第六章② 五人組海賊
結局、長老の執務室を出てからというもの仲間からのブーイングは止まらなかった。いや、正確には弁解する隙を一切与えられなかったと言うべきか。ルキフェルは自分の背中に浴びる視線と声を受け流しながら黙って歩いた。屋敷の石段を下り、坂道に出てもそれは変わらない。むしろ外に出た分だけ遠慮が消えた。
「ちょっと待てよ、マジで言ってなかったのかい!?」
ジャスパーの声が乾いた空気を切り裂くも、ルキフェルは振り返る気はなかった。どうせ、今振り返っても火に油を注ぐだけだ。
「ほんとに誰にも何も話してなかったの!?」
今度はニールだ。驚きと呆れがない交ぜになった声音に、ルキフェルは小さく息を吐いた。そりゃそうなるよな。自分でも今さらだと思うが、あの場で説明する選択肢はなかった。あれは事後報告で済む話じゃない。
「さすが、ルカ。いやさ、やるとは思ってたけど、ここまで計画的だとは!」
マテオの声には非難よりも感心の色が強い。それが逆にルキフェルの胸の奥をちくりと刺した。
六人は連れ立って港湾区へ向かっていた。石畳を踏む音に潮と油の匂いが混ざる。六人の視界の先には帆柱と倉庫、そして無数の船影。いつもの港だが、今日は少しだけ距離が遠く感じられた。ルキフェルは歩調を変えず思い出したように口を開く。
「あの無風状態を打開する作戦を練ってる時だ。前に“契約書”の話をした奴がいたなって思い出してな。『ここには六人しかいないから、規律なんてものは存在しない』。——妙に印象に残ってた」
一瞬だけ、ルキフェルは肩越しに仲間たちを見た。全員、歩きながらも耳を傾けている。逃げ場はないが、それでいい。
「あの一言を思い出して、『よし、バレても逃げ切れる』と思った。それだけだ」
それだけと言い切ったのは事実だからだ。そこに英雄的な覚悟も美談もない。
「……あ。たぶん、それ僕だ」
ニールが小さく声を漏らす。彼の控えめに手を挙げる仕草に、ルキフェルは視線だけ向けて、やっぱりかと心の中で頷く。ニールは困ったように笑い、言葉を続けた。
「っていうかさ、それを伏線に使うなら一言相談してほしかったよ……」
——すまん。
ルキフェルは口に出さなかった。今さら言っても火消しにはならない。二人のやり取りを聞きながら、マテオが一瞬歩調を緩めて眉を顰めた。
——あれ? でも待てよ。オレもなんか似たようなこと言った気が……?
彼の迷いをルキフェルは見逃さず、口元だけでほんの少しだけ笑った。悪戯というより確信に近い笑みで。
「マテオ、どうかしたか?」
「……いや、なんでもない」
マテオは即座にルキフェルから視線を逸らす。
——いや、絶対オレじゃねぇ。
内心で全力否定しているのが、手に取るように分かった。
……怪しいな。
ルキフェルはそう感知したが、追及はしない。今日はこれ以上、波風を立てる気はなかった。その空気を切るように、ルキフェルの後ろからぼそりと声が落ちる。コリンだった。半分本気、半分冗談だが観察眼だけは鋭い。
「やっぱり無愛想な男は信用できないよなあ。腹の底で何考えてるか、全然わかんないし……」
「おい、聞こえてるぞ」
ルキフェルは振り返らずに声だけを投げ返した。コリンは舌を出し、ぷいと顔を背ける。まあ、それでいい。全部を共有するつもりはないが、守るつもりはある。黒ずんだ石畳が波止場へ向かって続いていた。干し魚と油の匂いが混ざり、怒鳴り声と笑い声が昼のラ・カレータを満たしている。喧騒というより呼吸だ。ここではそれが当たり前。歩きながら、ルキフェルは前を見据えていた。視界の奥、帆柱が林立する港湾の向こうに悪趣味なほど黒い影が見えている。あれだ、エドガー・ロジャースの船。相変わらず趣味の悪い黒だなと内心で思う。威圧のためだけに磨かれた漆黒。見せつけるための船。
……元気にしてるか、エドガー。
それより、話すことが多すぎる。詫び、説明、フランソワの死。どこから切り出すべきか考えはまとまらない。ルキフェルの背中越しに、ニールのぼやきが聞こえた。
