第四章 樒男爵
春日男爵から
「屋敷を好きに見て回るといい」
という、破格の、そしてあまりにも無防備な許可を得た三人は、大広間を辞して館の本格的な探索へと向かった。
白髪の老執事に案内され、三人は重厚なマホガニーの扉をいくつも潜る。主人の蔵書が天井まで並ぶ書斎。
異国の植物が咲き誇る最新式のパノラマ温室。
冷気が心地よい地下のワイン蔵。
格式高い調度品が整然と並ぶ無数の客間――。しかし、一時間あまりをかけて丁寧に巡ったその結果は、あまりにも「完璧な徒労」であった。
「隠し部屋も、地下への怪しい抜け道も、本当に何ひとつございませんわね」
不可視の「霊糸」を四方に張り巡らせ、屋敷の構造を探っていた有栖は、小さく息を吐いた。
瑠奈もまた、持ち前の鋭い霊感を極限まで研ぎ澄ませていたが、悔しそうに肩を落とす。
「うん……怪異特有の、あの不快な『霊的残滓』すら全く感じられないわ。……兄さま、これって」
「ああ、そういうことだろうね」
秋一郎の声音には、客観的で冷徹な響きがあった。
「春日男爵は、本当に何もご存知ないんだ。彼は怪異の存在すら知らず、ただ純粋に若者たちの未来を想って場所を提供しているに過ぎない……。犯人は、そのあまりにも純粋な男爵の善意を『隠れみの』として利用しているんだろう」
大広間へと戻る長い回廊の途中。
瑠奈は周囲の気配を警戒しながら、有栖の耳元へそっと口を寄せた。
「ねえ、有栖姉さま。いっそのこと、あの広間にいる招待客全員に姉さまの『霊糸』を這わせて、強制的に正体を暴くことはできないかしら? 私たちの術を使えば、一発で化け物の化け皮を剥がせるでしょう?」
その問いに対し、有栖は即座に、きっぱりと首を横に振った。
「瑠奈さん、それは絶対に駄目です。……相手の能力も、この館に潜む『敵』の正確な人数さえ分かっていないのですよ? 万が一にも私の霊糸を察知されたら、私たちが何者であるかを瞬時に悟られてしまいます」
有栖の判断はどこまでも慎重だった。
「もし正体を看破された怪物が、追い詰められたと判断してその場で暴挙に出たらどうしますか? 広間には五十名もの、何も知らない無関係な参加者がいるのです。そのような場所で化け物が暴走すれば……最悪の場合、夜会が一瞬で血に染まることになります」
「……うん。そう、だよね……」
瑠奈自身、物理的にも霊的にも極めて隠密性に優れた有栖の糸が、そう簡単に敵に察知されるとは思っていない。
しかし有栖は、自らの異能を決して過信してはいなかった。
「魔の者とて、決して愚かではありません。普段から存在を誇示して歩くような真似はしないでしょう。今は互いに正体を隠し、暗闇の中で手探りをしている状態です。こちらから先に、大切な手の内を晒すわけにはまいりませんわ」
「相手が何か決定的な術を使うか……あるいは、向こうから尻尾を出してくれない限り、こちらからは手出しができないってことね……」
瑠奈は小さく腕を組み、深いため息とともに深く考え込んだ。
三人が大広間へ戻り、重いビロードのカーテンをくぐった――その瞬間だった。
甲高い破砕音が、華やかな広間の静寂を切り裂いた。床へ落ちたグラスが粉々に砕け散り、令嬢たちの短い悲鳴が重なる。
弦楽四重奏の演奏も途切れ、客たちの視線が一斉に広間の一角へと集まった。
「嫌っ……! 離してください、大澤様!」
騒ぎは、壁際に設けられた給仕卓の前で起きていた。
帝都でも指折りの実業家、大澤家の御曹司――大澤一郎が、一人の令嬢の腕を強く掴み上げている。
白い手袋越しにも、その指が異常な力で食い込んでいるのが分かった。
令嬢は顔を強張らせ、何度も腕を引こうと抗っているが、大澤は微動だにしない。
