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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】5・6巻「胎動編」  作者: セキユズル
第五章「影はな……光がある場所にしか生まれん」
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第五章 ルキフェル

 二隻の貿易船がほぼ同時にトルチュ島の桟橋へと寄せられた。船腹が岸に触れる鈍い音と縄の擦れる乾いた響きが重なる。碇が下ろされるや否や、ルキフェルたちは無言で下船の準備に入った。慌ただしい動きの中で船長室だけが一瞬、静寂に包まれる。ルキフェルは棚に掛けられていた帽子を手に取って麻の荷物袋に入れると口を紐で縛って肩にかけ、続けてもう一つの袋を手に取った。中身は金貨、一袋分。報酬として約束していた額だ。それを持って、ルキフェルは船長室を出た。扉が開いた瞬間、甲板の空気が一変する。貿易商の船長と船乗りたちはまるで号令でもかかったかのようにさっと整列した。背筋を伸ばし、視線を逸らし、誰もが余計な動きをしない。ジャスパーたちの姿はすでになかった。先に船を降りたのだろう。ルキフェルは無言で歩み寄り、貿易船の船長の前に立つと金貨の袋を差し出した。


「報酬だ。この金で、酒場にでも行け」


 船長は一瞬意味を測りかねたように目を瞬かせ、慌てて袋を受け取った。袋の中身を想像したのか喉が鳴る音が聞こえる。


「へ、へへい……」


 周囲の船乗りたちもぎこちない笑みを浮かべながら、それぞれ返事をする。ルキフェルは踵を返す前に思い出したように言葉を足した。


「ただし、俺たちもそこにいるかもしれない。それだけは覚えておけ」


 効果はてきめんだった。船乗りたちの顔色が一斉に変わり、背中がさらに丸くなる。


「は、はいっ……!」


 船長は冷や汗を流しながら深々と頭を下げた。


「あ、あなた様には頭が上がりません……どうか、ご勘弁を……!」


 その言葉を背中で聞き流した。ルキフェルはもう振り返らず、甲板の縁まで歩くと張られた縄梯子に手をかけた。迷いのない動きで一段、また一段と軽やかに降りていく。靴底が桟橋に触れた瞬間、わずかな衝撃が足元から伝わった。


 ——戻ってきた。


 そう思ったのは一瞬だけ。肩にかけた荷物袋が揺れる。その中にあるものの重みが、島の土よりもルキフェルを現実へと引き戻していた。仲間たちはすでに桟橋で待っている。横付けされた小さな貿易船。この数日、足代わりに使っていた船だ。船体には潮と擦過の跡が残り、手入れも行き届いていないが、もう必要はなかった。あれは貿易商たちに譲る。こちらは島に戻る。ルキフェルが足場を確かめるように一歩踏み出してから口を開いた。


「悪い。待たせた」

「いんや。ところで、奴らにはなんて言ったの?」


 ジャスパーが肩をすくめる。視線は軽いが、口元にはいつもの薄笑いを浮かべて問いかけている。脅したか、脅してないか。たぶん、脅してる。ルキフェルは縄梯子の先を一度だけ見上げてから素っ気なく返した。


「御礼を言っただけだ」


 “御礼”の中身を察したマテオがふっと鼻で笑う。


「はいはい。親切な船長さまだ」


 マテオにとってトルチュ島はまだ帰る場所というより、立ち寄り先だ。だからこそ、こういう距離感でいられる。


「あー、やっと着いた! 思ったより長旅だったなー」


 真っ先に伸びをしたのはコリンだった。背中を反らし、桟橋の匂いを吸い込んでいる。ルキフェルは内心で頷いた。距離よりも時間が長かった。フランソワの死からここに戻るまで、空白を埋めるにはあまりにも。


