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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】5・6巻「胎動編」  作者: セキユズル
第八章「——フランソワは俺の育ての親だ。
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第八章① ルキフェルとモラレス

 あの日、マテオと二人で呑みに行ったのをきっかけに妙な流れができた。ルキフェルが思いつきで口にしたことに誰かが「いいな」と乗る。最初はマテオだけだった。


「明日の夜、また呑むか」

「おう」


 いつの間にかジャスパーが混ざり、ニールが無言で後ろを歩き、コリンが当然のようにルキフェルの隣を陣取るようになった。ソフィーは、いたりいなかったり。彼女なりの仕事と距離感があるのだろう。


「とりあえず、呑みたい」

「少し市場の方に寄りたい」

「今日は海沿いを散歩したい」


 仲間と喋っていればいい。誰かと過ごしていればいい。そんな本音が言葉の裏に透けていたが、誰もそれを指摘しない。「いいな」「行くか」と言うだけ。今日はトルチュ島の海沿いをひたすら歩いた。潮風が強く、砂は歩きにくい。波は思いのほか高く、ジャスパーが一度靴を濡らして文句を言った。コリンが笑い、マテオが呆れ、ニールはいつも通り静かだ。野郎ども五人で島を歩く。悪くない、むしろ妙に落ち着く。帰り道は遠回りになり、坂道で息が上がり、文句も出たが、陽が沈む頃にはなんとかブエソルへ戻れた。


「……そろそろ、ネタが尽きるな」


 誰にも聞こえない程度にルキフェルは苦笑する。やりたいことを口にするのは簡単だが、それもいつまでも続くわけではない。彼は部屋に戻り、蝋燭を灯し、上着を脱いだ。明日は何を言おうか。呑むか。歩くか。市場か。それとも……何も思いつかない瞬間が来る。その空白に少しだけ胸がざわついた。


「……まあ、いいか」

ルキフェルは呟いて寝台に身を沈めた。波の音が遠くから聞こえる。考えるのは明日。今は目を閉じるだけでいい。


 翌日、五月六日。潮の匂いは昨日と同じはずなのに、どこか違う気がした。フランソワが死んでから二ヶ月。早いのか、遅いのか分からない。ルキフェルは無言で起き上がると、床に置きっぱなしだった革の編み上げブーツを手繰り寄せた。指先で革を軽く叩く。乾いている。そのまま足を通し、膝を立てて紐を引くとギシと音が鳴った。ルキフェルは立ち上がると水差しの水を盥に注いで顔を洗う。冷たい。滴る水を腕で拭いながら麻の白シャツを被る。半裸で寝る癖がすっかり病みつきになった。理由は覚えていない。ルキフェルは鏡の前に立つと水差しの残りを手に取り、指先を湿らせて前髪をかき上げ、後ろへ撫で付けた。何度か繰り返し、形を整える。鏡越しに自分と目が合たった。


「……そういえば、髭生えたことないよな」


 ルキフェルは試しに顎を撫でた。ざらつきがない。


「顔、傷ばっかだから?」


 つい苦笑のような息が漏れる。今日はなぜか目を逸らさなかった。いつもなら一瞬で視線を外すのに。顔の角度を変えてみる。鏡に映るのは、額の右半分から左頬の端へ斜めに走る大きな裂傷。その線は顔を裁ち切るように一直線だ。他にも細かい裂傷が無数にあるが、やはり目立つのはこれ。指先でなぞってみると硬い。盛り上がりはあるが、古い傷だ。


「生まれつき傷があるやつっているんだろうか。……俺、なんで傷だらけなんだろう」


 自分でも意味の分からない疑問につい眉間に力が入るが、鏡の中の男は何も答えない。翡翠の双眸だけがこちらをじっと見返している。今日はなぜかその目が他人のように見えた。いつから、この顔なんだ。一瞬、胸の奥がざわつくが、すぐに小さく首を振ってもう一度髪を撫で付けた。


