第五章 襲撃
夜も深まり、春日男爵邸の夜会は静かにその幕を閉じた。
車寄せの石畳には次々と黒塗りの自動車や人力車が横付けされ、帰路につく客人たちが次々と乗り込んでいく。
玄関前には執事や使用人たちが一列に並び、客人たちを一人ひとり恭しく見送っていた。
先ほどまで大広間を満たしていた華やかな歓談の余韻も、いまやしめやかな別れの挨拶へと変わりつつある。
春日男爵は最後まで穏やかな破顔を絶やさず、客の誰もに丁寧に礼を述べていた。
その温和な姿を横目で見やりながら、有栖たち三人もまた重厚な屋敷を後にした。夜風がそっと頬を撫でていく。
帝都の夜は心地よく澄んでいた。瑠奈は石畳の道を歩きながら、ふと気になったように振り返る。
玄関先では、まだ幾人もの客が佇んで談笑を交わしていた。その人垣の中に――月島圭吾の姿があった。彼は樒惣介と低く言葉を交わしていたが、不意に視線だけをこちらへと滑らせる。
その不敵な眼差しは瑠奈を一瞬で捉え――次の瞬間には、隣を歩く秋一郎へと静かに移った。
(……)
瑠奈は歩みを止めなかった。
だが、その突き刺さるような視線だけが、妙に胸の奥へ引っかかった。やがて樒惣介もまた、こちらへと穏やかな目を向ける。
一瞬の隙もない完璧な立ち姿。洗練された美しい所作。
誰が見ても一目で好感を抱く、絵に描いたような青年実業家。
しかし、そのどこまでも穏やかな眼差しは、こちらの出方を冷徹に推し量っているかのようにも見えた。
二人は軽く一礼を交わすと、何事もなかったかのように春日男爵の元へと歩み寄っていく。
瑠奈は前を向き直り、小さく息を吐き出した。
「……場違い、ね」
「え?」
有栖が隣から覗き込む。
瑠奈は少し言葉を選ぶように、紺碧の夜空を見上げた。
「うまく言えないのだけれど……」
「春日男爵様の夜会って、純粋に文学や芸術談義を楽しみに来ている方ばかりだったでしょう?」
「ええ」
「なのに、あの二人だけは……」
瑠奈は二度と振り返らなかった。
「……何だか、全く違う空気を纏っていたわ」
秋一郎が静かに頷く。
「僕も、似たような印象を受けたよ」
「好みの異性との出会いを求めているなら、春日男爵の趣旨に沿ってはいますが…」
「ははっ」
秋一郎は苦笑を漏らした。
「もっと説明しづらい何かだね。……あの夜会そのものを楽しむために来た人間ではなく……」
「……夜会という『場』そのものを利用しに来た」
有栖が静かに言葉を継いだ。
秋一郎は視線だけで強く同意する。瑠奈もまた、深く深く頷いた。
「そう。……まさにそれよ」
三人はしばらくの間、言葉無く石畳を歩いた。正門を出ると、街灯の柔らかな明かりが夜の通りを淡く照らし出している。
遠くで路面電車の静かなベルの音が響き、夜の帝都が静かに息づいていた。瑠奈はふっと自嘲気味に笑う。
「……結局、今夜の探索は収穫無しだったのかな」
一時間以上もかけて広大な屋敷中を探した。
しかし、失踪した四人の令嬢たちに繋がる痕跡は、ただの一片として見つからなかったのだ。
だが、有栖は迷いのない声で答えた。
「いいえ。……確かに収穫はありましたわ」
瑠奈が首を傾げる。
「本当?」
「ええ。春日男爵様の潔白が、ほぼ確かなものになりましたもの」
有栖は夜の闇に浮かぶ屋敷のシルエットを振り返る。
「それに」
一拍置き、瞳に強い意志の光を宿した。
「調べるべき『対象』が、明確に増えましたわ」
瑠奈は苦笑した。
「……ふふ、つまり振出しに戻ったわけじゃない、ってことね」
「ええ」
有栖は力強く頷く。
「確実な一歩を、前へ進められたと思います」
その時であった。
「――護法院嬢」
闇の底から三人を呼ぶ、低い声が届いた。
振り返ると、門柱の漆黒の影から真壁警部が静かな足取りで歩み寄ってくるところだった。
夜会の最中もずっと、身を潜めて外で待機していたのだろう。
