第三話:思春期の心。
◇3◆
「――ごめん、恵梨香。おれ、天塚が好きなんだ」
高校一年の秋、中学生のころから好きだった男子に――振られた。
それも、わたしが一番嫌いな子の名前を言って。
天塚遥香。
一年生の中でも、人気の高い生徒だ。御子柴や、蓮実と並ぶトップ・スリーとされているが、二人ともとっつきにくさがあり、どこか距離を感じされることで、話しかけづらいらしい。
だが、彼女はフランクで、人付き合いも上手く、男子からも女子からも人気がある。
蓮実と違い、表立って目立つこともなく、御子柴のようになにを考えているか分からないミステリアスさもないが、接しやすさや、育ちの良さ、品格、そしてその優しさから好意を持つものは少なくない。
けれど、わたしは彼女が嫌いだった。
丁寧な言葉遣いが、気品のある所作が、その他者を慈しむ双眸が、明晰な頭脳が、どこか気取っているように見えて、その上で鼻にかけていない、そんな態度が苛つかせた。
完璧な人間などこの世界にはいない。だというのに、彼女の言動は、完璧を体現でもしているというようなふうに映るのだ。
それがひどく気に入らない。
わたしの好きな男子すら、奪った。たったひとり、ずっとずっと想いを馳せていたというのに。
中学の三年間、高校に入ってからもずっと、この想いを秘めていたというのに。
いとも容易く、奪っていったのだ。
――許せない。
ふつふつと怒りが心に沸いてくるのが分かる。帰宅のアナウンスを背に聞きながら、自転車にまたがり、そのまま家路を急いだ。
――あの女のどこがいいっていうのよ!
どいつもこいつも、見かけに騙されている。きっとあの女にも、後ろ暗い部分があるはずだ。それを誰にも見せていない、卑怯者なのだ。
「恵梨香、おかえり。もうすぐご飯――」
「いらない!」
母の言葉をさえぎって階段を上り、乱暴に部屋のドアを閉めるとパソコンを置いているデスクの前に腰を下ろして、電源を入れ、スマートフォンを取り出す。
そこからウィスパーをタップして開き、プロフィールへ飛ぶ。
わたしは鶏鳴学園に在籍していることを、誇りだと思っている。他のアカウントは、きっと三流の高校にしか行けていないから、書けないだけだ。
でもわたしは違う。堂々と、鶏鳴学園に在籍していることを書いている。あの女のような卑怯者にはならないし、努力を怠った輩とは違うのだと、自信を持って言える。
アカウント名だって名前をもじって、えりーとつけた。アイコンも、自分の写真にした。わたしは隠すことはない、隠しごとのない自分こそが正義だからだ。
『あの女のどこがいいんだよ』
『完璧なつもり? ただの偽善者じゃない』
『さっさと死ねば良いのに。一番醜い死に方で』
苛立ちのままに、つぶやいていく。ぽつ、ぽつ、と返信が来る。
『なにがあったの?』
『どうした?』
『えりー、荒れてるね』
その返信を見て、少し安堵する。中には荒らしてくるものもいるが、大体が、わたしの味方になってくれている。わたしが隠していないからだ。
ありのままだからこそ、味方になってくれるのだ。あの女は、隠しごとをすることで惹きつける偽物だ。
返信に対して、告白したら振られたこと、天塚が好きらしいこと、それらを吐き出していく。
『まあ、あの人なら……』
『相手が悪いよ』
わたしは眉間にしわを寄せる。天塚という名前を出した途端、今までフォローしてくれていたみんなの意見が変わりつつあったからだ。
『なんで? あの女のどこが良いの?』
『あの女とか言わないほうが良いよ』
『彼女はすごい人だからね……まさに高嶺の花って感じ』
『そもそもさ、個人名をさらすとか、進学校なのにリテラシーどうなってんの?』
『頭の良い学校なのにバカなんだな』
『プロフフィールに学校名書くとか、承認欲求強すぎ』
