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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】5・6巻「胎動編」  作者: セキユズル
第六章「あなたが本当に恐れているのは、過去じゃない。──自分自身よ」
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第六章① ルキフェル

 柔らかな光が瞼の裏を押し、ルキフェルは眉を顰めて息を吐いた。


 ……朝か。


 判断するまでに少し時間がかかった。船の軋みも波の揺れもない。代わりに、床はやけに静かで木の匂いがする。人の気配はあるが遠い。頭の芯がまだ重く、思考が鈍かった。ルキフェルは起き上がるとまず顔だけ洗った。冷たい水が肌を打っても完全には目が覚めない。鏡に映った自分を一瞥するが、評価するほどの集中力もなかった。いつもの顔だ。傷だらけで、寝癖がついたまま。ルキフェルが扉を開けると同時に、向かいの部屋の扉も開いた。……人がいた。ルキフェルは反射的に口が動く。


「ああ、おはよう」


 声は平坦で感情は乗っていない。ただの挨拶。相手が誰かを認識したのは声を発した後だった。


「……えっ」


 小さく裏返った声、ソフィーだと理解する。軍医。海軍。同行者。それ以上の分類は、今は必要なかった。


「……お、おはよ」


 返ってきた彼女の声は妙に慌てている。ルキフェルは一瞬だけ彼女に視線を向けた。特に変わった様子はない。眠そうな顔。平常運転だ。


「よく眠れたか」


 自分でも驚くほど言葉が勝手に出た。気遣いというより、間を埋めるための音に近い。


「う、うん……」


 相手が何か言いたそうにしているのは分かったが、続きを促す気力はない。


「……なんか、雰囲気……違うね」


 そう言われて、ルキフェルはようやく自分の状態を意識した。彼は無言のまま前髪を掻き上げると、寝癖のままの髪が指に絡んで額が露わになり、傷跡も隠れずに並ぶ。


「ああ、多分これのことだな。この島じゃ、誰も傷だらけの顔なんか気にしない」


 事実を述べただけで特別な意味はない。安心させるつもりも強がるつもりもない。相手が黙ったのは、視界の端で分かったが、そこに留まる理由もなかった。


「ほら、朝飯行くぞ」


 ルキフェルが踵を返すと背後で慌てた足音がしたが振り返らない。階段を降りながら、ルキフェルはぼんやりと考えていた。酒は残っていないはずだが、頭はまだ完全には覚醒していない。食堂には、すでに仲間たちの気配が満ちていた。焼き立てのパンの香ばしさ。果物の甘い匂い。湯気の立つスープの音。カルロータが皿を運びながら、こちらを見てにっと笑った。朝の挨拶が飛び、返事が返る。特別なことは何もない。ただの朝食だ。誰かが冗談を言い、誰かがそれに乗る。温かい飯がどうだとか、船の上じゃ昨日の残り物がどうだとか。笑い声が転がる。ルキフェルは彼らの会話を輪の外側から眺めていた。皿の上の料理を口に運びながら視線だけを巡らせれば誰が先にパンに手を伸ばしたか、誰がスープを残しているか。誰が無意識に誰の皿を気にしているか。——癖だなと自分で思う。参加しないくせに全体は見ている。昔からそうだった。


「……はい」


 料理が一皿分、動いた。コリンが何でもない顔でソフィーの皿におかずを足している。それを見て、間髪入れずにマテオの低い声が飛んだ。


「ちょっと待て。おい、ガキ。出されたもんはちゃんと食え」


 コリンは一瞬、手を止めてから視線を逸らした。


「だって……レーズンは、どうしても苦手なんだ」

「出たな。コリンのレーズン嫌い」

 

