第七章④ 協力者たち
「……これが、“M”の正体?」
イヴォン・ローランは杖に体重を預けたまま、目の前に積み上がる木箱の山を見つめていた。サン・マロからは相当距離のある、山岳地帯の奥深く。リー・ウェンが確保したアジトの一角は、簡易的な倉庫として使われているらしい。木箱は天井近くまで積まれ、隙間という隙間から甘ったるい香りが滲み出していた。長く嗅いでいれば正気が削られると確信できるほどに、鼻の奥がじわじわと痺れてくる。
「まあ、まだ確定はできないが。あくまで可能性としてだ」
イヴォンの隣で腕を組んでいたワンが淡々と言う。イヴォンは頷き、手元の書類へと視線を落とした。サン・マロ駐在士官の裏取引。不自然な賄賂の流れ。そして、“M”の符号。夢蛇の発見場所はサン・マロ郊外。港湾の一部で密輸品が扱われていた痕跡もある。
——ここまで条件が揃えば答えはひとつ。
「……夢蛇、か」
Mの正体は夢蛇でほぼ間違いない。理屈の上では結論づけてよかったそれでも、イヴォンの脳裏には何も浮かばない。実物を前にしても記憶は曖昧なまま。自分を拘束し、痛めつけ、意識を混濁させた彼ら。声も顔も、気配すらも輪郭を結ばない。イヴォンの胸の奥に鈍い違和感だけが残る。やがて二人は倉庫を後にした。外に出ると山の空気は驚くほど冷たく、甘い香りはすっと消え去る。
「ふむ……なかなか一筋縄じゃいかないな」
イヴォンがそう言うと、ワンは苦笑めいた表情で肩をすくめた。
「あなたの協力のおかげで夢蛇を押収できた。我々としては感謝しているよ」
「礼を言われるほどのことはしていない」
イヴォンは短く返し、杖を突く。二人は山道を下り、脇に停めてあった馬車へ向かった。御者に扮したマルクが顔を上げる。
「なんか思い出したか」
イヴォンはわずかに首を横に振った。
「いいや。まだだ」
馬車に乗り込むと、すぐにマルクが手綱を打つ。だいぶ様にはなってきたが、やはり運転は荒い。車体が揺れ、山道の石を跳ねる感触が直に伝わってくる。イヴォンは揺れに身を任せながら目を閉じた。夢蛇の甘い香りはもうしないが、その感触だけがまだどこかに残っている気がしてならない。アジトに戻ると、ワンは外套の襟を整えながら足を止めた。
「では、私はサン・マロに戻る。なに、女の身だけど……バレたことなど一度もない。一人で帰れるさ」
ワンはふっと笑い、思い出したように視線を谷の向こうに霞む港町へ向けた。
「それにしても、ヤンはどこまで旅してるんだか」
ワンは独り言のように呟き、やがて木々の向こうに溶けて消えた。残されたのは、イヴォンとマルクだけ。二人はそのままアジト代わりの山小屋へ入ると、古い木造の室内は外よりも少しだけ暖かく、若者二人が粗末なテーブルを挟んでトランプに興じていた。
「やあ」
顔を上げたティエンが軽く手を振る。ニコラはカードを配る手を止め、こちらを見た。
「……何かわかりました?」
イヴォンは外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろす。
「まあ……謎は謎を呼ぶって感じだな」
曖昧な返答にニコラは息をつき、ティエンは肩をすくめた。部屋の奥、壁一面に貼られた沿岸地図へ、何かを書き込んでいるアランがいた。港と港を結ぶ線、補給路。風向き。潮の流れ。いつもの癖だ。考え事をすると必ず地図に向かう。やがて、アランはゆっくり振り返り、全員を見渡す。
「一度、ここらで話し合いをしたい」
カードを持ったままのニコラもティエンも、マルクも無言で受け取った。卓を囲んだ五人の間に、沈黙が落ちる。最初に口を開いたのはアランだった。
「まず、それぞれの目的を共有したい」
彼は椅子に座ったまま背筋を伸ばし、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺はフランソワの死だ。どうもあいつの死には裏がある気がしてならない。俺は生き残った者として真実を掘り起こす。それが俺の目的だ」
しばしの沈黙を破ったのはやけに明るい声、真っ先に手を挙げたティエンだ。場違いなほど軽い仕草だが、目は真剣そのもの。
「はいはーい。あのねー、オレはね。昔、貴族たちの間でちょっと、きな臭い事件があったんだよ。表には出てないけど確実に消されたやつで、オレはその陰謀を探ってる。誰が何のために、どこまでやったのかってね」
ティエンは指をひらひらと動かしながら続けようとした瞬間、イヴォンの杖が床を軽く叩いた。
「その事件名を言いなさい」
「え?」
「ここにいる以上、伏せる理由はないだろう。お互いの目的が交差する可能性もある。力になれるかもしれないんだから」
イヴォンはティエンを真っ直ぐに見据えると、卓の上の空気がさらに一段引き締まり、ティエンはゆっくりと息を吐いた。
「……リュミエール家謀反事件だよ」
イヴォンがゆっくりと視線を上げる。
「その公式名で呼ぶのは……久しぶりだな」
「なんだそれ」
マルクが眉を顰めると、ティエンは肩をすくめるようにして続けた。
「十三年前さ。一族もろとも処された家があったんだ。老人も女も、子どもも……一人残らずね。貴族社会じゃ、リュミエール家断絶の件なんて呼ばれてるけど。オレは偽りの謀反事件って呼んでる」
アランが地図から顔を上げた。
「偽りか。なぜそう思う?」
ティエンは首を傾げて考えるふりをした。
「んー……たまたま、その事件のことを聞く機会があってさ。気になって調べてみたら矛盾だらけなんだよ。時系列も証言も、処刑の速さも。あれはでっち上げられたんじゃないかなって」
「なるほどな。さすがは、暇を持て余した坊ちゃんだ」
アランの一言に、ティエンの背筋がぴくりと跳ねた。
「……その言い方、ちょっとゾワっとするな」
アランはきょとんとした顔で首を傾げた。
「冗談のつもりで言っただけだぞ。そこは笑え」
「はは……だよねえ」
ティエンは苦笑いを浮かべたが、胸の奥では別の声が騒いでいる。
——まずい。今の一瞬探られた?