「で、これから何て言うのさ。『ごめんなさ~い、間違って旗借りました~』って?」
「言えるか、そんなの……」
ジャスパーの力の抜けた声。いつもの調子だ。ルキフェルは振り返らない。会話は背後で勝手に転がしておけばいい。その時、ソフィーの声が風を切って届いた。
「ねぇ。もし、失敗してたらどうするつもりだったの?」
ルキフェルの足が思わず止まった。帆布が鳴り、カモメが啼いて港の音が一瞬遅れて戻ってくる。失敗してたらか。一瞬考えるが、答えはすぐに出た。
——ノープランだな。正直、あれしか思いつかなかった。
管理人の前で仲間を守れる線。島を追い出されない線。踏み越えず、綱渡りになる線。ルキフェルは振り返らないまま、ふっと息を吐くように笑った。
「そんときゃ、また別の嘘をつくだけさ」
ルキフェルがまた歩き出すと、ジャスパーの乾いた声が追ってくる。
「おいおい……冗談に聞こえないから怖ぇよ……」
「つまり計画性ゼロってことか……」
ニールが額を押さえる気配がしたが、ルキフェルは気にしない。足を止めない、振り返らない。真っ直ぐじゃなくてもいい。前に進むと決めたんだ。やがて一行の足はラ・カレータの外れで止まった。海風に晒された桟橋の先に鎮座する、巨大な黒いガレオン船。漆黒の船体は陽光を受けても艶を失わず、深海から引き揚げられた獣のように港を睥睨している。白銀の縁取りを施した黒帆。甲板に並ぶ金の鋲。武装ではない、“格”だ。ルキフェルは自然と息を整えた。
「さて……」
詫びを入れる。嘘を返す。それでも足りなければ、また考える。黒い船体を前に誰かが息を呑む気配がした。ソフィーの声がしたような気もしたが、ルキフェルの意識はすでに別のところにある。
「うーん、やっぱすげえや。いつ見ても惚れ惚れするぜ」
感嘆混じりの溜息、ジャスパーのそれはいつもより大げさだった。
「さすが『アン女王の復讐号』をモデルにしただけある。おれ、こういうのに弱いんだよなあ」
——嘘だな。
ルキフェルは視線を船体に向けたまま内心で断じた。ジャスパーが本当に惚れ込む時はもっと目が泳ぐ。言葉を選ばず、無駄に饒舌になる。今のこれは場を和ませるための調子だ。相手が相手だけに空気を読んだ結果の。鼻で笑い、ルキフェルは黒船から視線を外した。
「フッ、心にも無いこと言いやがって。でかいだけじゃ、船は動かん」
それだけ言い捨てると彼は一人、桟橋の先へと歩き出した。自分の背後で仲間たちが何か言ったが、振り返らない。黒船の影は思った以上に濃く、足元の板を飲み込むように落ちている。見張りに立つ二人の船員が、こちらに気づいて視線を寄越した。ルキフェルはまず簡潔に名乗ることにした。
「フランソワ海賊団の者だ。エドガー・ロジャースに話がある」
船員の一人が怪訝そうに眉を顰め、もう一人が腕を組みながら首を傾げた。
「……お前、誰だよ。フランソワさんのところに、こんなやついたっけ?」
「見たことねえな。若いし。……それに後ろにいるやつらもさ。個性はあるけど、フランソワ海賊団っぽくねえ」
想定内だな。ルキフェルは肩の力を抜いたまま淡々と返す。
「俺はフランソワのところのクォーターマスターだった。後ろにいる仲間たちも、フランソワの下で働いてた。……お前たち、新人か?」
「……まあ、そうだけど」
船員の片方が言いながら記憶を探るように視線を泳がせ、隣の船員が口を挟んだ。
「けど今日は船長、他に約束があるって。いや、待てよ? たしかに……さっき管理人が来て帰って行ったし、なんか意味深だったな」
ルキフェルは息を吐いた。
「だから言ってるだろう。俺たちは、フランソワの部下だ」
その言葉に見張りの一人が鼻で笑い、もう一人も遠慮なく続ける。
「そいつが本当ならよ、もっとガラが悪いはずじゃねえのか?」
「細すぎんだよ、お前ら。顔はちゃんと恐ろしいけどな」
ルキフェルの表情が硬くなる。久しぶりだった。真正面から、その部分に触れられるのは。言い返す言葉が浮かばなかった。否定も肯定もできず、ただ沈黙が落ちる。その沈黙を船員の一人が破る。
