第七章① ルキフェル
トルチュ島は二つの噂で満ちていた。ひとつは大海賊フランソワの死。もうひとつはフランス海軍の動きだ。市場通りを歩けば嫌でも耳に入る。
「大海賊フランソワ、死んだって話……もう確定らしいぞ」
「フランス海軍がサン・マロから撤退したって? あれも本当か」
香辛料と干し肉の匂い、荷車の軋む音、値段交渉の怒鳴り声。昼の市場は夜の酒場とは違う賑わいを見せていたが、話題の芯は同じだった。そして、日が経つにつれてフランソワの噂は少しずつ形を変えていく。
「フランソワは凄かった。フランスの艦隊を次々沈めたって話だ」
「私掠船時代に七年、裏切られてから海賊に転じて……二、三年であの暴れ方だぞ?」
「ヨーロッパ中ってのは言い過ぎだろ。狙ってたのはフランスだけだ」
「それでも十分おかしいだろ。エドガーは暴力、フランソワは言葉で人を率いた」
「なあ、あの人を生で見たことあるか? 結構、男前だったぞ」
言葉が重なり尾ひれがつき、生前の男はいつの間にか語られる存在へと変わっていく。ルキフェルはその声の洪水を背中で受けながら歩いていた。両腕には頼まれた買い出しの荷。乾物、瓶詰め、紙包みの香草。どれも落とさぬよう気を配りながら、宿への坂道を上っていく。……顔は自然と顰められていた。
——好き勝手言いやがって。フランソワは語られるために生きてたわけじゃない。
ルキフェルの胸の奥に鈍いものが溜まる。誇らしさでも、怒りでもない。そのどちらにもなりきれない、居心地の悪い感情。だが、そう思う一方で否定する言葉も肯定する言葉も、どちらも口に出せなかった。もう本人はいない。残ったのは噂とそれを受け取る人間たちだけだ。勝手に伝説にされるってのも案外、性に合ってるのかもしれないと思おうとして、やめた。荷袋の重みが現実を引き戻す。今はまだ自分にできることをやるだけだ。宿の屋根が見えてくる。トルチュ島の喧騒は背後で途切れることなく続いていた。伝説は今日も勝手に育っていく。その中心にいた男の意思など置き去りにしたまま。
ルキフェルは何も言わず、宿の扉へと足を向けて開けると、そのまま食堂へ向かった。昼と夜の間、一番中途半端な時間帯。火は入っているが、まだ本格的な調理には早い。空気に混じるのは薪の焦げる匂いと湿った粉の匂い。調理場にはマテオが一人いた。上着の袖を肘までまくり、右手だけでパン生地をこねている。台に打ちつけ、折り、押し返す動きに迷いはない。左腕——義手の方はズボンのポケットに突っ込んだままだ。ルキフェルは買い出し袋を肩から下ろしながら言った。
「頼まれたもん、買ってきた」
「おう。その辺に置いとけ」
マテオは生地から目を離さずに応じる。こねる音が規則正しく続く。義手で食材に触れない。料理人としてのマテオの譲れない流儀でもあり、かつて船員たちから「その腕で調理なんて」と忌諱な目を向けられていた過去を気にしている裏付け。ルキフェルはふと視線を落とした。出かける前にはなかったはずの木製のまな板。刃先の減った、ずっしり重い肉切り包丁。火を扱う前と肉を切る前、野菜を刻む前に立つのは決まって別の誰かになる。航海中はソフィーが担当していた。ルキフェルは買い出し袋の口を開き、奥から塊肉を引きずり出した。脂ののった豚の肩肉だ。骨は外してあるが、筋はまだ残っている。これを煮込みに回すか塩漬けにするか、どちらにせよ下拵えが要る。
ルキフェルは無言で包丁を取り、まな板に肉を乗せた。刃を入れ、筋に逆らわず繊維を見極めて、余計な力をかけずに落とすと乾いた音が調理場に響いた。ルキフェルの隣ではマテオが変わらず生地をこねている。打ち、折り、回す。ルキフェルは肉を切り分けながら考えた。こうして台所に立っている時だけは、外の噂も英雄譚も、少し遠くなる。包丁の重みと肉の手応えが今ここにある現実を告げていた。マテオは手際よく生地を拳で押し広げ、折り、分けていった。粉にまみれた指が規則正しく動き、作業台の上に小さな塊が並んでいく。ひと段落したところでマテオが唐突に口を開いた。
