第二話:可笑しな殺人鬼との問答。
◇2◆
北の山に抱かれるようにしてあるマンモス校、それが鶏鳴学園である。
山の中腹を切り開いてできた広い土地に、三棟ある各学年の校舎棟や三つの校庭、三つの体育館にテニスコート。
柔道や剣道で使う格技場や弓道場、各学年用に造られた三階建てのプール棟。
音楽室や美術室などが入った特別教室棟、部活棟などが建ち、生徒でも迷うことがあるほどに広い。
そのさらに北側、もっとも奥まったところに、旧校舎があった。この学校の生徒でも、一部だけしか知らない場所である。
ぼくも知ったのは、ほんの最近のことである。立ち並ぶ校舎を縫って、もっとも奥にひっそりとあるので、最初は驚いたものだ。
それまでは、旧校舎に入れば停学、という校則があることは知っていても、誰も実際に見つけよう、なんて輩はいなかったのだ。
過去にはいたのだろう。なにがあったかは分からないが、校則になるほどだ、見つけた誰かが悪さをしたのは、想像がつく。
だから――ぼくの居場所になっているのだけれど。
時代は古く、木造建築で、今にも崩れそうなそこは立ち入り禁止のロープが張られていた。
午後六時。
ぼくは、部活棟からは流れてくる吹奏楽部のキーの外れたボレロや、グラウンドから響く野球部の声を遠くに聞きながら、疲れた身体で旧校舎に向かった。
十月の空気は生ぬるく、じんわりと汗ばむが、校舎の奥にあるこの場所まで来れば、より山に近いからか、ほんのりと冷えていて、気分転換にはもってこいの場所である。
そろそろ中間試験がはじまることで、誰もがぴりぴりした空気を醸し出し、息苦しいのだ。
家に帰ってもどうせ勉強で、まだ一年だというのに両親からは大学進学をせっつかれている身としては、どこにも居場所がない気分だった。
だから、この旧校舎が、唯一、落ち着ける隠れ家でもあった。
せっかく進学校に入学したのだから、良い大学に行きなさい。どこの大学に進むんだ。下手なところにはいくんじゃないよ。と、耳が痛くなるほどに聞かされる。
ぼくとしては、別段、行きたい大学があるわけじゃなかった。この高校だって、両親の希望で、ぼくの意見なんてものはまず通らない。
それでも歯向かうほどの気力も持たず、言いなりになるしかないのだ。
隣りのクラスの蓮実瑠香という不良生徒のことを、羨ましいとさえ考えていた。ぼくには出来ないことを、彼女はやっているのだ。
「いまさら、不良にもなれないよな」
ぽつりとこぼす。今まで、優等生にも不良生徒にもなれなかった。いや、この高校に入学できたのだから、ある程度の学力はあるのだろう。
けれど、それは中学までの話で、ここにいる生徒は皆、ぼくなんかより頭が良い。優等生の群れの中に入れられたぼくは、灰色の羊のような気分だ。
白くもなれず、黒くもなれない。中途半端な人間。それが――ぼくだ。
旧校舎が見えてくると、草木に覆われ、ロープが張られている。それをくぐって中へと入り、見上げたとき――三階――最上階にある半円形のバルコニーに、赤い影が見えた。
――誰かいる?
