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第三話 紅い灯は、誰のために燃える。

一九一九年、六月。上海(シャンハイ)。


紅月楼(ホンユエロウ)の女主人、秦月華(チン・ユエホワ)は、火を嫌うようになっていた。


正確には、消える火が嫌いだった。

陸承遠(ルー・チョンユエン)が帰らなくなってから、帳場の灯籠だけは夜明けまでともしている。

灯が消えれば、あの方向音痴が帰る場所を見失う気がした。


「月華姐(ユエホワジエ)(月華姉さん)、また学生さんが紙を借りに来てるわ」


蘇雪蓮(スー・シュエリエン)が呆れ顔で告げた。


「うちは紙屋じゃないよ!」


「そう言いながら、もう用意してるじゃない」


月華は手元の紙束を見下ろし、舌打ちした。


廊下では唐映秋(タン・インチウ)が笑っていた。阿梨(アーリー)の名で客を迎える、口の達者な娘。


「月華姐って、本当に素直じゃないのね」


「誰に似たんだろうねえ」


「育ての親かしら」


「返品するよ」


「十年も経ってから?」


映秋が得意げに笑うと、髪に挿した小さな白い花が揺れた。

贈り主は方予澄(ファン・ユーチョン)。字の汚さだけなら革命を起こせそうな、貧乏学生だった。


月華はその花を見るたび、胸の奥がざわついた。


恋を知った女は、明日の話をする。

そして明日というものは、驚くほど簡単に人を裏切る。


*


六月五日。

北京(ベイジン)に始まった五四運動は上海にも広がり、学生たちの抗議に商人や労働者が加わった。

山東(シャントン)の権益をめぐる講和会議の決定に反発し、街では店が閉まり、仕事が止まっていた。


紅月楼にも、予澄の仲間が配る声明文が持ち込まれていた。


「こんなものを置いて、役人に踏み込まれたらどうするんだい」


月華は紙束を睨んだ。


「隠しておけば大丈夫よ」


映秋が答える。


「大丈夫って言葉ほど信用ならないものはないね」


「月華姐、昔からそんなに臆病だった?」


胸を刺されたようだった。


「……あんたたちを食わせていくには、臆病なくらいがちょうどいいのさ」


映秋はしばらく黙り、それから柔らかく笑った。


「でも私、初めて明日が楽しみなの」


月華は白い花飾りを見つめた。


「……そうかい」


その笑顔を守りたいと思った。

だから、声明文を燃やすことにした。


誰にも見つからないうちに。誰も捕まらないうちに。


それが、取り返しのつかない間違いになるとも知らずに。


*


夕刻。

物置で紙に移した火が、傍らの布へ燃え移った。


月華が慌てて踏み消そうとしたときには、乾いた木箱にも炎が走っていた。


「誰か! 水を!」


叫び声が廊下を裂く。

煙が階段を這い上がり、紅い灯籠が不気味に揺れた。


「みんな、外へ出な!」


雪蓮が若い娘たちを誘導し、柳清音(リウ・チンイン)は客の腕を掴んで裏口へ押し出した。

外では程懐安(チョン・ホワイアン)が梯子を運んでいる。


「清音! お前も早く!」


「分かってる!」


その声に振り返った瞬間、月華は小蘭(シャオラン)がいないことに気づいた。


「小蘭はどこだい!」


「奥の部屋に……!」


誰かが答え終えるより早く、映秋が走り出した。


「映秋、待ちな!」


白い花が煙の向こうへ消えた。

月華は追いかけた。熱に灼かれた喉が悲鳴を上げる。

それでも、あの娘を連れ戻さなければならなかった。


十年前、痩せた小さな手を引いて紅月楼へ迎え入れた日のことを思い出す。


あの子は一度も泣かなかった。

泣かない代わりに、ひどく生意気な口を利いた。


――月華姐、ここでは笑えばお金になるの?


あの問いに、何と答えたのだったか。


「映秋!」


奥から小蘭の泣き声がした。

やがて、煙の中から小さな身体が押し出される。


「月華姐……! 映秋姐(インチウジエ)(映秋姉さん)が……!」


月華が駆け寄ろうとした瞬間、頭上で梁が軋んだ。

凄まじい音とともに天井が崩れ、炎が廊下を塞いだ。


白い花は、戻らなかった。


*


火が収まる頃、予澄が駆けつけた。

丸眼鏡は汗で曇り、擦り切れた学生服の裾には泥が跳ねていた。


「映秋は?」


月華は答えられなかった。


「月華さん。映秋は、どこですか」


青年の視線が、焼け落ちた建物へ向く。


「……まさか」


彼が走り出す。

懐安が背後から抱き止めた。


「離してください!」


「もう入れない!」


「まだ、あの人が……!」


予澄の声が崩れた。

月華はその場に膝をついた。


守りたかった。


娘たちの居場所を。明日を。承遠が帰るはずだった、この紅い灯の下を。

そのために燃やした紙が、映秋の未来を奪った。


「……私が」


雪蓮が振り返る。


「月華姐……?」


「私が、火を……」


言葉は最後まで続かなかった。


雪蓮は何も言わず、小蘭を抱き締め直した。

その沈黙が、どんな叱責よりも重かった。


*


夜更け、焼け残った帳場から懐中時計が見つかった。

煤に汚れた裏蓋には、まだ文字が残っている。


『帰る場所』


月華が蓋を開くと、針は止まっていた。


承遠が海を渡ってからも、死んだと知らされた夜も、休まず時を刻み続けた時計だった。


「……承遠」


月華は黒くなった文字を撫でた。


「あんたが帰ってくる場所を、守りたかったんだよ」


誰もいない帳場には、二つの茶碗が残っていた。

一つは割れ、もう一つは煤を被っている。


「……なのに、あの子の帰る場所まで、なくしちまった」


窓の外では、国の未来を求める人々の声が続いていた。


月華は時計を胸に抱き、声を上げて泣いた。

あの日、男の帰りを待つためにともした灯が、今夜は一人の娘を奪った。


――紅月楼の灯は、まだ消えていない。


けれど月華には、もう何のためにともしているのか、分からなかった。


――第三話・了――


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