 間髪入れず、ジャスパーの指がコリンに突きつけられ、コリンはむすっとした顔をする。


「嫌いっていうか、理解できないだけだよ。なんで新鮮な果物を、わざわざ干すの? 水分なくして、甘さだけ凝縮させて……意味がわからない」


 ソフィーが困ったようにフォローを入れる。


「保存食としては、昔から重宝されてるよ」

「ええ……それ、余計に怖いんだけど」


 コリンが露骨に引き、待ってましたとばかりにニールが口を開く。


「レーズンは古代から——」

「いや、いい。理屈は分かった。でも好きになる理由にはならない」


 ニールは肩をすくめ、穏やかにまとめる。


「合理と嗜好は、必ずしも一致しないからね」


 小さな笑いが食卓を巡る。ルキフェルはそのやり取りを見ながら黙って食事を続けていた。口の中でパンを噛み、スープを飲み下す。生きるか死ぬかの世界で、好き嫌いを語れる余裕。背は伸びたが、まだガキだ。同時に、ここまで来たからこそ言える我儘でもある。肝が据わってるのか、何も考えてないのか。そんなことを考えている自分に気づいて、ルキフェルは息を吐いた。胸の奥にあった硬いものが朝の音に溶けていく。この空気、この距離感。——悪くない。皿の端を静かに片付けながら、ルキフェルはいつの間にか「戻ってきている自分を」特に意識することもなく受け入れていた。食後、誰からともなく話題が切り替わる。


「せっかくだし、今日は街に出ようぜ」


 マテオが椅子に背を預け、楽しげに言う。まだ湯気の残るカップを片手に完全に遊ぶ気の顔だった。


「賛成。トルチュは昼も面白いよ」


 ニールが穏やかに頷きながら続けた瞬間、空気がほんのわずかに変わる。ルキフェルはそれを嫌というほど察知した。会話の流れが視線として自分に集まってくる感覚。ルキフェルは椅子に座ったまま無意識のうちに肩に力が入る。


 ——やめろ、こっちを見るな。期待するな。


 誰も何も言ってこない。「一緒に行こう」とも「来い」とも言っていない。それでも分かる。「どうする?」と聞かれる前の、あの間だ。ルキフェルはゆっくりと立ち上がった。


「俺は行かん。鍛錬してくる」

「えー?」


 コリンが露骨に不満そうな声を上げる。


「相変わらずだな」


 ジャスパーは肩をすくめ、半ば呆れたようにどこか安心した笑いを浮かべた。誰も引き止めなかった。説得もしない、理由も聞かない。それがいつものことだから。ルキフェルはその空気にほんのわずかだけ救われる。無理に引きずり出されないこと。選ばせてくれること。


「……行ってくる」


 誰にともなく言い残し、踵を返すと背後では椅子を引く音がして、すぐに賑やかな気配が戻った。ルキフェルはそれを背中で感じながら宿の外へ出る。街へ向かう足音とは逆の方向へ、人の声が遠ざかる方へ。一人になるために。そして、自分を取り戻すために。剣を振る理由はまだ言葉にできないが、今はそれでいい。鍛錬は逃げではない。ルキフェルにとって、立ち続けるための唯一の方法だった。



 ルキフェルが宿の回廊を抜けると、朝の中庭はまだ人の気配が薄かった。濡れた草の匂いと夜の名残の冷えた空気が混じっている。ルキフェルは足を止め、振り返りもしなかった。剣は部屋に置いてきた。持ってこようと思えば、いつでも手に取れる距離だが、今朝は剣を取る気分じゃなかった。


 彼は草地に足を踏み入れると、足を揃えて重心を落とす。肩の力を抜き、両手を下腹の前で自然に重ねた。目は閉じない。空も、壁も、草も、すべて視界に入れたまま。剣を持たない自分。殺さない自分。それでも、立っている自分。体の重さが地面へ落ちていくのを感じる。傷だらけの身体を否定しない。今日も生きていることだけを確かめる。息を吸い、吐く。やがて、両腕が広がった。風を招くように、そして返すように。指先まで力を入れず、背骨を一本の糸のように保ったまま胸が自然に開く。動きは大きいが、派手ではない。水面に描いた円がゆっくりと広がっていくような、そんな感覚。


