↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/13

第六章 護法院女学園 其の壱

瑠奈たち三人は、公園近くの交番へ駆け込んだ。


真壁は秋一郎に肩を借り、ほとんど引きずられるようにして電話台の傍まで辿り着く。


ほどなくして、夜の静寂を切り裂くエンジン音が近づいてきた。


警視庁から急行した二台のT型フォードだった。


到着した刑事たちは、血まみれになった真壁の姿を見るなり顔色を変えた。


「警部!」


「担架を! 急げ!」


矢継ぎ早に指示が飛ぶ。


真壁と秋一郎は、それぞれ担架へ移された。


秋一郎の左肩にも狼男の鉤爪による裂傷が走っていたが、真壁ほど深くはない。それでも白いシャツは赤く染まり、顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。


瑠奈も後部座席へ乗り込む。


二台のフォードは夜の帝都を西へ向けて走り出した。


行き先は牛込区。


護法院女学園――。


約三万坪の広大な敷地を有するその学園の一角には、学生や関係者の治療を目的とした医療施設が設けられている。


一般の診療所とは、少々事情の異なる施設であった。


深夜。


重厚な鉄門を抜けた自動車が医療棟の前へ停車すると、すでに数人の看護婦が玄関前で待機していた。


「こちらです!」


「重傷者を先に!」


担架が次々と運び込まれていく。


消毒薬の鋭い匂い。


磨き上げられた木床。


白い壁。


深夜とは思えないほど機敏に動く看護婦たち。


眠りについた学園の一角で、この建物だけが昼間と変わらぬ機能を保っている。


真壁はその異様な手際の良さに気づいていたが、それを問い質す余裕などなかった。


背中の激痛が呼吸のたびに身体を貫いている。


「こちらの方は処置室へ!」


秋一郎の担架が別の廊下へ運ばれていく。


「兄さま……!」


瑠奈が思わずそちらへ手を伸ばした。


    *


秋一郎は担架の上から、弱々しくもいつものような笑みを返した。


「僕は大丈夫だよ」


「でも――」


「警部を先に」


静かな声だった。


「僕より、ずっと傷が深い」


瑠奈は唇を結んだ。


「……うん」


秋一郎の担架が角を曲がり、見えなくなる。


その姿を最後まで目で追ったあと、瑠奈は真壁が運び込まれた診察室へ駆け込んだ。


「蓮華寺さん!」


奥へ向けて声を上げる。


「お願い!」


「星守さん落ち着いて、聞こえてます」


上方訛りのある柔らかな声とともに、一人の少女が姿を現した。


品の良い白い看護帽。


白を基調としながら、随所に赤を配したモダンな看護服。


両手には薄い茶色の革手袋。


年齢は瑠奈と大きく変わらないように見える。


普段であれば親しみやすい笑顔を浮かべている少女だった。


だが。


真壁の背中を一目見た瞬間、その表情から笑みが消えた。


「……これは」


血に濡れた上着を看護婦がハサミで切り開く。


露わになった傷を見て、少女――蓮華寺摩那(れんげじまな)は小さく息を吸った。


三本の深い裂傷が、肩口から背中へ斜めに走っている。


「だいぶ深うやられてますね」


真壁は苦笑しようとして、顔を歪めた。


「見れば……分かる」


「しゃべらん方がええですよ」


摩那は淡々と答えた。


だが声音に動揺はない。


「瑠奈さん」


「はい」


「呪いの方は?」


「祓ってあります」


「分かりました」


その言葉だけで、蓮華寺はすべてを理解したようだった。


革手袋を外す。


白く細い指が露わになる。


「ほな、まず止血します」


真壁が眉を寄せた。


「驚ろかんでくださいね」


蓮華寺は穏やかに微笑んだ。


そして両手を、傷口の左右へそっと添えた。


次の瞬間。


淡い白光が、彼女の掌から溢れ出した。


「……っ?」


真壁の瞳が見開かれる。


熱くはない。


むしろ春の日差しのような、穏やかな温もりだった。


白い光は血に濡れた傷口を包み込み、その奥深くへ滲み込んでいく。


真壁は自分の目を疑った。


裂けた皮膚の縁が、ゆっくりと寄っていく。


断裂した小さな血管からの出血が弱まり、剥き出しだった筋肉も少しずつ本来の位置へ戻っていく。


それは一瞬で傷が消えるような奇跡ではなかった。


だが――。


人間の身体が数週間、数か月をかけて行うはずの自然治癒を、ほんの数分へ圧縮したような現象だった。


「……馬鹿な」


真壁の唇から、かすれた声が漏れる。


見間違いではない。


薬でも、手術でもない。


少女の掌から放たれる光が、自分の肉体そのものへ働きかけている。


十分ほどが過ぎたころ。


蓮華寺はゆっくりと手を離した。


「……ふぅ」


小さく息を吐く。


額には薄く汗が浮かんでいた。


「これで大きな出血は止まりました」


真壁は恐る恐る身体を動かした。


痛みはある。


背中を動かせば、鈍く強い疼きも残っている。


だが、先ほどまで感じていた――このまま血が流れ続ければ死ぬかもしれないという感覚は、もうなかった。


挿絵(By みてみん)