自分がブルボン家の長男だと知られたら厄介なことになる。この事件を追っている理由も、半分は「実家に戻りたくない口実」で、もう半分は……本当に知りたいだけ。探究心。これだけは偽りじゃない。ティエンは曖昧な笑みの裏でそっと息を整えていると、イヴォンが腕を組んで頷いた。
「つまり……真犯人探しか」
「そうそう!」
ティエンは即座に身を乗り出し、勢いよく頷くと隣にいたニコラの肩をがしっと抱いた。
「そんなわけで、ニコラも一緒に解明してくれるってさ。いやあ、ほんと良い友人持ったなー、オレ」
「……行き場を失くしただけ」
ニコラは淡々と言い、視線を逸らす。彼の横顔をアランは観察していた。フランソワの元下っ端。今はどこにも属していない。彼もまたフランソワの死の裏、それから先日告げられた仲間たちの処刑の謎も気にしている。普段怒り一辺倒になる連中ではないからこそ、サン・マロからトゥーロンでの処刑に至るまでの動線が不自然だった。
一方、マルクは顎に手を当て、少し考える素振りを見せてから口を開く。
「……てことは、オレだけちょっと毛色が違うな」
全員の視線が集まるのを彼は気にも留めない。
「オレは“様子のおかしいエドガー”を探るつもりだ」
「様子のおかしい?」
イヴォンが首を傾げ、ニコラが少し逡巡してから口を開いた。
「なんでエドガーさんの様子がおかしいって感じたんですか」
マルクは一瞬、遠くを見るような目をした。
「去年のことだ。オレがエドガー海賊団の傘下で第五船団の船長やってた時、ポート・ロイヤルで休暇を潰してたいたらアイツが突然現れてな。挨拶もそこそこに、『船に乗せてサン・マロに送れ』だ」
ティエンが思わず吹き出しかける。
「……それ、不法入国じゃん」
「そう。普通なら即断るが、あいつが相手じゃそうもいかねえ。結局、オレはあいつを乗せてフランス沿岸まで行った。で、その航海の途中にエドガーはオレにだけ目的を話した」
「目的?」
ニコラが首を傾げると、マルクは鋭い眼光で声を落とした。
「『海上支配が叶うかもしれない』ってな。それにはフランスに向かう必要があるとも言った」
アランが真っ先に反応し、声が荒くなる。
「海上支配? おい、それ本気か。あいつ……本当に海の王にでもなるつもりなか」
マルクは頷いた。
「ああ。あの眼は間違いない」
「バカな……!」
アランは思わず卓を叩きそうになる寸前で堪えた。
「そんなことをしたら、海賊社会の均衡が崩れるぞ」
ティエンが首を傾げる。
「おっさん、どういうこと?」
アランは一度深く息を吐き、言葉を選んだ。
「海賊船ってのはな、本来“民主制”だ。船長は絶対者じゃない。船員から常に見張られている立場だ。クォーターマスターは船長の暴走を止めるためにいる。船長が独裁者にならないための“安全装置”だ。だからこそ、海賊社会には“王”がいない。支配者という概念そのものが忌避される」
ティエンがぽつりと言った。
「……トラウマ?」
アランは自身の背後に貼られた地図を振り返って続ける。
「ああ。元は船乗りたちの反乱から始まった社会だ。王、提督、支配。それらは“陸の論理”だ。海ではな、誰か一人が全てを握った瞬間に皆が死ぬ」
マルクが割り込むように言った。
「だからだ。エドガーが支配なんて言葉を口にした時点で、オレは思った。……あいつはどこかで道を踏み外しかけてる」
ニコラは拳を握りしめていた。
「それでも、誰かが止めなきゃならないんですね」
マルクは苦く笑うとぽつりと付け加える。
「止められるならな。だが、あいつは誰かに止めてほしい顔じゃなかった」
沈黙が落ちた。卓を囲む五人の中で、最初に口を開いたのはイヴォンだった。彼は杖に体重を預けたまま、淡々とマルクを見る。
「……え、君はエドガーが目的を話した時点で止めなかったのか」
マルクは一瞬だけ視線を逸らし、頭を掻いた。どこか歯切れが悪い。
「実はなあ……止め、たんだけど……ちょっと……」
「ちょっと?」
すかさずニコラが身を乗り出す。
「なんでそこで言い淀むんですか。さっき、めちゃくちゃ格好よかったのに」
その瞬間、アランが口元を歪めた。