鶏鳴学園の制服の色はライトブラウンのブレザーだ。決して赤くはない。となれば、あの奇妙なうわさを思い出す。それは、都市伝説のような話だった。
真っ赤な死神――ファニー・マーダー。
それは、見たものを殺すらしい。だから誰にも見つかることはない。死体は喋れないのだ。
「……ちょうど良いのかもな」
死にたい、と積極的に思ったことはない。けれど、それでもうっすらと希死念慮が影の周りにまとわりついているような感覚を、入学したときから感じている。
ぼくは少し急ぎ足で、軋む階段を上がり、三階へと向かう。
三年二組という気のプレートを見て、教室に入り、三教室分の幅のある広いバルコニーに出た。
旧校舎は洋館風に造られていて、この校舎が使われていたときは、ここで庭を見渡せて、きっと生徒間では憩いの場になっていたのだろう。
そこにいたのは――糊の利いた白いワイシャツに、真っ赤なシルクハット、同色のベストとロングスカート、暗赤色のロングブーツという奇異な見た目をしている。
後ろ手を組んで、バルコニーから外を眺めているところに、ぼくは一歩踏み込み、ぎしっと床が軋むのを聞いて、ゆっくりと振り返った。
「――御子柴?」
彼女を見て、ぼくは思わず声を出した。
ぼくは彼女を知っている。
御子柴幽夏――ぼくのクラスメイトだ。いつも窓際の席で、ぼんやりと授業を聞いている、物静かな少女だった。
夜を流し込んだような黒い髪を肩甲骨まで伸ばし、大きな瞳に小さな鼻、ふんわりとした唇――話しかけたことはないけれど、ぼくの知っている彼女そのものだった。
だが――。
「君は、立花清吾くん、だったかな」
その口調は、どこか中性的のように聞こえた。
御子柴に名を呼ばれて、なんと答えて良いものかと考えあぐねていると、
「どうしてここに来たんだい?」
と、彼女は目だけで笑った。その目は、赤かった。普段の御子柴は――よく見たことはないけれど――黒だったはずだ。
いいや、確認せずとも、真っ赤な目をした人間なんて、いるはずがない。
「いや――気分転換というか……それより、御子柴、その格好は」
「ん? ああ、これかい? これが――ぼくの姿だからだよ」
スカートをつまんで少し持ち上げると、なんの気もないようにそう言った。
「姿って、それはファニー・マーダーの」
ぼくは話で聞いていた死神の格好を思い出す。目の前の彼女はまさにその姿をしていた。
「だから、ぼくがそのファニー・マーダーってわけだよ」
「……ぼくをからかっているのか。そんな格好をして、ぼくを驚かすために」
「君を驚かす必要がどこにあるのかな。そもそも君が勝手にここに来たのだろう。ぼくはこの場所で監視をしていただけだ。君を待っていたわけじゃあない」
それは、そうだ。けれど、疑問は尽きない。
「君がファニー・マーダー? それはなにかの遊びか? コスプレとか。その目だって、カラーコンタクトとかじゃないのか」
この高校のプレッシャーに当てられて、そんなことをしているのかもしれない、そう思った。しかし、
「言っているじゃないか。ファニー・マーダーそのものだよ、ぼくは」
彼女は首をかしげて、ぼくを見る。どう答えたら良いのか分からず、しかし、つい口をついて出る。
「ああ、ええと、二重人格とか、そういう類のものか?」
「違うよ。むしろ逆だろうね。人間を演じているんだ。この社会に溶け込むための手段として。つまるところ、御子柴 幽夏という人物になりきっている――擬態している。どちらかと言えば、このぼくが本体だ」
「意味が、分からない」
「そうだね……いわば、御子柴 幽夏という存在は、殻のようなもの。あるいは空いたグラスとも言えるかもね。その中身こそが、ぼくという存在なんだよ」
――本性、と言い換えても良いかもしれないな。
そう言って、コンタクトケースをポケットから取り出し、ぼくに向けて投げる。
中身を確認すると――そこには黒目になるよう作られたカラーコンタクトが入っていた。
「目に関しては隠しきれなくてね。これは知人にもらったものだけれど、これで分かってもらえるかな」
「……にわかには信じられない。けど、じゃあ、どうしてこんなことを?」
頭では納得しようとしているのに、心がそれを許さない。
「言ったじゃないか。人間たちが作り上げた社会に溶け込むため、演じているに過ぎないと。高校生というのは、存外に動きやすいものなのだよ」
――たとえ奇妙な行動に見えても、この現代社会は、思春期のよくある話だと済ませるだろう?
