第四話 紅月楼に、春は来ない。それでも。
一九二〇年、四月。上海。
紅月楼を閉めると告げた朝、秦月華は、人生で初めて算盤の音を恐ろしいと思った。
珠を一つ動かすたび、誰かの人生に値段をつけている気がした。
「……月華姐(月華姉さん)、本気なの?」
蘇雪蓮が尋ねる。
「冗談で妓楼を畳む女がいるかい」
「月華姐なら、たまに」
「私はどんな女だと思われてるんだろうねえ」
いつもの軽口に、雪蓮は笑わなかった。
一九一九年六月の火災から、十か月。
焼けた建物は修繕され、紅い灯籠も新しくなった。けれど、そこにいた人々は戻らなかった。
玉蘭と呼ばれた林知微。
阿梨と呼ばれた唐映秋。
雪蓮が愛した軍人、沈景淮。
そして今、柳清音が病床に伏していた。
「……あの子に会ってくるよ」
月華は帳場を立った。
*
清音の部屋には、春の光が差していた。
寝台の傍らでは、程懐安が木片を削っている。
「また舞台でも作るのかい」
「小さな箱です」
「何を入れるんだい」
「……あいつが、大事にしてるものを」
月華はそれ以上聞かなかった。
清音は枕元で微笑んだ。頬は痩せ、かつて舞台を支配した声も、今は囁くように細い。
「月華姐。お化粧、ひどいですよ」
「病人が生意気を言うんじゃないよ」
「目元が疲れてる」
「誰のせいだと思ってる」
清音が笑うと、懐安が慌てて背を支えた。
その手つきが、あまりに優しかった。
月華は思い出した。
かつて陸承遠が、自分の指先に触れた夜を。
人は愛する相手に触れるとき、こんなにも慎重になる。
「……懐安」
「はい」
「この子がわがままを言ったら、聞いておやり」
「いつも聞いてます」
「聞いてない」
清音が抗議すると、月華は声を上げて笑った。
それが、彼に聞かせた最後の笑い声になった。
清音は、その春に息を引き取った。
懐安は、最後まで手を離さなかった。
*
閉楼の準備は、思いのほか静かに進んだ。
建物を売り、借金を清算し、娘たちが新しい暮らしを始められるよう、残った金を分けた。
小蘭は封筒を受け取り、困った顔をした。
「月華姐、私、どこへ行けばいいの」
「どこへでも行きな」
「でも、私、何もできない」
「字が読める。計算もできる。十分じゃないか」
「計算は苦手……」
「そこは否定しないのかい!」
小蘭は泣きながら笑った。
月華はその頭を撫でる。
「学校へ行きな。映秋が言ってただろう。女だって学んでいいんだって」
小蘭は何度も頷いた。
あの火事の日、映秋が守った命だった。
その命が、今度は自分の足で歩いていく。
月華はようやく、あの娘に少しだけ顔向けできる気がした。
*
閉楼前夜。
方予澄が訪ねてきた。
丸眼鏡の奥の目は、以前より大人びていた。
「……映秋に会いに来たのかい」
「はい」
月華は二つの茶碗を並べた。
一つは青年に。
もう一つは、誰も座らない椅子の前へ。
「……あの子は、あんたを待ってたよ」
予澄は静かに頷いた。
「知っています」
「明日が楽しみだって、笑ってた」
「……はい」
月華は膝の上で手を握り締めた。
「私が、あの子を殺したようなものだ」
長い沈黙が落ちた。
やがて予澄が答える。
「僕は、あなたを許せるか分かりません」
「……そうだろうね」
「でも、映秋がここで笑っていた時間まで、不幸だったことにはしたくないんです」
月華は顔を上げた。
「だから、あなたにも生きていてほしい」
それは赦しではなかった。
罰よりも重い、願いだった。
*
翌朝、紅月楼の灯籠が下ろされた。
月華は一つだけ、古い灯籠を残した。
承遠が初めて訪れた夜、帳場の前に掛かっていたものだった。
港へ向かう道すがら、月華は懐中時計を取り出す。
火事の日に止まった針は、あれから一度も動いていない。
裏蓋には、煤に汚れた文字が残っていた。
『帰る場所』
「……あんたが帰ってこないから、私まで帰る場所をなくしちまったよ」
潮風が頬を撫でた。
月華は思い出す。
――帰ったら、あなたと朝食を食べたい。
たった一行の手紙。
あの男は最後まで、月が綺麗だとも、永遠に愛しているとも書かなかった。
ただ、一緒に朝を迎えたかったのだ。
月華は懐中時計を胸に押し当てた。
「……私もだよ、承遠」
それだけだった。
たったそれだけの願いを、戦争は叶えてくれなかった。
*
その後、秦月華がどこへ行ったのか、正確に知る者はいない。
港町で茶館を開いたという噂もあれば、遠い土地へ旅立ったという話もあった。
ただ、一九二〇年の春を最後に、紅月楼の灯がともることはなかった。
やがて建物には別の看板が掛けられ、紅い灯籠の跡も消えた。
それでも、時折そこを訪ねる者がいた。
作家の顧言舟。
大工の程懐安。
かつて学生だった方予澄。
そして、もう誰も待たないはずの窓を、見上げる女が一人。
雪蓮だった。
彼女は胸元から、小さな古い簪を取り出す。
月華がかつて、髪に挿し直してくれたものだった。
「……月華姐」
呼んでも、返事はない。
春風が吹いた。
紅い灯籠のない軒先を、光だけが通り過ぎていく。
戦争は終わった。
時代は変わり、人々は明日を語り始めた。
けれど、あの楼で交わされた約束も、叶わなかった恋も、誰かの帰りを待ち続けた夜も、歴史の教科書には一行だって残らない。
それでも確かに、あの場所で人々は愛し合った。
笑い、喧嘩をし、くだらない冗談を言い、明日こそは幸せになれると信じていた。
――紅月楼に、春は来なかった。
けれど、そこに生きた人々の心には、確かに春を待った日々があった。
――『紅月楼に、最後の灯を。』完――




