第二話 女たちは、帰らない男を待っている。
一九一八年、十一月。上海。
戦争が終わった日、紅月楼では、一人の女が死んだ。
欧州で休戦協定が結ばれた十一月十一日。遠い戦場の砲声がようやく止んだ頃、玉蘭の名で知られた林知微は、二度と朝を迎えられなくなった。
その知らせを聞いた秦月華は、帳場の算盤を置き、しばらく黙っていた。
「……あの子、最後まで私の計算間違いを笑ってたね」
蘇雪蓮が俯く。
「月華姐(月華姉さん)。今は、そんな話……」
「そうでも言わなきゃ、あの子が怒るだろう。湿っぽいのは嫌いな娘だったからね」
笑ってみせた唇が、ひどく不格好だった。
街には戦争の終結を喜ぶ声があった。けれど紅月楼の二階では、誰も祝杯を上げなかった。
世界が平和になったというのに、たった一人の命さえ引き留められない。
月華には、それが腹立たしかった。
*
陸承遠が海を渡ってから、一年以上が過ぎていた。
届いた手紙は七通。
海の広さ、異国の寒さ、労働者たちの暮らし。
フランスの村で見つけた花や、故郷の茶の味。
几帳面な筆跡で綴られる文章は、まるで帳簿の報告書だった。
ただし、七通目だけは違った。
『帰ったら、あなたと朝食を食べたい。』
月華はその一行を、何度も読み返していた。
女を口説くには、あまりにも色気がない。
「……せめて月が綺麗だとか、言えないのかねえ」
そう文句を言いながら、手紙の折り目が擦り切れるほど開いてしまう。
彼が置いていった懐中時計は、今も帳場の引き出しにあった。
裏蓋に刻まれた『帰る場所』の四文字。
針の音を聞くたび、あの夜の唇の温度を思い出す。髪をほどく不器用な指も、抱き締める腕の慎重さも。
誰かを待つことが、これほど身体に残るものだとは知らなかった。
「月華姐、また時計を見てる」
雪蓮が茶を運んできた。
「時間を確かめてるだけさ」
「この部屋、壁にも時計があるわ」
「……あんたも知微に似てきたね」
雪蓮は小さく笑い、月華の前に茶碗を二つ置いた。
「一つ余計だよ」
「だって、いつも二人分のお茶を淹れてるでしょう?」
月華は返事をしなかった。
*
十一月も半ばを過ぎた頃、柳清音が紅月楼を訪れた。
芝居の帰りらしく、目元にはまだ薄く紅が残っている。その後ろには、無骨な大工の程懐安が控えていた。
「月華姐、お菓子を少しいただけますか」
「客でもないのに図々しいね」
「懐安が甘いものを食べたいそうで」
「俺は言ってない」
「ほら、照れてる」
「照れてない」
月華は鼻で笑い、菓子の皿を差し出した。
「恋人のせいにするなら、もう少し上手におやり」
清音が目を丸くし、懐安が耳まで赤くなる。
久しぶりに、帳場に笑い声が戻った。
その夜、月華は思った。
人は誰かを愛することで、こんなにも無防備になる。
それなのに、どうして愛することをやめられないのだろう。
*
十二月。
八通目の手紙が届いた。
封筒の文字を見た瞬間、月華は眉をひそめた。
承遠の字ではなかった。
彼の筆跡は、細く整っていて、少し右へ傾く。
どんなに短い便りでも、宛名の「月」の字だけは丁寧に書く男だった。
目の前の封筒には、その癖がない。
嫌な予感がした。
開封すると、フランスで共に働いていた同僚からの知らせが記されていた。
承遠は十月末、流行性感冒に罹った。
熱が下がらず、現地の病院で息を引き取ったという。
休戦の日を迎えることもなく。
『最期に、上海の秦月華さんへ伝えてほしいと頼まれました。帰れなくなってしまった、と。』
月華は何度もその一文を読んだ。
帰れなくなった。
死んだ、とは書いていない。
ならば、まだどこかにいるのではないか。
あの男は数字には強かったが、道には弱かった。
初めて紅月楼を訪れた日など、裏口を探して隣の米屋に入ってしまったくらいだ。
「……馬鹿だねえ」
笑おうとすると、喉が引き攣った。
「帰る場所まで、間違えたのかい」
返事はない。
月華は懐中時計を取り出した。
針は動いている。
承遠がいなくなっても、何も知らない顔で時を刻み続けている。
「……あんた、約束じゃなくて希望にするって言ったね」
あの夜、彼は確かにそう言った。
叶わなくても、待つ義務で縛らずに済むように。
なんて残酷な優しさだろう。
待たなくていいと言われた女が、待つのをやめられると思っていたのか。
月華は時計を握り締め、初めて声を殺して泣いた。
*
翌朝。
小蘭が帳場を覗くと、月華はいつもどおり算盤を弾いていた。
「月華姐、おはよう」
「おはよう。昨日の売上は?」
「ええと……」
「まったく、数字くらい覚えな!」
叱る声も、紅を引いた唇も、昨日までと変わらない。
ただ、帳場には茶碗が二つ並んでいた。
一つは月華のもの。
もう一つは、誰も口をつけないまま冷めている。
小蘭が片づけようとすると、月華は静かに首を振った。
「……置いておおき」
「でも、冷めちゃうよ?」
「いいんだよ」
月華は窓の外を見た。
紅い灯籠が、冬の風に揺れている。
「帰ってきたら、温め直してやればいいんだから」
引き出しの中では、懐中時計が時を刻んでいた。
帰る場所を失った男の時計が、帰らない男を待つ女のそばで。
――第二話・了――