 フランソワの声がふと脳裏をよぎる。スザンヌの面影も同時に浮かぶが、掴まない。留めない。思い出は流していい。片足に重心を預ける。もう一方の足が遅れてついてくる。上半身は揺れない。避けるためじゃない。逃げるためでもない。ただ受け流す。敵はいない。それでも身体は自然と動く。祈りみたいだな、と自分でも思う。腕が円を描き続け、肩が動き、肘が遅れ、手首が最後に応える。中心にあるのは腰だ。全身がひとつの流れとして連動していく。脳裏に浮かぶのは師の背中。リュウ・ヨシマサ。「強くなれ」と言われた記憶はないが、あの時の言葉が残っている。


 ——迷いがある時はな、太極拳を通して自分と向き合え。答えは案外もう自分の中にある。


 戦場でこの動きを使えば人は死ぬ。だから今は、誰も殺さないために舞う。やがて、動きは少しずつ小さくなっていった。呼吸は深く、長く。熱が身体の奥から抜けていき、地面へ返される。肩が落ち、眉間の力がようやく抜けた。フランソワの死。自分が生きているという事実。どちらも同じ重さで胸に置く。まだ生き残ったことを許せてはいないが、否定もしなくなってきた。最後に手が再び下腹の前へ戻る。静止。風の音が戻ってくる。遠くで街のざわめきが微かに聞こえた。身体は軽いが浮いてはいない、地に足はついている。


 ——今日は、一日ちゃんと立っていられそうだ。


 ルキフェルはその場に留まり、しばらく風の音に身を委ねていた。舞は終わっている。呼吸もすでに落ち着いている。それでも身体の奥にはまだ熱が残っていた。外へ放ったものが完全には戻りきっていない感覚。回廊の扉が軋む音を立て、ルキフェルが視線を向けるより先に気配が届いた。カルロータだ。感覚が鋭敏になったわけではない。今は余計なものが削ぎ落とされている。鍛錬の直後特有の、身体と意識が静かに揃っている状態だった。足音の間合い、呼吸の重さ。中庭に入ってきたことは扉が閉まる前から分かっていた。ルキフェルが顔を上げると、カルロータは少しだけ表情を曇らせていた。


「お客さんよ。……といっても、管理人なんだけど」


 ——やっぱり来たか。


 ルキフェルの頭の中で、二つの可能性が浮かぶ。昨夜の酒の席か。それとも旗の件。後者だな、と即座に結論が出た。カルロータの背後から低い声が落ちてくる。


「悪いな、失礼する」


 中庭に足を踏み入れたのは、伝令役を担う管理人だった。動きに無駄がない。彼の視線が周囲を一度なぞり、すぐにルキフェルへ定まる。


「二人で話したい」


 カルロータは頷き、何も言わず踵を返した。回廊の向こうへ消える彼女の背中を見送り、管理人は改めてルキフェルと向き合う。


「昨夜の酔いはもう覚めたか」

「問題ない」

「そうか。長老がお前を呼んでいる。エドガー・ロジャースとの件で確認したいことがあるそうだ」


 きたか。貿易船。金貨。脅し。どれか一つでも漏れれば管理人の耳に入らないはずがない。管理人の声がわずかに低くなる。


「逃げることも遅滞も許されん。島のルールに関わる。必ず屋敷へ来い」


 言うだけ言って、管理人はそれ以上の説明もせず踵を返した。中庭に残ったのは風と草の擦れる音だけ。ルキフェルは一人、呟く。


「……チクったな」


 彼の脳裏に過ぎるは貿易商たち。彼らを責める気にはなれなかった。襲われた側からすれば当然の動き。むしろ思ったより早かった。すぐに屋敷へ向かう気にはなれず、ルキフェルは軽く首を回した。肩をほぐし、背中を伸ばす。関節の動きを確かめるように、ゆっくりと体重移動。問題ない。なら、もう少し。草地を蹴り、前転。そのまま流れるように側転へ繋げ、地面に手をつく。反動を殺し、静かに着地。心拍数が意図的に上がって血が巡る、視界が冴える。最後に軽く跳んだ。身体は鈍っていない。感覚もまだ死んでいない。


