第八章② ルキフェルとマテオとコリン
ルキフェルはため息を吐いて、ブエソルを目指しながら坂を上っていた。あの東洋人、変な奴だった。グイグイくるし、笑ってるくせに踏み込みが深い。そんなことを考えながら、ルキフェルはブエソルの扉を押し開けた。軋む音と視線、入口のすぐ先でマテオとコリンが腕を組んで待ち構えていた。ルキフェルは二人を見た瞬間、「あっ」と声を漏らす。
……忘れてた。
マテオが低く問いかけてくる。
「ルカ。どこ行ってた」
「お前は俺の母親かよ」
ルキフェルが反射で返した瞬間、思考が止まる。母親。その言葉が自分の中で奇妙に響いた。
「どこ行ってたのさ! 探したんだから!! 港湾区の端から端まで何回往復したと思ってるの」
コリンがぷりぷりと詰め寄り、マテオが肩をすくめる。
「オレはてっきり喧嘩でも始めたかと思ったぜ。まあ、無事に帰れたんならいいけどな」
「よくない!」
コリンが即座に反論する。騒がしい。いつもの調だが、ルキフェルは二人のやり取りを半ば上の空で聞いていた。
——母親。……そういえば、俺の親はどんな奴だった。
一番古い記憶。目が覚めたら海の上と揺れる甲板。塩の匂い。遠くで鳴く海鳥。名前も過去も、何もない。自分を育てたのはフランソワとリュウ・ヨシマサだ。二人がいなければ生きていなかった。それは間違いない。なのに何だろう、この違和感。言葉にできないが、無視もできない。どこかがズレている。ずっと前から。ルキフェルの目が泳いでいると、マテオの声で意識を戻された。
「ルカ、聞いてるか?」
「ああ」
ルキフェルが口先だけで答えるが、胸の奥で小さな波が立っている。重たくなりかけた空気を破ったのは食堂の扉だった。
「どうしたの」
扉から顔を出したのはジャスパー、夕食前だってのにパンを齧りながら状況を眺めている。マテオが肩をすくめた。
「はぐれ狼が無事に帰ってきただけだ」
「一匹狼だよ!」
即座にコリンが訂正する。ジャスパーは一瞬きょとんとしてからケタケタと笑った。
「それ、どっちでもいいやつじゃん」
笑い声が場の空気を少しだけ軽くする中で、ルキフェルはジャスパーをじっと見た。
「ジャスパー。少し相談がある」
ジャスパーはパンを持ったまま目を瞬かせると、口元を拭いながら歩み寄る。
「ん? ああ、いいけど。おれの部屋? それともお前の部屋?」
ルキフェルは首を横に振った。
「庭で話したい。ちょっと、風に当たりたくて」
「……そっか。じゃあ行くか」
ジャスパーは彼の表情を見て何も茶化さない。二人は並んで廊下を抜け、中庭へ向かった。二人の背後でコリンが小声で言い、マテオが低く返す。
「なんか真面目な顔してたね」
「だろうな」
二人が中庭に出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。空は高く、星がいくつか瞬いている。喧騒から少し離れた場所でルキフェルは深く息を吐いた。何から話す。東洋人のことか。それとも胸の奥に引っかかる、あの空白か。ジャスパーはルキフェルの隣で黙って待っていた。それが、ルキフェルにとって有り難かった。ルキフェルはしばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「……いつだったか、お前に言ったよな。俺が、思い出せないこと。みんな、過去を捨てて海に出た。俺もそうだ。生きることに必死で、過去なんて気にしたことなかった。振り返るのは無駄だと思ってた。だからと言って……今さら未来に希望なんか持ってていいのかも分からない」
ルキフェルは言い終えるとジャスパー目を逸らして海の方を見た。
「けど……このままでいいとも思えない。フランソワのために、まだやれることがあるんじゃないかと考えてしまうし。今まで気にしなかったことが、気になって仕方ない」
ルキフェルの喉がわずかに詰まり、沈黙が落ちた。夜風だけが二人の間を抜ける。やがてジャスパーが小さく笑った。