帽子を軽く持ち上げ、一礼する。
「苦労をかけた。何か分かったかね?」
有栖は静かに首を横に振った。
「春日男爵様のご厚意で、屋敷内を隅々まで見せていただきました。
……ですが、失踪した令嬢方に繋がる直接の痕跡は見つかりませんでした」
真壁は低く唸った。
「そうか……」
徒労に終わるであろうことは薄々予想していたのだろう。
落胆というよりは、ひとつ可能性を潰したことを冷徹に確認するような表情であった。四人は並んで夜道を歩き始める。
歩みを進めながら、有栖は探索の結果を伝えた。
隠し部屋や地下への抜け道が存在しないこと。
春日男爵も使用人たちも、事件の陰謀を知る様子がないこと。
真壁は無言で話に耳を傾けていたが、やがて瑠奈が思い出したように口を開いた。
「それと警部さん、広間で小さな騒ぎがありましたの」
「騒ぎ?」
真壁の鋭い眼光が光る。
秋一郎が代わって説明を引き継いだ。
「大澤という青年実業家が、突然一人の令嬢へ暴力を振るったのです」
「暴力を?」
「ええ。突然人が変わったように豹変し、止めに入った友人を突き飛ばし、令嬢を殴り倒しました。最終的には、月島という男に取り押さえられましたが」
真壁は不審そうに眉間へ皺を寄せた。
「酒の上の不調法か?」
「少なくとも、私にはそうは見えませんでした」
秋一郎は慎重に言葉を選んで答える。
「泥酔によるものでも、発作の類でもない……あまりにも不自然な豹変でした」
「……そうか」
真壁は何かを深く考え込む表情を見せた。そうこうするうちに、一行は闇の中に佇む護法院家の黒塗りのロールスロイスへ到着した。
街灯の光を受け、磨き上げられた車体が艶やかに輝いている。運転士が静かに後部座席のドアを開けた。
有栖と瑠奈が乗り込もうとした、まさにその時である。
「鳴神先生」
真壁警部が、秋一郎の肩を静かに呼び止めた。
「少々、お時間をいただけないだろうか」
秋一郎は有栖と瑠奈へ視線を向ける。二人も事態を察し、静かに頷いて見せた。
「構いませんよ」
秋一郎は穏やかに答える。
「二人は先に邸へお帰りなさい」
「兄さま……」
有栖の瞳に、かすかな気遣いの色が混ざる。
「大丈夫、遅くはならないよ」
秋一郎は安心させるように優しく微笑んだ。
「警部が責任を持って送ってくださるそうだ」
真壁も重々しく頷く。
「もちろん、送らせていただく」
有栖と瑠奈は一礼すると、静かにリムジンへ乗り込んだ。
重厚なドアが閉まり、黒塗りの車は夜の帝都の闇へと滑らかに走り去っていく。遠ざかるテールランプの赤い光を見送りながら、真壁警部は秋一郎へ向き直った。
先ほどまでの穏やかさは完全に消え去り、そこには鋭い眼光を光らせる刑事としての真剣な表情があった。
「……鳴神先生」
周囲に人影がないことを今一度確認すると、真壁は声を潜めた。
「実はな、先生にだけ事前にお耳に入れておきたい話がある」
秋一郎は静かに瞳を細めた。
「……伺いましょう」
遠ざかるリムジンのライトが夜の闇に消えていくのを、二人は静かに見送っていた。
真壁警部は煙草を取り出すと、マッチの火を灯した。橙色の小さな炎が、彼の刻まれた目元の皺と真剣な眼光を浮かび上がらせる。
二人は並んで歩き出した。
深夜の帝都は静まり返り、二人の足音だけが石畳に寂しく響いている。
街灯の光が、二人の長い影を路面に落としていた。
真壁は紫煙をゆるやかにくゆらせながら、ぽつりと口を開いた。
「上層部――警視庁の上層部からな、直々に通達があったのだよ。『護法院家と星守家の令嬢方に関しては、捜査の邪魔にならない限り、可能な限り便宜を図るように』とな」
秋一郎は歩調を変えぬまま、静かに耳を傾ける。
秋一郎は歩調を変えぬまま、静かに耳を傾ける。
「驚いたよ」
真壁は苦笑交じりに首を振った。