足元には砕けた硝子が散らばり、零れた赤ワインが磨き上げられた床を血のように濡らしていた。
初めのうち、周囲の客たちは酒席での不調法か、若い男女の些細な揉め事だと思っていたらしい。
「大澤様、失礼いたします……!」
令嬢も声を荒らげまいと必死に努め、顔を伏せてその場を離れようとしていた。
しかし、大澤の様子は明らかに常軌を逸していた。両の目の焦点は合っておらず、虚空を泳いでいる。
頬の筋肉は引き攣り、荒い息が喉の奥で喉鳴りを上げていた。額には玉のような汗が浮かび、仕立ての良い襟元までを濡らしている。
酔っているのではない。
怒っているのとも違う。
有栖はぴたりと足を止めた。大澤の身体の周囲に、ごく薄い「粘つくような濁り」が纏わりついているのを感じ取ったからだ。
怪異そのものの禍々しい気配ではない。
もっと人為的で、精神を揺さぶる術の痕跡――。
「有栖姉さま」
隣で瑠奈が低く呼ぶ。その声だけで、有栖にはすべてが伝わった。
瑠奈も気づいている。大澤は己の意志で暴れているのではないのだと。
「おい、大澤。いい加減にしろ!」
友人らしい青年が近寄り、大澤の肩へ手を掛けた。
「御令嬢が嫌がっているじゃないか。皆も見ているぞ!」
「そうだ、離して差し上げろ!」
別の青年も加わった、その刹那――。
「――うるさいッ!!」
大澤は、人間とは思えぬ獣のような咆哮を上げた。
肩へ触れた青年を乱暴に突き飛ばすと、掴んでいた令嬢を強く引き寄せ、そのまま腕を振り上げた。乾いた衝突音が響く。
令嬢の華奢な身体が横へ弾かれ、床へと無残に倒れ込んだ。
「きゃあっ!」
広間のあちこちから悲鳴が上がる。
大澤は倒れた令嬢を見下ろし、狂気に満ちた目でなおも拳を振り上げた。
――だが、その手が振り下ろされることはなかった。
大澤の太い腕を、瑠奈の細い手がしっかりと掴んでいたのだ。
誰も、彼女が駆け出した瞬間を目撃していなかった。
ただ次の瞬間には、倒れた令嬢を庇うように瑠奈が立ち、大澤の腕を受け止めていた。
華奢な少女の指に掴まれた大澤の腕が、空中でぴたりと静止し、微動だにしない。
周囲の客たちが息を呑む。瑠奈は力任せに捻り上げることも、大澤を責め立てることもしなかった。
狂気に濁った男の目を、瑠奈は真っ直ぐに見つめた。
「……私を見て」
その声には、聞く者の荒んだ心を穏やかに鎮める、不思議な鈴のような響きがあった。
瑠奈の青い瞳の奥で、淡い光が揺れる。
誰にも悟られぬほど極小の霊力が、視線と声を介して大澤の内側へと流れ込んでいく。
押し付けるような命令ではない。
力で意志を奪うものでもない。
何者かによって激しく掻き乱されたその心を、本来あるべき静けさへと導くための繊細な働きかけであった。
「それは……貴方が本当にしたいことではないでしょう?」
大澤の身体が、びくりと大きく震えた。
「思い出してください。今、自分が誰を傷つけようとしているのかを」
荒々しかった呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
腕に込められていた異常な力も、弛緩し始めた。
焦点の定まらなかった瞳が、ゆっくりと瑠奈の姿を捉える。
「わ、たしは……」
大澤の唇が震えた。そこに先ほどまでの凶暴さはない。
戸惑いと恐怖――自分が何をしていたのか理解できず、暗い悪夢から目覚めかけた人間の顔だった。
瑠奈はその変化を見逃さない。
「大丈夫です。ゆっくり息をなさって」
声をさらに和らげる。
「もう誰も、貴方を責め立てたりは――」
「――おいおい」
芝居がかった男の通る声が、瑠奈の言葉を無造作に遮った。
