは本当に“見えない部分”だと思う」
コリンが頷くとルキフェルはゆっくりと背を起こした。
「……フランソワを探るしかないか」
ニールが両手を後ろについて、椅子をギシと鳴らした。
「じゃあ……明日も僕、市場行ってくるね。東洋のキャラバン、まだ滞在してるかもしれないし。もう一回見てくる」
「あー、オレは整備屋だな。船の補修部品、買い足さねぇと。コリンのおつかいでな」
「ぼ、ぼくのせいみたいに言わないでよ」
「事実だろ」
マテオとコリンのやり取りの中、ジャスパーは椅子の背にもたれたまま面倒くさそうに片手をひらひらさせた。
「おれは特にねぇな、気が向いたらついてく。で、お前は?」
ジャスパーに問われて、ルキフェルは少しだけ考え込んだ。港、市場、整備屋。どれも悪くないが、別の顔が脳裏に浮かんだ。リー・ウェン、フランスから来た男。そして自室の机に放りっぱなしの封筒、貿易商からくすねた差出人不明の手紙。
——了解した。すぐそっちに向かう。
あの一文だけがルキフェルの胸に妙に引っかかっている。封蝋、百合の紋。百合といえばフランス。リー・ウェンなら何か分かるかもしれない。ルキフェルはゆっくりと顔を上げた。
「俺は……リー・ウェンに会いたい」
ニールが「ほう」と小さく目を細める。マテオは腕を組んでルキフェルを見据えた。
「探り入れんのか?」
「ついでだ。その後、長老のところにも寄る。フランソワのことを、聞きたくてな」
フランソワと長老は長い付き合いだ。あの人なら何か知っている可能性は高い。自分の記憶が戻らないなら外から掘るしかない。ルキフェルは視線を横に流すとコリンと目を合わせた。
「……そういえば、長老がお前に会いたいってさ」
「えー、またぁ……」
コリンが本気で顔を顰めた。
「なんでぼくなのさ。絶対また変な質問されるやつでしょ」
「知らねぇよ」
「勘弁してよお……」
コリンがぶつぶつ言いながら頭を抱える横で、ニールがそっと胸を撫で下ろした。
……今回は僕じゃないんだ。
マテオがニールの様子を見て、にやりと笑う。
「次はお前だろ」
「やめてよ」
食堂にまた軽い笑いが戻るが、ルキフェルの胸の奥には別の熱が灯っていた。明日は、動く日になる。




