第六章④ ルキフェルとソフィー
ソフィーは椅子に座り直し、膝の上で指を重ねた。その仕草が少しだけ硬い。何かを言う前の、決意の形だとルキフェルは思った。
「私は、ずっと孤児だと思ってたの。でも本当は違った。もしかしたら、私には“血筋”があるかもしれない」
——血筋。
その言葉が出た瞬間、ルキフェルの中で警戒が一段階上がるが、顔には出さない。
「私の出自は……ルノアール家。代々、海軍に仕える軍医の一族。その長女が、秘密の恋人と駆け落ちして……すぐに消息を絶った」
なるほどとルキフェルの頭のどこかが冷静に整理を始める一方で、別の部分が追いつかない。海軍の名門。血。失踪。話の輪郭は見えるが、感情の重さがまだ掴めない。
「でも、後から分かったの。彼女は妊娠してて、私を産んだあと孤児院に預けて、自分は消えたのかもしれない」
消えた。その言葉にルキフェルの胸の奥が疼く。理由は分からないが、知っている感触だった。
「……じゃあ、お前はその長女の娘?」
ルキフェルが確認するように問いかけると、ソフィーは頷いた。
「信じたくなかった。でも、私を引き取ったという人たちは、ルノアール家の弟夫婦……つまり私の叔父と叔父の奥さんだったの。彼らは私を庶子として扱い、正式な娘としてではなく、“男”として育てた」
男として。ルキフェルの眉がほんのわずかに寄る。理解できないとは違う。理解したくないやり方だと思っただけだ。
「……なぜ男として?」
「簡単よ。軍に入れて出世させたかったの。女よりも男の方が海軍では有利だから」
ソフィーから語られる海軍の理屈の冷たさに、ルキフェルの鼻の奥がつんとする。組織の都合。役割。駒。
「……実際、十四までは少年として、誰にも疑われず育ってきた。でも、私は……それが、嫌だった」
「私の意思で、女として海軍士官学校に入った。叔父の意向を無視して。これが何を意味するか、分かってた。庇護も後ろ盾も捨てて、ひとりで生きるということ。それでも……私は、自分の足で立ちたかった」
静けさが落ちる。ソフィーの語りですべてが繋がった気がして、ルキフェルはようやく理解した。こいつは強くなりたかったわけじゃない。強い人間だと思い込まなきゃ生きられなかっただけだ。強くなりたかった自分は剣を選んだ。こいつは自分の足で立ち続けることを選んだ。本質も違けりゃ、手段も違う。嵐の日、あの甲板でこいつは自分の前に立って、言葉で説得しに来た。正義を振り翳す、鼻につくお嬢さん。そう思ったが、違った。ちゃんと覚悟があった。
「……そりゃあ、波風も立つわけだ」
ルキフェルの口から思わず零れた声は慰めでも皮肉でもなかった。事実をそのまま受け取っただけ。
「笑えばいいじゃない。身の程知らずな女の話を」
「笑ってない」
窓際に立ったままルキフェルは彼女を見る。翡翠の目はいつものように鋭いが、突き放してはいなかった。
「ただ……納得しただけだ。お前の“覚悟”は、口先じゃなかったってことに」
ソフィーが一瞬唇を噛んだのを見て、ルキフェルは思う。言ってよかったんだ。少なくとも、ここでは。嵐の中でも前に立つ人間はいる。剣を持たなくても、立ち続ける人間はいる。それを知れただけで、この盗み聞きは無駄じゃなかった。
「……あなたは? あなたも、昔のことを話してくれるの?」
ソフィーから不意に投げられた問いに、ルキフェルの視線がわずかに揺れた。ああ、そう来たか。ルキフェルは喉の奥で息を詰める。逃げ道を探す癖はまだ抜けていない。彼はほんの一瞬だけ目を細めたが、自分でも意外なほど自然に口角が上がった。
「俺の話は、もう少し酒が入ってからの方がいい」
完全に逃げだ。突っ込まれたら終わる。だから軽く、冗談めかして流す。それが一番、楽なはずだった。
「じゃあ、ミントティーで我慢して」