「うら若い淑女に手を上げるとは、帝都の紳士も形無しだな」
人垣を割り、一人の青年が悠然と進み出てきた。長身で、肩幅も広い。
仕立ての良い三つ揃いを身につけているが、襟元はわずかに崩され、髪も流行を意識して無造作に整えられている。
気障に見えかねない装いを、本人の堂々たる体格と自信に満ちた表情が、不思議なほど洗練された印象に見せていた。
青年は瑠奈の前へ出ると、大澤へ向かって不敵に口元を歪めた。
「女性に暴力を振るったままじゃあ、君も格好がつかないだろう?」
「あっ、待ってください!」
瑠奈が制止の声をあげる。
「この方は、もう……!」
だが青年は、その声が聞こえなかったかのように踏み込んみ大澤が反射的に腕を引いた、その些細な動きに合わせて青年の身体が沈む。
実に鮮やかな足運びであった。
大澤の重心を瞬時に外し、手首と肘を極める。
一連の動作に一切の淀みはなく、次の瞬間には大千秋楽の舞台のように、大柄な男の身体が床へ叩きつけられていた。
重い鈍音が響く。
「がっ……!?」
青年は倒れた大澤の背へ膝を乗せ、その右腕を容赦なく背後へ捻り上げた。
「大人しくしていろ」
朗々とした、余裕に満ちた声だった。
「頭が冷えるまで、しばらく床の冷たさでも味わっているといい」
客たちの間から、安堵のため息が漏れ出した。
「見事だ……!」
「助かった、ありがとう!」
「何という流麗な腕前だ!」
誰かが惜しみない賞賛の声を上げる。
青年はそれに応えるように、爽やかな笑みを口元に浮かべた。
一見すれば、危機へ果敢に飛び込み、乱暴者を鮮やかに取り押さえた英雄そのものの姿であった。
だが――瑠奈は笑わなかった。
「……腕を、少し緩めて差し上げてください」
声はあくまで礼儀正しく、表情も穏やかに保たれている。
それでも、その澄んだ青い瞳から温かさは完全に消え失せていた。青年が顔を上げる。
「まだ暴れるかもしれませんよ、お嬢さん」
「いいえ」
瑠奈は床へ倒れ伏す大澤へ視線を落とした。
彼の顔に浮かんでいるのは、もはや正気を失った狂気ではない。床へ押さえつけられた強い痛みと、突然の事態に対する混乱だけであった。
「この方は、すでに正気を戻ってます」
大澤の背へ容赦なく置かれた青年の膝を見つめる。
「必要以上に痛めつける理由はございませんわ」
声音は静かであったが、凛とした冷たさを含んでいた。傍らに立つ有栖には、瑠奈の胸の内が痛いほど分かった。
瑠奈は怒っているのだ。
自分が大澤の心へそっと働きかけ、誰ひとり傷つかない形で収めようとしていた矢先に、この青年は力任せに割り込んできた。
しかも、正気を取り戻しかけていた男を、大勢の観客の前で見せしめるように床へ叩き伏せたのだ。
「事態を収めるための必要な処置だと思いましたがね」
青年は悪びれる様子もなく答えた。
「この男が女性を殴ったのは動かしがたい事実でしょう?」
「行為の表面だけを見れば、そうかもしれません。ですが――」
瑠奈が反論を重ねようとした瞬間、有栖がそっとその袖を引いた。
これ以上、衆目の前で言い争いを続ければ、瑠奈が裏でどのような術を行使していたのかまで詮索されかねない。
瑠奈も瞬時にそれを察し、すっと唇を閉じた。
ただ、その冷ややかな視線だけは青年から外さなかった。
有栖は床へ倒れた大澤へそっと意識を集中させる。
先ほどまで彼を包んでいたあの濁った気配は、いまや急速に霧散していた。
瑠奈の力が届いたからだけではない。
大澤を裏で狂わせていた何者かの干渉そのものが、役目を終えたかのように潮が引くように退いていっているのだ。
まるで――この広間全体で大騒ぎを起こすこと自体が、最初からの目的であったかのように。
