第八章③ ルキフェル
その時、廊下の方から慌ただしい足音が響いた。木床を踏み鳴らす急いだ音に何かがぶつかる鈍い衝撃。ルキフェルの視線が自然と扉へ向くと空気が変わって扉が勢いよく開け放たれる。光の逆流の中に二つの影。一つはジャスパーだが、いつもの軽さはなく、体温を落としたような顔で目だけが鋭く光っている。そして、彼の腕に捕らえられている東洋人の男。昨日、ルキフェルが案内した穏やかな笑みを浮かべる商人だ。彼の肩をジャスパーが容赦なく掴んでいた。ルキフェルは椅子を押し、立ち上がって口を開く。
「どうした」
マテオもコリンも立ち上がるとジャスパーが唸るように言った。
「こいつ……ソフィーのこと知ってる」
ルキフェルの瞳が細まるとマテオの手が無意識に腰へ動き、コリンの呼吸が浅くなり、ヤンの襟元を掴むジャスパーの拳に血管が浮いた。
「どこで知った」
ヤンはゆっくりと顔を上げた。穏やかな笑みは消え、目が真面目だ。冗談も商人の余裕もない。
「痛くしなければ、すべてお話しします」
ヤンの視線は真っ直ぐ、ルキフェルを捉え、ルキフェルはゆっくりと歩み寄ってヤンの前に立った。
「離せ、ジャスパー。話は聞く」
ルキフェルの翡翠の瞳が光る。食堂はもう食堂ではない、ここは尋問の場だ。やがて扉が開いて外の光が一瞬だけ差し込み、ソフィーとニールが戻ると空気がぴたりと張りつめた。
ルキフェルはカルロータを呼ぶと、食堂に顔を出したカルロータが頷くなりマテオとコリンが食堂のカーテンを引く。昼の光が遮られ、室内は薄暗く沈んで外の喧騒が遠のく。ジャスパーが椅子を動かして二対一の構図に、対峙するためにわずかな距離を開けて置いた。ニールが無言でヤンの身体検査を始めると慣れた手つきで着流し風の上着を脱がし、テーブルへ置くと上着の内側から細身の短剣が覗いた。光を吸う刃、商人の持ち物にしては軽すぎる。さらに、ニールが小さな手帳を開くとページは解読不能な文字で埋め尽くされていた。ニールに手帳を差し出され、ルキフェルも手に取ってページをめくる。癖のある筆致、符号のような線。読めないが、ただの商いの記録ではないことが分かると短剣の隣に手帳を広げたまま証拠を並べるように置いた。
ヤンは彼らの一連の動きを黙って見て、ページに記した中の記録と目の前の特徴を頭の中で確認している。やがて、ルキフェルはヤンを振り返って椅子を指差した。
「座れ」
ヤンは一瞬だけ視線を巡らせ、意図を察すると座り、ルキフェルも腰を下ろすと向かい合った。ルキフェルの隣に、ソフィーが黙って座るが背筋は真っ直ぐだ。ジャスパーは立ったまま壁際に寄り、マテオとコリンも、ニールも位置を取って逃げ場を失くす。カウンターの奥で湯が沸く音がして、カルロータがゆっくりと茶を淹れると湯気が立ち、茶の香りが冷たい空気をわずかに和らげた。ルキフェルはヤンをじっと見つめる。
「……話してもらおうか」
カルロータは何も言わず、ヤンの前に客人に向ける仕草で茶を差し出した。ここは宿だ。裁きの場ではない、話す場だ。それが彼女のスタンスらしい。ルキフェルは椅子にもたれたまま視線だけをヤンに向けた。
「……で、名前は?」
——また“モラレス”なんて抜かしたら、ぶっ飛ばす。
ヤンは肩をすくめ、軽く笑った。
「リー・ウェンと申します。サン・マロを経由して、この島まで。ただの伝書鳩ですよ──少なくとも、表向きはね」
「なるほど……リー・ウェン、か」
ルキフェルは舌の上で名を転がす裏で、ある記憶を掘り起こしていた。甲板の風、フランソワの声を。
——リー・ウェンってのは人の名前じゃない”
東洋人の情報屋。全員が同じ名を名乗る。複数で一人を装う。彼の説明が脳裏を過った。ルキフェルは視線だけを動かした。ジャスパーも、マテオも、コリンも、ニールも。全員が理解しているが、口には出さない。情報屋に対して、情報屋の正体を暴くのは無粋だ。ルキフェルは何も言わずヤンを見ていると、次に口を開いたのはソフィーだった。
「……それで、なぜ私を知っているんですか?」
「知っている、は言い過ぎでしょうな。正確には、見かけただけです」
しばらくヤンの言葉が続く。ブレストの港、取引、軍港。ルキフェルは聞いているが、半分しか聞いていない。
「あなたの上官、マクシムさんと取引をしていた折のことです」