「確かにあの二人は、日本の政財界に巨大な影響力を持つ大華族の令嬢だ。振る舞いを見ても、並の大人以上に分別と聡明さを兼ね備えていることは重々分かった。……だがな」
真壁は煙草を指に挟み、鋭い視線を秋一郎へ向けた。
「あの頭の固い私の上司が、特定の民間人に対してそこまで異例の配慮を命じるなど、正気の沙汰とは思えんのだ。……ただの華族の道楽を甘やかしているわけではない。あの上層部が、何か『別の理由』があって彼女たちの行動を黙認しているとしか思えんのだ」
真壁は足を止め、秋一郎の正面に立った。
夜風が二人の外套の裾を揺らす。
「先生。君は何か知っているのではないか?」
直球の問いだった。
真壁の眼差しには、刑事特有の鋭利な洞察力と、誤魔化しを許さない誠実さが宿っていた。
秋一郎は静かに視線を落とし、逡巡した。――真壁警部は、間違いなく信用に足る人物だ。
春日邸の前で見せた有栖たちに対する礼節を弁えた態度、そして何より市民の安全を第一に考える刑事としての誇り。
それらはこの短時間のやり取りだけでも十分に伝わっていた。だが――。
(……この人に、本当の理由を話すべきだろうか)
秋一郎の胸中に、重い迷いが生じる。有栖と瑠奈が持つ「異能」。
目に見えぬ怪異を祓い、人の心に残された術の痕跡を読み取る、常識を超越した力。
大澤の暴走の裏にあった不可解な気配も、彼女たちのその「異能」があったからこそ捉えられた真実だった。
しかし、近代化を進めるこの大正の世において、科学と法規を重んじる警察官に「怪異」や「精神干渉の術」などという荒唐無稽な話を明かして、果たして信じてもらえるだろうか。
狂人扱いされるか、あるいは事件の本質から目を背けられたと失望されるのではないか。
何より、二人が背負う過酷で危険な秘密を、第三者に軽々しく明かして良いものか――。
暗い街路を並んで歩きながら、二人の足音だけが夜気に響いていた。
やがて道は、大きな木々が鬱蒼と茂る市立公園の脇へと差し掛かる。街灯の光も届かぬその一角は、深い闇の溜まり場となっていた。
「……警部」
秋一郎は意を決したように静かに口を開いた。
言葉を慎重に選びながら、真壁へと視線を向ける。
「荒唐無稽と思われるかもしれませんが――」
と言いかけた、その時であった。
夜の冷気が、一瞬にして凍てつくような殺気へと変貌した。
公園の濃密な植え込みの影から、ぬっと巨大な「何か」が現れ出た。
街灯の僅かな微光に浮き上がったその姿に、二人は息を呑む。
身長は2メートルを悠に超えている。
盛り上がった筋骨隆々の巨躯、全身を覆う粗い毛皮、そして何より――鋭い牙を剥き出しにした、猛悪な「狼」の頭部。
それは童話や海外の奇談の中にしか存在し得ない、狂暴な狼頭の獣人――狼男であった。
「な……なんだ、これは……!?」
百戦錬磨の真壁警部でさえ、目の前の光景に絶句し、驚愕の声を上げた。
だが、長年の警察官としての直感が、恐怖よりも早く彼の体を動かした。
咆哮を上げ、大地を蹴って凄まじい速度で突進してくる巨躯に対し、真壁は即座に懐へと手を伸ばした。
引き抜かれたのは、近年警視庁の私服警官用に配備が始まった最新鋭の自動拳銃――FN ブローニングM1910。
金属質の冷たい銃身が夜光を反射する。
真壁は極限の緊張感の中で銃口をブレさせることなく、迫り来る獣人の胸元へ狙いを定めた。
引き金が三度、躊躇なく引かれる。――タァン! タァン! タァン!夜の公園に、甲高い乾いた射撃音が三連発で響き渡った。
放たれた三発の.32ACP弾は、正確無比に狼男の胸部へと全弾命中した。
――だが。
「……馬鹿なッ!?」
真壁の口から、信じられないといった呻きが漏れた。
肉を穿つ鈍い音も、血の飛沫も上がらない。