有栖は青年へと視線を移した。彼から直接、怪異の気配は感じられない。
少なくとも、露骨な穢れや悪意ある力を身に纏っているわけではなかった。
だが、それは彼が無関係であることを意味しない。
登場のタイミングが、あまりにも完璧すぎたのだ。
瑠奈が術によって騒ぎを穏やかに収めようとした、まさにその最高潮の瞬間に現れた。
そして人々の視線を一人占めする形で、派手に大澤を取り押さえた。
単なる偶然なのか。
それとも――。
「……随分と鮮やかなお手際ですね」
秋一郎が静かに口を開いた。
その声音はいつものように穏やかだったが、目は一切笑っていなかった。
青年は大澤を押さえつけたまま、秋一郎を見上げる。
「少しばかり、武芸の心得がありましてね」
「『少し』、ですか」
「失礼。あまりにも鮮やかな立ち回りでしたのでね」
秋一郎は冗談めかして肩をすくめてみせる。
「台詞も、間合いも、足さばきも。まるで活動写真の名場面を見ているようでしたよ」
周囲の何人かが、緊張のほぐれたように小さく笑った。
青年も口元を緩める。
「お褒めにあずかり光栄です」
「ええ。今のところは、ね」
秋一郎は柔らかく微笑みを返した。
だが、その脳内では極めて冷徹な推論が組み上げられていた。
この青年は、騒ぎが起きてから駆けつけたのではない。
少なくとも、大澤が瑠奈に腕を掴まれるより前の段階から、じっと状況を観察していたはずだ。
それにもかかわらず、令嬢が殴り倒されるまで静観し、最も自分が引き立つタイミングを図って介入した。
瑠奈の行動で穏やかに事態が収束するのが、都合悪かったのだろうか?
それとも、単に英雄気取りの男が好機を狙っていただけなのか。
いずれにせよ、一連の振る舞いは出来すぎている。
まるで自分が『英雄』として舞台へ立つための筋書きを、最初から知っていたかのように――。
その時、人垣を掻き分けて春日男爵と屋敷の使用人たちが駆けつけてきた。
「何事だ! 一体何が起きた!?」
「大澤様が突然、ご乱心を起こされまして……!」
客たちが口々に状況を説明し始める。青年はようやく大澤の腕を解放した。
立ち上がるその動作ひとつ取っても、余裕に満ちた優雅な笑みを崩さない。
乱れた上着の袖口を品良く整え、周囲の華族たちへ軽く会釈してみせる。
その完璧な立ち振る舞いに、再び観客から感嘆の声が漏れた。
瑠奈は倒れた令嬢の傍らへ素早く膝をつき、その痛々しく赤くなった頬をそっと確かめていた。
「お痛みになりますか?」
「え、ええ……少し……」
「すぐに氷で冷やしていただきましょうね。……ほかにお怪我はございませんか?」
令嬢を優しく気遣いながらも、瑠奈は一度だけ立ち上がった青年へ視線を送った。
表面上は柔らかい笑みを保っていたが、その青い瞳の奥は氷のように冷えていた。
有栖もまた、青年の指先から衣服の皺ひとつに至るまで、静かに観察を続けている。
秋一郎はわずかに目を細めた。三人が抱いた違和感の理由は、それぞれ異なっている。
瑠奈は、傷ついた男を容赦なく踏みにじったその無神経な力に。
有栖は、残された精神干渉の痕跡と、出来すぎた登場のタイミングに。
秋一郎は、計算し尽くされた舞台役者のような作為的な振る舞いに。
華やかな夜会の中心で、誰からも惜しみない賞賛を浴びる青年。
その輝かしい姿だけを見れば、疑う理由など何ひとつ存在しない。
大澤を使用人たちへ引き渡すと、広間に張り詰めていた緊張はゆっくりと和らいでいった。
「お見事でしたな」
「まるで冒険小説の主人公のような見事な腕前だ」
「いやあ、本当に助かりましたよ」
周囲から口々に賞賛の声が飛ぶ。青年は気負った様子もなく、軽く肩をすくめてみせた。