「まあ、お前が相談してくる時点で珍しいとは思ってたけど。変わったよな。良い意味で」
ルキフェルは視線を戻さないが、ジャスパーは構わず続ける。
「それってさ。自分に時間を割けるようになったからこその悩みだろ。お前は、もっと自分のために生きていいんだよ。フランソワだって、たぶん望んでる」
ルキフェルの指がわずかに強く握られる。
「……本当に、そう思ってくれてるんだろうか。思っていいのかな」
ジャスパーは空を見上げた。
「まあ、結局のところ決めるのはお前だよ」
「厄介だな」
ルキフェルが苦く笑う。
「今さらになって、俺に選択肢があるとか」
「そうか? ずっとお前は、自分の意思で選択してきたと思うぜ。無意識なだけで」
淡々と返すジャスパーにルキフェルは一瞬言葉を失って息を吐いた。
「……それにしても、さすがだな」
「何が」
「付き合いが長いだけのことはある。……思えばさ、お前と出会ってもう十年経つんだな」
ルキフェルがチラリとジャスパーを見ると、彼はふっと笑った。
「ひょんなことから路地裏でぶつかって。そのあと二人で警備隊と鬼ごっこしたやつな」
ルキフェルは眉をひそめる。
「おい、言っとくが俺は巻き込まれただけだろ。散歩してただけだ。お前が警備隊に追いかけ回されてた」
「悪い悪い。おれだって、なんで追いかけられてたか知らねえよ」
「スリしてたところを見られたんだろ」
「うーん……」
ジャスパーが首を傾げて少し真面目に記憶を掘り起こそうとするが、すぐに軽く手を振って諦めた。
「まあ、いいだろ。あの時、お互いぶつかったから今があるじゃないか」
「ほんと、昔から調子乗る。お前は過去を振り返らないんじゃなくて、忘れっぽいだけ」
「いやいや。おれ、誰かに言われた通り、名前と誕生日は覚えてるから平気平気」
ジャスパーは指を立て、ルキフェルは半ば呆れたように返す。
「だから、その“誰か”ってなんだよ。じゃあ、誕生日は」
「十一月二十六日だよ」
ジャスパーは淀みなく答えた。間も迷いもない。ルキフェルはわずかに目を細める。
「……随分と正確だな」
「だろ?」
ジャスパーは笑った。石畳の隙間に落ちた影がどこまでも深く沈んでいる。遠くで波が砕ける音がするたびに、ルキフェルの胸の奥の何かがわずかに揺れた。言葉にすれば壊れてしまう気がしたが、壊れなければ前へ進めない気もした。
「それに比べて……俺は、自分の誕生日も知らない。フランソワは夏生まれとしか教えてくれなかった」
夏。その曖昧な言葉が今さらになって胸に引っかかる。なぜ知っている。どうして、そう断言できる。その疑問が浮かんだ瞬間、ルキフェルの胸の奥で亀裂が走った。
「……そもそも。なんで、俺が夏に生まれたって知ってるんだろうな」
自分は何も知らない。あの人の過去も、出会う前の出来事も、名前の由来も、拾われた理由も。信じてきた。疑うことをしなかった。それが正しい忠誠だと思っていた。だが、今は胸の奥で何かがひび割れる。
「俺は……あの人の全てを知らない。人の過去を漁るのは良くない、ましてや海賊だ。過去を捨てたなら、触れちゃいけない領域だ」
そう言い聞かせてきた。それが礼儀であり、覚悟であり、筋だと思っていた。
「それなのに……今になって、あの人の全てを知りたいと思ってる」
ルキフェルが喉を詰まらせると、ジャスパーは彼をじっと見つめながら言った。
「でも……それだけじゃないんだろ?」
ルキフェルの肩がわずかに震える。ジャスパーが一歩踏み込んできた。琥珀色の瞳は闇世の中でも鋭い。
「お前さ、最近あれやりたい、これやりたいって言えるようになったろ。それは成長だと思うよ。でもさ……本当にやりたいこと、それなのか? フランソワの過去を知りたいのは、本音じゃないだろ」
ジャスパーの声が落ちた途端、ルキフェルは目を固く閉じた。自分でも理解できない衝動だった。その瞬間、記憶が割れる。闇。血の匂い。湿った木材。呼吸ができないほどの圧迫感。鏡に映る、見覚えのない顔。裂けた皮膚。重なる傷。翡翠の目だけが異様に澄んでいた。