即座に返ってきたソフィーの言葉に、ルキフェルは内心で舌打ちした。逃がしてくれないタイプだなと冷静に思いながらも、否定する言葉は出てこなかった。二人の間に沈黙が落ちるが、気まずさから生まれたものではない。互いに踏み込みすぎず、同じ場所に立っているとどこかで確認し合っているような、そんな沈黙。ルキフェルは視線を逸らしたまま内側へと意識を落とした。
——一番古い記憶。
考えた瞬間、胸の奥がきしんだ。本当は思い出したくない。思い出さずに済むなら、それでよかった記憶だ。闇。何も見えない。何も分からない。遠くで、誰かの叫び声がしている気がした。目を覚ました瞬間、全身に走った鈍い痛み。重い。息がうまくできない。ここがどこなのかも、自分が誰なのかも分からない。低い声がして、落ち着いていて、妙に現実的な声。
——目が覚めたか。
船医レオンの一言に、なぜか救われた気がしたことだけはハッキリ覚えている。視界は暗く、匂いは血と鉄と湿った木。包帯の重みが顔を締め付け、外された瞬間に理解した。ああ、怪我してるんだ。やがて男たちが来て名前を聞かれたが、口を開こうとして言葉が出なかった。
——ボク?
その一人称すら、しっくり来なかった。答えようとしても何も浮かばない。灯りが入ってきて、初めて鏡を見た。そこに映ったものを今でも忘れられない。自分のはずの顔だが、もう「自分」と呼べる形ではなかった。裂けた皮膚、盛り上がる傷、重なり合う痕。元の輪郭も表情も、名前すら思い出せない。鏡に映る翡翠色の目だけが妙に冴えていた。
「お前は、誰だ」
その問いは誰に向けたものでもなかった。ただ、自分自身に突きつけられた最初の問いだった。
——それが、俺の始まりだ。
そこまで思い出して、ルキフェルは小さく息を吐いて無意識に肩の力を抜く。ソフィーの視線を感じる。今も黙って待っているのだろう。問い詰めず、踏み込まず。ルキフェルはまだベランダの外に体を預けたまま、室内にいるソフィーの方を見るとわざとらしく肩で息を吐いた。
「そうだな。じゃあ、俺の昔話もしてやろうか」
半分は冗談、半分は照れ隠し。深刻な話題に正面から踏み込むほど、まだ腹は決まっていない。
「え、本当に?」
目を見開くソフィーを横目にルキフェルは視線を外し、手すりから体を離した。ベランダの床を踏んで窓枠に手をかけると一瞬だけ動きを止める。入り込むか、やめるか。だが結局、何事もなかったように室内へ足を踏み入れた。窓を背にして数歩、ソファの背にどさりと体を預けて深く腰を沈める。まるでここが最初から自分の居場所だったかのような雑な座り方だった。
「昔のことなんて、大抵どうでもよくなるもんだ。今さら何を語ったって、風に流れて消えるだけさ」
ルキフェルは天井を見上げながら言う。本音を混ぜた、逃げの言葉だ。
「ふーん……」
「ああ、それに……思い出せねえんだよな。肝心なところが」
ルキフェルは視線だけを横に流した。言った瞬間、自分でも少し可笑しくなる。お互い沈黙した。次に来る反応はだいたい予想がつく。
「……ちょっと待って。それってつまり、話すって言っといて、“何も覚えてない”ってこと?」
「ま、そうなるな」
「なんでそんなドヤ顔なのよ……!」
ルキフェルの口角がほんのわずかに上がる。
「俺に期待する方が間違いだ」
ルキフェルが涼しい顔で言い切ると案の定、ソフィーは肩を落とした。
「じゃあ、なんで私にはあんなに喋らせたの?」
ルキフェルは揶揄うつもりだったはずの軽口が喉の奥で引っかかった。
「お前は誰かに聞いてほしかった。それだけだ」
取り繕いはない。だからこそ、少しだけ重い。ソフィーが顔を引き攣らせたまま黙ってしまった。無責任に聞こえるだろうが、嘘は言っていなかった。沈黙が落ちる。その間に、ルキフェルの思考はふと昔へ引き戻された。
——そういえば、誰かに過去を聞かれたの初めてかもしれねえ。
仲間たちは皆、過去を海に捨てた連中だ。だから誰も他人の「前」を掘り返そうとはしない。聞かないことが礼儀だった。不意にあの時の光景が脳裏に浮かぶ。航海図を押さえながら、軽い気持ちで投げた問い。
——アランって、なんで海賊になったの?