「よし」


 息を整え、ルキフェルは中庭を後にする。次は舞では済まない話だ。部屋へ戻ろうとして、ルキフェルは回廊を横切っていく。額に滲んだ汗を袖で拭いながら頭の中では次の動きを整理していた。


 ——屋敷へ行く前に、着替えと……。


 そこへ、如何にも弱っちい声が真横から飛んできた。


「ルキフェル、大変だよう!」


 中庭を囲う低い石垣の向こう。弾んだ声色は間違いなくコリンだった。


「エドガーがこの島に滞在してるって!」


 その一言で、ルキフェルの思考が一瞬止まる。続けざまにニールの少し落ち着いた声が重なった。


「しかも、フランソワ船長が死んでかららしい」


 ……らしい?


 ルキフェルはほんの一瞬だけ眉を寄せた。今の言い方、ニール発信じゃない。島の人間がそう言ったという含みがある。


 ……知ってるのか? もう、この島に“死んだ”って情報が回ってる?


 ルキフェルの胸の奥で小さくざわめきが走るが、そこで立ち止まって考え込む余裕はなかった。今はまず場を落ち着かせる。ルキフェルは足を止め、石垣の向こうに視線を向けた。


「……ああ。知っている。奴のもとに行こうとしていた」


 その言葉に空気が一瞬で変わる。マテオの声が遅れて響いた。


「知ってるって……おい、“奴”って言ったか?」


 ルキフェルはそこでようやくマテオの表情に気づいた。眉が寄り、警戒と怒りが混じった顔。“奴”って言葉はエドガーを指している、と受け取ったらしい。


 ——あ。……まあ、そう聞こえるか。


 ルキフェルは息を吐き、余計な誤解を切り捨てるように言った。


「お前たちが出かけた後だ。管理人の遣いの者が来た。エドガーとの件で、確認したいことがあるとさ」


 石垣の向こうで仲間たちが息を詰める気配が伝わる。ジャスパーが苦笑混じりの声を上げた。


「……十中八九、旗偽装の件だろうな。やっぱり避けられねぇか」


 ジャスパーは腹を括った声音で続ける。


「おれたちも行くよ。関与したのは、全員だ」


 ルキフェルは何も返さなかった。止める気も否定する気もない。ただ一つ、胸の奥で思う。


 ……巻き込んだのは俺だ。


「ええ……もしかして、また“あの人”と会わなきゃいけないのかな……」


 肩をすくめたコリンの声は冗談めいているようで、どこか本気で引きつっている。ニールも額に滲んだ汗を指で拭いながら、乾いた笑みを浮かべた。


「今度こそ、目をつけられないといいね」


 相変わらずだなとルキフェルは内心で思う。長老に目をつけられる。この二人はそう表現するが、ルキフェルの知る限り、あれは目をつけられているのではなく単に気に入られているだけだ。理屈が通る、頭が回る、言葉を選べる。長老が好む条件を二人とも満たしているが、当人たちにとっては違うのだろう。あの視線、あの沈黙、あの問いかけ。理屈が通る相手だからこそ逃げ場がない。


 ……怖いか。


 そんな感情が胸をよぎるが、ルキフェルはすぐに飲み込んだ。考えても仕方がない。待たせている。着替えるかと思ったが、やめた。今さらだ。ルキフェルは回廊沿いの低い石垣に近づいて足を止めると、助走は取らずに一歩踏み込んで縁に片手を添え、身体を横へ流した。腰が先に抜け、脚が遅れてついてくる。無駄な力は入っていない。次の瞬間には石垣の向こう側に立っていた。足音はほとんどしなかった。仲間たちの口から思わず漏れる。


