第六章 護法院女学園 其の壱
瑠奈たち三人は、公園近くの交番へ駆け込んだ。
真壁は秋一郎に肩を借り、ほとんど引きずられるようにして電話台の傍まで辿り着く。
ほどなくして、夜の静寂を切り裂くエンジン音が近づいてきた。
警視庁から急行した二台のT型フォードだった。
到着した刑事たちは、血まみれになった真壁の姿を見るなり顔色を変えた。
「警部!」
「担架を! 急げ!」
矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
真壁と秋一郎は、それぞれ担架へ移された。
秋一郎の左肩にも狼男の鉤爪による裂傷が走っていたが、真壁ほど深くはない。それでも白いシャツは赤く染まり、顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
瑠奈も後部座席へ乗り込む。
二台のフォードは夜の帝都を西へ向けて走り出した。
行き先は牛込区。
護法院女学園――。
約三万坪の広大な敷地を有するその学園の一角には、学生や関係者の治療を目的とした医療施設が設けられている。
一般の診療所とは、少々事情の異なる施設であった。
深夜。
重厚な鉄門を抜けた自動車が医療棟の前へ停車すると、すでに数人の看護婦が玄関前で待機していた。
「こちらです!」
「重傷者を先に!」
担架が次々と運び込まれていく。
消毒薬の鋭い匂い。
磨き上げられた木床。
白い壁。
深夜とは思えないほど機敏に動く看護婦たち。
眠りについた学園の一角で、この建物だけが昼間と変わらぬ機能を保っている。
真壁はその異様な手際の良さに気づいていたが、それを問い質す余裕などなかった。
背中の激痛が呼吸のたびに身体を貫いている。
「こちらの方は処置室へ!」
秋一郎の担架が別の廊下へ運ばれていく。
「兄さま……!」
瑠奈が思わずそちらへ手を伸ばした。
*
秋一郎は担架の上から、弱々しくもいつものような笑みを返した。
「僕は大丈夫だよ」
「でも――」
「警部を先に」
静かな声だった。
「僕より、ずっと傷が深い」
瑠奈は唇を結んだ。
「……うん」
秋一郎の担架が角を曲がり、見えなくなる。
その姿を最後まで目で追ったあと、瑠奈は真壁が運び込まれた診察室へ駆け込んだ。
「蓮華寺さん!」
奥へ向けて声を上げる。
「お願い!」
「星守さん落ち着いて、聞こえてます」
上方訛りのある柔らかな声とともに、一人の少女が姿を現した。
品の良い白い看護帽。
白を基調としながら、随所に赤を配したモダンな看護服。
両手には薄い茶色の革手袋。
年齢は瑠奈と大きく変わらないように見える。
普段であれば親しみやすい笑顔を浮かべている少女だった。
だが。
真壁の背中を一目見た瞬間、その表情から笑みが消えた。
「……これは」
血に濡れた上着を看護婦がハサミで切り開く。
露わになった傷を見て、少女――蓮華寺摩那は小さく息を吸った。
三本の深い裂傷が、肩口から背中へ斜めに走っている。
「だいぶ深うやられてますね」
真壁は苦笑しようとして、顔を歪めた。
「見れば……分かる」
「しゃべらん方がええですよ」
摩那は淡々と答えた。
だが声音に動揺はない。
「瑠奈さん」
「はい」
「呪いの方は?」
「祓ってあります」
「分かりました」
その言葉だけで、蓮華寺はすべてを理解したようだった。
革手袋を外す。
白く細い指が露わになる。
「ほな、まず止血します」
真壁が眉を寄せた。
「驚ろかんでくださいね」
蓮華寺は穏やかに微笑んだ。
そして両手を、傷口の左右へそっと添えた。
次の瞬間。
淡い白光が、彼女の掌から溢れ出した。
「……っ?」
真壁の瞳が見開かれる。
熱くはない。
むしろ春の日差しのような、穏やかな温もりだった。