あの時の空気の重さ。過去を捨てた人間に、それを問うことの意味。そして、自分が言った言葉。
——おれ、何も思い出せないから。いつも真っ暗なんだ。
あの時、教えられたこと。過去がなくても、今を生きていいということ。思い出せなくても価値は揺るがないということ。そうだ。自分は思い出せなくても生きていけるって信じてきた。それが今までの人生だった。記憶がないことは弱点で命取りで、だからこそ信じられる相手にしか話さなかった。だから、今もこうして誤魔化す。ルキフェルは視線を伏せたまま、ぽつりと付け加えた。
「……まあ、“捨てた”ってことにしといてくれ。昔のことなんて、碌なもんじゃなかった気がするしな」
「……ずるいわね、あなた」
「よく言われる」
ルキフェルは肩をすくめて笑ったが、その横顔には影が落ちていた。ソフィーがそれ以上踏み込まなかったことに内心で安堵すると同時に、なぜか少しだけ胸の奥がざわついていた。やがて、ソフィーが立ち上がった。椅子の脚が床を擦る、わずかな音だけでルキフェルは無意識に身構えていた。距離を詰めてくるわけでも、見下ろしてくるわけでもない。ただ同じ高さで立ったまま、逃げ場のない位置で彼女は言った。
「あなたは、恐怖から閉ざしているだけ」
その一言が、ルキフェルの瞼が揺れ、胸の奥に硬い音を立てて落ちた。反論が浮かばない。否定も皮肉も出てこない。見抜かれた。理由は分からないが、そう感じた。
「あなたが本当に恐れているのは、過去じゃない。──自分自身よ」
ソフィーの言葉が続くたび何かが内側から軋み始める。思い出すことを拒んできた。忘れているのだから考える必要もないと思ってきた。だが、不意に視界の奥が歪んだ。
——闇。軋む床板の音。近づいてくる足音。剣。白刃が弧を描いた瞬間、呼吸が止まった。痛み。熱。血の匂い。額から頬へ走る衝撃。視界が赤く染まり、世界が傾く。逃げようとして、足がもつれる。刃が迫る。喉元に冷たい感触。そして、叫び声。立ちはだかる女。血を流しながら、それでも前に出て、崩れ落ちる。浴びた血。温度。倒れていく身体。
——何も、できなかった。
記憶は断片的だった。映像ですらない。感覚の残骸だが、胸の奥を締めつけるものだけはハッキリしていた。怖かったのは剣じゃない。死でもない。何もできず、見ているしかなかった自分自身だ。
「……っ」
ルキフェルは小さく息を詰めた。知らないはずの記憶。覚えていないはずの出来事。それを抱えている自分が一番信用できなかった。だから剣を握った。だから強くあろうとした。だから、感情を削ぎ落としてきた。怖かったのは、過去じゃない。過去を持っている“自分”だ。ソフィーの声が静かに重なる。
「感情を殺すことだけが強さじゃない。自分の弱さと向き合うこと……それが、いちばん難しくて、いちばん……強いことなのよ」
彼女の言葉は容赦がなかった。剣で積み上げてきた自分の価値観を根元からひっくり返す。強くなるために剣を持った。弱さを切り捨てるために生き方を選んだ。
——それが、逃げだったとしたら?
