第三章 夜会
三日後 夕刻
初夏の陽射しが、並木道を柔らかく茜色に照らしている。
帝都・麹町区。
この一帯は、多くの華族が邸宅を構える閑静な高級住宅街である。
重厚な石造りの洋館が緑豊かな庭園の奥に並び、その前の通りを高級自動車や人力車が静かに行き交っている。
中でも、春日男爵邸はひときわ堂々とした門構えを誇っていた。
高い石柱。
精緻な装飾を施した鉄扉。
その向こうには、手入れの行き届いた庭園と、灰白色の洋館が木々の間から覗いている。
護法院家のロールス・ロイス・シルヴァーゴーストが、正門前へ音もなく停車する。
運転士が後部座席の扉を開く。
最初に有栖。
続いて瑠奈。
最後に秋一郎が車を降りた。
有栖は帽子の位置を整えながら、隣に立った秋一郎を見上げる。
「兄さまは、ご同行なさらなくてもよろしかったのですよ?」
瑠奈も腕を組み、楽しそうに頷いた。
「そうそう。万が一、そのハンサムなお顔に傷でもついたら大変だもの。兄さま、お婿に行けなくなっちゃうわ」
秋一郎は思わず苦笑した。
「……それは僕を心配してくれているのかな。それとも、足手まといだと言いたいのかな?」
「もちろん前者ですわ」
有栖は涼しい顔で即答する。
「……たぶんね」
瑠奈が悪戯っぽく付け加えた。
秋一郎は小さく肩をすくめた。
「ありがたいような、ありがたくないような」
そう言って上着の内ポケットへ手を入れる。
取り出したのは、一通の封筒だった。
深紅の封蝋。
西洋風の紋章。
昨日、桜庭綾子の寝室で見つかったものと、まったく同じ意匠である。
「それにね」
秋一郎は封筒を軽く掲げた。
「春日男爵とは以前から面識があるし、正式な招待状を持っているのも僕だけだ」
「君たち二人だけで突然訪ねるより、僕が一緒にいた方が自然だろう?」
有栖は小さく頷く。
「それは確かに」
秋一郎は声を落とした。
「もし夜会そのものに何か関わりがあるのなら、こちらが調べに来たと悟られない方がいい」
瑠奈の表情から笑みが薄れる。
「……屋敷の中に犯人がいる可能性もあるから?」
「犯人とは限らない。協力者かもしれないし、僕たちがまだ知らない何者かかもしれない」
秋一郎は招待状をしまった。
「だからこそ、今は普通の客として振る舞う方がいい」
有栖が静かに息を吐く。
「分かりました」
瑠奈はなおも不満そうだった。
「でも、兄さまを危険な目に遭わせるのは――」
言い終わるより早く。
「――護法院嬢! 星守嬢!」
腹の底まで響くような野太い声が、静かな邸宅街へ轟いた。
三人が同時に振り返る。
「また君たちか!」
鉄扉の向こうから、数人の刑事を従えた男が大股で歩いてくる。
仕立ての良い黒い背広。
鍛えられた体躯。
鋭い眼光と、威圧感のある口髭。
警視庁刑事部捜査課警部――真壁剛造。
有栖と瑠奈は顔を見合わせた。
「……またお会いしましたわね」
「今日は怒られないといいけど……」
瑠奈が小声で囁く。
「聞こえているぞ」
真壁の低い声が返ってきた。
瑠奈がぴたりと口を閉じる。
真壁は三人の前まで来ると、仁王立ちになった。
まず視線を向けたのは秋一郎である。
「……そちらは?」
秋一郎は少しも気圧された様子を見せず、穏やかに一礼した。
「初めまして。東京帝国大学文学部、民俗学研究室の鳴神秋一郎と申します」
「春日男爵とは旧知の間柄でして。本日はご挨拶も兼ねて、夜会へ伺う予定です」
真壁の視線が、秋一郎の手元へ落ちる。
そこには先ほどの招待状があった。
深紅の封蝋を一瞥し、今度は有栖と瑠奈を見る。
「……なるほどな」
低く唸る。
「今度は学者先生まで連れてきたというわけか」
「連れてきた、というより」
秋一郎が苦笑する。