「……まあ、いいか。まったく、あのお嬢さんのせいだな」


 ルキフェルがぽつりと呟いてから戸を開けて廊下に出た瞬間、柔らかい声が真横から飛んできた。


「何か言った?」


 ルキフェルが真横を見ると、にこにこと笑うソフィーが立っていた。ルキフェルの思考が一瞬だけ真っ白になる。


「……なんでもない」


 ルキフェルが即座に切り返すが、ソフィーは腕を組んで少しだけ眉を上げた。


「言っとくけど、私もうお嬢さんって年齢でもないから」

「……は?」


 朝の静かな廊下にルキフェルの素っ頓狂な声が響いてソフィーが目を瞬く。


「え、今の声なに? そんな声、初めて聞いた」


 ルキフェルは自分でも驚いていた。


「二十五になってまだ浅いのよ、私」


 ルキフェルは数秒固まったままソフィーを見る。


「……お前、いくつだって?」

「だから二十五。ついこの前よ」

「……お前、いつ生まれ」

「春。三月五日。まあ、正確な誕生日じゃないけどね」


 ルキフェルが眉を寄せる。


「どういう意味だ」

「三月五日は、私が孤児院で拾われた日。本当の誕生日なんて誰も知らないのよ」


 ソフィーはさらりと言っているが、廊下に一瞬沈黙が落ちる。ルキフェルの視線がわずかに揺れた。


「あなたは?」

「……夏らしい」

「らしい?」

「大雑把にしか聞いてない」

「何月?」

「知らねえ」

「誕生日も?」

「知らねえ」


 ソフィーは一瞬何か言いかけてやめると、代わりにふっと笑う。


「じゃあ、今年は決めちゃえば?」

「……は?」

「夏なんでしょ? 七月とか八月とか。好きな日にしなさいよ」


 あまりにも軽い提案にルキフェルは思わず鼻で笑う。


「そんな適当でいいのかよ」

「いいのよ。生まれた日が分からないなら、始めたい日を誕生日にすれば」


 始めたい日。ルキフェルは何も返さず、ソフィーは彼の目の前を通り過ぎていった。


「朝食、来るでしょ?」

「ああ」

「寝癖、ちゃんと直ってる」


 ソフィーがくすっと笑って去っていく。ルキフェルは彼女の背を見送りながら無意識に額へ手をやった。斜めに走る傷。


「……始めたい日、ね」


 廊下の窓から五月の光が差し込んでいる。



 皆で朝食を済ませたあと、ルキフェルは椅子から立ち上がった。市場で何日か前に手に入れた本がまだ机の上に置きっぱなしになっている。少しは目を通しておこうかなどと考えながら、自室へ戻ろうと廊下へ向かいかけた時だった。


「おい、ルカ」


 背後から呼び止められ、ルキフェルは足を止めて振り返ると、壁にもたれていたマテオが顎で外を示した。


「なあ、コリンと市場通りでも行かないか? あいつ、義手の材料になるもんがないか見て回るらしい」


 義手。ルキフェルは一瞬だけ眉を上げた。なるほど、あの少年を一人で放っておくにはまだ少しばかり危なっかしい。


「……保護者役、というわけか」

「オレ一人じゃ心許ねえだろ」


 ルキフェルが半ば呆れたように言えば、マテオは肩をすくめる。コリンの視線はいつも遠く、何かを測るように細められている。市場など格好の観察場だが、同時に格好の餌場でもある。


「先に出たのか?」

「ああ。もう通りの方へ行ってるはず」


 ルキフェルは息を吐いた。読書はまた今度でいい。本は逃げないが、少年は時々、妙な方向へ逸れる。


「行くか」


 二人は宿を出た。朝の空気はまだ冷えを残している。石畳を踏みしめながら、ルキフェルは自然と周囲に視線を巡らせた。市場通りはすでに活気づき始めている。果物の匂い、革の匂い、金属を打つ音。その雑踏のどこかにコリンがいる。さて、今日は何を拾ってくるつもりだ。市場通りの喧騒の中、ふとマテオが足を止めた。


「……あそこだ」


 彼が顎で示した先。人波の隙間に小さな骨董屋の軒先が見える。古びた看板の下、棚には陶器や燭台、錆びた短剣、乾いた標本のようなものまで雑然と並べられている。その店の前で、コリンが立ち尽くしていた。少年は人混みなど意に介さず、棚の一角をじっと見つめている。瞬きも少なく、まるで品物の奥まで透かしているかのような視線だった。店主の声が飛ぶ。