『悪質なんで通報しときまーす』
『顔出ししてるけど、そんなに可愛くないじゃん。よく出せたねって感じ』
『平気で死ねっていえるとか、本当に進学校出身?』
苛立ちが、募っていく。どいつもこいつも、名前を偽って、アイコンを偽って、匿名の仮面をかぶっているくせに、あの女のことになると及び腰になる。
さらには関係のないものまで、書き込んでくる。
長いものに巻かれる、流れに身を任せる、リーダーシップも確たる意思もない、まるで弱者のようだと、わたしは思った。
結局、声を上げるほどの度胸も無いのだ。
『振られたのはわたしだよ?』
『天塚に勝てるわけないだろ、性格まで不細工なんだな』
不意に書きこまれたそれに、わたしの苛立ちは頂点に達した。机を殴りつけ、相手に罵詈雑言を浴びせ、ぶつぶつと声に出して「死ね、死ね、死ね」とつぶやいた。
気付けば、周りからフォローしてくれていた人はいなくなり、やがて暴言を吐く、無関係な人間ばかりが残り、通知音にすら怒りを覚えた。
「……どいつも、こいつも」
舌打ちをしているところに、ダイレクトメールが届いた。そこにはメッセージと、URLが貼られている。
『えりー様、はじめまして。鶏鳴学園の生徒専用の裏サイト、メビウスの管理人、IRです。あなたをこちらにご招待します。パスワードはSSSSです』
『なに、あんた?』
『裏サイトでは、あなたのような方が大勢いらっしゃいます。仲間、と呼べるかもしれません。どうぞ、こちらで思いの丈を吐き出してくださればよろしいかと』
返答になっていない。詐欺の類かとも思った。けれど、怒りでそんな猜疑心すら、どうでも良くなっていた。
URLをタップすると、真っ暗な画面に、真っ赤なチャット欄があった。
左上にメンバーの数が表示されていて、今は三人になっている。
上部にはルールが書かれていて、アカウントを作る際、同意書として、名前と学年、クラス、メールアドレスを入力しなければならないらしい。
『こちらでお預かりした個人情報は、利用目的の範囲内でのみ使用され、本人の同意なく第三者へと開示・提供はされません』とある。
そして最後に、当サイトの機密性を守るため、他言無用に願います。とも。
わたしにとっては好都合だった。どうせウィスパーでは、天塚の名前を出しただけで逃げ出すような人間ばかりだ。
ここでなら、思う存分、吐き出せるということだ。わたしは個人情報を入力し、利用規約にチェックを入れると、アカウントを作成した。
『はじめまして、えりーです』
『TRDだよ。あと、敬語なんかいらない』
『そうなんだ』
『で? なにがあったんだ?』
『畠山ってやつに振られた。天塚とかいう綺麗ごとしか言わない、つまらない女が好きなんだって』
『へえ。天塚ねえ……。顔が良いだけの女か。畠山も見る目がないな。その他大勢になってなにが楽しいんだか』
『そうなのよ! あんなやつのどこが良いのか分からない』
ようやく――わたしの意見が肯定された気がした。わたしはどんどんメッセージを送った。TRDはそれに対して、時にシニカルに、時に芯を喰ったことを言う。
『そういえば三人になってるけどもうひとりは?』
『管理人だろ。普段はもっと賑わってんだけど、テストも近いから少ないんだろうな』
そういえば、もう少しで中間テストがある。だからか、とひとり納得する。
『あんたも鶏鳴学園なの?』
『説明読んでねえのか。ここは鶏鳴の生徒しか入れないし、招待はされない。特別なサイトなんだよ。つまり、あんたは選ばれたってわけ』
特別――選ばれた。わたしは口角が上がるのを感じた。なにもかもを匿名にして、マスクをかぶった大勢ではなく、わたしが招待された。
つまり、隠さないことが正義であると、認められたということだ。
