第六章③ ルキフェル
宿に帰還するなり、ルキフェルは喉の奥に乾きを覚えた。空腹というより、熱と考え事で頭が煮詰まっている感覚に近い。外は暑かったし、何よりも少し頭を冷やしたい。ルキフェルは自室には戻らず、そのまま食堂へ向かった。昼前のその場所には鍋と包丁の音が響いている。
「なんか飲んでいいか」
ルキフェルが声をかけると、振り向いたカルロータが軽く手を止めた。
「あるよ。せっかくだから紅茶にしな。今日は暑いしね」
「ああ」
ルキフェルは棚から茶葉を取り出す。湯を沸かして茶器を温める一連の動作は、考え事をしていても身体が覚えているらしく無駄がなかった彼の背後でカルロータが鍋をかき混ぜながら口を開く。
「それにしても、珍しいね」
「何がだ」
「あなたたちがさ。女の人を連れてるなんて。新人のあの子……どんな関係?」
カルロータとしては何気ない調子だが、探るというより純粋な興味に近い声だった。ルキフェルは湯を注ぎながら少しだけ間を置いた。考えるほどのことでもないと判断したらしい。茶葉が湯の中でゆっくりと開いていくのを見つめながら淡々と続ける。
「ソフィーのことか。ひょんなことから、共に過ごす羽目になった。それだけだ」
「ふうん?」
カルロータは半分だけ振り返り、にやりとした。
「“それだけ”ねえ」
ルキフェルは彼女の視線を気にも留めず、カップを並べながらまるで天気の話でもするように続けた。
「正体は海軍士官。軍医だそうだ」
調理場の音がぴたりと止まって、カルロータの手から木べらが落ちかける。
「……は? ……今、なんて?」
「だから、フランス海軍の士官。軍医」
ルキフェルは紅茶を注ぎ終え、湯気の立つカップを一つ手に取った。振り向いたカルロータの顔には、驚愕がはっきりと浮かんでいる。目を見開き、口を半開きにしたまま言葉を探していた。
「……あ、あんた……」
「言うな。俺も最初は同じ顔をした」
ルキフェルは先回りするように言った。しばしの沈黙。やがてカルロータは、額に手を当てて大きく息を吐いた。
「……本当にあんたたちって、命知らずなのか運がいいのか……」
ルキフェルは紅茶を一口含み、喉を通す。少しだけ熱が引いた気がした。
「さあな」
そう答えながら、彼の脳裏には桟橋の陽光とエドガーの言葉がまだ燻っていた。そして、無意識のうちにあの軍医の顔が思考の端に浮かび上がっていたことに本人だけが気づいていない。
「……それ、他の連中は知ってるの?」
カルロータの声は低かった。冗談めいた調子は消え、宿を預かる者としての顔に切り替わっている。ルキフェルは紅茶をもう一口飲み、カップを置いた。湯気の向こうで視線を落としたまま答える。
「俺たち以外には言ってない。詳しい経緯は省くが……あいつは、ただの船医として契約してる。今は軍の肩書きはない」
カルロータは眉を寄せる。
「……でも、元はフランス海軍なんだろ」
「ああ。正直に言う。フランス海軍そのものは、今も憎い。フランソワを奪ったからな」
その名を口にした瞬間、ルキフェルの喉の奥にわずかな引っかかりが残る。彼はそれを紅茶で流し込んで続けた。
「けど、ソフィーは……あいつは、斬り捨てていい人間じゃない気がする」
そこで言葉が一度途切れた。自分でも続きをどう言語化すればいいのか分からず、ほとんど独り言になった。カルロータは何も言わず、鍋の火を弱める音だけが響く。ルキフェルは視線をカップに落としたまま思考を巡らせた。軍に属していたが、組織から裏切られて切り捨てられた。命令と現実の狭間で行き場を失った人間。それだけなら珍しくもない。だが、それだけじゃない。
……なんでだ。知らない女のはずなのに。敵側にいた人間のはずなのに、どこか妙に懐かしい。スザンヌに向ける感情とは全く違う。焦がれるでも、守りたいでもない。もっと曖昧で、輪郭の掴めない何か。——同じ場所で、違う形で壊れた人間……か。
ルキフェルは紅茶をもう一口飲んだが、頭は冷えない。むしろ、別の声がしつこく脳裏に鳴っていた。
——戦争になるぞ、ルキフェル。覚悟しとけ。
エドガーの声。あの低く、確信に満ちた声音。一瞬でも靡きかけた自分がいたことを、ルキフェルは否定できなかった。フランソワの死に方。仲間を突き放し、単独で海軍のもとへ向かい、剣を交え、そして海に身を投げた。血は海に広がっていた。戦ったのは間違いない。……それでも、もし全てを終わらせるつもりだったなら海軍の手にかかるだけでもよかったはずだ。
——それなのに、なぜ海に?