「お前は、誰だ」
自分に向けた最初の問い。それから、ソフィーの声。
「あなたは、恐怖から閉ざしているだけ。あなたが本当に恐れているのは、過去じゃない。——自分自身よ」
ルキフェルはゆっくりと目を開けた。夜は変わらず静かだが、胸の内は嵐だった。
「……俺は、自分が誰なのか知りたい。なんで海の上にいたのか。その前は、何だったのか。“ルキフェル”って名前は、何もない俺に与えられた名前だ。じゃあ……俺の本当の名前は何だ」
それは初めて、他人に向けて言葉になった願いだった。その事実が今さら重くのしかかり、胸の奥に沈めていた問いがとうとう浮上した。
「なあ、誰にだって最初は親がいるだろ。母親と父親。俺には、最初からフランソワしかいなかった。目が覚めた時から、ずっとだ。知りたい、逃げたくない。そのためなら……フランソワの過去を探ってでも知る。あの人の全てを知らなければ、俺が誰なのか永遠に分からない」
ルキフェルの翡翠の双眸がまっすぐに海へと定まる。
「俺が、俺でいるために」
長い沈黙のあと、ジャスパーがゆっくりと手を伸ばし、パシッとルキフェルの肩を軽く叩いた。
「ちゃんとあるじゃん。やりたいこと。言っとくけどな、他の奴らだって過去を捨て切れちゃいないと思うぞ。みんな何かを抱えてる。引き摺ってる。あえて触れないだけだ。そこに不用意に踏み込まなきゃ、それで回ってる。けどさ、お前は知りたいんだろ。失くしたものを、探しに行くんだろ」
ジャスパーは少しだけ目を細めると、ルキフェルは黙ったまま頷いた。ジャスパーの口元が上がる。
「なら行けばいい。おれはとことん付き合うよ。不安はでかいかもしれないけど……ちょっと楽しみなところもあるな。—やろうぜ、“自分探しの旅”」
その言葉は軽いが、決して軽薄ではない。ルキフェルは息を整えたて夜空を見上げた。
「ああ。言ったからには逃げない。俺にどんな過去があるのか分からない。ガキの頃の話だ。何があって、俺は海の上にいたのか」
ルキフェルはふと頬へ指をやり、盛り上がる傷跡をなぞった。
「……この傷も、どうやってできたのか。傷つけられたものなのか、それとも……」
ルキフェルの言葉が濁り、その先が言えなかった。時折思い出される、身に覚えのないくらい記憶が脳裏を掠めていく。
「……正直言うと、たまに夢なのか現実なのか分からなくなる時がある。本当にあったことなのか、俺が勝手に作ったものなのか……判断がつかない」
強さの仮面の下に隠していた本音だった。苦悶の表情を浮かべるルキフェルを見つめながら、ジャスパーは腕を組んで考え込んだ。
「そこも分かってないのか。一筋縄じゃいかないだろうな」
「だからこそ……燃えるところもある」
ジャスパーはため息を吐いたが、ルキフェルは口角を上げた。夜目にも分かるほど瞳が冴えている。恐怖は消えていない。疑問も違和感もそのままだが、今は前を向く燃料になっていた。海の匂いが強まる。どこへ向かうのかはまだ分からない。それでも、初めて自分の意思で舵を握った感覚がある。その時、二人の背後で扉の開く音がしてキシと小さな音が夜に溶けた。ジャスパーとルキフェルが同時に振り返ると、廊下の明かりの向こうからニールが顔を出している。
「ご飯できたってー」
「おう、すぐ行く」
ジャスパーは軽く手を挙げると、ニールはひらりと手を振って去っていった。再び夜が戻るが、先ほどまでの重さは少しだけ薄れている。ジャスパーは大きく伸びをした。
「腹減った。ひとまず今日は休んで、明日から本領発揮だな」
「ああ」
ルキフェルは小さく息を吐いた。胸の奥の熱はまだ残っているが、今はそれを抱えたままでいいと思えた。
「今は……何も考えたくない」
「それでいいさ。飯食って寝ろ。英雄も腹は減る」