「……海軍、サン・マロから撤退したらしいな。まあ、あの街の汚職士官どもは賄賂やら裏金やら、全員ズブズブだったらしいし。上の人間はこれ以上恥晒す前に逃げたんじゃねえの」
ルキフェルは豚肉を切り分けながら答えた。
「ああ。それ、カルロータが言ってたな」
彼の脳裏に浮かんだのは、今夜は島の古い知り合いと飲むんだと妙に張り切っていたカルロータの顔だ。ああいう時の彼女は決まって陽気で、少しだけ浮かれている。ルキフェルは刃を動かしながらぽつりと言う。
「けど、噂は噂だ。あまり振り回されるもんじゃない」
ルキフェルが切り終えた豚肉を皿に移し、汚れた包丁をそのまま水桶に突っ込んで刃についた脂を落とそうとした瞬間、マテオの声が低く落ちる。
「……お前、なに切ってんだよ」
「え?」
「野菜から切れ。刃に脂つくだろ。洗う手間が増えるんだよ。てか、水を無駄にすんな。今、井戸の回り当番誰だと思ってんだ」
ルキフェルは一瞬だけ包丁を見下ろして息を吐いた。
「……悪い」
言い返す気は起きなかった。こういうのはマテオが正しい。マテオは生地を叩きながら鼻で笑う。
「ったく。剣は一流でも台所じゃ素人だな」
「うるせえ」
ルキフェルは包丁を拭き、次は素直に籠の中の根菜へ手を伸ばした。刃が野菜に入り、乾いた音が響く。戦争だの撤退だの噂話だの、そんなものとは無関係に台所は今日も動いている。それでいい、少なくとも今は肉と野菜と腹を満たすことだけ考えていればいい。生きている限り、台所は裏切らない。マテオは分割した生地を手際よく丸め、指先で軽く張りを出すと一本の小さなナイフで表面に小さな十字を刻んだ。それを木皿に並べ、炉の近く——火は当たらないが、ほんのり温もりのある場所へ置く。二度目の発酵だ。
「よし。あとは待つだけ」
マテオは手を拭くと隣をチラリと見た。野菜を刻んでいるルキフェルの包丁の持ち方がどうにも危なっかしい。
「それだと手ェやるぞ」
マテオは何の躊躇もなく右手を伸ばすと、包丁を握るルキフェルの右手の上から自分の手を重ねた。指の位置をズラして柄の握りを少しだけ内側へ、刃の角度をほんの数分修正する。
「親指、立てすぎ。ここは支えるだけだ」
「こうか」
「そう。力、入れんな。刃に仕事させろ」
至近距離で手つきだけが会話するような一瞬。その光景をちょうど食堂に入ってきたコリンが目に留めて、にやっと笑う。
「……あれ? なに、料理教室? それとも花嫁修行か何か?」
ルキフェルの刃が止まる。
「どっちでもないわ、バカ!」
反射的に声を張り上げたルキフェルの後頭部に、すぐさま小さな衝撃が走る。マテオの拳が容赦なく当たった。
「おい、調理場で叫ぶな。唾が飛ぶ」
「……っ、てめ……」
「文句あるなら外で言え。ここは飯作る場所だ」
包丁を持ったまま睨み合う二人。空気は険悪というより、いつものそれだった。コリンは二人の様子を眺めながら呆れたように息を吐く。
「ほんとさあ。犬と鳥が威嚇し合ってるみたいなんだけど」
「誰が犬だ」
「誰が鳥だ」
ぴたりと同時に返ってきた声にコリンは小さく吹き出した。
「はいはい。仲いいねえ」
マテオは何も言わず、再び炉の方へ向かう。ルキフェルも包丁を持ち直し、言われた通りの手つきで野菜を刻み始めた。まな板の上に刻まれた野菜が残っていく中で、コリンが思い出したように口を挟んでくる。
「そういえばさ、さっき港に行ったんだけど……あの黒船、消えてたよ」
「……まじか」
ルキフェルの手が一瞬止まった。野菜はすでに全部切り終えている。ルキフェルは包丁を置いて濡れた手を軽く拭いていると、コリンが口を開いた。
「うん。それでさー、どこ行ったのか聞き回ったら、エドガーたちはポート・ロイヤルに行ったってさ。数日はそこにいるらしいよ」
ルキフェルの胸の奥がざわりと波打つ。理由は分かっている。あの時の返事だ。……どうする。エドガーの言葉。戦争だ、という断言。そして、自分が返さなかった答え。
「どうした?」
マテオの声に、ルキフェルは意識を引き戻される。
「……なんでもない」
ルキフェルは即座に答えたが、内側は全く落ち着いていなかった。フランソワのことを考えないようにしている時ほど決まって思い出す。その時、唐突に顔の声が蘇った。