理由が分からない。知りたいと思ってしまう自分がいる。ルキフェルはカップを持つ手を止めて吐き捨てるように呟いた。
「……信じたいけど、信じたくもねえ」
カルロータはその言葉を聞いても黙って火を落とし、鍋に蓋をした。
昼食はあっという間に始まって、あっという間に終わった。仲間たちは何かしら喋っていた。市場の話、船の話、くだらない冗談。耳に入ってはいたが、意味までは届かない。ルキフェルは黙って食べ、誰よりも早く席を立ち、食器を戻し、そのまま二階へ上がって自室の扉を閉めた。外の喧騒がようやく遮断される。机の上には三角帽子。フランソワの帽子だ。かつて、エドガーが贈ったもの。フランソワ海賊団の海賊旗に因んで作られた、象徴のひとつ。ルキフェルの胸の奥が鈍く疼いた。懐かしいと同時に、今はどこか汚されたようにも感じる。ルキフェルは椅子に腰を下ろし、帽子に手を伸ばさず見つめたまま低く呟いた。
「……砂時計は、死の時間を告げるもの。翼は束縛されない魂。鎖は……解き放たれた力。解放そのもの」
ジョリー・ロジャーの意匠。何度も見てきた。何度も、その意味を口にしてきた。
「自分たちの自由は、死すらも超越する……自由の象徴」
言い切った瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは旗ではない。フランソワの背中だ。甲板に立つ姿。嵐の中でも、銃声の中でも、迷いなく舵を示していた横顔。父として、船長として、誰よりも多くの役割を背負っていた男。仲間を導くために、常に自分を後ろへ押しやっていた人間。——あの人は。ルキフェルは視線を伏せると言葉が自然に零れた。
「……自由に、なりたかったのかな」
海に身を投じた行為そのものが何よりも雄弁だった。戦いでもない。逃亡でもない。責任放棄ですらない。役割を降りるという選択。誰にも縛られず、誰も縛らず、最後くらいは自分の意思で。部屋は静まり返っていた。風もない。足音もない。ルキフェルは帽子に触れることもなく座り続けていた。それが哀悼なのか、あるいは思考が絡まり合った末の沈黙なのか、自分でも判断がつかない。……どれくらい、そうしていただろう。不意に静けさを破るように、階段を上がってくる足音が聞こえた。二人分。軽く気負いのない音だ。
「……あ、ミルクと砂糖忘れてた。どっちか無いと困る人だったりする?」
間の抜けた声が扉越しにそのまま届く。カルロータの、少しからかうような声だ。すぐに返ってきたのは、張りのあるハッキリした声。
「大丈夫です! 私、紅茶はストレートでいただく派なんです。何も入れなくても完成してると思ってるんで」
「……コーヒーと同列に語ってる人、初めて会ったわ……」
半ば呆れ、半ば感心したようなカルロータの声に、ルキフェルは思わず顔を上げた。女二人が完全にお茶会の空気だ。さっきまで部屋に満ちていた重たい静寂が嘘みたいに薄れる。ああ、そうか。さっき調理場で交わした会話が不意に脳裏をよぎった。紅茶を淹れながら、あいつに何を話したか。どこまで言ったか。どこまで考えなしに零したか。