「……僕、あれやるなら両手つかないと無理だな」

「またこの人、無意識に色気撒き散らしてる……」


 ニールが真顔で呟き、コリンは呆れたような目をしている。


「オレなら途中でもう一捻り入れるけどな」


 マテオは張り合うように言い、ソフィーは純粋な疑問として首を傾げる。


「今のどうやってやるんだろう?」


 ジャスパーは一番ひどいことを考えていた。


「……転んだら爆笑してやったのに」


 だが、ルキフェルは振り返らなかった。何も言わず、スタスタと坂道を登り始める。朝の光の中で石段を踏みしめ、視線は前だけを向いている。六人は宿を後にし、管理人の屋敷へ向かって歩き出した。街の喧騒は皆の背後に置き去りにされ、潮の匂いを含んだ冷たい空気だけが残る。道行きに意味はない。覚悟を固めるには十分すぎるほどの静けさだ。やがて、古びた木造建築が視界に入る。この島がどんな歴史の上に立っているのか、それを無言で語る建物だった。ニールの声が場違いなほど軽い。


「緊張しなくていいよ。どうせ、怒鳴られるのはルキフェルだから」

「知るか」


 ルキフェルは鼻で笑った。慣れている。怒鳴られることにも理屈を突きつけられることにも。坂の途中、ルキフェルの背後で誰かが息を整える音がした。


「島の管理人って、どんな人なの?」


 ソフィーに問われ、ルキフェルはほんの一瞬だけ考えた。どう説明すればいい。威圧的で冷酷で、感情に流されない男。秩序を守り、例外を嫌い、でも話は聞く。


「一筋縄じゃいかない男だ。だが、俺たちよりよほど理屈を通す相手だ」

「理屈が通るだけマシさ。殺される覚悟まではいらなそうだしな」


 マテオが低く言っても誰も笑わなかった。冗談にできるほど事態は軽くない。六人は言葉を失ったまま、管理人の屋敷へと続く最後の石段を踏みしめた。ルキフェルは先頭に立ち、扉を見据える。


《争いを持ち込むなかれ。ここは酒と交易の地》


 門前の板に刻まれた文言を、ルキフェルは足を止めて改めて見上げる。昨夜は暗がりと酒の残り香のせいで、まともに読めなかった文字。ご立派なことだ。皮肉でも嘲りでもない。ただ、そう在るべき場所に立っているという事実をようやく飲み込んだだけ。


「フランソワ海賊団の、いや元だな。ルキフェルだ」


 ルキフェルは門番に名を告げると、門番は余計な言葉を返さず無言で頷くと握っていた槍の柄で木の扉を二度、軽く叩いた。内側から応じるような軋みが返ってきて扉が開く。六人は広間を横切り、廊下を進んだ。足音だけが淡々と積み重なっていく。昨日と同じ道だ。そう思いながらも、ルキフェルの視線は自然と奥へ向かっていた。やがて執務室に通される。ジオラマも海図も、もう目新しくはない。


「……よお、ルキフェル坊や。昨日ぶりだな」


 長老はジオラマの向こうに立っていた。彼の姿を一目見て、ルキフェルは納得する。左の袖、昨日はなかったはずの銀糸の腕章。


 ——ああ。今日は“島の番人”として立ってるわけか。


 酒の席の顔ではない。私情で話すつもりも、流すつもりもないという合図だ。


「長老さん。話というのは何ですか」


 ルキフェルは問いかけると、長老はジオラマの縁に手を添えて深く息を吐く。


「今朝、とある船乗りがうちにやってきてな。自分たちは脅されてこの島に来たと喚くので、話を聞いてやった。するとどうだろう? どうやら、貴様らが乗っ取った貿易船の乗組員だったらしい」