「ルキフェル、大変だよう!」
中庭を囲う低い石垣の向こう。弾んだ、間違いなくコリンの声。
「エドガーがこの島に滞在してるって!」
続けて重なった、少し落ち着いたニールの声。
「しかも、フランソワ船長が死んでかららしい」
……らしい。ルキフェルはほんのわずか眉を寄せた。あの時も引っかかった言い方だった。ルキフェルはゆっくりと息を吐いて二人を見る。
「なあ、お前たち。覚えてるか? 旗偽装の件で長老んとこ行く前だ。エドガーがこの島に滞在してる、フランソワが死んでからって言ったな」
マテオが首を傾げていると、コリンが軽く手を打つ。
「ああ、あれね。宝石屋のとこの兄ちゃんが教えてくれたんだよ」
——やっぱり、島の人間だ。ルキフェルの翡翠の瞳がギラリと光を帯びる。
「それまでフランソワが死んだこと、誰か教えたか?」
「いいや? だって旗偽装のことで詰め寄られたの、島着いた次の日じゃん」
コリンが即答すると、マテオの表情が変わって粉のついた手を止めりと低く唸った。
「……たしかに。あの時はエドガーがいるって聞いて気が動転してたが、きな臭えな。情報の出どころがおかしい」
ルキフェルは何も言わず頷いた。胸の奥で嫌な感触がじわじわと広がっていく。フランソワの死が確定情報として出回るには早すぎる。それなのに島の人間は知っていた。
……誰が流した。エドガーか。それとも別の、もっと面倒な連中か。
ルキフェルの手には包丁の冷たい感触がまだ残っていた。その冷えが嫌な予感と一緒、骨の奥まで染み込んでいく。考えるべきことがまた一つ増えた。
「宝石屋のところに行こう」
「は?」
コリンが目を瞬かせるが、ルキフェルは構わず続ける。
「案内してくれ。今すぐだ」
コリンが露骨に嫌そうな声を上げる。
「えー、今から行くの? もう夕方だよ? 飯の時間近いし、ぼく今日めっちゃ疲れて——」
ルキフェルの背後でマテオが生地に布をかけながら二人を見る。彼の声音はいつも通り落ち着いているが、釘はきっちり刺す。
「行くなら、日が沈む前には帰ってこいよ。夜の市場は余計な目も多い」
「ほら! マテオもそう言ってる!」
コリンは即座に援軍を得た顔になる。
「今日はやめよう、明日——」
「ダメだ」
ルキフェルは被せるように言った。
「今だ」
「ちょっと! 強引すぎない!?」
「うるさい」
「最近のルキフェル、決断早すぎなんだって!」
「だから行くんだよ」
言い合いながらも、ルキフェルはすでにコリンの襟元を掴んでいる。半ば引きずる形で食堂を出る勢いだった。
「ちょ、ちょっと待って! せめて上着——」
「いらん」
「いるって! 島の夕方なめんな!」
「黙って歩け」
「ひどい! 友達に対する扱いじゃない!」
ルキフェルは喚くコリンを引きずり、食堂の扉を押し開けた。二人の背後でマテオがため息を吐く気配がする。
「……日が沈む前だぞ、ルキフェル」
ルキフェルは振り返らず、片手だけ軽く上げる。
「分かってる」
「分かってる顔じゃねえな」
マテオの声を背に、ルキフェルは歩調を緩めずコリンに声を飛ばす。
「いいから宝石屋だ。案内しろ」
「だからって、こんな引きずらなくても……!」
「逃げる気満々だからだ」
「信用なさすぎ!」
二人は宿を出て、石畳を踏み鳴らしながら港湾区へ向かった。夕暮れのトルチュ島は昼の喧騒から夜の顔へと移ろう途中。ルキフェルの胸の奥では、さっきまでの料理の匂いも雑談もすでに遠のいている。情報の出どころを確かめるまでは、落ち着いてなどいられなかった。コリンの抗議を片耳に流しながらルキフェルは無言で歩き続ける。コリンの案内で辿り着いたのは、港湾区の外れに建つ古びた木組みの店だった。外壁は潮風に晒されて灰色に褪せ、看板の文字も半分ほど剥げ落ちている。
——宝石商。この島では「ぼったくりで有名」「宝石屋を名乗っているくせに店長の性格が終わっている」という、もはや悪評込みで名物になっている店だ。
ルキフェルは一瞬も躊躇せず扉を押すと真鍮の鈴がカランと乾いた音を立てる。カウンターの内側で帳簿をめくっていた青年が顔を上げた。年は二十前後。細身で、どこか神経質そうな目だが、視線は逃げない。