弾丸はすべて、獣人の極厚な毛皮と鋼のごとき筋肉の表面で威力を殺され、カラン、カランと乾いた音を立てて力なく石畳の地面へ落下したのだ。
傷ひとつ負っていない狼男は突進を止め、二人の目の前で仁王立ちになった。
黄昏色に光る凶暴な瞳が、呆然と佇む真壁と秋一郎を交互に見下ろす。
そして、人道を外れた歪な口元をニタリと吊り上げ、二人を嘲笑うように不気味な低音で喉を鳴らした。
狼男は、目の前の人間が持つ火器が己の肉体にとって何の脅威にもならないと悟ったのだろう。
黄昏色の瞳に酷薄な光を宿すと、嘲笑うかのような低い唸り声を上げ、再び凄まじい脚力で突進を再開した。
狙いは、丸腰の秋一郎――。黒く太い腕がしなり、凶悪な鉤爪が刃物の如く夜風を切り裂いて秋一郎の脳天へと振り下ろされる。
「――危ない、先生ッ!!」
真壁警部が叫んだ。
瞬時に身を投げ出した真壁は、秋一郎の身体を全力で側方へと突き飛ばした。
間一髪のところで直撃を免れた秋一郎は、石畳の上へと転がり込む。
――しかし。
代わりにその一撃を受けたのは、秋一郎を庇った真壁自身であった。
――ズシャッ!!
肉と骨が凄惨に引き裂かれる嫌な音が夜の静寂に響き渡る。
狼男の凶爪は、真壁の背中を衣類ごと深く斜めに切り裂いていた。
「ぐっ、ぁぁッ……!」
激痛と衝撃に耐えかね、真壁の手からブローニング拳銃が滑り落ちる。
背中から鮮血を撒き散らしながら、真壁は地面へと激しく叩きつけられ、荒い息を吐きながら苦悶の声を漏らした。
「警部ッ!!」
秋一郎の口から悲痛な叫びが上がった。
狼男は倒れ伏した真壁を見下ろし、止めを刺さんと再び鉤爪を持ち上げる。
その凶行を阻止すべく、秋一郎は体勢を立て直す間もなく、無謀にも狼男の巨躯へと決死の突進を敢行した。
その右手には、懐から抜いた銀の万年筆が固く握られていた。
キャップは鋭く尖った意匠で、まるで小さな槍のように夜気を反射している。
「駄目だ……先生、逃げろ……ッ!」
血の泡を吐きながら叫ぶ真壁の声も虚しく、二メートル半を超える怪物にとって、秋一郎の体当たりなど揺らぎすらしない。
だが、秋一郎は構わなかった。
肩を鉤爪で浅く裂かれながらも、勢いのまま尖った銀のキャップを狼男の脇腹へ力任せに突き立てた。
――グァア…
銀が獣の肉に食い込んだ瞬間、狼男の顔が一気に歪んだ。
黄色い瞳に、明確な苦痛と、本能的な嫌悪が走った。
普段なら何ともない小さな傷のはずが、銀という異質な金属は、まるで灼熱の鉄を押し当てられたかのような反応を引き出したのだ。
「ガルルッ……!」
忌々しげに短く吠えると、狼男は巨大な前脚を伸ばした。ガシッ!太い指が、秋一郎の喉元を容赦なく締め上げる。
「ぐっ……!?」
呼吸を奪われ、秋一郎の身体が軽々と宙へと持ち上げられた。
脚が空を泳ぎ、視界が赤く染まっていく。
足元には、血の海の中で立ち上がることすらできぬ真壁警部。そして目の前には、命を刈り取らんと歪む猛獣の顔面。銀の万年筆は確かに一瞬の隙を生んだ。
だが、それだけでは圧倒的な力の差を埋めることなど到底できなかった。
逃げ場も、反撃の手段もない。
暗闇の公園で、二人は完全なる絶体絶命の危機に陥っていた。
――その時だった。
一つの影が、濃密な夜の闇を切り裂いて飛び出した。
あまりにも速い。
石畳を鋭く蹴る音が、一拍遅れて耳へと届くほどの超絶的な疾走であった。
「……!?」
狼男が異変を察して振り向くよりも早く、その小柄な影は一気に怪物の懐へと踏み込む。
そのまま地を強く蹴り、驚異的な跳躍力で夜空へと高く舞い上がった。
夜風に、美しい栗色の髪がふわりと舞う。
フリルとレースがあしらわれた可憐なスカートの裾が鮮やかに翻り、しなやかな右脚が美しい弧を描いた。
「――はぁっ!!」
裂帛の気合とともに解き放たれた回し蹴りが、狼男の太い首筋を正確無比に捉える。
――ドォォンッ!!