 来たか。驚きはない。ただ、少しだけ早かったというだけだ。遅かれ早かれ、そうなる。あの場で命を拾った連中が島に泣きつかないはずがない。ルキフェルの思考はすでに次の言葉を予測していた。


「そして、決定的な証言があった。『傷のある男がいた』とな」


 その一言で、仲間たちの反応がルキフェルの視界の端で一斉に変わった。ソフィーが青ざめ、コリンが息を詰める。ジャスパーとニールは隠しきれない苦い表情を浮かべた。ルキフェル自身は何も変わらない。ただマテオの眉間に走った皺だけを見ていた。


「……あの野郎共、勇気ある決断をしたようだな」


 マテオの低い囁きが耳に届く。被害者がどちらかなど考えるまでもない。ここでは言い訳は意味を持たない。長老は続けた。


 ——あの連中、エドガーの旗を掲げて俺たちの船を奪ったんだ! あんたら島の信用にも関わるぜ!


「確認だ、ルキフェルの坊や。これは事実か?」


 長老の視線が向けられるが、ルキフェルは一瞬も躊躇わなかった。


「……事実です。俺たちはエドガーの旗を偽装して船を乗っ取りました」


 次の瞬間、壁を叩く鈍い音が響いた。長老の拳が板壁に叩きつけられている。血が滲み、床に落ちる。仲間たちが息を呑むのを感じるが、ルキフェルは目を逸らさなかった。この怒りは想定内。長老は拳を振り払い、背後の巨大な海図を指した。


「……この島の根本原則はな。旗さえ出さなければ、敵味方関係なく滞在可だ」


 ルキフェルは黙って聞く。この説明が来ることも分かっていた。


「旗は身元証明であり、名乗りだ。偽れば潜伏、詐欺、信用失墜……結果、この島ごと沈む」


 だからこそ、管理人は激昂する。論理は通っている。恐ろしいのは感情ではなく、その理屈の正しさだった。


「旗偽装の処罰は、滞在権剥奪。交易停止。港も宿も、誰も手を貸さなくなる」


 島での生存権を完全に奪う裁き。ルキフェルはそれを受け止めていた。ジャスパーは天を仰ぎ、乾いた笑いを洩らす。


「ああ、十分に罰を受ける覚悟はできてるさ」


 長老はジャスパーに一瞥をくれて、唇の端をわずかに吊り上げた。


「……だが、それは契約で繋がっている場合に限る話だ」


 ルキフェルの思考がわずかに前に進む。やはり、そこを見るか。島の番人なら当然の視点だ。怒りより先に契約と立場を確認する。長老は間を置き、低く笑った。


「この原則にはな、ひとつ抜け道がある。貴様らの場合は……滅多にないケースだがな」


 ルキフェルは心の中で一つだけ思った。まだ、終わってはいない。長老はジオラマの縁に指を置いたまま低く言った。


「今朝な。日の出前に船乗りがひとり、ここへ駆け込んできた。 “エドガーの一味に船を奪われた”と喚いていた。旗を掲げ、名乗った、脅された。まあ、よくある話だ」


 仲間たちが押し黙って縮こまっている中、ルキフェルは小さく息を吐いた。長老は続ける。


「俺は『契約はあったのか』と聞いたさ。名乗っただけの連中を、俺は海賊とは呼ばん。掟を持たず、責任を負わず、契約も結ばない。そんな連中はただの獣だ」


 獣。その単語が落ちた瞬間、ルキフェルはほんの一瞬だけ背筋の奥が冷えた。長老は煙管をくゆらせながら続ける。


「そいつはな、『傷のある男がいた』とも言った。顔に傷があるから怪しい、首謀者だと主張した。だが、俺は言ってやった。顔に傷があるだけで裁かれる島なら、ここはとっくに地獄になっているとな」