ルキフェルの喉が鳴った。笑えない。誤魔化せない。気づけば、言葉が勝手にこぼれ落ちた。
「……ああ、そうか。俺は……俺自身が怖かったのか」
声は掠れていた。誰かに言わされたのではない。初めて自分で辿り着いた答えだ。ソフィーの一言が追い打ちになる。
「あなたは充分強い。でも、それと向き合わなきゃ……あなたは、本当の意味で強くはなれない」
ルキフェルの胸の奥に鈍い衝撃が走った。剣で受けたどんな一撃より深い。ルキフェルは長く息を吐いた。わざとらしく肩をすくめ、いつもの調子を探すと自嘲気味に口角を上げる。
「……まいったな、ソフィー。お前に言われるとはな……女ってのは、やっぱ怖いな」
「女とか関係ないでしょ、馬鹿」
返ってきたソフィーの声は柔らかかった。その温度にルキフェルは気づいてしまう。逃げ場にしてきた壁がほんの少し溶けたことに。救いでも安堵でもない。これ以上、目を逸らせない場所に立たされたという感覚だ。その時、扉の向こうからガヤガヤとした声が滲み込んできた。聞き慣れた仲間たちの声だ。少し遅れて間の抜けたコリンの声が混じる。
「あれ? 扉、全開にしたっけ?」
ルキフェルは我に返って一瞬、ソフィーを見る。彼女もまたハッとしたように扉の方へ視線を向けていた。
「……じゃあ、俺は戻る」
それだけ言って、ルキフェルはソファから立ち上がった。躊躇はない、今この場にこれ以上留まる理由はない。ベランダへ向かうルキフェルの背に、ソフィーの声が飛ぶ。
「……え、そこから帰るの?」
半分呆れ、半分本気で心配している声だった。ルキフェルは振り返らず、肩越しに答える。
「余計な勘違いされるだろ。じゃあな」
ルキフェルはベランダの柵を軽々と跨ぎ、支柱に手をかけた。指先に木の感触、重心を落として体を滑らせる。慣れた動きだった。音も立てず、するすると降りて地面に着地する。……逃げたわけじゃない。そう自分に言い聞かせながらルキフェルは宿を離れた。坂道を下り、ラ・カレータを抜ける。昼の喧騒はまだ残っていたが、彼の意識は外へ向いていなかった。頭の奥に、さっきの言葉が残響のようにこびりついている。
——俺自身が、怖かったのか。
考えないようにしていた問いがしつこく追ってくる。歩いているうちに、いつの間にか街の端を越えていた。建物が途切れ、足元の石畳が砂に変わる。海岸だ。靴底が砂に沈む感触。波が寄せては返し、一定のリズムで音を刻んでいる。ルキフェルはその場で立ち止まり、しばらく海を眺めた。頭を冷やすつもりだったが、冷えるどころか余計なものが浮かび上がってきて、ぽつりと独り言が漏れた。
「……そういえば。——俺、誰なんだろう」
不意にそんな疑問が湧いた。今まで一度も真面目に考えたことのなかった問い。目が覚めたら船医室、顔はもう取り返しのつかない傷だらけで。すぐそばには海があって船があって、それが家だった。混乱の中で暴れて泣いて、怒鳴って。思考を整理する余裕もないまま大人たちの都合で名前を与えられた。守られながら、生き延びることだけを覚えた。そう、生きることで精一杯だった。自分が何者かなんて考える暇なんてなかった。なのに、なぜ今さらになって、こんな当たり前の疑問が胸に浮かんだのか。ルキフェルは砂浜に立ったまま、波音を聞き続ける。彼の胸の奥で、今までになかった空白が生まれていた。
……空白? 生まれたというより、砂浜に混じっていた砂金をやっと見つけたような気分だ。