大木が薙ぎ倒されたかのような、凄まじい鈍音が響き渡った。
「ガァァッ!?」
狼男の喉から、今夜初めて苦悶の咆哮が迸る。
巨体が大きくよろめき、秋一郎の首を締め上げていた右腕が、衝撃で反射的に弾け開いた。
「が、はっ……!」
拘束を解かれた秋一郎は地面へ叩きつけられ、激しく咳き込みながら酸素を貪った。狼男は打たれた首筋を手で押さえながら数歩後退し、そのままズシンと重い音を立てて石畳へ片膝を突いた。
あり得ない光景であった。
先ほど真壁警部が近距離から叩き込んだ三発の.32ACP弾も、銀の万年筆を構えた秋一郎の決死の突進も、大した傷を負わずせず弾き返した凶悪な怪物が、たった一人の少女の蹴り一発で苦悶に喘いでいるのだ。
「な……っ……!?」
自分の血で濡れた石畳に手をつき、真壁は痛みに顔を歪めながらゆっくりと顔を上げた。
そして、その瞳を限界まで見開く。
「星守……嬢……!?」
そこに佇んでいたのは、先ほどまでリムジンで去ったはずの少女――星守瑠奈であった。
洗練された洋装のまま、肩を静かに上下させて息を整え、狼男との完璧な間合いを保ち続ける。
その澄んだ青い瞳には、つい先ほどまで夜会で見せていた可憐な令嬢の面影は微塵もない。
鋭く研ぎ澄まされた冷徹な戦士の眼差しが、眼前のごとき怪物を真っ直ぐに射抜いている。
少女然とした姿とは裏腹に、彼女の全身からは夜気を押し返すほどの圧倒的な気迫が静かに立ち上っていた。
狼男もまた、先ほどまでの余裕を完全に失っていた。
首筋を太い指で押さえたまま、黄色い瞳を凶暴に細める。
目の前に現れたドレス姿の少女を、己の命を脅かす、
「自分を滅ぼせる脅威」
として認識したかのように――。
ざわり、と夜風が吹き抜け、公園の木々をあやしく揺らした。
狼男は低く地鳴りのような唸りを上げると、怒りに満ちた咆哮を轟ませた。
「――ガアアアァッ!!」
大地を打ち砕かんばかりの勢いで瑠奈へと飛びかかる。
凶悪な鉤爪が、切り裂かれた夜気を引き裂く。だが。その必殺の一撃は、虚しく空を薙いだ。
「……!」
瑠奈はほんの半歩、しなやかに身体を捻っただけだった。
鋭い鉤爪は髪先をかすめることすらなく虚空を切り、石畳を深々と抉り取る。続く二撃、三撃――。
狼男は凄まじい速度で狂暴な鉤爪を振り回す。
しかし、そのすべてが空を切った。
瑠奈は決して大きく跳び退かない。
最小限の歩幅で踏み込み、身を翻し、紙一重の距離で死の攻撃をかわしていく。
レースを飾ったスカートの裾をふわりと揺らすその姿は、まるで広間で舞う舞踊家のように優雅であった。
「……なんという……っ」
血に濡れた石畳に身を横たえた真壁は、息を呑む。
先ほどまで自分たちを圧倒していた化け物が、少女一人をまるで捉えられない。
それどころか、完全に掌の上で翻弄されているのだ。狼男が大振りの一撃を放ち、姿勢を崩したその刹那。瑠奈はすっと一歩踏み込んだ。
そのまま可憐に腰を落とし、石畳へ転がっていた真壁のブローニング拳銃を拾い上げる。
「警部さん」
振り返ることもなく、静かな声が夜気に響いた。
「少し、お借りしますね」
まるで長年使い慣れた道具を扱うような、滑らかで自然な手つきであった。
瞬時に安全装置を確認し、正確な構えで銃口を狼男へ向ける。
次の瞬間――彼女の全身を、淡く蒼白い幻想的な光が静かに包み込み始めた。
光はしなやかな腕を伝い指先を滑り、固く握られたブローニング拳銃の金属身へと吸い込まれるように伝破していく。
「駄目だッ!」
真壁が叫んだ。
「そいつには拳銃なんて――!」
最後まで言葉は続かなかった。
瑠奈は迷うことなく、引き金を引いていた。
――タァンッ!
