↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/4

第四話 紅月楼に、春は来ない。それでも。

一九二〇年、四月。上海(シャンハイ)。


紅月楼(ホンユエロウ)を閉めると告げた朝、秦月華(チン・ユエホワ)は、人生で初めて算盤の音を恐ろしいと思った。


珠を一つ動かすたび、誰かの人生に値段をつけている気がした。


「……月華姐(ユエホワジエ)(月華姉さん)、本気なの?」


蘇雪蓮(スー・シュエリエン)が尋ねる。


「冗談で妓楼を畳む女がいるかい」


「月華姐なら、たまに」


「私はどんな女だと思われてるんだろうねえ」


いつもの軽口に、雪蓮は笑わなかった。


一九一九年六月の火災から、十か月。

焼けた建物は修繕され、紅い灯籠も新しくなった。けれど、そこにいた人々は戻らなかった。


玉蘭(ユーラン)と呼ばれた林知微(リン・ジーウェイ)。

阿梨(アーリー)と呼ばれた唐映秋(タン・インチウ)。

雪蓮が愛した軍人、沈景淮(シェン・ジンホワイ)。


そして今、柳清音(リウ・チンイン)が病床に伏していた。


「……あの子に会ってくるよ」


月華は帳場を立った。


*


清音の部屋には、春の光が差していた。


寝台の傍らでは、程懐安(チョン・ホワイアン)が木片を削っている。


「また舞台でも作るのかい」


「小さな箱です」


「何を入れるんだい」


「……あいつが、大事にしてるものを」


月華はそれ以上聞かなかった。


清音は枕元で微笑んだ。頬は痩せ、かつて舞台を支配した声も、今は囁くように細い。


「月華姐。お化粧、ひどいですよ」


「病人が生意気を言うんじゃないよ」


「目元が疲れてる」


「誰のせいだと思ってる」


清音が笑うと、懐安が慌てて背を支えた。

その手つきが、あまりに優しかった。


月華は思い出した。


かつて陸承遠(ルー・チョンユエン)が、自分の指先に触れた夜を。

人は愛する相手に触れるとき、こんなにも慎重になる。


「……懐安」


「はい」


「この子がわがままを言ったら、聞いておやり」


「いつも聞いてます」


「聞いてない」


清音が抗議すると、月華は声を上げて笑った。


それが、彼に聞かせた最後の笑い声になった。


清音は、その春に息を引き取った。

懐安は、最後まで手を離さなかった。


*


閉楼の準備は、思いのほか静かに進んだ。


建物を売り、借金を清算し、娘たちが新しい暮らしを始められるよう、残った金を分けた。


小蘭(シャオラン)は封筒を受け取り、困った顔をした。


「月華姐、私、どこへ行けばいいの」


「どこへでも行きな」


「でも、私、何もできない」


「字が読める。計算もできる。十分じゃないか」


「計算は苦手……」


「そこは否定しないのかい!」


小蘭は泣きながら笑った。

月華はその頭を撫でる。


「学校へ行きな。映秋が言ってただろう。女だって学んでいいんだって」


小蘭は何度も頷いた。


あの火事の日、映秋が守った命だった。

その命が、今度は自分の足で歩いていく。


月華はようやく、あの娘に少しだけ顔向けできる気がした。


*


閉楼前夜。


方予澄(ファン・ユーチョン)が訪ねてきた。

丸眼鏡の奥の目は、以前より大人びていた。


「……映秋に会いに来たのかい」


「はい」


月華は二つの茶碗を並べた。


一つは青年に。

もう一つは、誰も座らない椅子の前へ。


「……あの子は、あんたを待ってたよ」


予澄は静かに頷いた。


「知っています」


「明日が楽しみだって、笑ってた」


「……はい」


月華は膝の上で手を握り締めた。


「私が、あの子を殺したようなものだ」


長い沈黙が落ちた。

やがて予澄が答える。


「僕は、あなたを許せるか分かりません」


「……そうだろうね」


「でも、映秋がここで笑っていた時間まで、不幸だったことにはしたくないんです」


月華は顔を上げた。


「だから、あなたにも生きていてほしい」


それは赦しではなかった。


罰よりも重い、願いだった。


*


翌朝、紅月楼の灯籠が下ろされた。


月華は一つだけ、古い灯籠を残した。

承遠が初めて訪れた夜、帳場の前に掛かっていたものだった。


港へ向かう道すがら、月華は懐中時計を取り出す。

火事の日に止まった針は、あれから一度も動いていない。


裏蓋には、煤に汚れた文字が残っていた。


『帰る場所』


「……あんたが帰ってこないから、私まで帰る場所をなくしちまったよ」


潮風が頬を撫でた。

月華は思い出す。


――帰ったら、あなたと朝食を食べたい。


たった一行の手紙。


あの男は最後まで、月が綺麗だとも、永遠に愛しているとも書かなかった。


ただ、一緒に朝を迎えたかったのだ。

月華は懐中時計を胸に押し当てた。


「……私もだよ、承遠」


それだけだった。

たったそれだけの願いを、戦争は叶えてくれなかった。


*


その後、秦月華がどこへ行ったのか、正確に知る者はいない。


港町で茶館を開いたという噂もあれば、遠い土地へ旅立ったという話もあった。


ただ、一九二〇年の春を最後に、紅月楼の灯がともることはなかった。


やがて建物には別の看板が掛けられ、紅い灯籠の跡も消えた。


それでも、時折そこを訪ねる者がいた。


作家の顧言舟(グー・イェンジョウ)。

大工の程懐安。

かつて学生だった方予澄。


そして、もう誰も待たないはずの窓を、見上げる女が一人。


雪蓮だった。


彼女は胸元から、小さな古い簪を取り出す。

月華がかつて、髪に挿し直してくれたものだった。


「……月華姐」


呼んでも、返事はない。


春風が吹いた。

紅い灯籠のない軒先を、光だけが通り過ぎていく。


戦争は終わった。

時代は変わり、人々は明日を語り始めた。


けれど、あの楼で交わされた約束も、叶わなかった恋も、誰かの帰りを待ち続けた夜も、歴史の教科書には一行だって残らない。


それでも確かに、あの場所で人々は愛し合った。


笑い、喧嘩をし、くだらない冗談を言い、明日こそは幸せになれると信じていた。


――紅月楼に、春は来なかった。


けれど、そこに生きた人々の心には、確かに春を待った日々があった。


――『紅月楼に、最後の灯を。』完――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。