摩那は看護婦へ向き直る。


「洗浄して、消毒。傷はまだ完全には閉じてへんから、固定して包帯を。今夜は絶対安静です」


「はい」


真壁は呆然と少女を見つめていた。


「……君が」


蓮華寺が振り返る。


「はい?」


「君が、これを……治したのか?」


蓮華寺は一瞬きょとんとした。


それから、にこりと笑う。


「治したいうほど大層なもんやありません」


「人間には元々、自然に傷を治す力がありますやろ?」


「うちは、それをちょっと手助けしとるだけです」


真壁は返事をしなかった。


――ちょっと。


その言葉が、妙に頭へ残った。


十五年以上、刑事として働いてきた。


刃物で斬られた者も。


銃で撃たれた者も。


事故で骨を砕かれた者も見てきた。


だからこそ分かる。


今夜、自分が負った傷は、本来なら長期の入院を覚悟すべき重傷だった。


下手をすれば失血死していても不思議ではない。


それを、この少女は。


ほんの十分ほどで――。


「……少し、ね」


真壁が呆れたように呟く。


蓮華寺は首を傾げた。


「何か?」


「いや」


真壁は力なく笑った。


「何でもない」


    *


応急処置を終えた摩那が診察室を出ていった、別室に運ばれた秋一郎の様子を見に行ったのだろう。


静けさが戻る。


真壁はしばらく天井を見つめていた。


狼男。


銃弾を弾く肉体。


人を獣へ変える呪い。


それを祓った少女。


そして、傷を異常な速さで治癒した少女。


数時間前までなら、どれも一笑に付していた話である。


だが。


いま自分の背中に残る鈍い痛みこそが、それらすべてが現実だったことを証明していた。


やがて真壁は、部屋の隅に立っていた瑠奈へ視線を向ける。


「星守嬢」


「はい」


真壁はゆっくりと身体を起こした。


「警部さん、まだ動かない方が――」


「これだけは言わせてくれ」


瑠奈が口を閉じる。


真壁は真っ直ぐ少女を見た。


そして、深く頭を下げた。


「命を救われた」


低い声だった。


「ありがとう」


瑠奈は少し驚いたように瞬きをした。


「そんな……」


困ったように微笑む。


「当然のことをしただけです」


真壁の口元がわずかに緩んだ。


「君たちは皆、同じことを言うんだな」


「え?」


「いや。こちらの話だ」


瑠奈も小さく笑った。


だが――。


その視線が、無意識に診察室の扉へ向かう。


秋一郎が運ばれていった方向。


真壁は見逃さなかった。


「鳴神先生が気になるか」


「……え?」


「顔に書いてある」


瑠奈は少しだけ頬を赤くした。


「兄さまは大丈夫だって言ってましたけど……」


「心配なのは当然だ」


真壁はそう言うと、一度目を閉じた。


それから再び開いた目には、もう先ほどまでの負傷者としての弱さはなかった。


刑事の目だった。


瑠奈もそれを察したのだろう。


表情を引き締める。


「警部さん」


「何だ」


「ひとつ、お願いがあります」


真壁は黙って続きを促した。


「樒男爵と――彼の商会について、調べていただけませんか」


「樒男爵」


真壁の眉が動く。


「今夜の夜会にいた男だな」


「はい」


「理由は?」


瑠奈はすぐには答えなかった。


やがて、静かに首を振る。


「まだ、説明できるだけの確証がありません」


「だが怪しいと?」


「……はい」


迷いのない声だった。


「どうしても胸騒ぎがするんです」


真壁はしばらく黙っていた。


以前なら。


おそらく、この言葉だけで警察を動かすことなどあり得なかっただろう。


胸騒ぎ。


勘。


怪異の気配。


そんなものは捜査の根拠にならない。


――少なくとも、今日までは。