「大げさですよ。可憐な女性が危険な目に遭っていた以上、男として見過ごすわけにはいかなかっただけです」
その爽やかな笑みに、周りの若い令嬢たちからぽっと溜息が漏れる。青年は周囲へ悠然と視線を巡らせると、まっすぐ瑠奈の前まで歩み寄ってきた。
胸へ右手を当て、優雅に一礼する。
「申し遅れました」
顔を上げると、そこには精悍な笑みが浮かんでいた。
「月島圭吾と申します。帝都で貿易会社を預かっております」
瑠奈も淑女としての礼儀を崩さず、静かに頭を下げる。
「星守瑠奈と申します」
「先ほどは失礼いたしました」
圭吾は穏やかに笑った。
「あなたが彼を落ち着かせようとしておられたことは、重々理解しております」
一拍置き、彼は少しだけ困ったように肩をすくめてみせる。
だが、その笑みは崩さない。
「ですが……私には、あなたに命の危険が迫っているように見えました。危険を承知で女性が前へ出ているというのに、男が後ろで手をこまねいて眺めているわけにもいかないでしょう?」
圭吾は悪びれる様子もなく言葉を続けた。
「その結果、少々お邪魔立てをしてしまったようですね」
「……」
「ですが助けに入った私へ、あれほど冷ややかな目を向けられては少々身につまされます。英雄というのも、なかなか楽ではありませんね」
冗談めかした軽妙な口調に、周囲の客人たちから苦笑が漏れた。
「相変わらずだな」
と若者たちが笑い始める。
場を瞬時に和ませる、手慣れた話術であった。瑠奈は一瞬だけ沈黙した。
(……違うわ)
胸の奥の不快感は、少しも消えていない。
大澤は暴漢である以前に、何者かの不穏な術によって理性を奪われた被害者だったのだ。
あともう少しで、誰も傷つけずに正気へ戻すことができた。
それにもかかわらず、この青年は最も自分が目立つ形で割り込み、正気を失った男を力任せに床へ叩き伏せた。
相手が裏の事情を知らない以上、面と向かって責め立てることはできない。
だが、納得などできるはずもなかった。それでも瑠奈は決して表情を崩さない。
極上の微笑を浮かべたまま、静かに答えた。
「危険を顧みずお助けくださったお気持ちには、深く感謝申し上げます」
その答えに、圭吾は満足そうに深く頷く。
「それを伺えて安心いたしました」
そう言うと、芝居がかった手つきで再び胸へ手を当てた。
「でしたら、そのお礼……というほどではありませんが」
柔らかく甘い笑みを浮かべる。
「騒ぎも収まりましたし、あちらで少しお話しでもいかがですか?」
彼が指したのは、月明かりの差し込む窓際のソファだった。
「美しいご令嬢と歓談できれば、今日の苦労も報われます」
周りの令嬢たちから、きゃっと小さな歓声が上がった。
「まあ……」
「大胆なお方……」
青年らしいストレートで情熱的な誘い。
嫌味はなく、むしろ自然で親しみやすい。
だからこそ、無下に断るのが難しい。
瑠奈は一瞬だけ秋一郎へ視線を送った。
秋一郎は何も言わず、ただ静かに頷いて見せる。
瑠奈は再び圭吾へ向き直った。
「お誘い、大変光栄に存じます」
声はあくまで穏やかで品があった。
「ですが本日は、鳴神先生のエスコートでお邪魔しておりますので」
軽く会釈を添える。
「申し訳ございませんが、どうかご容赦くださいませ」
今日の夜会において、自分にはパートナー(エスコート)がいる――断り方としては、完璧な礼儀にかなっていた。
だが。圭吾は引かなかった。
「ほんの十分ほどでも?」
「申し訳ございません」
「おや、私は嫌われてしまいましたかな?」
彼は笑っている。
だが、その笑顔の奥底に、一瞬だけ粘つくような執着が覗いた。広間の空気が再び微かに張り詰める。