――タァンッ!
――タァンッ!
夜の公園を切り裂く三発の連続射撃。
弾き出された薬莢が、甲高い音を立てて宙に舞う。
放たれた三条の弾丸は蒼白い残光を引き、吸い込まれるように一直線に狼男の胸部へ命中した。
――ズンッ!!
重く鈍い衝撃音。
鋼の毛皮を誇っていた狼男の巨体が、初めて大きく仰け反った。
「ガァァッ!?」
苦悶の咆哮が響き渡る。
今度は弾丸が毛皮を穿ち、肉へと達していた。
散った灰色の毛皮とともに、黒ずんだ血飛沫が夜空へとしぶきを上げる。
狼男は胸を押さえるように大きくよろめき、怯えたように数歩後退した。
瑠奈は銃口を下ろさない。
「……やっぱり」
ふぅ、と小さく息を吐き出す。
「……普通の銃だと、力の乗りが悪い…」
その声音に漂うのは安堵ではなく、僅かな悔しさであった。
真壁はただ絶句するしかなかった。自分が至近距離から撃ち込んだ三発は、傷一つ付けることすらできなかった。
だが、全く同じ拳銃から放たれた瑠奈の銃弾は、怪物に確実にダメージを与えている。
近代科学と理性を信じてきた刑事の常識では、到底説明のつく現象ではなかった。
狼男もまた、その恐ろしい事実を理解したようだった。
黄色い瞳が瑠奈を睨み付ける。
先ほどまでの圧倒的な余裕は、跡形もなく消え去っていた。
そこに宿っているのは、凄絶な警戒――そして生き物としての本能的な恐怖。
低く唸ると、怪物は不意に身を翻した。
巨体とは思えぬ俊敏さで植え込みを飛び越えると、そのまま漆黒の闇の中へと消え去っていく。
静寂が、再び公園を包み込んだ。瑠奈はなお数秒間、銃口を闇へ向けたまま微動だにしない。
やがて静かに深呼吸をすると、ようやく構えを解いて肩の力を抜いた。
真壁は、呆然とそのドレス姿の背中を見つめていた。
彼が長年の警察人生で頑なに信じ続けてきた「世界の常識」が、この帝都の夜、静かに音を立てて崩れ去ろうとしていた。
狼男の凶悪な気配が夜の闇へと完全に消失したのを確認すると、
瑠奈は静かに構えを解いた。
「兄さま!」
手にしていたブローニング拳銃を、力なく横たわる真壁の傍らへそっと置く。
可憐なドレスの裾を揺らしながら、彼女は秋一郎の元へ駆け寄った。
「兄さま、大丈夫!? ……警部さんは……!?」
「僕は平気だ」
秋一郎は荒い息を吐きながらもなんとか立ち上がり、安心させるように小さく微笑んで見せた。
「ありがとう、瑠奈君。本当に助かったよ」
その温かな笑みは、すぐに苦悶に歪む真壁へと向けられる。
「すまない……警部の傷を見てやってくれ」
「うん!」
瑠奈は強く頷くと、真壁の前に身を投げ出すように膝をついた。
血に濡れた背広を慎重にめくり上げる。背中には、狼男の鉤爪が斜めに深く走り、肉を抉った生々しい傷口が開いていた。
赤黒い鮮血が、今なお脈打つように溢れ続けている。
「警部さん、じっとしていてください」
「……平気だ」
真壁は激痛を噛み殺し、警察官としての意地で身体を起こそうとした。
「傷も……それほど深くは――」
そこまで言いかけた瞬間、真壁の表情が一気に強張った。
「……ッ、何だ……これは……」
寒い。夜風の冷たさではない。身体の奥底から熱だけが奪われ、芯から凍りついていくような、おぞましい冷気。
真壁の頑強な身体が、ガタガタと激しく震え始めた。
瑠奈の顔が一変する。
「兄さま……」
秋一郎もまた、傷口が徐々に黒ずみ始めているのを見て、重く息を吐き出した。
「……やはりか」
真壁は血の気の引いた顔で、二人を見上げる。