白い光は血に濡れた傷口を包み込み、その奥深くへ滲み込んでいく。
真壁は自分の目を疑った。
裂けた皮膚の縁が、ゆっくりと寄っていく。
断裂した小さな血管からの出血が弱まり、剥き出しだった筋肉も少しずつ本来の位置へ戻っていく。
それは一瞬で傷が消えるような奇跡ではなかった。
だが――。
人間の身体が数週間、数か月をかけて行うはずの自然治癒を、ほんの数分へ圧縮したような現象だった。
「……馬鹿な」
真壁の唇から、かすれた声が漏れる。
見間違いではない。
薬でも、手術でもない。
少女の掌から放たれる光が、自分の肉体そのものへ働きかけている。
十分ほどが過ぎたころ。
蓮華寺はゆっくりと手を離した。
「……ふぅ」
小さく息を吐く。
額には薄く汗が浮かんでいた。
「これで大きな出血は止まりました」
真壁は恐る恐る身体を動かした。
痛みはある。
背中を動かせば、鈍く強い疼きも残っている。
だが、先ほどまで感じていた――このまま血が流れ続ければ死ぬかもしれないという感覚は、もうなかった。
摩那は看護婦へ向き直る。
「洗浄して、消毒。傷はまだ完全には閉じてへんから、固定して包帯を。今夜は絶対安静です」
「はい」
真壁は呆然と少女を見つめていた。
「……君が」
蓮華寺が振り返る。
「はい?」
「君が、これを……治したのか?」
蓮華寺は一瞬きょとんとした。
それから、にこりと笑う。
「治したいうほど大層なもんやありません」
「人間には元々、自然に傷を治す力がありますやろ?」
「うちは、それをちょっと手助けしとるだけです」
真壁は返事をしなかった。
――ちょっと。
その言葉が、妙に頭へ残った。
十五年以上、刑事として働いてきた。
刃物で斬られた者も。
銃で撃たれた者も。
事故で骨を砕かれた者も見てきた。
だからこそ分かる。
今夜、自分が負った傷は、本来なら長期の入院を覚悟すべき重傷だった。
下手をすれば失血死していても不思議ではない。
それを、この少女は。
ほんの十分ほどで――。
「……少し、ね」
真壁が呆れたように呟く。
蓮華寺は首を傾げた。
「何か?」
「いや」
真壁は力なく笑った。
「何でもない」
*
応急処置を終えた摩那が診察室を出ていった、別室に運ばれた秋一郎の様子を見に行ったのだろう。
静けさが戻る。
真壁はしばらく天井を見つめていた。
狼男。
銃弾を弾く肉体。
人を獣へ変える呪い。
それを祓った少女。
そして、傷を異常な速さで治癒した少女。
数時間前までなら、どれも一笑に付していた話である。
だが。
いま自分の背中に残る鈍い痛みこそが、それらすべてが現実だったことを証明していた。
やがて真壁は、部屋の隅に立っていた瑠奈へ視線を向ける。
「星守嬢」
「はい」
真壁はゆっくりと身体を起こした。
「警部さん、まだ動かない方が――」
「これだけは言わせてくれ」
瑠奈が口を閉じる。
真壁は真っ直ぐ少女を見た。
そして、深く頭を下げた。
「命を救われた」
低い声だった。
「ありがとう」
瑠奈は少し驚いたように瞬きをした。
「そんな……」
困ったように微笑む。
「当然のことをしただけです」
真壁の口元がわずかに緩んだ。
「君たちは皆、同じことを言うんだな」
「え?」
「いや。こちらの話だ」
瑠奈も小さく笑った。
だが――。
その視線が、無意識に診察室の扉へ向かう。
秋一郎が運ばれていった方向。
真壁は見逃さなかった。
「鳴神先生が気になるか」
「……え?」
「顔に書いてある」
瑠奈は少しだけ頬を赤くした。
「兄さまは大丈夫だって言ってましたけど……」
「心配なのは当然だ」
真壁はそう言うと、一度目を閉じた。
それから再び開いた目には、もう先ほどまでの負傷者としての弱さはなかった。
刑事の目だった。
瑠奈もそれを察したのだろう。
表情を引き締める。
「警部さん」