「僕が自分から付いてきたのですが」
「似たようなものだ」
真壁は鼻を鳴らした。
その口調には呆れが混じっている。
しかし、完全に不機嫌というわけでもなかった。
むしろ昨日とは違い、三人を頭ごなしに追い払う気はないらしい。
真壁は周囲を見回した。
通りを行く者が遠ざかったのを確認すると、声を落とす。
「……実は、我々もすでに春日男爵とは面談している」
三人の表情が引き締まった。
「男爵は事件のことを聞いて、本気で驚いていた」
「夜会についても、西洋文学や芸術を好む若者たちへ交流の場を提供しているだけだ、と説明しておられる」
秋一郎が静かに頷く。
「私が以前参加した際も、そのような集まりでした」
「だろうな」
真壁は苦い顔をした。
「だから困っている」
一度言葉を切る。
「男爵本人にも、屋敷にも、今のところ犯罪を示すものは見つかっていない」
有栖が尋ねた。
「招待客については?」
「名簿は確認した」
「今年に入って開催された全ての夜会について出席者を洗っている。だが今のところ、これといった人物は浮かんでいない」
真壁は腕を組んだ。
「ただし――」
声がさらに低くなる。
「これは独り言だ、勿論、他言無用だぞ」
三人が黙って続きを待つ。
「現在、同じように姿を消した良家の令嬢は、我々が把握しているだけで六名いる」
瑠奈の目が大きく見開かれた。
「六人……?」
「そうだ」
真壁は頷いた。
「そして六名全員が、失踪以前に春日男爵の夜会へ出席している」
有栖の表情が固まる。
「全員……」
「開催日は同じではないが」
真壁は続けた。
「何度か開かれた夜会の、いずれかに参加している。招待状も残されていた」
「桜庭嬢だけじゃない」
秋一郎の目が細くなる。
「つまり警察としても、春日男爵のサロンを共通点として見ているわけですね」
「そういうことだ」
「だから男爵にも事情を聞いたし、招待客についても調べている」
「だが、それだけだ」
真壁は重々しく頷いた。
「夜会に出席したというだけでは、誰も犯人扱いできん」
視線を春日邸へ向ける。
「華族だから、富豪だからという話だけじゃない。証拠もなしに客を片っ端から連れていって取り調べるような真似は、警察のすることじゃない」
有栖は静かに頷いた。
「当然です」
秋一郎が少し考え、口を開いた。
「でしたら」
真壁を見る。
「私たちは予定通り、今夜の夜会へ参加します」
真壁の眉が動いた。
「捜査の真似事をするつもりか」
「いいえ」
秋一郎は穏やかに首を振った。
「正式な招待客として春日男爵へご挨拶をし、いつも通り夜会へ参加するだけです」
「ただし」
少しだけ表情を引き締める。
「もし不審な人物や出来事に気付けば、警部殿へお知らせします」
真壁は黙った。視線だけが秋一郎を値踏みするように動く。
やがて、大きく息を吐いた。
「……警察から君に捜査を頼むわけにはいかん」
「ええ」
「民間人を危険な場所へ送り込んだ、などという話になれば、こちらの責任問題だ」
秋一郎は微笑んだ。
「承知しています」
「だが」
真壁は春日邸の門へ目を向けた。
「君が招待客として夜会へ出ることまで、俺に止める権限はない」
秋一郎が小さく会釈する。
「十分です」
「ただし、条件がある」
真壁の視線が有栖と瑠奈へ移った。二人とも、自然と姿勢を正す。
「何か異変を感じたら、無理に調べようとするな」
低く、はっきりとした声だった。
「すぐに屋敷を出ろ」
「我々は夜会が終わるまで、この周辺で待機する。何かあれば、すぐに動けるようにしておく」
有栖が答える。
「承知いたしました」
瑠奈も頷いた。
「約束します」