「……なるほど、嵌められたな。しかも屈辱的なやり方で」
「え、なにそれ!? 気になるんですけどー!」
ティエンが一気に食いつくと、マルクは顔を真っ赤にして思いきり地団駄を踏んだ。
「あああああああ、もう分かったよ!! そうだよ! エドガーに嵌められたんだよ! 濡れ衣着せられて!! そしたら、部下の奴らが何したと思う!?」
マルクは叫ぶように続けた。
「それはもう……それはもう……! 恥ずかしかったわ!!」
その場の空気がぴたりと凍る。ニコラの顔から血の気が引き、アランは確信を込めて呟く。
「……置き去り刑だな」
イヴォンが眉をひそめる。
「置き去り刑? 取り残されるのか」
ニコラは頷いた。
「そうです。昔からあります。難儀する島に一人で置き去りにされる。水一瓶、銃一挺、火薬一瓶と弾丸だけ渡されて。海賊にとって一番恐れる罰です。死刑より、よほど。……フランソワ海賊団では見たことありません。置き去り刑を受けた人。船長も、クォーターマスターも……なんだかんだ、寛容でしたから」
苦笑しながら語るニコラを見て、アランは表情を変えなかったが、胸の奥では別の感情が動いていた。
やはりな。秩序を罰を、力で押さえつけるやり方を選ばなかったのが、フランソワだった。そして、同じ船で育ったはずのルキフェルも。あいつは間違いなく成長している。規律を恐れず、恐怖で人を縛らず、仲間を生かす道を選んだ。だからこそ、今は彼がどこで何をしている。この街にいない。状況も知らない。それが彼にとって不安だった。
そのことをアランは誇らしく思うと同時に胸の奥がざわつき、地図の端に視線を落として深く息を吐いた。ティエンが目を丸くしてマルクを見る。
「え、でもさ……よく生きてたね。しかも去年のことでしょ?」
「運が良かったんだよ。置き去りにされた島に、たまたまラム酒を運んでる船乗りがいてな。サン・マロに向かうって言うから拾ってもらった」
マルクは肩をすくめ、イヴォンが低く唸る。
「それを運が良いと言うべきか、悪いと言うべきか分からんな」
「だろ?」
マルクは苦笑したあと表情を曇らせた。
「で、サン・マロに着いたらよ。街じゃオレが沈んだって噂になってた。最初は意味が分からなかったが……聞けば、オレが率いてた第五船団が南の海で壊滅したって話だと。その時、思ったよ。……エドガー、オレの部下を殺したんじゃねえかってな。ふざけやがって」」
吐き捨てるように続けたあと、マルクは顔を上げてアランの方を見た。
「だからだ。オレの目的はエドガーの動向と裏を探ること」
アランは多くを語らず一度だけ頷くと、イヴォンが杖に手を置いたまま口を開く。
「なら、俺だけ曖昧だな。目的は一つ。自分を襲ったやつを探す。記憶探しだ」
ニコラが少し戸惑いながらアランを見る。
「……えっと、セドリックさんは?」
「フランソワの死の真相を知りたいそうだ。あいつも簡単にやられる男じゃない、と言っていた。それと……ルキフェルという青年を探している。フランソワの息子みたいなやつだ、血の繋がりはないがな。俺の弟子でもある」
「えええええええ!?」
ティエンとニコラの声が見事に重なった。マルクはしばらく考え込んだあと、ぽんと手を叩く。
「あ、あの傷だらけの兄ちゃんか。思い出した」
イヴォンはゆっくりと皆を見回す。
「人それぞれ、事情があるものだな。セドリック……いや、コルヴァンとやらも情報屋の力を解禁したんだろう。君との文通のためだけに使っていたカラスを、今では東洋の組織と我々に情報を運ばせている」
アランは頷くと、卓を囲む顔を一人ずつ見渡した。
「フランソワの死を皮切りに色んなことが動き出している。こうして共有してみると分かる。単独で動くより、共にいた方が利益になる。……俺一人じゃ辿り着けない真相もあるらしい。君の記憶探しも手伝おう」
イヴォンは息を吐き、頷いた。
「恩に切る」
その空気を破ったのはティエンだった。
「よーし! じゃあ、さっそく情報整理だな!」
それぞれ別々の理由で動いてきた者たちが、初めて同じ卓で同じ地図を見つめている。
ここから先は個々の探索ではない。線が交わり、真相へ向かう道が形を成し始めていた。