ジャスパーが笑って肩を軽くぶつけてきた。二人は並んで歩き出し、石畳を踏む音がゆっくりと室内の灯りへ近づいていく。夜はまだ深いが、明日は必ず来る。そして、今度は自分の意思で歩き出す。そう決めたまま、二人は扉の向こうへ消えていった。
翌日、食堂の木のテーブルにはまだ朝の匂いが残っている。パンの欠片、薄く冷めたスープの器。窓から差し込む光が床板の傷を白く浮かび上がらせていた。
「……それで、そもそもなんで目が覚めたら海の上にいたの?」
何気ない調子で言ったのはコリンだ。彼の目はまるで解剖でも始めるかのように真っ直ぐ。ルキフェルは椅子に座らされ、向かい側に陣取ったマテオとコリンを前にあからさまに顔を顰めていた。逃げ場はない。ジャスパーとニール、それにソフィーの三人は市場通りへ向かった。東洋の貿易船が数日だけ露店を出すらしい。東洋と聞いて、昨日の男の顔が一瞬ルキフェルの脳裏をよぎるが、今はそれどころではない。目の前の二人に詰められ、遠い記憶を掘り起こす作業の方がよほど骨が折れる。
「……海にいたというか。目が覚めたら、いきなり船の中だ。なんで俺が船に乗っていたのか、理由も分からない」
ルキフェルは胸の中の空白を見つめるように視線を落とした。淡々とした口調の裏で胸の奥は騒ついている。マテオは腕を組んだまま口を開いた。
「まあ、ガキの頃の記憶なんてそんなもんだろ。オレだって細かいことは覚えちゃいない」
「いやいや。だってそれ、一番古い記憶なんでしょ? それより前に何かあったのは間違いないじゃない」
コリンがすぐさま身を乗り出して指先でテーブルを叩いて、ルキフェルは言葉に詰まった。何かあったのは間違いないが、その“何か”が霧の向こうで形を持たない。思い出そうとすればするほど掴みかけたものが崩れていく。船の軋む音。血の匂い。それより前は真っ暗で進めない。
「……覚えてない」
ルキフェルが苦々しく呟くと、マテオが椅子の背もたれに体を預ける。
「じゃあさ、切り口を変えようぜ。なあ、ルカ。フランソワ船長とは長いんだろ? 二人はどうやって出逢ったのか、そこから話てみろ」
ルキフェルは一瞬だけ目を伏せてゆっくりと記憶を辿ってみた。
——あれが始まりだ。
自分が目を開けた時、世界はすでに敵だった。狭い船医室。湿った木の匂い。血と薬草の混じった空気。視界の中で、見知らぬ大人たちが何かを言っている。
——名前は? どこから来た? 覚えていることは?
答えられない。何もない。見られるのが嫌、囲まれるのが嫌だった。分からない自分を覗き込まれるのが何よりも恐ろしかった。気づけば叫んで椅子を蹴飛ばし、机を倒し、手当たり次第に叩き壊した。誰かの腕を振り払い、誰かの胸ぐらを掴み、噛みつき、引っ掻いた。今思えば、あれが自分にとって最初の戦場だ。敵は記憶のない自分。味方もいない。船医レオンに背後から抱きすくめられても暴れ続けた。レオンの腕の中で獣のように唸った時、扉が開く音がして軋む音だけが妙に鮮明に耳に残っている。入ってきたのはまだ十八の若造、フランソワ。今よりずっと線が細く、どこか間の抜けた顔をしていた。
「えーっと……そいつが、例のガキ?」
フランソワの言葉にレオンの疲れ切った声が降ってくる。
「そうだ、早くなんとかしてくれ……」
「なんとかしろって言われてもなあ」
自分は何かを口走っていた。言葉にならない、断片的な音。自分でも何を言っているのか分からない。
「……こりゃ、ただ事じゃねえな。ちょっと、そいつの顔を見せろ」
レオンが止める間もなく顔を無理やり向かせられ、フランソワと目が合った。
「……え?」
次の瞬間、自分の拳が飛んでいた。骨に響く感触に拳が震える。若造は見事に床へ転がっていき、自分はレオンの腕の中から飛び出して距離を取って、いつでも飛びかかれるように警戒していた。
「お、お前、その……顔……」
フランソワは床に倒れたまま、自分を見上げ、自分はというと恐怖も怒りも意思も抱え込んだまま、真っ直ぐに睨んでいた。