「……あいつ。まさかチクる気じゃねぇだろうな」
カルロータの性格は分かっている。無闇に秘密をばら撒く女じゃないが、同時に必要だと思えば躊躇なく話す女でもある。ルキフェルの胸の奥で嫌な予感が跳ねた。理屈で考えれば、そんなはずはない。あの女は軽率じゃないが、今の自分は理屈で割り切れる状態じゃなかった。扉に耳を当てるという選択肢が一瞬よぎるが、すぐに却下する。
「……いや、鉢合わせたら終わりだ」
言い訳が利かない。何より、ソフィーに見られるのはまずい。理由を説明できるほど頭が整理できていなかった。ルキフェルは部屋を出て視線を走らせた。廊下。階段。そして、隣の部屋。
「……開いてるな」
コリンの部屋だった。扉が半開きで窓から潮風が入り込んでいる。一瞬だけ躊躇うが、もう足は動いていた。ルキフェルは無言で部屋に滑り込み、窓枠に手をかける。
——盗み聞きなんて柄じゃねえだろ。
内心で悪態をつきながらも動きは迷いがなかった。身体を外へ送り出し、外壁に指先を引っかける。石造りの壁はざらついて、足場は狭いが十分だ。
「……落ち着け」
ルキフェルは息を殺し、重心を低く保ったまま横へ移動する。すぐ隣、ソフィーの部屋のベランダが見えた。ルキフェルはほとんど音を立てずにベランダへ足を踏み入れると石壁から身を離し、手すりの内側に滑り込む。日除けの布が半分下ろされていて室内は直接見えない。好都合だ、ここなら聞こえる。扉一枚を隔てた向こうで女たちの気配が動いた。
「……あ、お茶を入れなきゃね」
カルロータの声だった。思ったよりも穏やかで探るような調子はない。なんだ、ただの茶か。ルキフェルの胸の奥でほんのわずかに力が抜ける。茶葉を蒸らす気配。湯の音。やがて、爽やかな香りが風に乗ってベランダまで流れてきた。
「ミント茶、飲んだことある?」
「いいえ、一度も」
ソフィーの声は落ち着いている。緊張も詰問もない。よかった。少なくとも密告だの詰め寄りだの、そういう話じゃないらしい。ルキフェルは手すりに預けていた体重をわずかに戻した。
「……美味しいです」
「飲み方が綺麗。……やっぱり、こういうところはさすが貴族ね」
カルロータの口調は軽口のようでどこか含みのある言い方だが、その次に続いたソフィーの声に、ルキフェルはぴくりと反応した。
「うーん……どうなんでしょう」
……ん? 空気が少しだけ変わった。
「私、貴族って言えるんでしょうか。違うような、違わないような……ちょっと事情が複雑で」
なんだ、この流れ。ただのお茶じゃない。そう直感した瞬間、ルキフェルは無意識に呼吸を浅くしていた。
「昔は、身寄りのない孤児でした——」
ソフィーの言葉が落ちたとき、ルキフェルの背中にひやりとしたものが走る。
……孤児?
