間章 大正七年十一月
欧州大戦の終結は、世界を歓喜の渦へと巻き込んだ。
長く続いた戦争が終わった。
街には祝杯が掲げられ、新聞は平和の到来を大書し、人々は新しい時代の訪れを疑わなかった。
だが――。
その歓声の陰で、静かに潰えていく者たちもいた。
青年もまた、その一人だった。
休戦の報が届くや否や、綿糸相場は崩れた。
戦時中、天井知らずに膨らみ続けていた造船需要も急速に冷え込み、昨日まで机の上へ山のように積み上がっていた欧州向けの注文書は、まるで最初から存在しなかったかのように途絶えた。
商会の帳簿を埋める数字は、日に日に禍々しい赤へと染まっていく。
青年は執務机へ両肘をつき、苦々しく額を押さえた。
(……終わった)
その一言しか、浮かばなかった。
屋敷を担保にして引き出した資金も、すでに底をつきかけている。
これまで愛想よく頭を下げてきた銀行員たちも態度を一変させ、追加融資など望むべくもなかった。
取引先からは支払いの催促。
倉庫には売れ残った商品。
社員の給金。
船会社への未払い。
目を逸らしたところで、数字は消えてはくれない。
商会を背負って立つには、自分はあまりにも無力だった。
――自分には商才がある。
そう信じていた。
若くして商会を拡大し、欧州との取引を伸ばし、戦時景気の波へ巧みに乗ったつもりでいた。
だが今となっては、それすらひどく滑稽に思えた。
自分の才覚で成功したのではない。
時代そのものが狂乱していただけだ。
その狂騒の中で、誰よりもうまく踊れているつもりになっていたにすぎない。
突きつけられた現実は、青年の矜持を容赦なく打ち砕いた。
藁にもすがる思いで門を叩いたのは、護法院伯爵邸だった。
困窮する華族や旧家に手を差し伸べる人物として、護法院伯爵の名は広く知られていたからだ。
青年は恥を忍び、事情をすべて打ち明けた。
商会の負債、担保に入った屋敷、焦げついた取引、再建のために必要な資金。
そして、自分にはまだ立て直せる見込みがあるのだと、必死に訴えた。
しかし、護法院伯爵が示した答えは、青年の期待とはまるで違っていた。
『商会は整理しなさい』
穏やかな声だった。
『まだ傷が浅いうちに、不採算の事業を手放すべきです』
『手元に残る不動産と資産を守り、まず身代を立て直すのです』
『若いのです。今なら、いくらでもやり直せる』
冷酷な言葉ではなかった。
むしろ、反論の余地すらないほど、現実的で正しい助言だった。
青年自身、それが最善であることを理解していた。
だからこそ…呑み込めなかった。
商会を手放す。
その言葉は、ただ会社を畳むという意味ではない。
青年にとって商会は、自分そのものだった。
父祖から受け継いだ家名だけではない。
実業家として認められたこと、若くして成功したと持て囃されたこと。
周囲の者が自分を見る目、自分自身が信じてきた価値。
それらすべてが、商会という形に結びついていた。
それを失えば、自分には、何が残るというのか。
『商会は整理しなさい』
あの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
道理ではある。
正しい、だが、青年の耳には、こう聞こえていた。
実業家としての死刑宣告。
それと、何が違うというのか。
*
その夜。
青年は自邸の地下倉庫にいた。
灯りは一つだけ。
煤けた電灯の淡い光が、積み上げられた木箱や家具、彫像の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
倉庫を埋め尽くしているのは、欧州各地から買い集めた骨董品だった。
絵画。銀器。古書。宗教画。武具。調度品。
異国の貴族家から流出したという品々。
狂乱の景気に沸いていた頃。
いずれ価値が上がる、必ず富裕層へ売れる。
そう信じて、次々と買い漁った。
いまや、その一つ一つが己の愚かさと虚栄を嘲笑う、不快な墓標にしか見えなかった。
「……くだらない」
青年は吐き捨てるように呟いた。
幾ら使った、何のために?
こんな物を集めて何を証明したかったか?