「現に、君はぼくの目を見ても、こんな格好をしていても、話し言葉を聞いても、御子柴 幽夏と認識している。きっとぼくに妙なクセがある、と思っていることだろう」
「それは、そうだけど……」
言われてみればその通りだ。ぼくは、目の前の人物をクラスメイトとして見ている。否――実際、クラスメイトなのだ。
普通に授業を受け、可もなく不可もない成績で、目立った特技もない。だからこそ、コミックや小説のキャラクターにでも感化されたのだろう、と。
自我があいまいな人間にはよくあることだと。
目立たない性格だからこそ、どこかで注目をしてもらいたい、そんな内面の発露なのだと――彼女を目の前にしてなお、そう感じてしまっている。
だが、なぜか彼女の言葉にはへんな説得力があって、納得はいかないのに、信じてしまう自分がいた。
「で、でも、両親はどうなんだよ。そもそも戸籍だってないと、入学も出来ないだろ」
「両親なんていないよ。戸籍は、ある人物に頼んで作ってもらったけれどね」
「ある人物……?」
「お人好しでね。御子柴 幽夏という、ぼくの名付け親とでも言えば良いのか……しかしまあ、優しさが過ぎたんだね。いいや、エゴが強かった、と言っても良いのかな。殺されてしまった」
「殺された……?」
「その件について、詳しく話すつもりはないよ。君を巻き込むのは、本意ではないからね」
「なら、君はいつ生まれたんだ? 両親がいないのに。どうやって」
「――さてね。ぼくがぼく自身を認識した時点でこうだった。とても長い時間、そうだね、途方もない歴史の中を、こうやって過ごしてきたんだ」
そう言うと、くるり、と回転してみせる。ふんわりと赤いスカートが待った。
「そのころは、ファニー・マーダーという名前すら付けられていなかった。時代によって、呼び名は変わっていったんだ。それでもこの姿で、しかし意識と使命だけははっきりとしていた」
「わけが、分からない」
「立花くん。君は五分前仮説というものを知っているかな」
「五分前仮説?」
「この世界が、五分前に始まったというものだ。君の記憶も、街並みも、すべて五分前に組み立てられ、世界が構築された、という思考実験だよ」
「そんな無茶苦茶な。ぼくは産まれた場所も知っているし、両親のことも知ってる。思い出だってたくさんあるし、嫌な記憶もある。ぼくは十六年間、生きてきたんだ」
思わず、ぼくはそれを否定しようと熱くなっていた。
「そう。普通ならその記憶や生い立ちが証拠となり、五分前仮説は否定されてしかるべきだ。けれど、君が感じてきた十六年分の意識や歴史が、五分前に過不足なく作られたのだとしたら」
そんなこと、あるわけがない。ぼくはぼくで、言いなりになりながらも、それなりに生きてきたのだ。努力もした。だから進学校であるこの高校にも入学できたのだ。
それらの過程をすべて無視して、五分前に作られたなどと――認められるはずがない。
「そう怖い顔をするなよ。これは例え話だ。しかし、ぼくにとっては、その仮説はあまりに現実味がある。いつ、どこで生まれたかすらあいまいな存在の、ぼくにはね」
「で、でも、その歴史の中を生きてきたんだろ。その記憶は」
その言葉に、御子柴は目を細めて首をかしげた。
「その記憶さえ、五分前に作られたものかもしれないよ」
「御子柴……君は、なにか病んでいるんじゃないのか。相談なら、ぼくでも出来ることなら」
「病に侵されているのは、この世界のほうだよ」
「それは、どういう意味だ」
「潜在者――その存在が、この世界にはいる」
「……潜在者って」
「そのままの意味さ。潜在的な脅威。そいつが目を覚ますと、この世界の均衡を崩すことにも繋がるんだ。ただ――今回の件では、その存在がまだ見えてこないけれどね」
「世界の均衡……大袈裟な話だな。それに、見えてこないって、どういう」
「そのままの意味さ。被害者はいる。けれど、誰が潜在者なのか、ぼくにはまだ分からない」
ぼくはいつの間にか、それを受け入れてしまっている自分に、少し、驚いた。
不意に、ちりん、と鈴が鳴る。彼女がいつの間にか、持鈴を持っていて、それを鳴らしていたのだと、気付いた。地面が揺れるような気がして、思わず一歩下がった。
「つまり、君は正義の味方ってことなのか?」
「いいや――そんなものじゃない。そもそも正義や悪といった、多面的で、あいまいで、時代によって変わってしまうもの――いわゆる可変性のために、ぼくは動かない」
――そんなものは、時代によって、あるいは立ち位置によって、変わっていってしまうものだと、見てきたからね。