「なんだこいつ……」
フランソワの顔に浮かんだのは嫌悪ではなかった。彼はゆっくりと起き上がり、距離を測って近づくなり膝をつき、自分と同じ高さになるように視線を落とした。
「おい……大丈夫か、痛かったな……俺の言葉、わかるか?」
驚いた。こいつ、他のやつと違う。とりあえず正直に頷くと、フランソワが今度はカスティーリャ語で喋ってきた。
「……じゃ、こっちもわかるか?」
響きも何もかも違う言葉だが、なぜか理解できたから再度頷いておいた瞬間、フランソワはほんの少しだけ笑った。
「……よし、なら話せるな」
殴り合いから始まった、奇妙な縁。
——これがフランソワとの最初の出逢いだ。
この記憶を語り終えたあと食堂には奇妙な沈黙が落ち、ルキフェルは椅子の背に体を預けたまま、二人の顔を見た。二人の顔に浮かんだのは純粋な驚きだ。二人とも目を見開き、口を半開きにしたまま固まっていると、やがてコリンが噴き出してはスンと真顔に落ちた。
「いや、パンチしてるじゃん」
ルキフェルは眉を顰めた。
「……先に顔を掴まれたのは俺だ」
「でも、初対面で顔面は強すぎでしょ」
コリンが腕を組んだ横でマテオが小さく笑い、すぐにため息を吐いては椅子に深く腰掛け直し、じっとルキフェルを見る。
「てかさ……目が覚めてすぐ、フランソワと出逢ってたってマジか。なんで今まで教えてくれなかった。思ってたよりめっちゃ付き合い長いじゃねえか」
「別に、隠してたわけじゃない」
ルキフェルは肩をすくめる。十年どころじゃない。目が覚めた瞬間から、そこにいた。偶然ではなく、ほとんど最初の世界だ。コリンが顎に手を当てる。
「フランソワは、ルキフェルの最初の証人ってことじゃない?」
ルキフェルはわずかに息を詰める。最初の証人、確かにそうだ。自分が何もない状態だった時を知っている、唯一の人間。その事実が今さらながら重くのしかかる。ルキフェルは小さく呟いた。
「……だから知りたいんだ」
「それで……そのあと何があったの?」
コリンが続きを促すとルキフェルは視線を落とし、指先で木目をなぞった。あの時の床板と同じように節があって、少しささくれている。
「……話せるなって言われた。でも、俺は話す気なんてなかった」
あの時の自分は世界そのものを拒絶していた。
「一瞬だけ身を任せかけた。フランソワの腰にナイフがあったもんだから、隙をついて奪って斬りかかった」
ルキフェルの口の端がわずかに歪み、マテオが目を細める。
「……やっぱり覚えがある動きだったのか」
「いや、覚えてない。身体が勝手に動いた」
ルキフェルは首を振る。ナイフの軌道。足運び。重心の落とし方。知識ではなく、反射。あの時、フランソワの驚いた顔を今でも覚えている。
「フランソワは避けた。ぎりぎりでな。俺は油断したそっちが悪いって言った」
コリンが吹き出す。
「生意気!」
「今思えばな。でも、あの時は本気だった」
ルキフェルは続ける。
「名前はなんだ、どこから来たか聞かれたけど、分かんないって反射で叫んでいた。あれは嘘じゃない。思い出そうとすると真っ暗だ。本当に、何もなかった。それより……見られるのが嫌だった」
ルキフェルの胸の奥に冷たいものが走り、指先が無意識に頬の傷に触れて息が少し浅くなる。コリンとマテオの視線が自然とルキフェルの指先に集まっていた。
「顔も、目も、全部。なんで見るんだよって……そのあと、呼吸が乱れた。あの感覚は今でも鮮明だ。吸えない、吐けなくて胸が閉じる感じ。過呼吸だったらしい」
食堂にしばらく沈黙が落ちたあと、コリンが顎に手を当てた。
「うーん……ここまで聞いて思ったのは……そもそも君の出身はどこなのって話だよね。何か聞いてる?」
「さあ。あの時、船がどこにいたのかもよく分かってない」
ルキフェルは肩をすくめる。海の匂いは覚えている。軋む音も。だが、方角も港も何も残っていない。コリンは木製の天井を見上げながら口を開いた。
