第一話 戦争が終わったら、迎えに来て。
一九一七年、八月。上海。
秦月華は、男の約束を三種類に分類していた。
守れない約束。守る気のない約束。そして、守れると信じて口にするからこそ、いちばん始末の悪い約束。
「戦争が終わったら迎えに来る、ですって? そんな台詞で女が喜ぶと思ってるなら、世の男はずいぶん幸せな頭をしてるね」
紅月楼の帳場で、月華は客の残した手紙を摘み上げた。
三十代も半ばを過ぎ、幾人もの娘を育ててきた女主人である。紅を引いた唇は辛辣で、算盤を弾く指には迷いがない。
「月華姐(月華姉さん)、また男の悪口?」
蘇雪蓮が笑いながら顔を出した。
「悪口じゃないよ。長年の研究成果さ」
「研究対象が多すぎるものね」
「おかげで博士号が取れそうだよ」
「その前に帳簿を直してください。銀貨が三枚足りません」
割って入ったのは、玉蘭の名で客を取る林知微だった。
「客の心遣いだろう」
「それを世間では計算間違いと言います」
月華が算盤を持ち上げると、知微は慣れた様子で身を引いた。
紅い灯籠の下に笑い声が広がる。
その日、中国はドイツとオーストリア=ハンガリーに宣戦を布告した。
遠い欧州の戦争が、とうとう自分たちの国の戦争になったのだ。
もっとも、楼の娘たちにとっては、明日の米の値段のほうがよほど重大だった。
そんな夕暮れ、一人の男が帳場を訪れた。
陸承遠、三十二歳。
港で通訳と事務を務め、欧州へ渡る中国人労働者の書類を扱っているという。
洗いざらした長衫(男性用の長衣)に、端正だが愛想の乏しい顔。妓楼には似つかわしくないほど生真面目な男だった。
「帳簿を拝見できますか」
「……女を買いに来たんじゃないのかい」
「違います」
「酒は?」
「仕事中ですので」
「帰っておくれ。うちは慈善団体じゃない」
「銀貨三枚分の誤記なら、すぐに直せます」
月華は目を細めた。
「……お茶を出しな。上等なやつを」
奥で知微が吹き出した。
承遠は、以前この楼と取引していた商人の未精算分を調べに来たのだった。
輸送事情が変わり、古い帳簿の照合が必要になったという。
彼の仕事は正確だった。字は美しく、数字に強く、何より相手の話を遮らない。
三日で月華は彼を気に入り、五日で警戒し、十日目には来訪時刻に合わせて茶を淹れるようになった。
「女主人が、客でもない男を待つなんて」
知微が帳簿越しに呟く。
「黙っておいで」
「私、何も言ってません」
「顔に書いてあるよ」
「月華姐ほどじゃありません」
今度こそ算盤が飛んだ。
*
八月も終わりに近づいた夜、承遠は欧州へ渡ることを告げた。
中国人労働者の渡航に同行し、現地で通訳を務めるのだという。中国が参戦する以前から、連合国側では中国人労働者が後方作業を担っていた。
「戦場に近いんだろう?」
「配属先によります」
「つまり危ないんじゃないか」
「月華さんは結論が早いですね」
「商売人だからね。損をする前に見切りをつける」
承遠は少し考え、彼女の手を取った。
「では、僕は損な買い物ですか」
その指は、意外なほど温かかった。
月華は数えきれない男に触れてきた。けれど、算盤で硬くなった指先を、労わるように撫でられたことはなかった。
「……あんたは商品じゃないだろう」
「よかった。値札を付けられるところでした」
「付けるなら高いよ」
「払えるように働きます」
冗談の下にある真剣さが、ひどく腹立たしかった。
その夜、二人は帳場の奥で初めて口づけた。
月華が襟元を引き寄せると、承遠は驚いたように息を止め、それから彼女の腰を抱いた。薄い衣越しに伝わる体温が、いつもは商売の場である部屋を、誰にも渡したくない場所へ変えてしまう。
「……月華さん」
「何だい」
「もう一度、いいですか」
「いちいち許可を取る男があるかい」
彼は微笑み、今度は自分から唇を重ねた。
灯が揺れ、月華の髪から簪が一本抜け落ちる。承遠はそれを拾って丁寧に置き、ほどけた髪へ指を通した。
その慎重さが、たまらなく愛しかった。
「戦争が終わったら――」
「言うんじゃないよ」
月華は彼の唇を塞いだ。
「男の約束は嫌いなんだ」
承遠は黙って頷いた。
「では、約束ではなく、希望にします」
「何が違うのさ」
「叶わなくても、あなたを待つ義務で縛らずに済みます」
月華は笑えなかった。
そんな優しさを知ってしまったら、もう二度と男の約束を笑えなくなる。
「……帰ってきたら、朝飯くらい食わせてやるよ」
「では、僕が作ります」
「料理ができるのかい」
「帳簿よりは不得意です」
「それ、食べ物になるのかい?」
二人は笑った。
まだ、笑っていられた。
*
出立の朝、月華は港へ行かなかった。
代わりに帳場で、承遠の置いていった古い懐中時計を握っていた。
昨夜、彼が預けていったものだ。
「帰国したら返してください」と、まるで明日また帳簿を直しに来るような顔で。
裏蓋には、小さな文字が刻まれていた。
『帰る場所』
月華は指先で文字をなぞった。
時計は規則正しく時を刻んでいる。
男が海を越えても、戦争が続いても、止まることなく。
「……馬鹿な男だね」
誰もいない帳場で呟いた。
帰る場所など、最初から持たないほうが幸せな人間もいる。
それなのに、あの男は自分を、帰る場所にしてしまった。
窓の外では、紅い灯籠が朝風に揺れていた。
月華は時計を引き出しにしまい、いつものように算盤を手に取った。
一度だけ、涙が帳簿に落ちた。
その染みを拭わないまま、彼女は仕事を始めた。
――第一話・了――