「おい、坊主。買わないなら帰ってくれ。冷やかしは困る」


 コリンは聞こえていないふりをしたが、店主は声を強めた。


「帰れって言ってるんだ」


 周囲の視線がわずかに集まった。そこでようやく、コリンはゆっくりと顔を上げる。不満そうに唇を尖らせながら何も言わず棚から離れた。渋々、といった足取りで店先を外れると、すぐにマテオが追いつく。


「何見てたんだ?」

「……別に。動物の骨を見てただけ」

「骨?」

「ああいうの質がいいと使えるんだよ。削れば軽いし、しなりも出る」


 コリンがぶつぶつと文句のように続ける。追い出されたことより、観察を中断させられたことの方が不満らしい。マテオはふと自分の左腕を見下ろした。革と金具で固定された義手。その指先に埋め込まれた、白く乾いた骨片。


「……そういや、これもだいぶボロくなったよな。この前、派手にやり合ったし」


 コリンはマテオの義手をじっと見つめる。まるで素材として値踏みする職人の目だ。


「替え時かもね」

「お前に任せたら獣みたいな手になりそうだな」

「悪くないと思うけど」


 二人の間に小さな笑いが落ちる。少し離れた場所からルキフェルは二人のやり取りを眺めていた。人混みの向こうで交わされる、何気ない会話。骨董屋の軒先で光る白い標本。少年のあまりに真っ直ぐな観察の目。ルキフェルはわずかに目を細めた。


 そういえば、三年前だったか。長老に連れられて、半ば強制的にポート・ロイヤルへ“歴史学習”と称して赴いたことがあった。ジャスパーたちが絶叫して物を落としたことがある。

 ——羅針盤だ。蓋に細工の施された、小ぶりなもの。だが、針は北を指していなかった。


「北を指さない羅針盤なんて、贋作だな」


 拾い上げたのはフランソワだった。彼は一瞥して鼻で笑い、「俺が市場に返しとく」と言って、ひょいと自分の懐へ滑り込ませた。あれはこの通りで手に入れた品だったはずだが……返したのだろうか。ルキフェルはそこで思考が止まった。フランソワが他人の物を取ることは珍しかった。必要とあれば奪う男だったが、あの時は必要などなかったはずだ。それなのに、あの羅針盤は彼の懐に消えた。その後どうなったのか、思い出せない。いや、そもそも考えたことすらなかった。北を指さない羅針盤。役に立たぬ贋作だが、今となっては、あれも遺品になるのか。今さら確かめようもないが、あの羅針盤の蓋が妙に鮮明に残っていた。


「よし。港でも行こうかな」


 不意にコリンがそう言い、マテオが眉をひそめる。


「なんで?」

「ほら。他に欠損抱えた船乗りとか見てれば、なんかヒントになるかなって。形とか動かし方とか、無理してる部分がわかれば改良できるし」


 マテオは義手をちらりと見ると鼻を鳴らした。


「お前、ほんと変なとこ真面目だな」

「変じゃないよ。合理的」


 そう言って、コリンはすでに踵を返している。


「おい、待て」


 マテオが追い、二人は人混みを縫うように歩き出した。少し遅れて、ルキフェルも後を追う。


 ……港、か。


 石畳の通りを抜け、潮の匂いが濃くなる。視界が開けた先に港湾区が広がった。今日も騒がしい。荷を運ぶ掛け声。帆を巻く音。錨鎖が擦れる金属音。入れ替わり立ち替わり、船が着き、船が出ていく。

 積荷とともに、噂と欲望も流れ込む場所だ。今日はどんな連中が島に足を踏み入れ、どんな連中が背を向けて去っていくのか。ルキフェルは桟橋の向こうを眺める。北を指さなかった針のことが、ふと脳裏をかすめた。行き先を持たぬまま波に揺れるもの。だが港は違う。ここに集う者は皆、どこかへ向かう。