「いらっしゃい」
青年——ディッキーの淡々とした声がカウンター越しに飛び、ルキフェルの背後からコリンの顔がひょいと覗いた。
「よっ」
「……あ、きみは先日の!」
軽い調子で手を上げるコリンに、ディッキーは少し驚いたように言ってから思い出したように続ける。
「錬金術少年じゃないか」
「いやあ。ぼくの錬金術マスターへの道は、まだまだ遠すぎるんだけどね」
コリンは頭をかきながら笑った。一方、二人のやり取りをルキフェルは完全に無視していた。視線は最初からカウンターの内側にいるディッキーに固定されたままだ。
「少し話がある。商談じゃない。取引とも関係ないが、聞きたいことがある」
ディッキーは一瞬目を瞬かせて、ゆっくりと息を吐くと小さく笑って、肩をすくめた。
「……なるほど。店長じゃなくて、僕のほうね」
彼の反応に、ルキフェルの眉がわずかに動く。察しがいい。ディッキーは帳簿を閉じながら言った。
「分かりました。その前に、お店を締めてもいいですか? このままだと落ち着いて話せないので。そのあと逃げずにお話ししますから」
ディッキーは鍵を手に取ると真っ直ぐにルキフェルを見ると、コリンがぱっと表情を明るくして、場の空気を読んでいるのかいないのか軽い調子で続ける。
「あ、じゃあさ。ブエソルで一緒にご飯食べようよ。……カルロータさんはいないけど」
ディッキーは一瞬だけ困ったように笑い、小さく頷いた。
「いいの? じゃあ……お言葉に甘えようかな」
ディッキーがカウンターを出て、店の灯りを落とす準備を始める彼の背中をルキフェルは無言で見つめていた。ますます、きな臭くなってきた。
その後、ルキフェルたちはディッキーを連れてブエソルへ戻った。三人が宿の扉をくぐったところで、ちょうど食堂へ向かおうとしていたソフィーと鉢合わせる。彼女は一瞬足を止め、ディッキーの顔を見て小さく首を傾げた。
「……あれ? どうしたの」
先に口を開いたのはディッキーだった。
「お食事に誘われちゃいました。ご一緒させていただきます」
「ふーん……」
ソフィーは視線をルキフェル、コリン、ディッキーと順に移してから曖昧に笑った。
「なんか、初めて見る組み合わせかも」
そのまま一行で食堂へ向かう。久しぶりに並ぶマテオの夕食の匂いが、室内に広がっていた。パンと煮込み、素朴だが腹に溜まる献立だ。皆が席に着き、自然と会話が生まれる中、ルキフェルはいつも通り無言で食べ始めた。味を確かめるように噛み、飲み込み、また次を口に運ぶ。その間も視線だけは緩やかに動かしている。ディッキーは無駄に饒舌になるでもなく、かといって怯えて縮こまる様子もない。質問には答え、皿の上のものをきちんと平らげ、席を立とうともしない。逃げ道を探す癖のある人間特有の落ち着きのなさが、どこにも見当たらなかった。
……少なくとも今夜は逃げる気はない。
そう判断した頃、ルキフェルの皿は空になっていた。彼は立ち上がり、食器を手に取ると誰に向けるでもなく、淡々と告げた。
「部屋にいる。何かあればノックしろ」
それだけ言って、彼は返事を待たずに調理場に皿を置くと食堂を出た。彼の背後ではまだ誰かが何か言っていた気もしたが、気に留めなかった。ルキフェルが階段を上がって二階の自室の扉を閉めると、宿の喧騒は一段遠のく。椅子もベッドも視界に入ったが、ルキフェルはしばらく立ったまま動かなかった。
「逃げない、か」
それが信用に足るかどうかはまだ分からない。だが、少なくとも今すぐ消える人間ではないと結論づけると、ようやく息を吐いて部屋の中へと歩き出した。しばらくして、部屋の扉が控えめにノックされる。
「……入れ」
ルキフェルが応じると扉が開いた。顔を覗かせたのはコリン。そして、彼の後ろにディッキー。さらに姿を現したのはマテオだった。三人とも軽い興味本位で来た顔じゃない。空気がはっきりと違う。ルキフェルは内心で小さく息をついた。マテオの目つき。あれは料理人のそれじゃない。場を荒らさず、感情を切り分けるために来た人間の顔、裁定役ってわけだ。その意図を察し、ルキフェルは部屋の中央に置いてあった椅子を引き寄せた。