 長老はそこで初めてルキフェルを見た。


「契約も掟もなく、ただ恐怖と疑いだけで相手を指さす。それは海賊じゃない。……裁く側に立つ資格もない」


 ルキフェルは視線を逸らさなかった。長老の言葉はすべて島の論理として正しい。……やっぱりな。賭ける場所は間違えていない。そして、長老は締めくくるように言った。


「だから俺は、警告だけを受け取った。旗を偽った連中がいたという事実だけをな。貴様らの境遇も理解はできる。船長を失い、後ろ盾もなく、この島に流れ着いた。少人数での航海には限界がある……だから、船を乗っ取った。気の毒だとは思うよ」


 ルキフェルは黙って聞きながら、「ああ、ここまでは想定通りだ」と内心で頷いていた。


「だがな、この島では旗がすべてだ。どんな事情があろうと他人の旗を掲げた以上、それは嘘になる。それだけは忘れるな」


 来た、核心だ。旗を掲げた時点でどんな理由も言い訳にならない。それは最初から分かっていたし、分かった上でやった。沈黙が落ち、誰も口を開かなかった。軽い判断じゃないが、やったという事実だけは消えない。長老は煙を吐きながら続けた。


「エドガーの連中は、今ラ・カレータに停泊している。……火薬に火がつく前に、詫びを入れてこい。それができないなら……全員、島から叩き出す」


 助かった。それがルキフェルの率直な感想だ。裁かないとは言っていないが、追い出しも今すぐの処罰もない。詫びという選択肢を残してくれた。島の番人として最大限に理屈を通した判断だ。


「え、ほんとう?」


 コリンの声が張りつめた空気に妙に間の抜けた響きを落とす。


「じゃあ、すぐにでもエドガーのところへ行った方がいいね」


 ニールの言葉に仲間たちが無言で頷き、ルキフェルは彼の横顔を一瞥した。やり方は乱暴だったが、結果として仲間は今ここに立っている。


「いやー、ありがたいね。おれ、処罰受ける気満々だったんだけどさあ」

「おいジャスパー、今日はやけに嘘が下手だな」

「うるさいなあ」


 ジャスパーとマテオのやり取りのおかげで空気がほんの少しだけ緩む。ルキフェルはその隙を逃さず、一歩前に出た。


「……長老さん。迷惑をかけたな。あんたの判断、恩に着る」


 本心だった。情けではなく、判断として下された裁定。それを無駄にする気はない。長老はルキフェルの言葉にむすっと顔を顰め、煙管を咥え直す。


「……旗偽装に、船の乗っ取り。どうせお前の発案だろうと、すぐに察しはついた。さすがはフランソワのクォーターマスターを務めていた男だ」


 ——チッ、そこまで読まれてるか。


 ルキフェルは小さく息を吐いた。長老の視線が突き刺さる。逃げ場のない視線だった。


「目的のためなら大胆に動く。それがお前のやり口だ。——そして、自分たちの立場が即座に裁けないことも、分かった上でやったんだろう?」


 ——正解。


 ルキフェルは胸の奥で小さく拳を握った。理屈を通す相手だからこそ、そこに辿り着く。だからこの島を選んだ。


「えっ?」


 ルキフェルの背後で仲間たちの声が重なる。一斉に集まる視線、その重さをひしひしと感じながらルキフェルは肩をすくめた。


「さて。何のことやら」


 獣が牙を剥くようにニヤリと笑う裏で、心は静かだった。


 ——大正解だよ、長老さん。あんたが俺たちを切らなかった理由も情けをかけたわけじゃないってことも、全部分かってる。……無駄にはしない。


 ルキフェルの背後の気配が変わる。鋭い。仲間たちの視線が疑念と理解の境目で突き刺さって今更になって気づく。


 ……しまった。自分たちが本当は“海賊ですらない”って話、言ってなかった。


 ルキフェルは涼やかな顔でトルチュ島のジオラマに目を落とした。


 ——やっぱり自分は船長向きじゃない。

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