「まあ……だいたい候補は絞られるよね。君は目が覚めた時、二つの言語がごっちゃになってた。カスティーリャ語とフランス語。まず、そこがおかしいんだよ。だって子供の時でしょ? その歳で二言語習得してたって……絶対、庶民なわけないよ。……フランソワだって歳の割に賢すぎるけどさ」
コリンがさらりと爆弾を落とすとマテオが吹き出した。
「いや、お前も大概天才くんだけどな。ほんと、オレは字も書けなけりゃカスティーリャ語しか分からんのによ」
マテオにとっては軽口のはずだったが、ルキフェルの中では庶民なわけないという言葉が、胸の奥に引っかかったまま離れなかった。なぜ今まで疑問に思わなかった。二言語を自然に使っていたこと。あの年齢で刃の間合いを身体が知っていたこと。見られることに過剰に反応したこと。ぜんぶ異常なのに、なぜ他人から指摘されて初めて気づくのか。何年も生きてきて、何度も剣を振るって、何度も死線を越えてきて、それでも自分の異質さに鈍感だったのか。ルキフェルは思わず奥歯を噛み締めた。
「……なんで今まで不思議に——」
「当たり前だと思ってたからでしょ」
コリンがピシャリと言い放った。当たり前。その言葉が妙に重い。当たり前だと思っていたものが実は全部、異常だったとしたら。ルキフェルは無意識に自分の指を見つめた。剣を握る手。何度も血を浴びた手。自分はどこでそれを覚えた。その時、今度はマテオが思考を切り替えるように椅子の背に肘をつきながら口を開いた。
「じゃあ……オレからもいくつか気になる点あるから聞くぞ」
「俺がなんか喋ったら問い詰めていくシステムかよ」
「いいから黙って聞け!」
なぜか少しだけ怒っている、そんな彼の温度が妙にありがたい。ルキフェルが苦笑するとマテオは指を一本立てた。
「まず一つ。そもそも船長……ああ、もうややこしいな。以下、フランソワ。そもそも、フランソワは何者なんだって話。東洋人も同じ船に乗ってたなら、ただの貿易船なわけないだろ」
ルキフェルは視線を落として暫く考えてから顔を上げて答えた。
「いや、それなら答えは容易い。フランソワは、俺と出会った時からすでに海賊だった。まだ下っぱだったけど。生き残るために必要なことは、船の上で全部から叩き込まれた。フランソワと、師匠リュウ・ヨシマサ。それとクォーターマスターもいた」
マテオが口笛を吹く。
「そんな奴が同じ船に?」
「いた。その人がいなきゃ、俺はクォーターマスターの存在も知らなかったし実際にやることもなかった」
略奪の後の分配、罰と報酬の線引き、仲間を守るための冷酷さを教えたのはアランだった。ルキフェルが胸を熱くしているとコリンが指を折りながら言う。
「つまり……君の周りにいたのは若い海賊、東洋の武人。そして、組織運営のプロ」
「……子供を拾う船の面子じゃねえな」
マテオがボソッと呟くが、ルキフェルは笑えなかった。確かにそうだ。偶然にしては揃いすぎている。あの船はただの海賊船ではなかった。リュウがいた理由、アランがいた理由。そして、あの時のフランソワの目。本当に偶然だったのか。ルキフェルの中で何かが繋がり始める。
「……なあ。俺は“拾われた”のか?」
それとも、あの船に乗せられる“理由”があったのか。その時、マテオがルキフェルの目を逃がさないようにじっと見つめた。
「別の議題にいくつもりだったけど……肝心なところが抜けてるぜ。——“船長”だよ。クォーターマスターがいたなら、ちゃんと海賊船長もいたんだろうな?」
ルキフェルの呼吸がわずかに止まる。いたはずだが……記憶の中で、船の中心に立つ影がどうしても輪郭を持たない。フランソワは若かった。アランは秩序を握っていた。リュウは刃だったが、その上にいた誰か、命令を出す声と進路を決める存在を思い出せない。あるいは見ていなかったのか。ルキフェルは無意識に指先を握り込む。
「……いたはずだ」