「何だ」
「ひとつ、お願いがあります」
真壁は黙って続きを促した。
「樒男爵と――彼の商会について、調べていただけませんか」
「樒男爵」
真壁の眉が動く。
「今夜の夜会にいた男だな」
「はい」
「理由は?」
瑠奈はすぐには答えなかった。
やがて、静かに首を振る。
「まだ、説明できるだけの確証がありません」
「だが怪しいと?」
「……はい」
迷いのない声だった。
「どうしても胸騒ぎがするんです」
真壁はしばらく黙っていた。
以前なら。
おそらく、この言葉だけで警察を動かすことなどあり得なかっただろう。
胸騒ぎ。
勘。
怪異の気配。
そんなものは捜査の根拠にならない。
――少なくとも、今日までは。
だが、真壁は今夜見てしまった。
人の形をした巨大な狼。
拳銃弾をものともしない肉体。
自らを蝕んでいた、説明不能の冷気。
そんな怪異を追い払った目の前の少女。
常識という物差しだけでは測れない何かが、この事件の背後に存在する。
それだけは、もはや疑いようがなかった。
「……分かった」
瑠奈が顔を上げる。
「警察として調べられる範囲で、樒男爵と商会について洗ってみよう」
「本当ですか?」
「ああ」
真壁は小さく頷いた。
「ただし、君の胸騒ぎだけを理由に商会や屋敷を捜索するわけにはいかん。商会の登記、資金の流れ、取引先、過去の経歴……まずは表から確認する」
「それで十分です」
瑠奈は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」
真壁は苦笑する。
「何も出てこないかもしれんぞ」
「それなら、それでいいんです」
瑠奈は即答した。
その答えに、真壁は一瞬だけ目を細めた。
犯人に違いない。
そう決めつけているわけではない。
疑わしいから調べる。
違っていれば、その可能性を消す。
その姿勢は、思いのほか刑事に近かった。
「……なるほどな」
「?」
「いや」
真壁はかすかに笑う。
「刑事というものは、謎を謎のままにできない人種なんだ」
瑠奈の表情が少し和らぐ。
「今夜ばかりは、君の勘も俺の勘も、馬鹿にできそうにない」
そして、扉へ顎をしゃくった。
「それより」
「はい?」
「鳴神先生が心配なんだろう」
瑠奈が目を瞬く。
真壁は呆れたように笑った。
「早く行ってやりなさい」
「……はい!」
今度の返事だけは、少し子供っぽいほど素直だった。
瑠奈は胸元へ手を添え、深く一礼する。
「ありがとうございます、警部さん」
そう言うなり、扉へ向かう。
だが途中で一度だけ振り返った。
「本当に、安静にしていてくださいね」
「分かった、分かった」
真壁は片手を上げる。
「今夜はもう、怪物と殴り合うつもりはない」
瑠奈の口元に小さな笑みが浮かんだ。
そして。
扉が閉じるや否や――。
廊下を駆ける軽い足音が、次第に遠ざかっていった。
真壁はそれを聞きながら、ゆっくりと枕へ背を預ける。
静かな診察室。
白い天井。
消毒薬の匂い。
どれも見慣れた、現実の風景のはずだった。
なのに。
ほんの数時間前まで、自分が信じていた世界とは、もう何もかもが違って見えた。
「……怪異、か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その言葉を口にしても、もう笑う気にはなれなかった。
*
狼男の太い指が、秋一郎の喉元へ食い込んだ。
皮膚を破らんばかりの力で締め上げられ、呼吸が止まる。
身体が、まるで重さなどないかのように宙へ持ち上げられた。
両脚が虚しく空を掻く。
獣の指を引き剥がそうとしても、びくともしない。
肺の奥に残っていた僅かな空気まで絞り出され、視界の端からゆっくりと闇が滲んでくる。
耳鳴りの向こうで、狼男の低い唸り声が響いていた。