「……座れ」
ルキフェルが促すとディッキーは一瞬だけ視線を泳がせ、素直に椅子に腰を下ろした。ルキフェルは彼の正面、自分のベッドに腰を下ろすと間髪入れずにコリンが隣にちょこんと座った。マテオは扉を閉め、そのまま背中を預けて腕を組む。完全に様子見の構えだ。沈黙の中、ルキフェルが口を開く。
「まず、事実確認からいこうか」
彼は一度、マテオとコリンの方を見やった。
「こいつがフランソワの死を“知っていた”。その認識でいいか?」
コリンは少し迷うように口をへの字に曲げ、それから頷いた。
「うん。少なくとも、“死んだらしい”とかじゃなくてさ。もう、確定みたいな言い方だった」
「ああ。言葉を選んでる風でもなかったな」
マテオも頷き、ルキフェルは二人の反応を確認してから視線をディッキーへ戻した。
「すぐに断定するつもりはない。整理したいだけだ。まず、俺の記憶が間違ってなければ、フランソワが死んだのは三月一日。夕方だ」
ディッキーの喉がわずかに動いた。ルキフェルは一つひとつ、釘を打つように言う。
「現場にいたのは俺たちとフランス海軍だけ。それと、俺たちがこの島に着いたのは、四月十四日。この時点で海を渡った情報が噂として広がるのは分かる。だが、確定情報として島に出回るには早すぎる」
ルキフェルが言い切る前にマテオが口を挟んだ。
「ああ、間違いない。だオレたちが島に着いた時点で、船長の死が『もう決まった事実』みたいに扱われてるのはどう考えてもおかしい」
空気が、ぴんと張り詰めた。ディッキーは視線を落としたまま黙っている。さて、ここからだな。ルキフェルは彼の沈黙をじっと見据えた。誰が、いつ、どこで口を滑らせたのか。誰が情報を流通させたのか。ディッキーは一度、膝の上で指を組み直した。
「……先に結論から言います」
ルキフェルは翡翠色の目でディッキーをまっすぐに見据えている。ディッキーは息を吸って吐き、はっきりと口にした。
「僕がフランソワ船長の死を知ったのは、三月中旬ごろです」
「……は?」
最初に声を漏らしたのはコリンだった。彼は反射的に隣のルキフェルを見るが、ルキフェルは動かない。マテオが低く息を吐く。確認するような声音だったが、その目はすでに鋭い。
「三月……中旬? それは、噂じゃないな」
ディッキーはこくりと頷いた。
「ええ。“確定情報”として、です」
「え、ちょっと待ってよ」
コリンはベッドの上で身を乗り出し、思わず早口になった。
「だって……サン・マロからトルチュ島って、最短ルートでも三週間はかかるでしょ? 普通は一ヶ月弱ってところだし、どうしてそんな早く情報が——」
ディッキーは一度だけ視線を落として口を開く。
「僕の立場から見た推測ですけど……最初にフランソワの死を情報として掴んで、意図的に流した人間は、間違いなくいます。それも即日で」
コリンが息を呑む。
「即日……?」
「はい。たぶん三月一日の夜」
ディッキーは指先で空を描きながら順を追って話し始めた。
「まず、情報を掴んだ誰かがいる。その人物が使うのは、だいたい表向きは貿易商を名乗っている黒い連中です。ただし、その船がそのままトルチュ島に直行するとは限らない。むしろ、しません。サン・マロから直接カリブに向かうより……サン・マロからリスボン、あるいはカディス。そこからカナリア諸島を経由して、カリブへ。複数の港を踏むのが普通です」
コリンが眉を寄せる。
「……遠回りじゃない?」
「遠回りだよ。でも、意味がある」
ディッキーは一瞬だけ口角を下げた。
「港を踏むということは、情報を落とす場所が増えるということ。情報って船と同じ速さでしか動かないと思われがちだけど……実際は違う。同じ情報を複数の商人に、複数の密輸ルートに、複数の書簡に分けて流す。特に『大海賊フランソワ死亡』みたいな話は別。そこにフランス海軍の不都合が絡むなら、なおさら情報は港から港へ“噂”として連鎖します。裏を取る人間が現れ、また別の港へ流れる。そうして、 船が着く前に、噂と裏確証だけが先にトルチュ島へ届く。そういう現象が起きても、おかしくないよ」