その名が落ちた瞬間、世界の焦点がそこだけに絞られた。マクシム。他の言葉が遠のく。乾燥させたマンドレイクとかいう眠りを誘う毒、妙薬、西で扱える者は少ない。ソフィーの声が掠れ、コリンが自身の腕を見る。ヤンは淡々と語るが、ルキフェルの中ではマクシムの名だけが鋭く浮かび上がる。誠実で話が早く、良い取引相手。楽しいだって? ルキフェル胸の奥で何かが冷える。
「その“取引”の最中に、ソフィーを見たってわけか」
自分の声がやけに平坦に聞こえる。ヤンは頷いた。軍港から抜け出す直前、逃亡者とその従者たち。彼の言葉に室内の空気が張る。ルキフェルは動かないが、翡翠の奥がわずかに光を強める。マクシムが何を考えているのか。ソフィーをどう見るのか。そして、この東洋人はどこまで知っているのか。他の情報はあとでいい。
沈黙を破ったのはマテオだった。妙だと言う、なぜ今なのかと。ルキフェルは椅子に浅く腰を下ろしたまま視線を動かさない。ヤンは笑った。サン・マロ、手紙、ジョルジュ・アルダーソン。その名にソフィーが反応して顔が上がる。空気がわずかに動く。ルキフェルは彼女を横目で見ていた。ああ、味方側の名か。その後も会話は続いていった。二人きりで会いたい。秘密裏。記録に残らぬ手段。軍属のまま接触。マクシミリアン・ブーケに疑わしき点。ソフィーが息を呑み、マテオが「そいつ、バカだな」と言った。義理堅い。無鉄砲。ヤンは彼の心に曇りがないと評する。評価。断言。ルキフェルは聞いていが感情は動かない。
——やっぱりな。
マクシムとかいう理想家の皮をかぶった男。ジョルジュとかいう疑いを持ち始めた若者。身内同士で探り合い、裏で接触し、記録を消す。軍港、理想、正義の内側はどこも似たようなものだ。ジョルジュが何を思ったか、どんな覚悟で会いに行ったか、ソフィーに何を伝えたかったか。それは彼らの問題だ。
ヤンが古びた紙を出す。軍医の消息、行方不明者として処理、違和感、生きている可能性。ニールが反応し、ソフィーの声が揺れた。室内の温度がじわりと上がるが、ルキフェルは中心にいない。
あの部隊……身内同士の疑い合いが酷いな。
海賊は裏切るが、それは表に出る。軍は表を守るが、裏で腐る。どちらが健全かは知らない。ただ、この話はソフィーの戦場だ。今は聞くだけでいい。ルキフェルは椅子にもたれたまま目を細めていると、ヤンの視線がゆっくりとソフィーへ向いた。
「だからこそ、貴族の側にいる信頼できる女性たち──」
「……スザンヌのことだ」
ヤンの言葉の続きをソフィーが引き取った瞬間、ルキフェルの胸の奥が爆ぜて熱が一気に駆け巡り、彼の視界の端に月光を溶かしたような淡い白金色の髪が脳裏に閃いた。澄み切った声、凛とした眼差し、あの穏やかに笑った顔、一瞬で思い出した。思い出したくなかったのに。
——は? え、この一件……スザンヌも?
鼓動がやけに速い。自分でも分かるほどに顔が熱い。何か言われたわけでもないのに動揺が全身を走る。待て、落ち着け。今は尋問だ、顔に出すな、呼吸を整えろ。ルキフェルは少し体勢を直すだけのつもりで椅子を引くとギイと思いの外大きな音が鳴った。軋みだけが不自然なほどはっきり残り、全員が一瞬だけ視線を向けるが誰も何も言わない。ルキフェルは何事もなかったように視線をヤンへ戻した。まだ熱い。鼓動が耳の奥で鳴っている。スザンヌが関わっている。それは軽い話ではない。個人的な感情で動くな。だが、無視もできない。
……落ち着けよ、俺。ひとまず慎重に聞くべきだな。
ルキフェルが内心のざわめきを押し殺して翡翠の瞳を細めていると、ヤンは先ほどのソフィーの言葉に頷いた。
「ええ。彼女たちの力を借りて、ジョルジュは“社交界”という水脈に目を向けたのです。そこには、裏の情報が流れ込む。──東洋の出自で、密かに貴族間の取引や調停に関わる情報屋として動く“リー・ウェン”という男がいる、とね」
またヤンの言葉が続く。ルキフェルは聞いているが、意識の一部はまだ別の場所にある。貴族の側。スザンヌ。あの世界。自分とは遠いはずの光の側。なのに今、同じ線上にいる。ソフィーの唇がかすかに震え、握った拳が白くなる。ルキフェルは彼女の横顔を無言で見つめていた。強い顔だが、今は迷っている。しばしの沈黙。やがてリー・ウェンが椅子に姿勢を正すと空気が変わった。これまでのやり取りがすべて前置きだったかのように。