だが、真壁は今夜見てしまった。


人の形をした巨大な狼。


拳銃弾をものともしない肉体。


自らを蝕んでいた、説明不能の冷気。


そんな怪異を追い払った目の前の少女。


常識という物差しだけでは測れない何かが、この事件の背後に存在する。


それだけは、もはや疑いようがなかった。


「……分かった」


瑠奈が顔を上げる。


「警察として調べられる範囲で、樒男爵と商会について洗ってみよう」


「本当ですか?」


「ああ」


真壁は小さく頷いた。


「ただし、君の胸騒ぎだけを理由に商会や屋敷を捜索するわけにはいかん。商会の登記、資金の流れ、取引先、過去の経歴……まずは表から確認する」


「それで十分です」


瑠奈は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言うのはまだ早い」


真壁は苦笑する。


「何も出てこないかもしれんぞ」


「それなら、それでいいんです」


瑠奈は即答した。


その答えに、真壁は一瞬だけ目を細めた。


犯人に違いない。


そう決めつけているわけではない。


疑わしいから調べる。


違っていれば、その可能性を消す。


その姿勢は、思いのほか刑事に近かった。


「……なるほどな」


「?」


「いや」


真壁はかすかに笑う。


「刑事というものは、謎を謎のままにできない人種なんだ」


瑠奈の表情が少し和らぐ。


「今夜ばかりは、君の勘も俺の勘も、馬鹿にできそうにない」


そして、扉へ顎をしゃくった。


「それより」


「はい?」


「鳴神先生が心配なんだろう」


瑠奈が目を瞬く。


真壁は呆れたように笑った。


「早く行ってやりなさい」


「……はい!」


今度の返事だけは、少し子供っぽいほど素直だった。


瑠奈は胸元へ手を添え、深く一礼する。


「ありがとうございます、警部さん」


そう言うなり、扉へ向かう。


だが途中で一度だけ振り返った。


「本当に、安静にしていてくださいね」


「分かった、分かった」


真壁は片手を上げる。


「今夜はもう、怪物と殴り合うつもりはない」


瑠奈の口元に小さな笑みが浮かんだ。


そして。


扉が閉じるや否や――。


廊下を駆ける軽い足音が、次第に遠ざかっていった。


真壁はそれを聞きながら、ゆっくりと枕へ背を預ける。


静かな診察室。


白い天井。


消毒薬の匂い。


どれも見慣れた、現実の風景のはずだった。


なのに。


ほんの数時間前まで、自分が信じていた世界とは、もう何もかもが違って見えた。


「……怪異、か」


誰に聞かせるでもなく呟く。


その言葉を口にしても、もう笑う気にはなれなかった。


    *


狼男の太い指が、秋一郎の喉元へ食い込んだ。


皮膚を破らんばかりの力で締め上げられ、呼吸が止まる。


身体が、まるで重さなどないかのように宙へ持ち上げられた。


両脚が虚しく空を掻く。


獣の指を引き剥がそうとしても、びくともしない。


肺の奥に残っていた僅かな空気まで絞り出され、視界の端からゆっくりと闇が滲んでくる。


耳鳴りの向こうで、狼男の低い唸り声が響いていた。


その口元が――笑ったように見えた。


――ゴキッ。


首の奥で、乾いた音が鳴った。


次の瞬間。


秋一郎の身体から、すべての力が抜け落ちた。


腕が垂れ、頭が不自然な角度へ傾く。


糸を断ち切られた操り人形のように、全身がだらりと弛緩した。


狼男は、勝ち誇るように牙を剥いた。


だが。


その表情が、すぐに変わった。


ぬるり。


秋一郎の身体の奥で、何かが動いた。


ぬるり。


ぬるり、と。


皮膚の下を、無数の虫が這い回るような。


湿った、粘つく音。


狼男の鼻先が僅かに動く。


訝しげに、死んだはずの秋一郎の顔へ近づいた。