「……そんなこと、本当にあんの?」
コリンの声は半ば呆然としていた。彼の問いに答えたのは今まで黙っていたマテオだった。
「ある。裏の世界なんて、そんなもんだ」
低い声だが、その奥にわずかな苛立ちが滲んでいる。マテオは腕を組み、視線を逸らした。久しぶりだな。そんな自嘲が胸の奥をかすめる。人を殺す側にいた頃の勘。本当はもう二度と使いたくなかった感覚。
「……ちっ」
小さく舌打ちして、マテオはそれ以上何も言わなかった。ルキフェルはしばらくディッキーを見つめていたが、やがて低い声で切り出した。
「で、お前は誰から聞いた」
ディッキーは一瞬だけ目を伏せて肩をすくめた。
「店長ですよ。ほんと……あの人、すぐベラベラ喋る。自分が掴んだ情報をデカいネタだと思うと、抑えが効かなくなるタイプで」
ルキフェルの眉がわずかに動く。
「そもそも、お前は何者だ。ただの店番じゃないだろ」
ディッキーはゆっくり息を吐いた。
「みなさん、うちの店のこと、『ぼったくりで有名な宝石屋』だと思ってますよね?」
「思ってるっていうか、それしかないじゃん」
「同感だな」
コリンが即座に口を挟み、マテオもほぼ同時に言う。ルキフェルも淡々と事実を並べていく。
「宝石屋名乗って、値段が倫理観ぶち抜いてる。悪質だよな。宝石屋のくせに、ぼったくりとか」
ディッキーは苦笑した。
「高くつくのは宝石じゃないんですよ。値段に乗ってるのは……“情報”です」
その一言で部屋の空気が変わり、ディッキーはまた語り始めた。
「ぼったくりで有名って言われてますけど。性格が終わってるとか、狡猾だとか、島の嫌われ者だとか……」
「だいたい合ってるな」
マテオがぼそっと言うが、ディッキーは首を振った。
「でも、それだけじゃない。宝石屋は本業じゃありません。本当は情報を扱う場所です。言うなれば、情報の郵便局」
コリンが目を瞬かせる。
「郵便局?」
「そう。だから高い」
ディッキーは淡々と続ける。
「高いけど、確実。高いけど、口が堅い。高いけど、裏が取れる。だから、ぼったくりじゃない。手数料が高い情報屋なんです」
ルキフェルは黙って聞いていた。ディッキーは机の上に見えない宝石を置くような仕草をする。
「で、宝石は“通貨”じゃない。金貨は足がつく。書簡は検問に引っかかる。口伝は歪む」
「……だから宝石か」
マテオが低く呟くとディッキーは頷いた。
「はい。宝石は検査されにくい。価値が圧縮されている。持ち主が変わっても怪しまれない。贈り物。戦利品。換金目的。いくらでも誤魔化せる」
コリンがハッとした顔をする。
「つまり……」
「情報を“物”に変えて、流通させる。それが、うちの店です」
ディッキーは言い切ると少し間を置いて続ける。
「宝石を手に入れる理由も、金持ちになるためじゃない。物々交換が主流の市場通りでパンを大量に買うためです」
「パン?」
「ええ。宝石は価値の保存。パンは人脈の維持。情報屋は、人を食わせる。情報を回す。島の血流を維持する。だから、宝石屋は金持ちじゃない。島を回すための潤滑油です」
ディッキーは肩をすくめ、ルキフェルはなお低く問い返した。
「口を滑らせた店長は何をした」
ディッキーは観念したように答える。
「フランソワの死亡を旧砦跡地の連中に垂れ流しました。本人としてはビッグニュースのつもりだったんでしょうね。旧砦跡地を発信源にフランソワが死んだって噂が広がった。確証はない。あくまで噂。でも……どこから嗅ぎつけたのか、エドガーがこの島に着くなり店長を攫いました。三月十五日ごろだったと思います」
「……なるほどな。だから店長はエドガーに捕まってたんだね」
コリンが納得したように息を吐き、ディッキーは苦笑いを浮かべた。
「理由まではわかりませんけどね」
ルキフェルの視線は鋭さを増していた。ディッキーの顔は嘘を吐いていない。取り繕う様子も言い逃れの兆しもない。ただ、覚悟を決めた人間特有の妙に素直な目をしている。
「……最後に会ったのは?」
ルキフェルが問うと、ディッキーは少しだけ記憶を辿るように視線を泳がせて言った。
「えっと……たしか。四月十五日です」