秋一郎が助け船を出そうと一歩前へ踏み出そうとした、その時であった。
「そこまでにしなさい、月島君」
落ち着いた低い声が、会話を遮った。人垣が自然と左右に割れていく。
一人の紳士が、静かな足取りで歩み寄ってきた。年齢は二十代後半ほどだろうか。
中性的な端正な顔立ちに、品良く仕立てられた漆黒の燕尾服。
決して華美ではないが、その洗練された立ち居振る舞いには、生まれながらに身についた高貴な矜持が漂っていた。
彼が姿を見せるやいなや、周囲の客たちは一様に一目置いて道を譲る。
「樒男爵……」
「樒様だ……」
囁き声が広間に波紋のように広がる。
男は穏やかな微笑みをたたえたまま、圭吾の隣へと立った。
「若く美しい方と親しくなりたい気持ちは分かります」
口調は至って柔らかい。
「ですが、淑女がお断りになった以上、それ以上の追及は紳士の嗜みとは言えませんよ」
圭吾は参ったというように苦笑した。
「これは手厳しい……」
「君は昔から、少々熱くなりすぎるきらいがありますからね」
叱責というよりは、年の離れた兄が弟を優しく諭すような声音であった。
圭吾も素直に頭を掻いてみせる。
「確かに、男爵のおっしゃる通りです」
圭吾は瑠奈へ向き直ると、深く一礼した。
「失礼いたしました」
今度は、潔く一歩身を引いた。樒男爵は、瑠奈へ向けて静かに頭を下げた。
「部下がご無礼をいたしました」
静謐な笑みを浮かべる。
「私は樒惣介と申します。樒商会の代表を務めております」
秋一郎の眉が、わずかに動いた。
帝都で急速に勢力を拡大している新進気鋭の貿易商社――その名くらいは当然知っていた。
「圭吾君には我が社の事業を任せているのですが……」
惣介は困ったように苦笑してみせる。
「どうにも愚直で、一直線な性分でしてね」
圭吾も照れくさそうに頭を掻いた。
「男爵、それ以上はご勘弁ください」
「ふふ、失礼」
惣介は軽く短く笑った。その物腰には、人々の警戒を瞬時に解く不思議な安心感があった。
押しつけがましさが一切なく、相手に自然な逃げ道を与える流麗な話術。
先ほどまで漂っていた嫌な緊張感は、彼が現れただけで嘘のように雲散霧消していた。
「星守様」
惣介は瑠奈へ温かな眼差しを向けた。
「本日は思わぬ災難でしたね」
「いいえ」
瑠奈も礼を尽くして返す。
「ご配慮、ありがとうございます」
「どうか今夜が、嫌な思い出だけで終わりませんように」
そう言って朗らかに微笑む惣介の姿は、高い教養と品格を兼ね備えた、理想的な青年貴族そのものであった。
その場にいた誰もが、自然と彼に対して深い好感を抱いたはずだ。
――だが有栖は、惣介の完璧な微笑をどこまでも静かに見つめ続けていた。
その笑顔には何の綻びもない。
霊的な異変や、怪異の気配も一切感じられない。
だが――だからこそ。
有栖の胸の奥底には、言語化できない小さな違和感が、冷たい棘のように鋭く刺さっていた。
樒惣介――。その名を耳にした瞬間、有栖の胸の中に密かな引っ掛かりが生まれた。
(……樒男爵……)
直接言葉を交わしたことはない。だが、その顔には見覚えがあった。数年前。
欧州大戦が終結し、帝国中を湧かせた空前の戦争景気が終息を迎えると、それまで飛ぶ鳥を落とす勢いだった新興の実業家たちは、次々と苛烈な苦境へと追い込まれていった。
樒男爵家もまた、その波に呑まれた一族であった。事業資金の援助を求め、父――護法院伯爵のもとを極秘に訪れた青年華族。
応接室の片隅で、有栖はその姿を一度だけ目撃している。細身で、病的なほど色白。
神経質そうにシルクハットの縁を何度も指先で握り締め、終始うつむき加減であった。