「まずは宿を探さなきゃね。やっぱり、カルロータさんのところかな?」


 当然のように言ったのはニールだ。迷いがない。この島で泊まるという行為が、彼にとってはすでに日常の延長なのだ。コリンとニールを先頭に一行は歩き出す。桟橋を抜け、市場通りへ。トルチュ島のキャプテンストリート。かつて戦利品市と呼ばれていた通りは、今もその名残を色濃く残している。各国の食料、香辛料、布、酒、装飾品、武器。正規も非正規も関係なく、欲しいものはここにある。通貨よりも物々交換が主流で、言語も価値観もバラバラ。怒鳴り声、笑い声、値切り交渉、異国語が混ざり合い、通りは常にざわついている。ルキフェルは歩きながら周囲を見回した。


 ——懐かしい。


 匂いも喧騒も、視線の刺さり方もすべて知っているが、同時に違和感もあった。以前より人が多い。露店の数も増え、通りは活気づいている。戦利品を売るだけの場所ではなく、島そのものが拠点として成熟しているのが分かる。ルキフェルの前を歩くジャスパーはいつも通り軽い足取りだが、視線は人の流れを自然に読み、危険があれば即座に反応できる位置を取っている。マテオは彼の少し後ろで店先の商品を眺めながらも決して立ち止まらない。観察しているだけ。皆、それぞれの戻り方をしている。ルキフェルだけがまだ完全には戻れていない。それでも足は止まらなかった。キャプテンストリートの喧騒が少しずつ彼の胸の奥のざわめきを上書きしていく。


「カルロータさんって?」


 同じくルキフェルの前を歩くソフィーが少しだけ首を傾けて問いかけた。


「昔から世話になってる宿屋の主人だ。この市場を抜けて、少し歩いた高台に宿がある。景色もいいんだぜ」


 答えたのはマテオだった。彼の声をルキフェルは少し後ろから聞いていた。長く海に揺られていたせいか、陸に降りたソフィーの足取りはまだ覚束ない。だが、それでも歩調を落とすことはない。自分より前を行く背中は、島の喧騒に戸惑いながらも前へ進んでいる。ルキフェルはふと視線を上げた。


 ——もうすぐ、夜が来るな。


 市場通りの先、建物の隙間から見える空はまだ夕焼けの名残を残していたが、その色は沈みつつある。昼と夜の境目。トルチュ島が最も騒がしくなり始める時間帯だ。坂道をうねるように登りきったところでルキフェルは足を止める。


「着いた。ここだ」


 ルキフェルが指差した先にあるのは、水色の外観が印象的な中規模の宿屋。見慣れた建物だった。ソフィーが看板を見上げる


 BUENAS NOCHES SOL

 ——おやすみ、太陽さん。


 一瞬、彼女の肩が震えた様子を見て、ルキフェルは内心で小さく笑う。ああ、やっぱり気づいたか。この宿の名に込められた皮肉を。


 カルロータと、その旦那。かつてはスペイン王国の諜報員だった二人。使い潰され、切り捨てられ、追われるようにこの島へ流れ着いた。生き延びるために始めた宿屋に、二人は最大級の侮辱を込めた。

沈む太陽。かつて太陽を象徴していた国への痛烈な当てつけ。要するに「スペイン○ね」を限界までオブラートに包んだ名前だ。三年前、その意味に気づいた自分たちは腹を抱えて笑った。だから分かる。今、ソフィーが吹き出しそうになった理由も。