その数字にコリンがぴくりと反応し、少し考えてから首を傾げた。
「あれ、その日ってさ……ぼくたち、色々あったよね。割愛はするけど……フェルナンドが、『宝石屋の店長はもう帰したよ』って言ってた気がするんだ……」
「え、そうなのか」
ルキフェルの口から思わず情けない声が漏れた。その日はエドガーとの戦争の話で頭が埋まっていて碌に周囲を見ていなかった。自分が宿に戻るのも早かったはず。ディッキーは苦笑しながら頷く。
「ええ。ちゃんと、店に帰ってきましたよ。……ヘロヘロの状態で。実に一ヶ月ぶりでした」
「ん、碌な目に遭ってなさそうだ。エドガー海賊団は暴力においては容赦ないから」
マテオが低く言う。皮肉でも揶揄でもなく、事実確認のような声音で。ディッキーは額に汗を掻き始めて口を開いた。
「でも、そのあとすぐ……また店を出て行きました。理由は、教えてくれなかったです」
ルキフェルは小さく舌打ちして吐き捨てるように言う。
「くそ……謎がまた謎を呼んでくる。噂といい……やってらんねえな」
一瞬、部屋の空気が張りつめるがコリンが破ってきた。
「ねえ、ディッキー。島を出た方がいいんじゃないの? ……危ないかも」
コリンの言葉にディッキーが瞬きをし、マテオも扉から離れて頷いた。
「同感だな。なんなら、この宿に住め。ここにいる限りは安全だ」
ディッキーは一瞬ためらったあと、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうさせてもらおうかな」
「うん、その方がいい」
コリンがやけに含みを持たせた調子で言う。ルキフェルとマテオは同時にコリンを見たが、当の本人は何も言わずニコニコと笑っている。ディッキーは気づかないまま頷いた。
「だよね。準備、しておこうかな」
ルキフェルは一つ、深く息を吐いた。
「……よく分からんが、今夜はここまでだな。協力に感謝する」
ディッキーに視線を戻す。マテオが一歩退き、扉への道を開けるとコリンが軽い調子で言いながら立ち上がった。
「あ、じゃあさ。空いてる部屋あるから案内するよ。それとも相部屋にする? ぼくは構わないよ」
「本当にいいの?」
ディッキーが少し驚いたように言う。
「カルロータさんに……」
「大丈夫、大丈夫。事情を話せば、わかってくれるよ」
コリンはあっさり答えると何気ない口調で付け足す。
「あの人だって元々は裏の人間なんだから」
ディッキーは小さく笑い、頷いた。二人が部屋を出て行って扉が閉まったあと、部屋にはルキフェルとマテオだけが残った。ルキフェルは天井を見上げて呟く。
「島が、もっときな臭くなってきやがったな」
ルキフェルはベッドに腰掛けたまま両膝に肘をつき、深く項垂れていた。床に落とした視線は動かない。考えれば考えるほど糸は絡まるばかりだ。
「なあ、マテオ。エドガーが宝石屋を攫った理由……気にならないか」
マテオは少し間を置いてから鼻を鳴らした。
「気にはなるな」
ルキフェルは言葉を探すようにゆっくり続けた。握った手に力がこもる。
「ディッキーが言った通りなら、噂はもう島に広まってたんだよな。だったら……どうしてだ。どうしてエドガーは、真っ先に宝石屋を攫った?」
「旧砦跡地に行ったんだろ、あの船長」
マテオは即答したが、ルキフェルは顔を上げて反射的に聞き返す。
「なんで」
「先に噂があったなら、真偽を確かめるために旧砦跡地に行く。で、発信源を辿ったら宝石屋だった」
マテオは淡々と説明したあと少しだけ言葉を区切り、視線を伏せて続ける。
「攫った理由は……船長が死んだのを受け止めきれなかった末の暴走だろ。……昔から仲良かったじゃん。あの人たち」
ルキフェルの指が自分の髪を強く掴んだ。マテオの一言で胸の奥がぎしりと鳴る。ルキフェルは頭を抱えたまま、吐き出すように呟いた。
「……わかんねえよ。誰だよ、最初に流したやつ……」
その時、マテオがわざわざ一歩近づいてルキフェルの左隣に腰を下ろした。低い声がすぐ傍で響く。
「あのさ。まだあの人が死んだ“意味”を探してんのか」
ルキフェルは答えなかったが、マテオは構わず続ける。