その刹那。


閉じた瞼の隙間から、黒い液体が溢れ出した。


涙ではない。


水でも、血でもない。


粘り気を帯びた漆黒の何か。


それが両目から頬へ流れ落ち、続いて鼻から、口からも滲み出してくる。


一筋、二筋ではなかった。


堰を切った濁流のように、黒い液体が秋一郎の身体から噴き上がった。


「ガァッ!?」


狼男が咆哮する。


秋一郎を放り捨てようとした。


だが、遅い。


黒いものは生き物のように獣の腕へ絡みつき、粗い毛皮の表面を這い上がっていく。


胸へ。


肩へ。


首へ。


狼男は爪で掻き毟った。


だが、剥がれない。


液体は指の隙間をすり抜け、開かれた口の中へまで流れ込んでいった。


獣が身をよじる。


咆哮はやがて、濁った呻きへ変わる。


黒い液体は止まらない。


地面も。


木々も。


月も。


夜空さえも。


すべてが闇へ沈んでいく。


秋一郎の姿は、もう見えなかった。


ただ。


世界そのものが。


何か巨大なものの腹の内へ呑み込まれていくように――。


     *


「――ッ!」


秋一郎は声にならない悲鳴と共に跳ね起きた。


胸いっぱいに空気を吸い込む。


肺が焼けるように痛い。


喉の奥がひりつき、心臓は胸郭を内側から叩き壊そうとするほど激しく脈打っていた。


しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


視界に映ったのは、洋風の白い天井。


厚手のカーテンの隙間から差し込む、淡い朝の光。


枕元の小卓には、水差しと薬瓶。


微かに漂う、消毒薬と香の匂い。


森でもない。


公園でもない。


狼男もいない。


秋一郎は荒い息を繰り返しながら、反射的に自分の喉へ手を当てた。


骨は折れていない。


喉仏もある。


皮膚も繋がっている。


指先に触れたのは、冷たい汗だけだった。


「兄さま……」


すぐ傍から声がした。


秋一郎は弾かれたように顔を向ける。


寝台脇の椅子に、有栖が座っていた。


いつもの彼女とは、少し違って見えた。

黒髪は簡素にまとめられているものの、幾筋かが頬へ落ちている。


膝の上には水を張った小鉢。

右手には、濡らした白い手巾。


有栖は目を見開いたまま、秋一郎を見つめていた。


「……有栖君」


声が酷く掠れた。

有栖はすぐに椅子を立つ。


「急に起き上がってはいけません」


秋一郎の肩へ手を添え、そっと寝台へ戻す。


「まだ熱があります」


「ここは……」


「女学園の客間です」


有栖は静かに答えた。


「治療を終えたあと、こちらへ運んでいただきました」


秋一郎は改めて周囲を見回す。

遠方からの来客を泊めるための部屋らしい。


壁際には衝立。


窓辺の卓には、蜂蜜を落としたオートミール粥が、ほとんど手つかずのまま置かれている。

そこでようやく、昨夜の記憶が断片的に戻ってきた。


狼男。


真壁。


血に染まった衣服。


瑠奈の銃声。


そして――。


喉へ食い込んだ、あの巨大な指。


秋一郎は再び首元へ触れた。


「真壁警部は」


「先ほど、迎えの方と一緒に警視庁へ戻られました」


有栖の眉が僅かに寄る。


「もう少し休んでいただいた方がよいと、皆でお止めしたのですが」


秋一郎の口元に、小さな苦笑が浮かんだ。


「……警部らしい」


「ええ」


有栖も僅かに微笑む。


「傷はまだ深いものの、出血は止まっています。命に別状はないそうです」


その言葉を聞いた瞬間。


秋一郎の身体から、僅かに力が抜けた。


真壁は自分を庇った。


目の前の怪物が何者なのかも分からず。


拳銃が通じないことすら知らず。


それでも迷わず身体を投げ出した。


胸の奥へ、重いものが沈んでいく。