『いつでも書き込めば良い。分からないことがあれば聞いてくれよ。あと、パスワードは一週間で変わるから、メールのチェックを忘れるなよ』
『分かったわ』
『じゃ、おれは飯の時間だから落ちる』
気付けば、二時間もこのサイトで書き込んでいた。さすがにお腹が鳴って、いつの間にか怒りもおさまっていた。
ここに来れば、どんな言葉を使っても良い。なにを言っても良い。それが、わたしの余裕になっていることはたしかだった。
「……わたしもご飯を食べよう」
サイトから離れて、着替えを済ませ、スマートフォンをポケットにねじ込むと、階段を降りて行った。
◇◆
わたしが一年七組の教室に入ると、視線を感じた。同時にひそひそという声も。
おそらく昨日のウィスパーで荒れていたのを見たか、返信したものがいるのだろう。それがうわさになっているのだ。
ため息をついて机に着くと、背筋に冷たいものが走った。
『死ね』
『自意識過剰女』
『生ゴミ』
『比べ物になるかよブス』
机いっぱいにマジックで罵詈雑言を書かれていたのだ。わたしが立ち尽くすと、周囲からひそひそという声が聞こえてくる。
「ねえ、可哀相だよ。相手してあげなって」
「えー、無理だって。わたしまで同じだと思われるでしょ」
「一緒に炎上してあげれば?」
「絶対やだ~」
「立木さん、炎上したんだって」
「それ知ってる! 天塚さんの悪口書いたんだって」
「ファン多いのにね。知らなかったのかな」
「てか、よく学校来れたよね」
きゃいきゃいと、こそこそと、聞こえよがしに話すグループや、嫌でも聞こえてくる言葉もあって、わたしは、針のむしろのような気持ちになった。
昨日、天塚に対して悪態をついただけで、こんな仕打ちを受けなければならないのか。
呆然としているところに、声がかかってびくりと身体が揺れる。
「恵梨香、おはよ。なんか荒れてるんだって? って、なにこれ」
そこに声をかけてきたのは、鏑木花南だった。誰とでも仲良くできる、クラスのムードメーカーである。
「……昨日、ウィスパーでちょっと」
「ふうん。なにがあったの?」
鏑木は周りに吹聴するような人間ではない。クラスの人間も信頼しているからこそ、彼女に相談するものも多い。
だが――わたしのことは、どうなんだろうか。
鏑木にまで嫌われたら、いよいよここに居場所がなくなってしまうような気がした。
「言いづらい内容?」
「えっと……振られて」
「うん」
「その人が好きなのが、天塚さんで、その」
――天塚さんの悪口を書き込んじゃったの。
「なるほどね。まあ、言いたくなる気持ちは分かるよ。感情的になっちゃったんだよね?」
鏑木は首をかしげると、わたしはうなづいた。「恋愛は難しいよねえ」とつぶやいて、それでも微笑んでくれた。
天塚のような上品な笑みではなく、はつらつとした笑顔だった。
「ま、人のうわさも七十五日ってね。気にしすぎるのは良くないよ」
「うん……」
「でも――さすがにこれはやり過ぎだよね」
鏑木は落書きまみれの机を撫でて、眉間にしわを寄せる。「代わりの机、持ってきてあげる」
そう言って、わたしの机を持ち上げて教室から出ていった。
少ししてから、新しい机を持ってきてくれて、「ちょっと埃っぽいから、ぞうきんで拭いたほうが良いかな」とはにかんだ。
「……どうして」
「ん?」
「天塚さんのことを悪く言っただけで、こんなことまでされなきゃいけないの」
「天塚も、本人は気付いてないけど、ファンがいるからね。その中でも過激なやつもいるんだろうね。気にしちゃダメだよ」
鏑木はそう言ってくれたが、心の靄は晴れなかった。むしろ曇天のように重くのしかかり、気分は下がっている。
「おはよう。鏑木、立木。どうかしたの?」
「ああ、サク。なんでもないよ」