成功者であることか、趣味人であることか。
欧州文化にも通じた、新時代の実業家であることか。
どれも、いまの自分には空虚な見栄にしか思えなかった。
視線を彷徨わせる。
その時だった、棚の片隅。
他の品々に半ば隠れるように、一つの小さな化粧箱が置かれていることに気づいた。
青年の目が止まる。
黒檀の箱。
掌より少し大きい程度。
表面には細やかな銀細工が施されている。
植物の蔓にも見える。
あるいは、何かの血管にも。
(これは……)
どこで手に入れたものだったか。
すぐには思い出せなかった。
青年は棚へ近づく。
数秒。
箱を見つめる。
妙だった。
他にも、もっと高価な品はある。
もっと豪華な品も、もっと奇怪な品すらある。
なのに…なぜか。
その箱から目を離すことができなかった。
胸の奥が僅かにざわつく。
やがて、記憶の底から一つの情景が浮かんだ。
東欧、没落した貴族家。
当主が借金を重ね、古い館ごと家財を手放したという話だった。
青年は現地の仲介人を通じ、館内に残されていた骨董品をまとめて買い取った。
その時。
荷の片隅へ紛れ込んでいた品の一つ。
確か、それがこの箱だった。
買い付け帳にも、まともな記録は残していなかったはずだ。
価値のない小物、当時は、そう判断した。
なのに今…
青年の指は、何かに導かれるように箱へ伸びていた。
触れる。
ひやりと冷たい。
地下室の空気よりも…
青年は思わず指を離しかけた。
だが、離せなかった。
呼吸が、少し浅くなる。
「……」
自分でも理由が分からぬまま、青年は箱を作業台へ置いた。
銀細工の留め金へ指を掛ける。
ほんの一瞬だけ躊躇した。
開けるべきではない。
そんな考えが、頭のどこかを掠めた。
根拠など何もない。
ただ、妙にそう思った。
けれど、次の瞬間には青年の指が留め金を外していた。
――カチリ。
静謐な地下室に、小さな音が響く。
蓋を開く。
中には、幾本ものクリスタル瓶が、深紅の布地へ整然と収められていた。
細身の瓶。
丸い瓶。
長い首を持つ瓶。
古い調香師の道具箱のようにも見える。
瓶には、それぞれ黄ばんだ紙片が貼られていた。
いずれも。
ラテン語。
青年は眉を寄せる。
大学時代に学んだ程度の知識しかない。
だが、全く読めないわけではなかった。
一つ、また一つ。
指先で文字を辿っていく。
薬草。樹脂。香油。
そうしたものを示しているらしい。
そして。
箱の一番奥。
一本だけ。
他とは明らかに違う瓶があった。
青年の手が止まる。
透明なクリスタル、その内部に満たされているのは、黒みを帯びた…深い、深い紅、赤というより夜の底へ沈んだ血の色。
光を受けて輝くことすらない。
むしろ。
周囲の光を吸い込んでいるように見えた。
青年は息をすることさえ忘れていた。
ただ、その液体を見つめている。
妙な錯覚がした。
瓶の中で、何かがこちらを見ている。
そんなはずはない、ただの液体だ。
分かっている。
なのに視線を逸らせない。
青年は震える指で瓶を取り上げた。
氷のように冷たい。
それなのに掌へ触れた瞬間…何かが、脈打ったような気がした。
――トクン。
青年の呼吸が止まる。
気のせいだ、そう思った。
だが、もう一度。
――トクン。
掌から、手首へ腕へ。
微かな振動が伝わったような。
青年は、ゆっくりとラベルへ目を落とした。
古びた紙片、擦れた文字。
それでも。
その一行だけは。
はっきりと読めた。
――Sanguis Nobilis Noctis.
青年は唇だけを動かした。
「……サングイス……ノビリス……ノクティス……」
浅い知識を頼りに。
意味を組み立てる。
そして気づいた。
――夜の貴族の血。
その言葉を理解した瞬間。
地下室の空気が。
ほんの僅かに変わった。
青年は顔を上げる。
誰もいない。
当然だ。
それでも。
何かが。
こちらを見ている、そんな気がした。
視線をもう一度、瓶へ戻す。
黒く濁った深紅の奥、光すら届かぬその底で。
何かが。
静かに。
目を開いたように見えた。
青年は瓶を手放さなかった。
手放せなかった。
ただ長い時間、その暗い紅を見つめ続けていた。
自分の人生を終わらせようとしていた夜に。
まさか。
その小さな瓶の中に。
もっと別の。
取り返しのつかない始まりが、静かに息づいているとも知らずに。