「海賊ってのはさ、もっと血の臭いがしてるもんだぜ?」
空気がピリッと張りつめた。黒い船体の影がより濃く足元に落ちる。ルキフェルは息を吐くと踵を返した。桟橋の軋む音を背に仲間のもとへ戻る。マテオとジャスパーが何やら言い合っているのが聞こえたが、今はそれどころじゃない。
「ダメだ。通してもらえない。……強行突破するか?」
自分でも声音が少しだけ低くなったのを自覚していた。ルキフェルの頭の中では新人二人をどう転がすか、もう段取りを組み始めている。殴る、崩す、桟橋に伏せさせる。時間はかからない。
「ちょっと、それ本気?」
ソフィーの声が裏返る。彼女の怯えた顔をルキフェルは横目で捉えた。ああ、これは脅しに聞こえたか。コリンのぼやきが続く。
「だから無愛想な男は信用ならないんだよ、ほんとに。せめて、話くらい事前に通しといてくれたらよかったのに」
ルキフェルは返事をしなかった代わりに歩みを止め、片手で指の関節をひとつ鳴らした。怒号も殺気もない。ただ境界線を越えたという合図。
——おいこのクソガキ、限度ってもんがあるだろ。
その一音でコリンは察したらしい、口を噤んで肩がわずかに引くが、ルキフェルは一歩詰め寄った。叱るつもりだった、言葉ではなく距離で。その瞬間、やけに朗らかな声が頭上から降ってきた。
「やあやあ! ルキフェルじゃないか! また派手な登場してるなあ?」
一斉に皆の視線が跳ね上がる。黒いマントが風を孕み、船縁に一人の男が立っていた。芝居がかった仕草で軽く手を広げ、まるで舞台に現れた役者のように笑っている。
「……あれは」
「フェルナンドだ」
誰かが息を呑むより早く、ルキフェルは低く言った。エドガー海賊団の航海士にして参謀。艶やかな眼差し、貴族めいた物腰、そして場の空気を一瞬で奪う悪癖。そういや、エドガーがいるなら当然こいつもいる。分かっていたはずなのに、完全に頭から抜け落ちていた。ルキフェルは内心で舌打ちすると、フェルナンドは船縁に片手をかけて楽しげにこちらを見下ろしていた。彼の笑みは軽薄で、底が読めない。厄介なのが出てきたな。ルキフェルはそう思いながら視線を上げた。ここから先は拳よりも言葉の勝負。
「ちょうどいいところに来たね」
フェルナンドは相変わらずだった。甲板の縁から手を振って、くすりと喉の奥で笑っている。
「下で揉めてるから、何事かと思ったら……ふふ。事情は全部、聞いてるよ」
ルキフェルの眉がほんのわずかに動いた。全部。その範囲を測りかねる言い方だが、問い返すほどの価値もない。ルキフェルは淡々と口を開く。
「まあ、すんなりとはいかないだろうとは思ってたさ。通してくれるか?」
「ああ。エドガー船長も、君たちに“話すこと”があるみたいだ」
フェルナンドは大仰に頷き、わざとらしく間を置いてから肩をすくめる。
「歓迎されるかはともかく、通す義理はある」
そう言って、彼は身を翻した。導くというより、舞台へ誘う所作に近い。
「さ、来てくれ」
桟橋と船体を繋ぐのは簡素な足場だった。船腹に打ち付けられた鉄の段。等間隔に並んでいるが、手すりもなければ登りやすさへの配慮もない。自分で登れとでも言わんばかりの造りだ。ルキフェルは一瞬だけそれを見上げ、何も言わずに最初の段へ足をかけた。靴底が鉄に触れ、鈍い音が鳴る。体重を預けても軋みはしない。頑丈ではあるらしい。誰かが息を呑む気配がしたが、ルキフェルは振り返らない。淡々と次の段へ。指先で船体に触れ、体を引き上げる。戦場で壁を越えるのとさほど変わらない。仲間たちも続いた。一人ずつ、無言で。誰もがここが「歓迎の場」ではないことを理解している。全員が甲板に足を着けた時、フェルナンドは微笑みはそのままに声だけ少し低くした。
「ただし、覚悟はしておいたほうがいい。エドガーさんはね。今回の件を、笑って済ませるほど……気が長い人間じゃないから」