「じゃあ、どうして」
「言ったじゃないか。世界の均衡を維持するためだよ」
だからね、と、御子柴 幽夏は――ファニー・マーダーは、続ける。
「人助けはぼくの役目じゃないんだ。けれど、踏み込んでくるものを巻き込むのも本意ではない。つまるところ、君は社会の傍観者として、君にとっての普通を生きていれば良い」
視点がぼやけていく。立っていられなくなり、ひざをついた。頭痛がして、こめかみを押さえ、それでも目の前の彼女へ視線を向ける。
「……じゃあ、あのうわさは。君を見た人間は死ぬと、そう聞いている」
「うわさには尾ひれがつくものだよ。ぼくはただひとつ――使命を果たすために、存在している。それとも君は、ぼくに殺されたかったのかな」
「それは――」
心のどこかで、押し込めながらも、願っていたことだ。しかし、ファニー・マーダーは目だけで笑って、
「残念だけれど、君の知らない場所で、世界は元通りになる。君はなんの脅威も感じることもないまま、学生生活を送る。それだけだよ」
「そんな、それじゃあ、ぼくは――救われないのか」
「救い?」
――救いとは。自分の口からこぼれた言葉に、思わず戸惑っていた。
「救いとはなんだろうね。君という主体が、どうすれば救われたと感じるのか、ぼくには分からない。ぼくは、君ではないんだ」
「でも死神なんだろ……」
「ぼくはそんな存在ではないよ。それはいつの時代か、とある人間が、ぼくを形容するためにそう呼んだだけのこと」
もう御子柴とは思えなかった。目の前にいるものは――ファニー・マーダーだ。
「ぼくはいつだって観測者の側ではなく、観測される側なんだ。まあ、そういう意味では奇しくも――君たちの言う、神とやらに同じ、ということになるのかもしれないね」
「主体のない、客体と、いうのか」
「そうだね。そこにあるのは役割を全うする存在でしかない、いいや――現象、と言ったほうが正しいのかもしれないね」
「現象……?」
「そう。現実に介入した概念という現象、そんなふうに言った人間もいる。そしてぼくを呼ぶのは、この世界を逸脱したものであり、均衡を崩すものだ。つまり」
――ぼくを呼んだのは、君ではないんだよ。
「望んだのは君で、望まれたのはぼく――それだけだよ」
ころころと話題が代わり、しかしあまりに流暢で、ついつい疑問を呈してしまう。
「……望んだ……?」
「そう。望むものと望まれるものは同時に存在する――ということさ」
「それは――どういう」
「君が殺されることを願った。そしてぼくが望まれるものだとしよう。死神なんてうわさ、いかにも殺してくれると思うだろう?」
――だから、主体である君が、客体であるはずのぼくを求める、そんな事実が生成されてしまった。
それはね、とファニー・マーダーは続ける。
「ぼくや君が、あるいはこの世の全体性が、同時的に動いているからこそ可能になる。けれど」
「けれど……?」
「ぼくは君を殺すつもりはない。だから、そんな奇妙な結果が生まれてしまった」
「するとぼくは、君に殺されるような人間にはなれない、ぼくひとりではこの世界の均衡を崩すに値しない、ということか」
「そういうことだね。君は数多いる観測者のひとりで、殺すほどの価値がないんだ。君の悩みひとつとっても、世界にはなにも影響を及ぼすことはない」
なんて、ちっぽけなのだろう。結局のところ、ぼくはこの先の未来においても、何者にもなれない、そう言われているのと同義だった。
「たとえば、ぼくが人殺しになれば」
「それでも大きな視点で見れば、世界は変わらない。歴史に名を残すこともなければ、後世に語り継がれることもない、一過性の犯罪者でしかない」
――君がなにをしたところで、ぼくは君を脅威だと判断することはないよ。
「本当に、救いがないな」
ぼくは、どう足掻いたところで、ニュースを少し賑わせて、やがて忘れられるだけの存在なのだと、思い知らされた。
ちりん、と持鈴が鳴った。
「だから――何者にもなれない君が君らしく生きるために、あるいは、君自身になるために、少し眠ると良いよ。ぼくのことなどは、すっかりと忘れてね」
ファニー・マーダーは、そんなこと言った。ささやくように。
「ファニー・マーダー……ッ!」
「久しぶりに話せた。こういうのも、案外、悪くないものだね――」
そしてぼくの鼓膜はそれを聞きながら、しかし視界は、ぼくの意識は、そこでぷつりと途切れた。
◇◆
――翌日。
「最近、家出が増えてるんだって」