「このネーミング、分かってくれる人がいて嬉しいねえ」


 看板を見上げていたソフィーに気づき、ジャスパーが楽しそうに言った。ニールが続ける。


「僕らがトルチュに来る時は、いつもここなんだ」

「ここの女将さん、誰にでも優しいんだよ。元々、亡くなった旦那さんと二人で始めた宿なんだって」


 コリンが少し誇らしげに補足する。ルキフェルは彼らのやり取りを黙って聞きながら宿の外壁に目を向けた。


 ——なるほど。ただの生真面目な嬢ちゃんじゃないらしい。この皮肉に気づいて、笑える程度には。ソフィーはもうこちら側の人間だ。


 宿の前で足を止めたルキフェルは仲間たちの背に向かって言った。


「先に休んでいてくれ。俺は管理人の屋敷へ顔を出す」


 ニールがソフィーに管理人について解説を始めた。ルキフェルはニールの語りを聞きている間、長老の顔が自然と浮かんできた。


 ……しまった。管理人の屋敷へ行くなら手ぶらはまずい。形式だとか礼儀だとか、そういう問題じゃない。報せを持っていく人間として、何かを携えて行かねば。


 その時、ちょうど解説を終えたらしい。ニールは一瞬だけ視線を落とし、ルキフェルに目を向けて穏やかに息を吐いた。


「そっか……フランソワ船長も、彼らとは仲良しだったもんね」

「そういうことだ。ちゃんと、俺の口から報せておかねばな」


 ルキフェルは頷きながら答えた。フランソワの名が自然と胸に浮かぶ。言葉にすれば何かが壊れそうだった。報せねばならない相手がいる。それを先延ばしにすればするほど、フランソワという存在がこの島に生き残ってしまう。だから行く。逃げない。ただ胸の奥がやけに重いだけ。


 ——酒……だよな。くそ、キャプテンストリートまで引き返すのか。


 ルキフェルは仲間たちに背を向けて歩き始めた。面倒くさいという感情が先に立つが、同時にフランソワならどうしたかという考えが頭を過る。彼なら、笑って酒の一本でもぶら下げて行っただろうな。

 一方、ルキフェルの様子を横目で見ていたマテオは、内心で小さく舌を鳴らした。まただ。眉間に皺。しかも今回は相当きついやつ。いつもの無表情とは違う。あれは痛みを飲み込んでる顔だ。


「部屋は早いもん勝ちだからな!」


 場違いなほど明るいマテオの声に、ルキフェルは振り返りもせず、片手をひらりと上げる。……知るか。そう思いながらも、ルキフェルの口の端がほんのわずかに緩んだ。


「……ありがとな」


 キャプテンストリートの喧騒を抜け、ルキフェルは一本の酒瓶を手にまた坂道を登っていた。自分が出せる範囲で、いちばん値の張る酒だ。銘柄にこだわりはない。坂を上るにつれ、音が削ぎ落とされていく。笑い声も楽器の音も、潮の匂いも、背後に置いていくように遠ざかる。代わりに湿った土と草木の匂いが濃くなった。やがて、密林の闇の奥から古びた木造建築が姿を現す。


「相変わらずだな」


 屋敷と呼ぶにはあまりに質素だ。飾り気のない壁、最低限の補修だけが施された梁。背後には旧砦跡地。高台に掲げられた松明の列、その光の下で管理人たちが街と海を見張っている。秩序の灯だ。暴力と無法が集まるこの島、唯一、均衡を保つための場所。ルキフェルは小さな門をくぐり、木の扉の前に立つと二度、指の関節で扉を叩いた。ほどなく内側から気配が動く。扉がわずかに開き、影の中から管理人の声が落ちてきた。


「……何用ですか?」

「フランソワ海賊団の者だ。……元、と付ける方が正しいな。長老に会いたい」


 管理人は扉の隙間から、ルキフェルの顔と手にした酒瓶に目を落とした。その一瞬で察したのだろう。問い返すことはせず、扉はためらいなく全開にされる。


「中へ。長老さまは執務室におられるはずだ。案内しよう」


 屋敷の中は薄暗く、静まり返っていた。玄関広間を抜け、細長い廊下を進む。足音がやけに大きく響いた。突き当たりの扉の前で、管理人は一度だけノックをする。


「長老、お客様です」


 返事を待たず、扉が開かれる。通されたのは執務室だった。部屋の中央に鎮座する、トルチュ島のジオラマ。港、砦、市場、密林。島のすべてが掌の上に収められている。何度見ても圧を感じる光景だ。暗がりの奥から一人の人物が姿を現した。長老本人。久しぶりだというのに、見た目はほとんど変わらない。三十代半ばほどの顔立ち。落ち着いた眼差し。年齢という概念を置き去りにしたような存在感。