 ……自分は、どこへ向かっているのだろうか。


 その後、ラ・カレータの人混みを三人はするりと縫うように進んだ。荷を担ぐ男たちの間を抜け、転がる樽を避け、積荷の影を横切る。コリンとマテオはいつの間にか競うように歩を早めていた。


「もっと俯瞰して見れるところないかな」

「高い場所か。倉庫の屋根とか?」


 二人の声が前方へ流れていく。ルキフェルは少し遅れていた。癖のように視線は常に周囲へ散らしている。船員の足取り。腰に差した刃物の位置。荷の重さに対する人員の数。いつものことだ。そうしているうちに、ルキフェルが前を見た時には、コリンとマテオの姿は人波に溶けていた。ルキフェルは足を止めず、ひとまず人混みを掻き分けて進んでいく。押し寄せる潮の匂いと汗と油。やがて彼が港の端の区域へ辿り着いた時、急に人の密度が薄くなった。波止場の隅。倉庫の影。声も遠いが、二人の姿はない。


「……さて、どうするか」


 ルキフェルが呟いた瞬間、鼻先を刺す匂いがあった。やけにツンとくる。火薬か、あるいは薬品の類か。嗅ぎ慣れない。その時、少し離れた桟橋の方から声が飛んできた。


「お前ら、見慣れない奴らだな」


 ルキフェルが声のする方へ視線を向けると、桟橋の上に立つのは帳簿を抱えたトルチュ島の管理人と、彼の向かいに見覚えのない男。二人の隣には一隻のガレオン船。甲板では怒号が飛び交い、縄が軋み、帆布がはためいている。男の肌は浅黒く、陽に焼けたのかもしれないが、身なりは明らかに東洋の衣装だった。リュウ・ヨシマサの面影がルキフェルの脳裏をよぎる。異国の男は穏やかな声音で口を開いた。


「わたし達はヨーロッパから来ました。この島で商いをするためです」


 管理人は帳簿をめくりながら鼻を鳴らす。


「商人どもが商い目的で船を停めるなら、商船は積荷一樽につき二ドゥカートだ」

「では、五樽分で」


 異国の男の発言を聞いた管理人は一瞬だけ眉を上げたが、すぐに帳簿にペンを走らせた。


「トルチュ島へようこそ。代表者名は?」

「モラレスで結構です。積荷は上にいる人たちに聞いてください」


 モラレスという男は微笑を崩さない。彼は管理人の脇を通り過ぎ、桟橋を離れていった。足取りに迷いはない。ルキフェルはわずかに目を細める。ヨーロッパから来たと言いながら東洋の衣装。一樽で済むところを五樽。それから嗅ぎ慣れない匂い。


 モラレス——ヤン・ジュンジャーは桟橋を離れながら港を見渡した。ようやく辿り着いた、トルチュ島。ジョルジュの依頼で来たはいいものの、胸の内は晴れない。この島にフランソワの元部下とやらがいる可能性。そして、ソフィーという女も。そんな推測を立てていたが、広い港を眺めてヤンは思わず息を吐いた。奇跡でも起きなければ、そう都合よく巡り合うものか。東洋キャラバンはまだ荷を降ろすのに時間がかかるらしい。怒号と指示が飛び交い、縄が引かれ、木箱が軋む。ならば、まずは街の様子でも見ておくか。そう思ってヤンが向きを変えた時、視線がぶつかった。人波の向こう、顔面に幾筋もの傷を刻んだ男がこちらをじっと見ている。ヤンは思わず思考を止めたが、潮風に乗せるような声音で穏やかに口を開く。