その一言に仲間の歩調がわずかに乱れるのを、ルキフェルは背中越しに感じた。黒い船体がキシッと小さく音を立てる。——まるで舞台の幕が上がった合図みたいだな。ルキフェルは甲板の上でゆっくりと息を吐いた。
フェルナンドに案内されるまま船長室に足を踏み入れると空気が変わった。甲板に満ちていた潮と風の匂いは途切れ、船長室には重く沈殿した静寂だけが残っている。床は濃い赤褐色の板張り。足音が吸われるように消え、正面の椅子には男が海図を前に腰を下ろしていた。煙草の煙がゆるやかに揺れている。
——エドガー・ロジャース。
四十半ばの年頃。長身で削ぎ落としたような体躯。粗野な装飾のない革のロングコートと、目元に深い影を落とす三角帽。彼の眼光は言葉よりも先にこちらを射抜いてきた。
「……オレの名を借りて好き勝手してくれたらしいな、ルキフェル」
怒鳴り声ではない。むしろ、異様なほど静かな声だった。だからこそ、その怒りの質がはっきりと分かる。浅くない。誤魔化しも効かない。
「おやおや、昔はフランソワの子分だったくせに今や泥棒稼業かい?」
フェルナンドが艶やかに肩を竦め、皮肉を添える。声音は軽いが、場の空気を撫で回すような計算があった。ルキフェルの横でマテオがわずかに鼻を鳴らしたが、ルキフェルは一歩、前に出た。仲間を庇うように、視線を逸らさずエドガーを真正面から捉える。
「……それについては申し訳ない。だが、状況が状況だった。無風に閉じ込められて、船は数日も足止めを食らった。俺たちの船じゃあ、あの風域は越えられない。選択肢は他になかった」
言い訳ではない。正当化でもない。ただ、判断と結果を並べただけ。責任は全部こっちだ。その意識は最初から変わっていない。
「そ、それに……誰も殺してませんよっ」
ニールが気まずそうに付け加えた瞬間、ルキフェルは内心で即座に声が走る。
——おい、やめろ。バカ。喋るな。
だが、止まらない。コリンまで小さく手を挙げ、視線を逸らしながら続ける。
「ぼくたち、ちゃんと……あの、海軍とも交戦せずに引き上げましたから……」
——だから喋るなって言ってるだろ……。
ルキフェルは顔に出さなかった。出せば却って場が荒れる。この場で守るべきは彼らの言葉じゃない。沈黙が落ちるが、その緊張にわずかな綻びが生まれたのはその直後だった。
「……まあ、君たちが“旗”の意味も分からないような連中じゃないのは、分かってるさ」
フェルナンドが肩を竦め、表情を柔らかくする。彼は手にした帽子を器用にくるくると回しながらエドガーへと振った。
「なあ、エドガー船長? こいつらのこと、昔から見てきたろ」
助け舟か、観察か。どちらにせよ、ここから先はエドガーの裁量次第だ。ルキフェルは背筋を伸ばしたまま、視線を逸らさずに立っていた。逃げる気も弁解を重ねる気もない。背負うと決めたのは自分だ。エドガーは椅子に深く腰を沈めたまま煙草を指先で転がし、目を細めると重たい溜息を吐いて真正面からルキフェルを射抜いた。
「……昔の恩もあるしな。それに——フランソワが死んだと聞いた。……何があった」
その名が出た瞬間、ルキフェルの胸の奥で何かが軋んだ。仲間たちの気配が一斉に息を潜めるのが分かる。ルキフェルはほんの一瞬だけ目を閉じた。
……言うんだ。
ここに来るまで何度も頭の中で反芻した言葉だが、実際に口に出すとなると思った以上に重い。
「……フランス海軍との戦闘の末、追い詰められた彼は、自ら海に身を投げた」
空気がはっきりと沈む瞬間、ルキフェルは自覚する。この言葉を、自分は見てきたように語っている。
……おかしいな。フランソワの最期に立ち会ったのはソフィーだけだ。
自分たちは間に合わなかった。それなのに今、自分の中には確信がある。あの人は、そうしたと。一度は否定したはずのソフィーの言葉を、気づけば自分はそれを疑っていない。信じてたのか。フランソワならやる、そう思っていた。そして、その思いをいつの間にかソフィーの言葉に託していた。エドガーもフェルナンドも言葉を失っている。フェルナンドは帽子を外して胸元に当て、エドガーは視線を伏せた。