その口元が――笑ったように見えた。
――ゴキッ。
首の奥で、乾いた音が鳴った。
次の瞬間。
秋一郎の身体から、すべての力が抜け落ちた。
腕が垂れ、頭が不自然な角度へ傾く。
糸を断ち切られた操り人形のように、全身がだらりと弛緩した。
狼男は、勝ち誇るように牙を剥いた。
だが。
その表情が、すぐに変わった。
ぬるり。
秋一郎の身体の奥で、何かが動いた。
ぬるり。
ぬるり、と。
皮膚の下を、無数の虫が這い回るような。
湿った、粘つく音。
狼男の鼻先が僅かに動く。
訝しげに、死んだはずの秋一郎の顔へ近づいた。
その刹那。
閉じた瞼の隙間から、黒い液体が溢れ出した。
涙ではない。
水でも、血でもない。
粘り気を帯びた漆黒の何か。
それが両目から頬へ流れ落ち、続いて鼻から、口からも滲み出してくる。
一筋、二筋ではなかった。
堰を切った濁流のように、黒い液体が秋一郎の身体から噴き上がった。
「ガァッ!?」
狼男が咆哮する。
秋一郎を放り捨てようとした。
だが、遅い。
黒いものは生き物のように獣の腕へ絡みつき、粗い毛皮の表面を這い上がっていく。
胸へ。
肩へ。
首へ。
狼男は爪で掻き毟った。
だが、剥がれない。
液体は指の隙間をすり抜け、開かれた口の中へまで流れ込んでいった。
獣が身をよじる。
咆哮はやがて、濁った呻きへ変わる。
黒い液体は止まらない。
地面も。
木々も。
月も。
夜空さえも。
すべてが闇へ沈んでいく。
秋一郎の姿は、もう見えなかった。
ただ。
世界そのものが。
何か巨大なものの腹の内へ呑み込まれていくように――。
*
「――ッ!」
秋一郎は声にならない悲鳴と共に跳ね起きた。
胸いっぱいに空気を吸い込む。
肺が焼けるように痛い。
喉の奥がひりつき、心臓は胸郭を内側から叩き壊そうとするほど激しく脈打っていた。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
視界に映ったのは、洋風の白い天井。
厚手のカーテンの隙間から差し込む、淡い朝の光。
枕元の小卓には、水差しと薬瓶。
微かに漂う、消毒薬と香の匂い。
森でもない。
公園でもない。
狼男もいない。
秋一郎は荒い息を繰り返しながら、反射的に自分の喉へ手を当てた。
骨は折れていない。
喉仏もある。
皮膚も繋がっている。
指先に触れたのは、冷たい汗だけだった。
「兄さま……」
すぐ傍から声がした。
秋一郎は弾かれたように顔を向ける。
寝台脇の椅子に、有栖が座っていた。
いつもの彼女とは、少し違って見えた。
黒髪は簡素にまとめられているものの、幾筋かが頬へ落ちている。
膝の上には水を張った小鉢。
右手には、濡らした白い手巾。
有栖は目を見開いたまま、秋一郎を見つめていた。
「……有栖君」
声が酷く掠れた。
有栖はすぐに椅子を立つ。
「急に起き上がってはいけません」
秋一郎の肩へ手を添え、そっと寝台へ戻す。
「まだ熱があります」
「ここは……」
「女学園の客間です」
有栖は静かに答えた。
「治療を終えたあと、こちらへ運んでいただきました」
秋一郎は改めて周囲を見回す。
遠方からの来客を泊めるための部屋らしい。
壁際には衝立。
窓辺の卓には、蜂蜜を落としたオートミール粥が、ほとんど手つかずのまま置かれている。
そこでようやく、昨夜の記憶が断片的に戻ってきた。
狼男。
真壁。
血に染まった衣服。
瑠奈の銃声。
そして――。
喉へ食い込んだ、あの巨大な指。
秋一郎は再び首元へ触れた。
「真壁警部は」
「先ほど、迎えの方と一緒に警視庁へ戻られました」
有栖の眉が僅かに寄る。
「もう少し休んでいただいた方がよいと、皆でお止めしたのですが」
秋一郎の口元に、小さな苦笑が浮かんだ。
「……警部らしい」
「ええ」
有栖も僅かに微笑む。