 ——ほんと、この人いくつだよ。


 そんな不敬な感想が無意識に浮かぶが、それ以上にこの場に来た理由の重さが、ルキフェルの胸の奥で形を取っていた。長老はルキフェルを一瞥した。視線は鋭いが、探るようなものではない。


「……フランソワのところのガキか」


 ルキフェルは答えない代わりに一歩だけ前へ出ると、肩に掛けていた麻袋を下ろし、手に持っていた酒瓶を近くの机の上へ置いた。瓶底が木に触れる、鈍い音が執務室に落ちる。ルキフェルは続けて麻袋の口に手を入れた。一瞬、指先が止まったが、躊躇いを振り切るように布の奥から三角帽を取り出した。ルキフェルは何も言わず長老の視界に入る位置まで差し出すと、長老の目が僅かに細くなる。帽子へ、そしてルキフェルの顔へ。訃報を伝えるには十分だったが、ルキフェルは引かなかった。


「フランソワが死んだ。一ヶ月前、フランス軍との戦闘で」


 使命のように言葉を並べた。執務室の空気が目に見えないほどゆっくりと沈み、松明の燃える音がやけに大きく聞こえた。長老は視線を島のジオラマへ落とし、輪郭をなぞるように見つめていると息を吐いた。


「……そうか。とうとう、逝っちまったか」


 長老は椅子に深く腰を下ろすと遠くを見るような目になった。


「何をするにも大胆な奴だったな。やることなすこと全部、昔話に出てくる連中を思い出させた。伝説をなぞるんじゃない。自分で作り直すタイプだった。……あいつらしい最期だったのか?」


 長老の視線が再びルキフェルへ向く。一瞬、喉が詰まる感覚があったが、ルキフェルは首を振ることも肯定することもしなかった。


「……わからない」


 長老はそれ以上踏み込まず立ち上がると、椅子が軋んだ音とコートの擦れる音が響く。


「もうすぐ夕飯だ。食っていけ。報せを持ってきた奴を、空腹のまま帰す趣味はない」

「……世話になります」


 ルキフェルがそう答えると長老は頷いた。


「その酒も後で開けよう。あいつの話をするには、悪くない」


 他の管理人たちがそれぞれの卓について低い声で食事を始める中で、長老とルキフェルは二人きりで向かい合っていた。卓の中央に置かれた蝋燭の火がわずかに揺れ、溶けた蝋がゆっくりと皿の縁を伝っていく。その様子をルキフェルはぼんやりと見つめていた。


「……で、どうやってこの島まで辿り着いた」


 長老は開けたばかりの酒を一口仰ぐと、喉を鳴らしてから何気ない調子で言った。ルキフェルは蝋燭から視線を外さずに答える。


「仲間のおかげです。俺は……何もしてません」


 長老の視線がこちらへ向くと、ルキフェルは少しだけ間を置いてから続けた。


「あの人が死んで……俺は自分を見失いました。人を殺して……仲間すら傷つけた」

「それでも、仲間はお前を見捨てなかったらしいな」


 長老の言葉にルキフェルの喉が小さく鳴り、指先が無意識に卓の縁をなぞる。


「……あの人が死んだことで、クォーターマスターの役目も終わりました。海に出ても……何もしない。何もできない。ほとんど部屋に籠ってました。それでも……仲間って、呼んでくれるんでしょうか。フランソワは、俺にはみんなを導く力があるって言ってくれたのに……俺は、何もしてない」