「……あいつは、最後まで“大海賊”だったってわけか」
ぽつりとエドガーが零す瞬間、ルキフェルの中で何かが微かに跳ねた。
……違う。あの人は、俺を育ててくれた人だった。
反射的だった。言葉にはしないが、はっきりと胸に浮かぶ。血の繋がりではない。それでも、人生を決定づけた存在だった。エドガーは海図へ視線を落とし、低く続ける。
「なら、その名を汚すなよ、ルキフェル。フランソワが守った誇りを、今さら穢すんじゃねえ」
フランス海軍。エドガーの脳裏にその名が脳裏をよぎる。直接手を下したわけじゃないが、確実に追い詰めた。腹の奥で黒い感情が煮え始めているのを、エドガー自身も分かっているはず。
「……ああ」
ルキフェルが答えるとエドガーはそれ以上何も言わず、煙草の灰を落として再び海図に目を向けた。フェルナンドが場の空気を確かめるように軽く息を吐く。
「ならば、これで水に流そう。少なくとも、島の秩序は保たれた」
誰も異を唱えなかった。怒鳴り声も脅しもない。ただ、静かに終わったという事実だけが残る。それがこの場における、最大限の譲歩だった。ルキフェルは仲間たちと並んで船長室を出た。重たい扉が背後で閉まる気配を感じながら、ふと考える。フランソワはこれからどんな扱いを受けるのか。大海賊として偉大な存在として語られるのか。それとも、海を荒らした大悪党として名を刻まれるのか。どちらにしても、本人の意思とは関係ないところで勝手に形を与えられていくのだろう。
「……やってらんねえな」
ルキフェルは仲間たちに聞こえないほど小さく吐き捨てるように呟いた。一方、扉が閉じた船長室ではフェルナンドが独り言のように呟いた。
「……それにしても、ルキフェルの目。あれは……まだ、何かを引きずってる目だ」
誰に向けた言葉でもなかった。海風にさらわれるように彼の声は消えていく。再び船長室に静寂が戻る。エドガーは机に肘をつき、視線を落としたまま呟く。
「……あれは、“使える”」
フェルナンドがエドガーに視線を向けると、エドガーは扉に目を光らせた。
「戦力になる。頭も切れるし、度胸もある。何より、失うものを抱えた男だ。……引き入れるぞ」
フェルナンドはゆっくりと頷く。
「でしょうね。あの眼だ。もう後戻りはできない」
エドガーは椅子に深く腰を下ろし、机の上へと手を伸ばした。上質な羊皮紙に認められた手紙が数通、赤い封蝋で留められたまま無造作に並んでいる。封蝋には旧ブルボン派を示唆する王党系の紋章。エドガーはそのうちの一枚を手に取り、すでに読んだはずの文面を改めて目でなぞった。
——準備は整っている。必要とあらば、いつでも支援は可能だ。
エドガーの標的は元々マクシミリアン・ブーケ隊だけだった。フランソワを追い詰め、間接的に殺した相手。弔い合戦としては足りるはずだった。だが——。
「……時代が動くな。フランソワが死んだ。なら、次は——オレたちの番だ」
エドガーは低く笑う。フェルナンドは机の上の手紙に視線を落としたが、その送り主の正体や意図までは深く考えなかった。後ろ盾がいる。それだけ分かれば、フェルナンドにとっては十分だった。この時、エドガーはすでに道を踏み外していた。この手紙に対する返事は自分自身が焦りの中で書き、送ったもの。旧ブルボン派を名乗る得体の知れない相手。フランソワの訃報とほぼ同時に届いたその文面に怒りと衝動のままペンを取り、相手から送られてきた封筒へ便箋を戻し入れ、封をした。
——了解した。すぐそっちへ向かう。
どの封筒を使ったか。それがどの船に積まれ、どんな経路を辿るか。そんな細部にまで思考が及ぶ余裕はなかった。その返書が途中で奪われて別の男の懐へ収まっていることなど、この時のエドガーは知る由もなかった。エドガーは立ち上がるなりフェルナンドに言い放つ。
「フェルナンド。あの貿易商の顔、覚えてるだろ。……探してこい」