「さて、ソフィーさん。あなたには──選択肢が二つ、あります」
ルキフェルはわずかに目を細めた。なるほど、そうきたか。情報を渡すだけではない。決断を提示する。しかも“二択”という形で。マテオが噛みつくが、ヤンは動じない。
一つ目、海賊をやめて本土へ戻るか。ブレスト。サン・マロ。迎える者はジョルジュ・アルダーソン。ルキフェルは横目でソフィーを見ていた。胸の奥に走る微かな痛みを彼女は隠そうともしない。ヤンは続ける。選ぶのは彼女。尊重する。待つのではなく、決めさせたい。
「あの男は、誰よりもあなたの意思を信じていました」
……人の想いまで運ぶのか。
ルキフェルは息を吐いた。
二つ目、戻らずに海賊として生きる。ジョルジュの望みは叶わないが、“選択を尊重する”という一点では叶う。言葉の組み方が巧い。どちらを選んでも誰かの意志は守られる。罪悪感だけを残さないように道を整えている。昨日まで胡散臭いやつだと思ってたが……いや、今も胡散臭い。だが、やっぱり只者じゃない。東洋の情報屋。裏と表を行き来する商人。ただ情報を売るだけなら手紙を渡せば済む話だが、この男は違う。想いを運び、選択肢を提示し、決断を促す。しかも、そのために遥々西の果て、トルチュ島まで来た。バカやばいなとルキフェルは内心で淡く評価を下した。行動力、胆力、そして距離感。敵にも味方にもならないと言いながら心の核心を突いてくる。ルキフェルは椅子にもたれたまま視線を落とした。
「──答えは、今すぐでなくて構いません」
ヤンは立ち上がると長い上着の裾が揺れた。決断を迫るだけ迫って猶予を与える。一週間。短いようで長い。逃げ道にも覚悟にもなる時間。
「わたしは一週間後、サン・マロへ向けて出発します。その日までに、返事をいただければ」
「……わかった」
ようやく絞り出すように、ソフィーが答えるが、その一言の重さをルキフェルは感じ取った。ヤンは一礼し、目的を果たした者の歩き方で扉へ向かうところで、ルキフェルは口を開いた。
「随分と、穏やかな提案じゃないか。……ずいぶん、らしくねぇ」
リー・ウェンという男は昨日までの印象ではもっと冷酷で、もっと計算高くて、もっと“利”に忠実な存在だった。情報屋は感情で動かない。情報屋は価値で動くが、今日のこいつは違う。想いを運び、選択肢を整え、罪悪感の逃げ道まで作った。何が目的だ。ジョルジュの依頼、それだけか。それだけでここまでやるのか。ヤンは足を止めないが、わずかに肩が揺れた。
「ふふ。そう言われることにも、もう慣れました」
裏と表を行き来する商人。敵にも味方にもならない。そう言った男が今はどちらにも偏らないように、必死に均衡を保っている。扉が開き、夕陽の名残が室内へ差し込んで橙の光がヤンの輪郭を縁取った。
「では、また。──風の流れが、あなたを導きますように」
あくまで選ぶのはお前だと言う。ヤンは食堂を去り、扉が閉まった。室内に残るのは茶の香りと重い沈黙。ルキフェルは背もたれに深く身体を預けた。穏やかすぎる。あの男は場を荒らせたはずだ。情報を武器にできた。ソフィーを揺さぶり、仲間内に亀裂を入れ、選択を急かすこともできたが、しなかった。なぜだ。信頼か、依頼者への敬意か。それとも自分たちを試してるのか。翡翠の瞳がわずかに細くなる。胡散臭いが敵ではない、今のところは。だが、あの男は風の向きを読む。風は変わる。変わった瞬間、あいつは迷わず動く。
——侮るなよ。
ルキフェルは内心で告げた。これは穏やかな提案ではない。静かに置かれた導火線だ。
その夜、宿屋の食堂には香ばしい匂いが満ちていた。タラとオリーブを白ワインで煮込んだソースが、鍋の中で静かに泡立つ。焼きたてのライ麦パン。山羊のチーズ。ひよこ豆と干しぶどうの和え物。保存食と香草を合わせた、いかにもカルロータらしい献立だ。海賊たちは素直だ。美味いものは美味いと言う。
「……うまいな」
マテオが目を細めた。ニールが頷き、ジャスパーがパンを浸す。コリンが無意識に二口目を急ぎ、ルキフェルは黙ってスプーンを口に運んだ。
——ああ、うまい。
素直に思う。そして、嫌な予感もする。
「で──さっきの話なんだけどさ。ソフィーを裏切った奴らのいる場所に戻るってのは……正気の沙汰じゃないよ」