籠に入れられて捨てられていたこと。両親のことが分からないこと。それでも、孤児院では楽しかったこと。一つ一つの言葉が妙にルキフェルの胸に引っかかる。知らないはずの話なのに、なぜか耳を離せなかった。
「六歳になるまでは。貴族の家庭に引き取られるまでは、ですけど」
その先の沈黙がやけに長く感じられた。ああ、これは聞いていい話じゃない。ルキフェルが判断するのに時間はかからなかった。
「……少し、一人にさせてくれますか」
「ええ。疲れてるのね。夕食まで、ゆっくり休んで」
カルロータの声が立ち上がり、足音が遠ざかる。問題なさそうだな。ルキフェルは胸の奥でそう結論づける。盗み聞きなんてここまでだ、戻ろう。ルキフェルは手すりから身を起こした。ベランダの端へ一歩、ギイという乾いた音がやけに大きく鳴った。
「……しまった」
ルキフェルの身体が反射的に動く。逃げる。飛び降りる。視線を逸らす。とにかく見つかる前に——手すりに片足をかけた瞬間、カチャリとルキフェルの背後で扉の開く音がした。
「……っ!」
「……ルキフェル……?」
名前を呼ばれて、ルキフェルは小さく息を吐き、ゆっくりと振り返った。手すりに半端に足をかけたまま。逃げるにも、言い訳にもならない格好で。ソフィーが目を見開いて立っていた。
「っ、な、なに勝手に人の部屋に!」
ソフィーが後ずさった。室内へ逃げる一歩分の距離で。最悪だ。こんな形で向き合うつもりはなかった。盗み聞きがバレた上に、飛び降り未遂みたいな姿まで晒している。ルキフェルは手すりにかけた足を下ろすと、手すりに凭れたまま視線を逸らした。言葉を選ぶ時間が致命的に足りない。どう言えばいい。頭が珍しく真っ白だ。ルキフェルは一度だけ息を吐いた。言い訳だと分かっている言葉ほど口にするのは楽だ。
「悪い。お前とカルロータの間に何かあったらと思ってな」
そう言った瞬間、もう自分で分かっていた。これは半分も本音じゃない。
「え、私が何かやらかすと思った? それともカルロータ?」
ソフィーの声は思ったよりも真っ直ぐだ。ルキフェルは視線を逸らし、窓枠に手を置いて力を込めると逃げるように言葉を切った。
「……いや、俺の考えすぎだ。謝る」
「私がカルロータに何かすると思ったの?」
ソフィーの追撃。ああ、下手を打ったなと思う。言い訳は重ねるほど嘘に近づく。ルキフェルは窓際に手を置いたまま低く言った。
「……正直に言うと、ちょっと耳を澄ませてしまったんだ。悪かった。だが、もう必要以上に覗き込むつもりはない」
声は自分でも驚くほど落ち着いていた。怒らせないためでも信用を取り戻すためでもない。ただ事実として言っただけだ。
「落ち着け。……もう、逃げたりしないから」
その言葉を投げた瞬間、ソフィーの肩がびくりと跳ねた。無意識に半歩、いやほんの指一本分ほど後ろへ下がる。ああ、怖がらせた。だから踏み込まない、部屋には入らない。詰めない、問い詰めない。ルキフェルはただそこに留まった。逃げ道を塞がない距離。手を伸ばせば届くが、伸ばさない距離で。
「……な、なんで……」
ソフィーが絞り出すような声をあげた瞬間、ルキフェルは気づいた。これは拒絶じゃない。怯えでも怒りでもない。避けているだけじゃない。ソフィーは迷っている。ルキフェルは考えるより先に言葉が出た。
「お前の顔がそう言ってる。誰かに話したいって」
言ってから、しまったと思う。余計なことを言ったかもしれない。ソフィーと見つめ合ったままルキフェルは動かなかった。
——そういや。こいつとまともに話したことなかったな。
ルキフェルの頭の片隅では別のことを考えていた。このままどう立ち去るか。変にこじれる前に距離を取るべきか。沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのは予想外の一言だった。
「……そうね。分かった。続きを話す」
——は?
一瞬、ルキフェルの思考が止まる。ソフィーのブルーグレーの瞳が輝いていた。その輝きから目を逸らせず、ルキフェルを真っ直ぐ射抜いてくる。
——マジかよ。
ルキフェルの立ち去る準備をしていた足が完全に止まった。ミントの香りがまだ空気に残っている。さっきまでの穏やかさはもうない。それでも彼女は逃げなかった。ルキフェルは何も言わず、その場に留まった。今度は、自分が聞く側になる番だと悟りながら。