「たしかファニー・マーダーのうわさだって話だよね」
「え? そうなの?」
「そうそう、八組の千藤さんが家出したってうわさだけどさ、あれ、本当はファニー・マーダーに殺されちゃったって、部活の先輩が言ってたよ」
「でもさあ、死の宣告アプリの可能性もあるんじゃない? 一年生の間でうわさになってるやつ」
「あ! それ知ってる! 誰かに行ったら余命のカウントダウンが始まるって」
「それがファニー・マーダーの仕業かもよ」
「ファニー・マーダーは、そんな殺し方しないよう」
「そもそも、そんなのがいたらニュースになるんじゃない? 警察も動くだろうし」
「政府に隠蔽されてるのよ。報道規制ってやつ」
「それこそ陰謀論じゃない?」
三時間目の休み時間。一年三組の教室では、きゃいきゃいと女子たちがうわさ話をしていた。それを聞き流しながら、ぼくは次の授業のために教科書とノートを取り出す。
昨日――ぼくは気が付いたら旧校舎の一階にある教室で机に突っ伏して眠ってしまっていた。
それほど疲れていた覚えもなかったが、ここ数日、中間試験のために予習をしていたつけが回ってきたのだろう。
自分でもその疲労に気付けないほどに、切羽詰まっていたということだろうか。
「ねえ、立花」
準備をしているところに声がかかって、ぼくは顔を上げた。
「どうしたんだよ」
髪をショートカットにした少女――新城結衣が後ろ手に、身体をかしげてこちらを見ていた。口元には、無邪気な微笑みを浮かべている。
「宿題なら見せないよ」
「違うってば。聞いた? 八組の千藤さんのうわさ」
「ああ、聞いてるけど」
「家出したんだって。連絡もつかないらしいよ」
家出くらい、珍しいことだろうか。家族の身からすれば、大変だろう。しかし、第三者が騒ぎ立てることでもないように思う。
それを言うと、新城はむすっとした表情になった。
「ただの家出じゃないとしたら?」
にんまりと笑みを浮かべるのを見て、さっきの女子たちのうわさ話が頭をよぎる。
「ファニー・マーダーだよ。きっとファニー・マーダーに殺されちゃったんだ」
「だからさ……都市伝説だろ、それ」
「でも学校中のうわさになってるよ。きっといるんだよ、そういう殺人鬼が」
新城は成績こそ良いものの、いかんせん好奇心が人並み以上に強いのが難点だった。すぐにうわさに飛びついては、不謹慎という言葉を置き去りに、話を膨らませる。
「なんの根拠があるんだよ」
「だって千藤さんで四人目なんだよ? この一ヶ月で四人も家出。それもみんな一年生。おかしいと思わない?」
「それなら、あっちでうわさしてたよ。話に混ざってきたらいいんじゃないか」
「うーん。お昼休みに、話してみたんだけどさ。なんか違ってるんだよね。わたしの考えるファニー・マーダーは、もっとこう、孤高というか」
「孤高?」
「そう。だから政府の闇、みたいな話には乗れないんだよね。ファニー・マーダーは孤高で、深い闇を持っていて、常に殺人衝動に駆られている……みたいな」
「それも尾ひれになるだろ。事実ベースで話さないと、結局はあいつらとそう変わらないと思うけどな」
「事実ベースって言っても、誰も見たことないんだよ?」
「だからうわさ、都市伝説なんだろ。それを喜んで語るほうが不健全だと思うけど」
「立花は堅いなあ。もっと砕けたほうが、友達も増えるよ?」
「悪いけど、必要以上の友達はいらないんだよ。気を遣うばかりで、疲れるだけだから」
ぼくは思ったことをそのまま言った。怒られるかもしれないと思ったが、そんな不安とは裏腹に、新城はにんまりと笑みを浮かべている。
「じゃあ、わたしは必要な友達ってこと?」
「小学校から一緒なんだ。今さら態度を変えるつもりはないよ」
短くため息をついて、教科書とノートをとんとんと揃える。新城は「腐れ縁ともいうけどね」と苦笑した。
「ま、そういう話がしたいなら、そういう話が好きなやつとしてくれよ。ぼくはうわさ話が好きじゃないんだ。知っているだろ」
「まあね。でも、どんな反応するかなあ、って思っちゃってさ――あ、御子柴さんだ」
言いかけたところで、教室にライトブラウンの、ブレザー制服の少女が入ってきた。
肩甲骨まである黒髪に、ぱっちりとした瞳が印象的な女子だった。性格は大人しく、目立つタイプではなく、しかしどこか近づきがたいオーラのようなものがある。
「ちょうど良いんじゃないか。チャイムまで時間があるし、このうわさ話くらいなら、聞いてくれるだろ」
ぼくは話したことはないが、人当たりが良いと人づてに聞いたことがある。だが、新城はううん、と首を傾げた。
