第七章③ ダラス家
——潮の匂いが重く淀んでいた。
サン・マロの外れ。岩に囲まれた入江は、表向きにはただの入り組んだ海岸線に過ぎない。だが、今は夢蛇の積荷が扱われた裏の場所として異様な緊張を孕んでいた。その中央に立つ男がふっと小首を傾げる。
「それで? 君がトゥーロンで休息をとって、パリに行ってる間に誰かさんが積荷をごっそり奪ったと」
ドミニクは柔らかく笑った。問いかけの形をしていながら逃げ道はなかった。ピエールは喉が鳴るのを抑えられなかった。周囲を囲むのは黒辰封儀教団の暗殺者たち。顔を伏せて気配を殺しているが、その存在感は明確な圧力として背中に突き刺さっている。
「……はい」
ピエールは珍しく怯えていた。部下たちの視線を感じるが、彼らも分かっている。導師であるドミニクに逆らえる者はいない。ドミニクは息を吐いた。
「はぁ……」
乾いた音が入江に響いて、ドミニクの拳が容赦なくピエールの頬を打ち抜いた。
「——っ!」
ピエールの視界が揺れ、身体が後ろへ吹き飛ぶと岩に足を取られて尻餅をついた。ピエールの口の中に血の味が広がる。彼は顔を上げる間もなく襟を掴まれ、身体ごと引き寄せられた。至近距離で覗き込んでくるドミニクの顔は笑っている。薄い亜麻色の髪。白い肌。だらしなく甘い口元。社交場で見せるのと変わらない軽薄な微笑だが、青灰色の瞳は濁り、底の読めない冷たさを宿している。
「ほんとさ……余計なことしてくれたよね。フランソワの残党を処刑送りにするためだけに、サン・マロを離れるとかさ」
ドミニクは口角を上げたまま言葉を重ね、襟を掴む指の力を強める。
「馬鹿じゃないの? ……役割を忘れんな」
ドミニクの一言が刃のように突き刺さる。ピエールは何も言えなかった。夢蛇の積荷、情報の流れ、フランソワの死がこの瞬間に過ちとして断罪されている。やがてドミニクは興味を失ったように手を離し、ピエールの身体が力なくその場に崩れる。
「調子、乗りすぎ」
ドミニクは吐き捨てるように呟くと振り返らなかった。派手な上着の裾を翻し、暗殺者たちの間を歩いていく背中は、今しがた暴力を振るったことなどなかったかのように軽やかだ。
「積荷探しは自分でやってよ。あーあ、夢蛇がどっか消えたんなら……サロンにも影響出るなぁ」
ドミニクは靴先で小石を蹴りながら独り言のように続ける。
「今ある在庫でなんとか回すしかない。……はあ。ほんと嫌になる」
風が止み、ドミニクの表情から陽気さがすっと消える。口元のだらしない笑みも社交人らしい軽薄さも、何も残らない。ただの虚無。パリ、ダラス家の屋敷の地下室。甘く重く、脳の奥を撫でる香り。誰にも邪魔されず、誰にも見られずに堕ちていける場所。ドミニクはお気に入りの部屋を思い出した瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。
「今はやることもないし。帰るか」
ドミニクが馬車に乗り込むと扉が閉まり、車輪が軋んで馬が動き出す。入江はもう見えない。一方、ピエールは地面に座り込んだまま殴られた頬を押さえていた。鈍い痛みが走るが、それよりも胸に渦巻くのは別の感情だった。
「……っつ、んのやろ。誰だよ、奪ったの」
恨みの矛先は殴った兄ではない。命じた導師でもない。——積荷を奪った、名も知らぬ何者か。夢蛇さえ消えなければ。あれさえ守れていれば自分は殴られずに済んだ。役割を忘れたなどと言われずに済んだ。ピエールはゆっくりと立ち上がる。土埃にまみれ、服を払うこともせず入江を後にした。ピエールの背中に残るのは怒りだけ。
——必ず見つけ出してやる。
そう心に刻みながら、彼は一人暗い道を歩き去っていった。