案の定ニールが切り出すが、ルキフェルは顔を上げずスープを掬い、口に入れた。ジャスパーが続く。帰ってどうなる、未練はあるのか。ニールが重ねる。ここにいてくれたから救われた、向こうは分かっているのか。コリンが反論する、全部切り捨てるのは違う。マテオがコリンの言葉に頷いた。選択肢を持っていることが強さだ、味方が一人いれば人は進める。信じてくれた人間がいるなら、全部を否定するな。四人の言葉がまるで波のようにテーブルの上を行き交う。ルキフェルはパンをちぎった。
——こいつら、しゃしゃり出てやがる。
予想通りだ。こういう話になると、彼らは黙っていられない。誰かが守り、誰かが押し、誰かが理屈を立てる。悪いことじゃない。むしろいいが、選ぶのはソフィーだろ。海軍に戻るか、ここに残るか。どちらも簡単じゃないし、どちらも痛い。他人が正論を並べるのは簡単だが、背負うのは本人だ。ルキフェルは皿を見つめたまま肉を切り分けた。カルロータの料理は今日も完璧だ。味は安定している。人間の選択だけが不安定だ。ルキフェルの視界の端で、ソフィーの指が止まった。信頼という言葉が彼女に刺さったのは分かる。
——怖いだろうな、戻るのは。
裏切った場所へ。信じてくれた人間がいる場所へ。どちらにせよ、逃げ場はない。ルキフェルは水を一口飲んだ。これは彼女の戦場だ。さっきヤンが整えた選択肢の上に、今度は仲間たちが感情を積み上げている。ほんと騒がしい奴らだが嫌いではない。こうやって真正面からぶつかるのがこの連中らしい。
「ところで!」
乾いた音が卓上に弾け、空気の流れを断ち切るようにカルロータが手を打った。ルキフェルはグラスを持ち上げたまま視線だけを彼女に向ける。
「私はこの機会に、いよいよサン・マロに移転するつもりよ。思ったより仕事も回せそうだし、あっちの港でも女手は必要でしょ?」
——は?
ルキフェルの頭にきっぱりとした疑問符が浮かぶ。そんな話、聞いていない。マテオが「はやっ!」と声を上げるのを、ルキフェルは半ば他人事のように聞いていた。冗談だと思っていたという反応に少し安堵する。自分だけが置いていかれているわけではないらしい。
「本気に決まってるじゃない。ほら、あそこならちょっと洒落た宿も開けるし、情報屋連中との距離も取りやすいし……それに、フランス側の動きも掴みやすいでしょ?」
カルロータの声はあっけらかんとして軽いが、その裏にはもう決めている者の重みがある。サン・マロ。ルキフェルの頭の奥で地図が浮かんだ。フランス。またその言葉かとルキフェルは思う。ニールの「まだ諜報活動もやるってこと?」という半ば呆れた声を聞きながら、彼はグラスの縁を指でなぞった。
カルロータも渡るのか。トルチュに留まる理由は確かに薄い。ディッキーはどうするのだろう。あいつはこの島に根を張るのか、それとも。……そういえばエドガーへの返事、まだしていない。ルキフェルの思考が一瞬で別の方向へ滑った。
「だからって、さらっと重大発表すんなよ……」
マテオの言葉に卓に小さな笑いが巡るが、ルキフェルの中で笑いは広がらなかった。フランスに向かう者、戻るかもしれない者、関わり続ける者。いつの間にか、この卓は東に引っ張られている。そして中心にいるのはソフィーだ。ルキフェルはゆっくりと背もたれに身を預け、グラスの中で酒を揺らした。これ以上、仲間同士で“正しさ”をぶつけ合うなという意志が言葉より先に空気を押した。
「……みんな、言いたいことは分かった。だが──ソフィーが決めることだ。俺たちが口を出すことじゃない」
マテオが何か言いかけ、ニールも視線を落とすが、ルキフェルは続ける。
「誰がどんな理屈を持ってようが、最後に背負うのは本人だ。……だったら、俺たちは受け止めるだけだろ」
ソフィーが見てくるが、彼女の視線をルキフェルは受け止めず、グラスの中の液体を見つめたまま回した。自分たちは支えるが、決めはしない。それが彼の線引きだった。卓の上のスープはぬるくなっているが、場の熱は消えていない。誰もが一歩、静かに引いたことで、輪郭だけがはっきりした。ソフィーの選択という、避けられない一点が。夕餉が終わるころ、ソフィーは椅子を引いた。
「……おやすみなさい」
彼女の声はいつも通り穏やかだったが、どこか奥に沈む響きを帯びていた。誰も引き止めず頷くだけ。扉が閉まる音が今日一日の区切りを告げるように小さく鳴る。