「傷はまだ深いものの、出血は止まっています。命に別状はないそうです」
その言葉を聞いた瞬間。
秋一郎の身体から、僅かに力が抜けた。
真壁は自分を庇った。
目の前の怪物が何者なのかも分からず。
拳銃が通じないことすら知らず。
それでも迷わず身体を投げ出した。
胸の奥へ、重いものが沈んでいく。
「瑠奈君は?」
「つい先ほどまで、ここにいました」
有栖は手巾を小鉢へ浸し、固く絞った。
「夜明けまで、ずっと兄さまの傍に」
「……そうか」
「私と交代してから、工房へ行きました。何か準備しておきたいことがあるそうです」
「なるほど」
冷たい手巾が、秋一郎の額へ乗せられる。
本来なら心地よいはずの冷たさ。
だが。
触れた瞬間、秋一郎の身体が僅かに強張った。
有栖は、その小さな反応を見逃さなかった。
「……怖い夢を見ていたのですか」
秋一郎は答えなかった。
窓の外から、遠く鐘の音が届く。
朝を告げる鐘。
静かな音が、まだ眠りの残る女学園の敷地へ広がっていく。
有栖は急かさない。
ただ黙って、手巾を額へ当てていた。
やがて。
秋一郎が小さく息を吐いた。
「狼男に、首を折られる夢だった」
有栖の指が止まる。
「それから……」
秋一郎は天井を見つめたまま続ける。
「僕の中にあるものが、外へ出てきた」
「中にあるもの……?」
「黒い液体だった」
夢の光景が蘇る。
鮮明すぎるほどに。
「目から。口から。鼻から」
声が自然と低くなる。
「それが、あの怪物を呑み込んだ」
有栖は何も言わなかった。
秋一郎は右手を見つめる。
指先には何も付いていない。
それでも。
皮膚の下。
骨のさらに奥。
そこに。
冷たい何かが、ゆっくりと脈打っている。
そんな錯覚が消えなかった。
「兄さまが南極で接触した怪異と関係があるのですね」
有栖の声は穏やかだった。
責める響きはない。
けれど、逃げ道もなかった。
秋一郎は薄く笑った。
「随分と察しがよくなったね」
「昔からです」
有栖は淡々と言う。
「兄さまが何かを隠している時の顔くらい、分かります」
秋一郎は視線を逸らした。
幼い頃から変わらない。
有栖は多くを語らない。
けれど。
一度気にかけた相手を、決して見捨てない。
その優しさが今は少し、痛かった。
「いずれ話すよ」
「いずれ、では遅いこともあります」
秋一郎は目を閉じた。
有栖の言葉は静かだった。
だが、そこには明確な怒りがあった。
「昨夜、兄さまは死にかけました」
「……」
「真壁警部が庇ってくださらなければ、どうなっていたか分かりません」
有栖は手巾を小卓へ置いた。
「そして」
ほんの僅かな間を置く。
「狼男の呪いが、兄さまには通用しなかった」
秋一郎は目を開く。
有栖と視線が合う。
「それは……喜ぶべきことなのかもしれません」
声が少しだけ低くなる。
「ですが」
有栖は真っ直ぐに秋一郎を見つめた。
「呪いが結果的に、兄さまを守ったのだとしても」
短い沈黙。
「それが、兄さまの味方であるとは限りません」
秋一郎は何も返せなかった。
その通りだった。
守っているのではないのかもしれない。
単に。
自分という器を。
他の何者かに壊されたくないだけ。
そういう可能性もある。
有栖は水差しから硝子の杯へ水を注ぎ、差し出した。
「少し飲んでください」
秋一郎は受け取り、一口含む。
冷たい水が。
傷ついた喉を、ゆっくりと通っていく。
その感覚を確かめながら。
窓の外へ目を向けた。
朝日が、女学園の尖塔を照らしている。
穏やかな朝だった。
学生たちはこれから目を覚まし。
食堂へ向かい。
授業の支度を始めるだろう。
昨夜。
帝都の片隅で人ならざる怪物が牙を剥いたことなど、誰も知らない。
そして、自分の身体の奥にも、また別の何かが確かに息づいていることを――。