「何か……この傷に、あるのか……」
秋一郎は静かに頷いた。
「西洋の獣人伝承には、共通するおそろしい特徴があります。……奴らは、傷を負わせることで『呪い』を伝播させる。そうやって、己と同じ怪物へと変貌させ、仲間を増やしていくのです」
その言葉に、真壁の顔から完全に血の気が失せた。
(……俺が)
(あんな怪物に……なっていくというのか)
黄色い瞳。歪んだ笑み。人を虫ケラのように見下すあの顔が、脳裏に鮮烈によみがえる。
悪寒とは違う、本能的な恐怖が背筋を駆け上がった。秋一郎は瑠奈へと静かに視線を送った。
「……頼めるかい」
「うん」
瑠奈は一切の迷いなく頷いた。
「怪我そのものを治すことはできませんけれど……」
血に染まる真壁の背中へ、華奢な手をそっと添える。
「――呪いを祓うことなら、『星守』の領分です」
まぶたを閉じた瞬間、彼女の指先から清廉で淡い蒼白い光が溢れ出した。
陽光のように温かく、湧き水のように澄み切った光が、生々しい傷口を優しく包み込んでいく。
「……っ!?」
真壁は大きく目を見開いた。命の底を蝕んでいたあのおぞましい冷気と、人間性が徐々に塗り替えられていくような絶望的な感覚が、光の浸透とともに嘘のように綺麗に霧散していく。
「……これは……」
傷の痛みは残っている。
血も止まってはいない。
だが、あの命を吸い尽くすような悪寒だけが、跡形もなく消えていた。
瑠奈は静かに息を吐き、手を離した。
「これで、呪いは綺麗に祓えました」
可憐な顔を和らげ、真壁を見つめる。
「ですが、お怪我そのものは別です。すぐにしかるべき治療が必要です。」
真壁はしばらく呆然としていた。
やがてハッとしたように秋一郎へ視線を向ける。
「……鳴神先生!」
必死に声を張った。
「鳴神先生にも……っ! 早く、同じ処置を……!」
秋一郎の左肩口の外套は引き裂かれ、鉤爪が浅く掠めた傷から血が滲んでいる。
真壁の深い裂傷に比べれば軽いが、決して無視できるものではなかった。
呪いなど、本来の真壁なら到底信じられるはずもなかった。
だが、つい今しがた己の肉体で体験してしまった以上、見過ごすことなど絶対にできなかった。
しかし――
秋一郎は、静かに首を横へ振った。
「……僕は、大丈夫です」
「なに……?」
真壁が不審そうに眉をひそめる。
秋一郎は苦く、どこか哀切を帯びた笑みを浮かべた。
瞳は深い夜の闇を映している。
「私はもう……」
ほんの少しだけ夜空を見上げ、呟くように言った。
「ずっと以前から……別の『呪い』を背負って生きています」
静かな、だが拒絶を許さない声。
「狼男の呪い程度では……それを上書きすることなど、出来ないのですよ」
あまりにも静かな口調だった。
だからこそ、その裏にある計り知れない重みが、深く真壁の胸を突いた。
真壁は息を呑み、言葉を失う。
瑠奈は秋一郎の横顔をじっと見つめた。
唇をぎゅっと強く噛み締め、握りしめた指先が小さく震えている。
澄んだ瞳には、溢れんばかりの悔しさと、どれほど強い異能を持とうとも兄と慕う男を救えないという無力感が切なく滲んでいた。
秋一郎はその小さな変化に気づくと、破顔して瑠奈の頭へそっと優しく手を置いた。
「……そんな顔をするんじゃない」
幼子を慈しむような、温かな声音。
「これも……僕が自ら選んだ道なのだから」
夜風だけが木々を静かに揺らし、二人を、そして呆然と立ち尽くす真壁を包み込むように、公園へとしずやかな静寂が戻っていった。