「どうしたんだよ」
「実はね、わたし、御子柴さんが苦手なんだよね。なんというか、たまに話すことがあって、優しいんだけど……なにを考えているのか分からなくて。距離感があるっていうか」
「まあ、人付き合いが苦手なのかもしれないな」
「それだけなのかなあ……。なんか、誰と話しても本心じゃない気がするんだ。なんて言ったらいいのかな、こう言われたらこう返すのが普通、みたいな。テンプレートをなぞってるような」
「考えすぎだろ。昔からお前は好奇心が強すぎて、人間の心理の裏を探ろうとする悪いクセがある。そのままの御子柴と話せば、そんなバカげた偏見はなくなるんじゃないか」
そうかなあ、とあごに手をやる新城を見て、そういうものだよ、と答えた。
彼女は好奇心が強いだけじゃない。野生の勘とでもいうのか、そういったものが異常に鋭いのだ。
そのおかげで危険を回避したことが何度もあると、聞いたことがある。あくまで本人談であるから、真偽のほどは怪しいものだけれど。
だが、それが行き過ぎて、他者とのコミュニケーションの障壁となっていることは、昔から見ているぼくにも分かった。
そのまま受け取れば良いものを、勘ぐってしまうのだ。特に、あまり話さない相手には、それが顕著に出る。
御子柴も、少ないながらも話す相手はいるようだが、その中に新城が入っていないのは、そういう偏見があるからかもしれない。
「蓮実さんだ。学校来るの、珍しいね」
不意に、新城が廊下側へと視線を向ける。そこにはストレートの黒髪を肩まで伸ばし、ひざ上十五センチのミニスカート、シャツも第二ボタンまで開けている少女がいた。
「いいなあ、すらっとしてて。モデルみたいでカッコ良いよね。大人って感じ」
「ああ、人気があるって話は聞いてるよ」
すっと通った鼻に、薄い唇。切れ長の瞳は鋭く、すらりとした、スマートな体格は新城の言うようにモデルのようだ。
だが、御子柴とはまた違うタイプの、近付きがたい雰囲気を醸し出している。
蓮実 瑠香。一年二組――隣りのクラスで、不良として有名である。いつだって数学教師で生徒指導も兼ねている山北教諭と、怒鳴り合っているのが印象的だった。
しかしその荒れくれた性格とは裏腹に、その整った顔立ちで密かに男子からの人気がある。
一年生の間でも、二組の蓮実と一組の御子柴、そして八組の天塚は学年のトップ・スリーに入る美少女だと評していた。
凛として美しいのは蓮実で、儚げで可愛らしいのが御子柴、そしてお嬢さまのような、気品に溢れるのが天塚だと。
なんとも詩的な表現にぼくは同意しかねるが、人気があるのは本当なのだろう。
ただ共通しているのは、蓮実も御子柴もその点において、なにも感じていない様子であるということだ。煩わしいとも嬉しいとも感じていないように見える。
鼻にかけていない――とでも言えば良いのだろうか。いや、歯牙にもかけないといったほうが正しいのかもしれない。
しかし高校という密閉された空間で、独特なコミュニティが形成される狭い場所では、特筆すべき人間に票が入るのは、当然とも言える。
それがくだらないルッキズムであっても、だ。
規則に縛られたこの進学校で、窮屈な生活を送る思春期の生徒にとっては、その甘い話題に走るのもまた――自然なことだろう。
家出の話に恋愛話、不良生徒の言動。部活の話に愚痴の類。
生徒たちは当たり前という絶対的な檻の中で、その退屈を飼い慣らすために、センセーショナルな話題を常に渇望しているのかもしれない。
――まあ、どれもぼくには関係のない話だけど。
そのとき、四時間目を告げるチャイムが鳴った。
「新城、席に戻ったほうが良いよ」
「もっと話したかったのに」
彼女は唇を尖らせて、すごすごと廊下側の席へと戻っていく。
ぼくはノートを開いて、筆箱を取り出し、次の授業の準備をはじめた。
――ファニー・マーダー、ねえ。
そんな都市伝説を真に受けるほど、ぼくは純粋にはなれなかった。
だが、仮にそんな存在がいるとするなら、どんな人間なのだろう。
そんなことを思うと同時に、真に受けている自分に気付き、なんてバカバカしいものだろうと、内心で自省した。
ぼくは、ただの人間で、社会の傍観者に過ぎないのだ。
いちいち奇妙なうわさに左右されるわけにはいかなかった。
だが、そこまで考えたところで、じんじんと、頭痛が走って、こめかみを押さえて、顔をしかめる。
ちりん、という季節外れの涼やかな音が耳鳴りのように聞こえた――気がした。