「瑠奈君は?」


「つい先ほどまで、ここにいました」


有栖は手巾を小鉢へ浸し、固く絞った。


「夜明けまで、ずっと兄さまの傍に」


「……そうか」


「私と交代してから、工房へ行きました。何か準備しておきたいことがあるそうです」


「なるほど」


冷たい手巾が、秋一郎の額へ乗せられる。

本来なら心地よいはずの冷たさ。


だが。


触れた瞬間、秋一郎の身体が僅かに強張った。

有栖は、その小さな反応を見逃さなかった。


「……怖い夢を見ていたのですか」


秋一郎は答えなかった。


窓の外から、遠く鐘の音が届く。


朝を告げる鐘。


静かな音が、まだ眠りの残る女学園の敷地へ広がっていく。


有栖は急かさない。


ただ黙って、手巾を額へ当てていた。


やがて。


秋一郎が小さく息を吐いた。


「狼男に、首を折られる夢だった」


有栖の指が止まる。


「それから……」


秋一郎は天井を見つめたまま続ける。


「僕の中にあるものが、外へ出てきた」


「中にあるもの……?」


「黒い液体だった」


夢の光景が蘇る。


鮮明すぎるほどに。


「目から。口から。鼻から」


声が自然と低くなる。


「それが、あの怪物を呑み込んだ」


有栖は何も言わなかった。


秋一郎は右手を見つめる。


指先には何も付いていない。


それでも。


皮膚の下。


骨のさらに奥。


そこに。


冷たい何かが、ゆっくりと脈打っている。


そんな錯覚が消えなかった。


「兄さまが南極で接触した怪異と関係があるのですね」


有栖の声は穏やかだった。

責める響きはない。


けれど、逃げ道もなかった。

秋一郎は薄く笑った。


「随分と察しがよくなったね」


「昔からです」


有栖は淡々と言う。


「兄さまが何かを隠している時の顔くらい、分かります」


秋一郎は視線を逸らした。

幼い頃から変わらない。


有栖は多くを語らない。


けれど。


一度気にかけた相手を、決して見捨てない。


その優しさが今は少し、痛かった。


「いずれ話すよ」


「いずれ、では遅いこともあります」


秋一郎は目を閉じた。


有栖の言葉は静かだった。


だが、そこには明確な怒りがあった。


「昨夜、兄さまは死にかけました」


「……」


「真壁警部が庇ってくださらなければ、どうなっていたか分かりません」


有栖は手巾を小卓へ置いた。


「そして」


ほんの僅かな間を置く。


「狼男の呪いが、兄さまには通用しなかった」


秋一郎は目を開く。


有栖と視線が合う。


「それは……喜ぶべきことなのかもしれません」


声が少しだけ低くなる。


「ですが」


有栖は真っ直ぐに秋一郎を見つめた。


「呪いが結果的に、兄さまを守ったのだとしても」


短い沈黙。


「それが、兄さまの味方であるとは限りません」


秋一郎は何も返せなかった。


その通りだった。


守っているのではないのかもしれない。


単に。


自分という器を。


他の何者かに壊されたくないだけ。


そういう可能性もある。


有栖は水差しから硝子の杯へ水を注ぎ、差し出した。


「少し飲んでください」


秋一郎は受け取り、一口含む。


冷たい水が。


傷ついた喉を、ゆっくりと通っていく。


その感覚を確かめながら。


窓の外へ目を向けた。


朝日が、女学園の尖塔を照らしている。


穏やかな朝だった。


学生たちはこれから目を覚まし。


食堂へ向かい。


授業の支度を始めるだろう。


昨夜。


帝都の片隅で人ならざる怪物が牙を剥いたことなど、誰も知らない。


そして、自分の身体の奥にも、また別の何かが確かに息づいていることを――。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。