エドガーが封筒を人差し指と中指で挟んで見せびらかすとフェルナンドは封筒に眼を光らせ、したり顔で一礼した。
真昼の太陽がトルチュ島の港を容赦なく照らしていた。白く乾いた光が石畳を焼き、造船所から響く槌音が波と混じって耳に届く。船を降りた一行は潮の匂いの中へ散っていった。誰もが口数少なく、それぞれの胸に残った余韻を処理しきれないまま歩き出している。ルキフェルも同じだった。無言で波止場を進む。背中に陽光がのしかかり、身体の奥に残った疲労がじわじわと輪郭を持って浮かび上がる。終わったはずだ。そう思おうとした時、低く鋭い声がルキフェルの背中を射抜いた。
「ルキフェル。……少しだけ、時間をくれねえか」
ルキフェルの足が止まってゆっくりと振り返ると、そこにいたのはエドガーだった。翳りを帯びた眼差しだが、逃げも誤魔化しもない。
「……何の話です」
ルキフェルは声を抑えたが、警戒と倦みが自然と滲む。
「さっきは皆の前だったからな。……本音は話せなかった。あいつ、フランソワのことだ」
ルキフェルの胸の奥がわずかに軋む。潮風が吹き抜け、彼の暗褐色の髪を揺らした。エドガーの言葉が熱を帯びた声で被さる。
「お前は知ってるか? あいつが死ぬ直前まで、どれだけこの世界を変えたがってたかを」
——知っている。いや、信じていた。
「聞いたことはある。あの人は、世界のどこかに“自由”を築くと……」
「理想だけじゃねえ。あいつとオレは、何も持たないガキだった頃からだ。誇りを持って戦えた。オレは、あいつと闘えたのが生きる意味だった」
ルキフェルの視線がほんのわずか揺れた。エドガーがルキフェルに詰め寄ると空気が変わった。曖昧だった輪郭が急に鋭くなる。
「殺されたんだ、ルキフェル。国家の都合と、貴族どもの保身でだ。何の罪もないあいつが、獣みたいに追い詰められて、最後は自分で海に身を投げた。そんなのが通る世の中で、オレたちは黙って生きてりゃいいのか?」
怒り。だが、単なる激情じゃない。長い時間をかけて積もった、憎悪と喪失。わかる。痛いほど、わかる。自分も同じ場所に立っていた。復讐という言葉に、心を預けかけたことがある。
「……それで、何がしたい」
ルキフェルの問いは低く、平坦だった。エドガーは顔を上げ、目を細める。
「フランス海軍に、戦争を仕掛ける。全面戦争だ」
桟橋の上でエドガーの言葉だけが重く落ちた。
——戦争。
ルキフェルの脳裏に幾つもの顔が浮かぶ。仲間。港。血に濡れた甲板。止まらなくなる衝動。
「それが、あの人の意思だとでも?」
「違うな。オレの意思だ。だが、あいつの死を無駄にしねえのは残されたオレたちの務めだろ」
張りつめた無音の中で、ルキフェルは思考を巡らせた。フランソワは望まない。あの人はいつも最悪を避けた。血を流す選択を最後の最後まで引き延ばした。そして、仲間。自分が壊れたとき、止めてくれるのは誰だ。もう誰かを殴りたくない。裏切りたくない。傷つけたくない。……それに、フランス海軍の向こう側にはスザンヌがいる。その事実だけでルキフェルの思考が乱れて胸の奥がざわつき、判断が鈍る。復讐者でいるか。生き残る者でいるか。最後に、エドガーの声が落ちてきた。
「強制はしねぇ。だが、お前だけには言っておきたかった。……この血は、きれいごとで流されたわけじゃない。戦争になるぞ、ルキフェル。覚悟しとけ」
しばしの間、ルキフェルは答えを探さなかった。
「なら、俺は——どちらの血を流すべきか、よく考えることにします」
それだけ言い残し、彼は踵を返した。背中に向けられる視線を感じながらも、振り返らない。桟橋の熱。喧騒。遠ざかる波音。ルキフェルはただ歩く途中で、ソフィーが視界に入ったことにも気づかなかった。彼の視線は内側へ沈み、問いだけが繰り返される。正しいのはどっちだ。守るべきなのは何だ。気づけば港の賑わいから距離を取り、カルロータの宿へ向かう道を選んでいた。ルキフェルの背筋はまっすぐで足取りは乱れないが、その背は何かから逃げるように誰も近づけない静けさを纏っていた。