「あなたは、この島の方ですか? わたし、この島は初めて来ました。よければ案内していただけませんか」


 にこやかな微笑を崩さない。一方、ルキフェルはヤンと目が合った瞬間から嫌な予感がしていた。やはりな。案の定、案内役の依頼。


「観光案内かよ。まあ、俺でよかったな。他の奴らだと狙われてたぞ」


 ルキフェルの視線は相手の衣装、立ち姿、呼吸の間合いを無意識に測っている。東洋の装束だが、名はモラレス。釣り合っていない。


「俺でよければ案内しよう。モラレスとやら」


 ルキフェルが名を強調すると、ヤンは一瞬だけ目を細めてすぐに柔らかな笑みに戻した。


「よろしくお願いします」


 ヤンの笑みは波ひとつ立てない水面のようだったが、その奥を読むにはまだ距離が足りない。ルキフェルは踵を返して声を飛ばした。


「じゃ、新顔はまず島の管理人のもとに顔出すのが礼儀だ。商い目的なら尚更な。屋敷に向かいがてら港湾区も案内してやる」


 先行くルキフェルの背をヤンは真顔でじっと見つめていた。ジョルジュの話に聞いていた、傷の男。まだ断定はできないが、どこか洗練された立ち居振る舞いから、ルキフェルがただの島の船乗りではないことをヤンは第一印象から見抜いていた。その後、ルキフェルは約束どおり港湾区を案内した。停泊する船の種類、荷の流れ、税の取り立ての仕組み。商いをするなら避けては通れない場所だ。それから二人は市場通りへ足を踏み入れる。


「次はここ、市場通り。昼も夜も人が絶えない。物も金も回る」

「活気がありますね」

「活気って言えば聞こえはいいがな」


 ルキフェルは肩をすくめ、そのまま酒場通りへ足を向けた。石段が連なる日陰が多い通り。


「ここらじゃ“夜の階段”と呼ばれてる。夜の首都とも言うな。賭博、売春、酒、音楽。全部が渦巻く無法地帯だ」


 昼間でもすでに酒の匂いは濃い。窓辺からは笑い声が漏れ、奥では怒鳴り声が混じる。ヤンは穏やかに言った。


「……なるほど」

「商いをするなら市場通りだ。ここよりは比較的安全だと思うぞ」


 そう言って、ルキフェルはふと振り返った。ヤンが立ち止まっている。彼の横顔がどこか一点に釘付けになっていた。


「どうした?」


 ルキフェルが声をかけると、ヤンはわずかに目を細める。


「少し、寄り道してもよろしいですか」

「別に構わないが」


 二人はメインの通りから外れ、小さな石畳の路地へ入った。人通りは一気に減り、潮の匂いも薄れて代わりに湿った石の匂いが漂う。路地を抜けた先に家があった。使われていないらしく、窓板は外れかけて扉は半ば開いているが、崩れてはいない。少し手を入れれば、また住めそうだった。ヤンは建物を見上げて言った。


「ここを借りるには、どうすればよいのでしょう」


 ルキフェルは眉を寄せる。


「さあな。それは分からん。管理人にでも聞けばいいさ」


 商人にしては動きが早い。島に着いたばかりで、もう拠点を決めるのか。ヤンがルキフェルを振り向く。


「では、管理人のもとへ案内していただけますか」


 その声音は相変わらず穏やかだが、先ほどよりもわずかに強い。ルキフェルは怪訝な顔をした。この男は何を急いでいる。放っておけば、別の連中に目をつけられるだろう。それも面倒だ。


「……いいだろう」


 二人は家を背にし、再び石畳を踏みしめた。目指すは管理人の屋敷。潮風がわずかに冷たくなった気がした。管理人の屋敷へ着くと、やはりというべきか二人は真っ直ぐ長老のもとへ通される。二人が執務室に足を踏み入れた瞬間、長老の低い声が飛んできた。