久世朔太郎が教室に入ってきて、こっちを見る。ストレートの髪に整った顔立ち、中性的で、女子からの人気が高い生徒だった。
「そういえば鏑木、昨日の委員会、サボったでしょ。河野先生が怒ってたよ」
「でも上手くごまかしてくれたんでしょ?」
二人は風紀委員だ。久世は肩をすくめて「ごまかす理由を探す身にもなってくれないかな」と苦笑する。
「で? 昨日の議題はなんだったの?」
「気になるなら出れば良いのに……。昨日は最近の家出の件がメインだったよ。友達には言っているだろうから、それとなく聞いてくれって」
「ああ、千藤さんとかの」
「うん。もう四人も家出してるから、学校としても、体裁を保てなくなるのを恐れてるみたいだ」
「それで生徒に投げるかなあ、普通」
「もちろん、先生たちも動いてるみたいだけど、生徒間のコミュニティにはなかなか入れないんじゃない?」
久世はそう言うと、頬を掻いて、「そろそろホームルームが始まるよ」と席に向かった。
「恵梨香、もう一度言うけど、あんまり気にしないでね」
鏑木もわたしの肩を叩いて、自分の席に着いた。
わたしは沈んだ気持ちのまま座り、目を伏せて短く息をついた。
それから授業は進み、昼休みを終えて、少しトイレに行って戻ってくると、机の周りに破かれた教科書と、ノートがあった。
ノートには『死ね』やら『存在価値ないよお前』なんて、いくつもの罵詈雑言を書かれていて、めまいがする。
――なんで? いつ、こんなことを……?
「恵梨香、どうしたの?」
不意に声がして、わたしは教科書を隠し、声をかけてきた生徒に「なんでもないよ、ちょっと気分が悪くて、その、早退するね」と伝えた。
「そう。お大事にね」
そう言った彼女は、どこか含み笑いをしているような気がして、どくん、と、鼓動が速まった。
わたしはそこで、完全にいじめの対象になっていることを、確信した。
速足で職員室へ向かうと、適当な理由をつけて早退し、家へと向かった。
「恵梨香? 学校はどうしたの」
「具合悪いから早退した」
「具合が悪いって……大丈夫なの? 病院に行く? 今日のご飯、おかゆにする?」
「もう、放っておいてよ!」
母親がこちらの顔色を窺うのも癪に触って、思わず怒鳴った。なにも知らないくせに、と悪態をついて部屋へ入ると、パソコン前に座る。
電源をつける前にスマートフォンでウィスパーを開くと、わたしのアカウントの返信欄に、様々な悪意が書き込まれている。
学校では電源を切っているから、こうなっているとは気付かなかった。
『ブス』『勘違い女』『ゴミ』『何様のつもり?』『承認欲求強すぎ』『平凡以下なのによく言えたな』『死ね』『死ね』『死ね』――。
悪意の羅列に、めまいがした。わたしは、わたしは、ただつぶやいただけなのに。
つぶやいただけなのに――……。
「……なんで」
私は涙も出なかった。唖然としてしまって、なにも考えがまとまらなかった。
そんなに、悪いことをしたのだろうか。
振られて、感情的になって、ネットで怒りをぶつけた。ただそれだけなのに。
「わたしなんて、いないほうが良いのかな……」
わたしは電源をつけて、URLをクリックした。
黒い背景に赤文字が載っていて、パスワードを入力する。
『誰か、いる?』
閲覧者は二人になっている。だが、誰も返事をくれない。
『ねえ、誰か』
何度打っても、三十分、一時間待っても、返ってくることはなかった。
わたしはうなだれて、パソコンを閉じる。
「もう、嫌だ」
涙も出なかった。感情も動かなかった。誰からも相手にされない。そんな矮小な自分を自覚するには、充分だった。
それでも、学校には行かなければいけないという苦痛が、目の前にあった。
「――死にたい」
口にしたそれは、心からの言葉だった。