「謎を解いてもあの人は戻ってこない。……もう、背負わなくてもいいんだよ」
マテオの生身の右腕がルキフェルの肩に回された。シャツ越しに伝わる体温。義手ではない、重さと温度。わざわざ、左隣に座った理由を察した瞬間、ルキフェルの胸の奥がじんわりと緩んだ。マテオは少しだけ間を置いてから続ける。
「オレさ……色んな奴の死に、触れてきたけど。わかるよ。なかなか乗り越えられないよな」
マテオは一度言葉を切って首を振った。
「……いや、違うな。乗り越える、とかじゃない。——慣れないんだろ。あの人がいない世界に」
ルキフェルの喉が小さく鳴り、喉に引っかかっていた言葉が溢れてきた。
「……言い得て妙だな。これまで、色んな奴が命を落とした。比べるもんじゃないのはわかってる。……それでもだ。今までより……重くて、痛い」
マテオは肩に回した腕の力をほんの少しだけ強めた。ルキフェルはしばらく床を見つめたまま喉の奥から絞り出すように言う。
「俺、何したらいいんだろう。板一枚で海を彷徨ってるみたいで……どこに向かえばいいのかも分からねえ」
言葉にした瞬間、ルキフェルの胸の奥がきしんだ。今まで進む方向を疑う暇すらなかった。その時、マテオはため息まじりに鼻で笑う。
「ほら、そういうとこだぞ。お前さ、誰かのために身も心も削りすぎなんだよ。すぐ役割を背負おうとする」
ルキフェルは何も言えず唇を噛み、マテオは意外なほど穏やかな声で続ける。
「何したらいいかって考えない方がいい。せっかく落ち着ける場所ができたんだろ。だったら、たまにはのんびりしろ。考えるのやめて、飯食って、寝て、海でも眺めてさ」
それからマテオは少し言葉を切り、困ったように眉を寄せた。
「……ま、そう言ってもお前、どうせ聞かないんだろう」
図星だった。ルキフェルはかすかに息を詰める。マテオは天井を見上げるようにして考え込み、やがて決めたように言った。
「そうだなぁ……だったら、逆だ。何をすべきか、じゃなくて。何がしたいか探せよ。役割がなくて不安なら、もっと自分勝手になれ。今まで十分すぎるくらい他人の人生を背負ってきたんだ」
マテオはいつものぶっきらぼうな口調で付け加えた。
「自分が何したいか、まず考えようぜ。付き合ってやるから」
マテオの言葉に、ルキフェルは思わず顔を上げた。自分の間近にあるマテオの横顔は真剣で気負いがなくて、逃げ場を与えないくせに突き放しもしない。
「……参るな」
ルキフェルは小さく息を吐き、苦笑した。役割を失った不安はまだ消えないが、板一枚の海の上にいたはずの自分の足元に、いつの間にか並んで立つ誰かがいる。肩に残るマテオの体温が妙に現実味を帯びてきた。
「……じゃあさ。ひとまず、呑みに行きたいな。今日はもう寝て……明日の夜にでも」
ルキフェルはぽつりと声を出してから少しだけ間を置いた。視線は床に落としたままだったが、言葉だけは明瞭だ。
「お前と、二人で」
ルキフェルの言葉にマテオは一瞬だけ目を瞬かせ、口の端を吊り上げた。
「いいじゃん。朝まで付き合ってやる」
「助かる」
ルキフェルが呟いた直後、マテオが思い出したように言う。
「あ、じゃあさ。夜の階段で呑んだあと娼婦館でも行かね?」
「……そこだけは絶対に行かない」
ルキフェルの有無を言わせない押し殺した声に、マテオは思わず吹き出す。
「悪い悪い、怒るなよ」
「あと賭け事も無しな。大損なんて、まっぴらだ」
「はいはい、生真面目な奴」
マテオは立ち上がり、軽く背伸びをすると扉へ向かった。
「じゃあ、また明日。二人で呑むの約束な」
「ああ……おやすみ」
「おやすみ」
扉が閉じられ、マテオの足音が遠ざかっていく。ルキフェルは立ち上がり、蝋燭の灯を指で摘まむようにして落とした。闇が満ち、空気が一段冷える。ベッドに身を沈めるとルキフェルの脳裏に別の影が浮かんだ。エドガーの戦争計画。その標的の先にいる、フランス海軍。そして、スザンヌ。ルキフェルの胸の奥がわずかに騒ついた。
「……勝手にしてろ。俺は今、呑みたい気分なんだ」
ルキフェルは意識を沈めた。明日の夜の約束だけを手探りで握りしめながら。