 酒はまだほとんど減っていない。酔いが回るには早すぎる。それでも言葉は止まらなかった。抑え込んできたものが隙間から滲み出るように。長老はしばらく黙っていたが、やがて酒を置き、蝋燭の火を見つめながら言った。


「何もしていない、か。それを決めるのはお前じゃない。お前が何をしたか、何をしなかったか……それを知ってるのは、ついてきた連中だ。少なくともな。何もしなかった男のために、命を賭けて船を出す奴はいない」


 長老はゆっくりとルキフェルを見る。蝋燭の火が二人の影を揺らしている中で、ルキフェルは蝋燭の火から目を離さないまま口を開く。


「あの人、どうやって人を導いてたんでしょうか。ずっと側にいたはずなのに……なんで先頭に立てたのか、今でも不思議です。俺は……先頭に立つことに向いてなさすぎる。ずっと、影として生きてきたから」


 彼なりの自嘲だったが、長老は即座に否定しなかった。


「導くってのはな、先頭に立つことじゃない」


 ルキフェルの動きが止まる。長老はその沈黙を確認してから続けた。


「いつだったか……フランソワが、珍しく酔ってな。情けない顔を晒しながら、こんな話をしてきた」


 長老は酒を一口含み、記憶を辿るように言葉を紡ぐ。蝋燭の火がふっと揺れる。


「サン・マロで、元私掠船団たちの総代表として指揮権を持った時の話だ。会合、演説、投票……どれもこれも重圧ばかりでな。押し潰されそうになると、いつも同じ男の顔が浮かぶと言っていた。——大海賊ゼフィランサス。奴が生きていた頃、言葉一つで人を動かしたらしい。怒号の中でも笑って、混乱の只中でも皆をまとめ上げた。“何か”があった」


 その名が落ちた瞬間、空気が一段深く沈んだ。長老は肩をすくめる。


「フランソワはな、困難に直面するたびに考えちまうそうだ。――もし、ゼフィランサスだったら、どうするだろうってな。だが、フランソワはそこで終わらない。すぐ切り替えるんだ。『俺は、俺だ』ってな。誰かの真似はしない。誰かの言葉を借りない。自分の言葉で、自分の行動で……仲間を導くんだと言っていた」


 ルキフェルの胸が微かに軋む。長老はルキフェルを見た。


「影で生きてきたからこそ、見えるものもある。導くってのは、先に立つことじゃない。迷った時に立ち止まらせることでもある」


 ルキフェルは言葉を失ったまま拳を握り締めていた。影として生きてきた時間。それを否定しなかった人間がここにいる。長老は蝋燭の火を見つめたまま言った。


「影はな……光がある場所にしか生まれん」


 ルキフェルはしばらく黙っていた。杯に注がれた酒にもまだ手を伸ばさない。


「存在は消えても、まだあの人の声と言葉が残ってます。俺を“光だ”って言ってくれた……フランソワの言葉がまだある。……だから、俺はまだ前を向けるらしい」


 長老は何も言わず頷いた。ルキフェルはようやく杯を取ると酒を一口、喉に流し込む。強いが、不思議と胸は焼けなかった。ルキフェルの腹にやっと温かいものが入り、張り詰めていた肩の力が抜ける。長老と他愛ない軽口を交わしながら、彼はゆっくりと酒を飲んでいった。ルキフェルはフォークで肉を刺し、口に放り込んで噛みしめる中で不意に先ほどの話が脳裏をよぎる。

 

 フランソワがいつも思い浮かべていたという男。あのフランソワが、だ。何かに迷ったとき、立ち止まったとき、無意識に顔を思い出すほどの存在。よほどの人物だったのだろう。ルキフェルは肉を飲み込んでから切り出した。