あの船の頂点に立つ男。顔も声も名も霧の向こうだが、もしその船長が自分を知っていたとしたら。食堂の空気がまた一段と静まり返る中でコリンが肩を竦めた。
「……まあ、今思い出せなくてもそのうち思い出すでしょ」
「どうだろうな。見ての通り、こいつ鈍感だし」
マテオが笑う。わざとだ。マテオの中では、傷持ちの親友が眉を顰めるか、軽く蹴るか、何かしら返すはずだと思ったのだろう。だが、ルキフェルは反応せず目を閉じていた。彼の胸の奥で何かが引っかかっている。思い出そうとすると霧がかかる。霧の向こうに立っている影がある。その時、キイと扉の軋む音が現実と記憶の境目を裂いた。
——レオンが戻ってきて息を切らしながら言う。
「フランソワ。船長がお呼びだ。その子どもと一緒に部屋に来いとさ」
「はぁ。よりによって今かよ」
フランソワが眉を顰めるが、自分の手を乱暴に見えて実は離さぬまま船内を進んでいく。甲板の匂い、湿った木、波の振動。自分の背後には凪のような気配、リュウ。船長室の扉は他よりも厚く、重い。フランソワが押し開けた瞬間、潮風が頬を掠めた。窓の外に白い断崖が遠ざかっている。だが、窓の向こうの景色より、窓辺に立つ男の背を先に捉えた。
「……無事であったか」
自分は男の背中を見つめていた。重いが、恐怖とは違う。名状しがたい“知っている”感覚。横にいたフランソワが口を開く。
「記憶喪失らしい」
その瞬間、空気が裂けて男が振り向いた。——黄金の双眸。光を孕んだ、燃えるような色と射抜く視線。
「……お前、嘘だろ。本当にオレのこと、覚えてないのか?」
自分は彼の瞳をじっと見返していた。怖くはない、ただ分からない。
「うん。お前のこと知らない。お兄さん、変わった目してんな」
自分が言った瞬間、男の黄金が揺れた。悲しみ。喪失。それでも、奥底で弾けるような抑えきれない光。あの目、あのどうしようもない揺れ。
「……っ」
現実に引き戻されて椅子の脚が軋んだ。息が詰まって胸の内側が急に狭くなり、空気が入らなくて視界が白む。黄金がこちらを見ている。見られているが、逃げる理由はない。ゆっくり吸う、吐く。今はあの時とは違う。誰も押さえ込まない、誰も問い詰めない。ただ目の前にいるのは親友だ。
「ルカ!」
マテオの声が近く、コリンがテーブルを越える音がした。マテオに腕を掴まれ、揺さぶられる。数秒ののち肺が空気を受け入れ、視界がはっきりする中でマテオとコリンが同じ目線で自分を見ていた。ルキフェルの喉が掠れる。
「ああ……少し、思い出した。あの目……そうだ。あんな目していた。黄金。船長はいた。俺に名前をくれた人だ」
名もなき少年に名を与えた。偶然ではない。拾ったのでもない。選び、定義し、刻んだ。
——あの人が、俺を“ルキフェル”にした。
ルキフェルの胸の奥で何かがゆっくりと動き始めた。呼吸が整っていき、肺に入る空気がようやく自分のものに戻るが、胸の奥ではさっき見た黄金の揺れがまだ燻っている。あの目の続きがある。思い出せ、名を与えられた瞬間を。——黄金の人はわずかに息を震わせていた。
「……そうか。名前が分からないのか」
自分に言い聞かせるような声だ。それから、男は首を振る。
「いや……正確には“名前が無い”のだろう。名前が無ければ、君も不便だろうな」
窓から差し込む白い光が黄金を半分だけ照らす。男は努めて平静を装っているが、自分にはさっぱり理解できなかった。
「はぁ? ……なに言ってんだよ、お兄さん」
「だよなぁ……」
自分の背後でフランソワの声が降ってくるも、黄金の人の表情が一瞬だけ陰り、白い光と影の境界で間が止まる。自分は船室の壁の黒い布、鳥の頭と交差する二本の剣に目を向けると胸の奥で小さく何かが鳴った。悪くない。理由はないが、惹かれた。名前も、立場も持たぬ自分とは無縁のはずの印なのに。やがて黄金の人が振り向くと口元を歪めて真正面から自分を見据えた。
「……よし。ならばオレが君に名を与えよう。——“ルキフェル”。今日から君はルキフェルだ。この名こそ、君にふさわしい」