声も蚊の鳴くように小さく、己の主張を口にすることさえ躊躇うような、どこか頼りなく痛々しい青年。
それが、有栖の抱いた「樒惣介」という男の第一印象だった。
その日の夕食の席で、父は珍しく仕事の話題を口にした。
『あの青年は、決して悪人ではない。むしろ真面目すぎるくらいだ』
銀のナイフとフォークをテーブルへと静かに置きながら、父はそう言った。
『ですが、お断りになったのですか?』
『ああ』
伯爵は静かに頷いた。
『一度事業を整理し、出直すための援助なら、いくらでも力を貸そう。……だが、無謀な経営をただ引き延ばすための資金は出せない』
そう言って、父は少し寂しそうに目を細めていた。
『青年華族によくあることだ。家柄と時流に恵まれただけで、泥を啜って商売を学んできた者ではない。今のままどれほど資金を 注ぎ込んだところで、いずれ同じ過ちを繰り返すだけだ』
それが、見識ある父の冷徹な判断であった。
有栖もまた、その判断に納得していた。
あの時の樒惣介には、商会を率いるだけの手腕も度量も、欠片ほど感じられなかったからだ。
ところが――。いま目の前に立つ男は、まるで「別人」であった。姿形は確かにあの男だ。
端正な顔立ちも、品のある柔らかな物腰も変わってはいない。
だが、人というものは立ち居振る舞いひとつで、ここまで雰囲気が様変わりするものなのだろうか。
背筋はすっと美しく伸び、その眼差しに揺らぎはない。
対面する者を自然と安心させる穏やかな微笑みを絶やさず、それでいて、場の空気そのものを完全に掌握している。
先ほどまで張り詰めていた広間が、彼の一言で嘘のように穏やかさを取り戻したのが、その何よりの証左であった。
(……まるで)
一瞬、有栖は思考を巡らせた。まるで、長年にわたって数多の人間を従え、率いてきた絶対的な指導者のようだ。
数年前の、あの気弱で影の薄かった青年とは到底結びつかない。もちろん、人は変わる。
苛烈な苦難を乗り越え、成功体験を重ねれば、確固たる自信も身につくかもしれない。
それだけの話なのかもしれない。
だが――。
(……ここまで、根底から変わり得るものでしょうか)
その根深い疑問は、有栖の胸から消えてはくれなかった。
樒惣介は瑠奈と言葉を交わし終えると、自然な笑みを浮かべたまま、今度は有栖の方へと向き直る。
「失礼いたしました。護法院様でいらっしゃいますね」
有栖は優雅な微笑みを崩さず、静かに一礼した。
「樒男爵様。初めてご挨拶申し上げます」
「いいえ」
惣介は穏やかに首を振る。
「こちらこそ、ご令嬢にご挨拶申し上げる機会をいただき、大変光栄に存じます」
その受け答えも実に流麗で、一片の隙もなかった。
だが、有栖は彼の微細な表情や眼差しの動きを静かに観察していた。言葉に一切の淀みはない。
目線も落ち着き払っている。
かつて父の前で、すがるように帽子を握り締めていたあの青年の面影は、どこを探しても見当たらなかった。
――まるで、皮を剥ぎ取ったかのような別人。
その直感が、有栖の胸中で確信へと変わりつつあった。
もちろん、それだけの理由で人を罪人扱いすることはできない。
倒産の危機から事業を立て直したという強烈な体験が、彼をここまでたくましく成長させた可能性もある。
そう解釈することもできなくはない。だが、有栖は幼い頃から父に教え込まれてきた。
――人は一朝一夕には変わらない。
人格とは、試練によって磨かれることはあっても、根底から別人へと生まれ変わるようなものではない、と。
父のその教えが、いま目の前で穏やかに微笑む樒惣介を見つめるたび、冷たい違和感となって有栖の胸の奥で静かに疼き続けていた。