「……ルキフェルの坊や、またお前か」

「用があるのは俺じゃない。こいつだ」


 ルキフェルは親指で隣のヤンを示す。


「東洋のキャラバンが来てて、この島で商いをしたいそう。あと、酒場通りの辺りにある空き家も使いたいと」


 長老の視線がヤンへ移ると、ヤンは一礼した。


「五樽分、納めますよ。それと東洋の酒も仕入れております。もしお気に召していただければ、空き家を無償でお借りすることは可能でしょうか」


 ルキフェルは横目でヤンをじとりと見た。急に踏み込みすぎだろ。だが、長老はわずかに口角を上げる。


「ほう。面白い東洋人じゃねえか」

「スパイスもございます。カリブでは見かけない、珍しい品々を。市場での収益の三割はこの島に収めます」


 静かな声なのに強引だ。ルキフェルは思わず眉をひそめる。三割? 島に根を張る気満々じゃねえか。だが、長老は手をひらひらと振った。


「いらん。商いなんて勝手にしてろ。俺はなんも言わん。空き家もなんでも好きにしろ」


 長老がきっぱりと言い切ると、ヤンは一歩退いて深く頭を下げた。


「ありがとうございます。この島のご迷惑にならぬよう、商いをさせていただきます」


 ルキフェルは舌打ちして吐き捨てた。


「こいつ、穏やかな顔して横暴なこと言ってやがる」


 長老がちらりと視線を向ける。


「放っておけ。どうせお前には関係ない」


 ばっさりだった。ルキフェルは思わず口を閉ざす。確かに関係はない、はずだ。長老は椅子に深く腰掛け直し、ふと思い出したように言った。


「次、連れてくる奴がいたら金髪かチビな」

「……ニールかコリンかよ」

「そうだ。あいつらの方がまだマシだ」


 長老がにやりと笑うも、ルキフェルは何も言えない。穏やかな顔の東洋人と何も欲しがらぬ長老。どちらの方が厄介なのか。二人は半ば追い出されるように屋敷を出て石段を降りていく途中、ルキフェルは横目でヤンを見るなり歩幅を合わせながら口を開く。


「なあ、あんた。あんまり距離を詰めすぎると刺されるぞ。この島、武器の持ち込みまでは禁止してない」


 ヤンは視線を前に向けたまま淡々と答える。


「お構いなく。こう見えて、身を守る術は身につけておりますから」


 彼は全く歩みを止めない。ルキフェルは一瞬だけ口角を上げた。


「……太極拳か?」


 ぴたりとヤンの足が止まり、ゆっくりとルキフェルを振り返った。穏やかな笑みの奥で目だけが細くなる。


「ほう。この島でその言葉を知っている者がいるとは……興味深いものです。口だけではないことを、祈りますよ」


 声音は柔らかいが、明確な挑発だった。ルキフェルは鼻で笑うと石段を降り切ってヤンを振り返った。


「言ったな。じゃあ、見せてやる」


 ルキフェルの呼吸が落ちると肩の力が抜け、重心が沈む瞬間に身体が動いた。円を描くような腕の軌道。水のように滑らかな足運び。力を誇示しない、隙のない構え。攻めているのか、受けているのか判別できない。風がわずかに巻く。流れは途切れず、途切れないまま終わって最後の一手が静止したとき、そこには静謐だけが残った。ヤンはしばし言葉を失っている。精度が違う。型をなぞる演舞ではない。実戦をくぐり抜けた動きだ。


「……お見事。只者ではない」


 ヤンの穏やかな仮面の下でわずかに感情が揺れ、ルキフェルは姿勢を戻すと肩を回した。


「この島には特異な奴らがいる。特に、俺と仲間はな。あんま舐めるなよ。この島で変な真似したら、楽園と言えど容赦はない」


 潮風が二人の間を通り抜ける。ヤンはゆっくりと微笑んだ。今度はほんのわずかに本気を滲ませながら。しばしの沈黙のあと、ルキフェルが口を開く。


「さて、お前のキャラバンまで送ろうか。無事に帰るまでが観光だ」


 ヤンはほんの一瞬だけ間を置き、「頼りにさせていただきます」と答えた。二人は並んで坂を下り始める。石畳に靴音が響き、潮風が抜ける。それ以降、二人の間に会話はなかった。やがてラ・カレータまで戻ると、東洋の船員たちが荷を降ろし、木箱を次々と宿場の方へ運んでいるところだった。異国の言葉が飛び交い、縄が軋み、樽が転がる。島に新しい匂いが混ざる。ルキフェルは足を止めた。


「じゃあ、ここまでだな。せいぜい良い夢みろよ、“モラレスさん”」


 名をわずかに強調して、ルキフェルは背を向けた。ヤンは彼の背中をしばらく見つめていた。


「……あの男。依頼とは別に、もう少しマークしておくか」


 穏やかな声のまま目だけが冷える。潮風が衣を揺らした。ヤンの視線の先で、傷だらけの男は人波に溶けていく。島は騒がしいが、その下で何かが動き始めていた。


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