世界が形を持った。何者でもなかった存在に輪郭が刻まれ、自分の胸が大きく震えた。
「ルキフェル……おれの名前……!」
昂揚、興奮、得体の知れない熱。虚無だった内側に火が灯る。黄金の人はじっと自分を見つめていた。悲しみと安堵と、覚悟を混ぜた眼差しで。
——食堂の光が目に刺さる、マテオとコリンがまだすぐ目の前にいた。
「……その船長が、俺を“ルキフェル”にした」
沈黙が落ち、コリンがゆっくりと呟く。
「……歴史的瞬間だ。そっか。ルキフェルって名前は……海賊船長が名付けてくれたんだね。その船長、なんて名前?」
ルキフェルの思考がそこで不意に止まった。名付けの瞬間は思い出せる。黄金の目も、声も、黒旗も。だが、口から出たのは空白だった。
「……さあ、分からない」
マテオが即座に突っ込んだ。
「おい、ここにきて分かんないのかよ。思い出せないとかじゃなく?」
「ああ。なんか、覚えにくい名前だったと思う。長いし、噛みそうだし……みんなが“船長”って言うから、俺も船長って認識でいた」
ルキフェルは眉間に皺を寄った。曖昧な感触だけが残っている。名よりも役職。名よりも立場。それで足りていた。コリンがうんうんと頷く。
「そのあと、話したりとかは?」
「いや。あれ以降、話してない。向こうも……なんか気難しそうな人らしい」
そう言いながらもルキフェルは胸の奥で疑問が渦を巻いていた。
船を降りる日、フランソワとリュウに挟まれながら自分が振り返ると、黄金の人が甲板に立っていた。長くて黒い髪を風に揺らし、こちらを見ている。距離があったが、目ははっきりと見えた。自分は何の躊躇もなく手を振り、黄金の人はわずかに目を細めて、困ったような笑みを浮かべながら手を振り返してくれた。彼の仕草は大仰でもなく誇示するでもなく、見送る者の動きだった。あの時、胸の奥がふわりと温かくなったのを覚えている。理由は分からないが、嬉しかった。あの目が自分を見ていたから。ルキフェルはふっと視線を落とす。言葉にはしない。気難しいという表現の裏にある、あの微笑を言葉にしてしまえば何かが崩れそうな気がした。名は思い出せないが、黄金の目と振り返した手の動きは消えない。
コリンが首を傾げる。
「じゃあ、接点はほとんど無いってことか」
「ああ」
ルキフェルは答えるが、胸の奥では別の言葉が波打つ。本当に接点は無かったのか。名を与えた。見送った。あの目は、ただの船長の目だったのか。食堂の光がいつもより少しだけ白く見えた。しばらくの沈黙のあと、マテオが低く唸ると腕を組んで天井を見上げる。
「うーん。分からない以上……やっぱりフランソワの過去を探るしかないか。そうすりゃ、その船長の名も芋づる式で分かるかもしれないし」
「そうだね。まあ……ルキフェルが過去を振り返っただけでも収穫はあるよ。君の人生は、記憶を失う前もちゃんとあったはず。まだ思い出せないだけで、人って突然生まれたりしないから」
コリンはルキフェルをチラリと見た。当たり前のことを当たり前に言うが、その当たり前が、今のルキフェルにはひどく遠かった。
突然、目を覚ましたあの日。海の上と血と潮の匂いが始まりだと思っていたが違う。あの前にも、確かに時間があった。言語を覚えた時間。剣を握った時間。誰かに見られていた時間。胸の奥をひっくり返されるような感覚だが、何もないままよりはいい。ルキフェルはゆっくりと息を吐く。
「苦しいが……何も知らないよりマシだ」
空白のままより、痛みがあっても輪郭がある方がいい。自分が何者かを知るためなら、名を与えられた理由を知るためなら。フランソワの過去を掘ることも黄金の人の名を探すことも逃げない。マテオが小さく鼻を鳴らし、コリンが微笑む。
「その顔だよ」
「やっぱり君は、前に進む人だ」
食堂の窓から差し込む光がゆっくりと傾いていく。過去は重いが、今はまだ前に進める。ルキフェルは指先を軽く握り、そっと開いた。名を与えられた手で。