「そういえば、さっきの話なんですけど。その……フランソワが言ってた男って、どんな人なんですか」


 その瞬間、周囲のざわめきがすっと止んだ。気配が変わって視線が集まる気配に、ルキフェルの背筋にぞわりとしたものが走る。彼は反射的に顔を上げると、卓を囲んでいた管理人たちが一斉にこちらを見ていた。驚愕。困惑。そして、信じられないものを見るような目。ルキフェルが戸惑っていると長老が軽く片手を上げた。


「気にすんな」


 彼の一言で管理人たちは何事もなかったかのように食事へ戻るが、空気の重みだけは消えなかった。長老は杯を傾けながら低く呟く。


「本当に、何も聞かされてなかったらしい」


 ルキフェルの胸が微かにざわついた。長老は淡々と続ける。


「ゼフィランサスって男はな、ヨーロッパ中を荒らした大海賊だ。一番新しい“伝説”とも言われてる。死んだのは十九年前。決して昔の話じゃない」


 その名を聞いた瞬間、ルキフェルの胸の奥がひくりと痙攣した。理由は分からないが、本能がざらつく。拒否するような、理解を拒むような、不快な感触。長老はルキフェルをじっと見た。


「ゼフィランサスの名はな、そこらの海賊でも知ってる。……お前、本当に知らなかったのか」


 ルキフェルは一瞬言葉に詰まりそうになったが、首を横に振った。


「……さあ。よく、知りません」


 嘘はついていないが、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。長老は彼の様子を見て息を吐くと話を切った。


「そうか。何も知らないのも……残酷な話だな。まあ、この話はまたにしよう」


 長老はルキフェルの杯に酒を注ぎ足す。


「今夜は考えなくていい。フランソワを偲ぼうじゃないか」


 酒を注がれる音がやけに大きく響いた。ルキフェルは杯を見つめ、黙ってそれを受け取る。胸のざわめきは消えなかったが、今は考えなくていい。そう言い聞かせるように酒を口に運んだ。


 その後、ルキフェルは夜遅くまで呑んでいた。いや正確には、呑まされていた。酒豪な長老が手慣れた手つきで次々と杯を満たしていく。断る隙などない。気づけば、持参した酒はとっくに空になっていた。それでもルキフェルがべろんべろんに酔わずに済んだのは、単純に長老の方がよく呑んでいたからだ。


「若いの、まだいけるだろ」

「勘弁してください」


 そう言いながらも杯を受け取ってしまうあたり、自分も大概だとルキフェルは思う。やがて夜も更けて屋敷を辞する段になった頃、長老はふと思い出したように言った。


「そういや、お友達は生きてるのか?」

「ああ。生きてる。この島にいるよ」

「そうか。それはいい」


 長老は満足そうに頷くと、含みのある笑みを浮かべる。


「またここに来る時は仲間も呼べ。特に……金髪とチビ」

「……覚えときます」


 ルキフェルは思わず苦笑した。なぜその二人なのか。ニールか、コリンか、あるいは両方か。この長老、どうやら賢い子が好みらしい。ルキフェルが屋敷を出ると夜気が頬を撫でた。よく晴れている。街の明かりで星は薄れているが、それでも十分だった。ルキフェルは空を見上げるとある星が目についた。見つけた、シリウス。今日も一際明るく輝いている。フランソワの言葉が脳裏をよぎる。明るいだけの星じゃない、永遠の象徴。


「……ほんと、勝手な人だ」


 誰に向けた言葉か自分でも分からないまま、ルキフェルは坂を下っていく。やがて辿り着いた宿——ブエソルの中はすっかり寝静まっていた。足音を殺して二階へ上がると一つだけ扉が開いた客室がある。多分、ここだ。ルキフェルは部屋に入り、肩にかけていた麻袋を下ろすと中からフランソワの帽子を取り出し、机の上に置いた。しばらく帽子を見つめたあと、ベッドに身を投げた。身体が沈み、思考がほどけていく。酒の熱と疲労と遠くで虫が羽を擦らせる夜。ルキフェルは抗うことなく、沈むように眠りに落ちた。

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