真壁はまだ何か言いたそうに二人を見ていた。やがて、少しだけ声音が和らぐ。
「……これは警察官として言っているんじゃない」
一拍置く。
「ひとりの大人としての頼みだ」
瑠奈が少し目を丸くした。有栖は深く頭を下げる。
「お気遣い、ありがとうございます」
「本当に無茶はするなよ」
「はい」
瑠奈も今度は冗談を挟まず、真剣に答えた。
真壁は照れ隠しのように咳払いを一つした。
それから部下たちへ振り返る。
「屋敷の周囲を確認しろ。人目につかん場所で待機」
「出入りする者は記録しておけ。ただし余計な刺激はするな」
「はっ!」
刑事たちがそれぞれ散っていく。
物陰。街路の角。停められた自動車の傍。
一見すれば、そこに警察の目があるとは分からない程度の位置へ配置されていった。
秋一郎はその様子を見届けると、春日邸の門へ向き直った。
「では」
いつもの穏やかな笑みを取り戻す。
「そろそろ参りましょうか」
有栖と瑠奈が頷く。
三人は並んで歩き出した。
門の向こうには、手入れの行き届いた庭園が広がっている。
初夏の陽光。青々とした木々。静かに佇む洋館。
どこから見ても、穏やかな華族の屋敷にしか見えない。
その場所が、六人の令嬢の失踪に共通する唯一の手掛かりであることを除けば。
三人は重厚な鉄扉をくぐった。
その先に何が待っているのか。
まだ誰にも分からなかった。
門番は秋一郎の差し出した封筒を受け取り、封蝋と宛名を念入りに確認する。
「東京帝国大学の鳴神秋一郎です。春日男爵の夜会へ、お招きいただいております」
「お待ちしておりました、鳴神先生」
門番は有栖と瑠奈へ目を向けた。
「こちらのお二方は?」
「私の同伴者です。護法院伯爵家の有栖嬢と、星守伯爵家の瑠奈嬢です」
二つの家名を聞いた門番は、わずかに姿勢を正した。
「承知いたしました。どうぞお通りください」
鉄製の門扉が、低い音を立てて開いていく。
三人は敷地へ足を踏み入れた。
左右には幾何学模様に刈り込まれた生垣が続き、その間を白い砂利の馬車道が洋館へ向かって延びている。庭園では色とりどりの薔薇が咲き、遠くから弦楽器の音色がかすかに聞こえてきた。
外から見る限り、そこに不穏なものは何一つない。
教養ある若者たちが集う、穏やかな午後の社交場。
ただそれだけに見えた。
正門からいくらか離れたところで、瑠奈が声を潜めた。
「兄さま」
「何だい?」
「真壁警部のお話です。失踪した令嬢は、六人全員がこの夜会へ招かれていた……」
「ああ」
秋一郎は歩みを緩めずに答えた。
「警察が夜会との繋がりを疑うのも当然だろうね」
「でも、有栖姉さまが女学園へお誘いしていたのは、綾子さん達だけなのでしょう?」
有栖が頷く。
「ええ。ほかのお二人のお名前すら、私は存じません」
「もし、そのお二人にも高い霊的素養があったとしたら……」
瑠奈の声が途切れる。
誰も、その先を口にはしなかった。
四人の令嬢。
四通の招待状。
そして、そのうち少なくとも二人が秘めていた、常人を上回る霊的な素養。
偶然と呼ぶには、共通点が重なりすぎている。
「まずは人となりを見ることだ」
秋一郎が静かに言った。
「先入観を持てば、何でも怪しく見えてしまう。今は、誰が何を知っているのかを確かめよう」
「はい」
有栖は答えながら、正面の洋館を見上げた。
開け放たれた玄関扉の向こうでは、白手袋を着けた使用人たちが客を迎えている。
笑い声と音楽。
華やかな装いの若者たち。
その穏やかな光景のどこかに、四人の令嬢を連れ去った者が紛れ込んでいるのかもしれない。
三人は短く視線を交わした。
そして何事もない客を装い、屋敷の重厚な玄関扉へと一歩を踏み出した。
差し出された招待状を執事は一目見ると、柔らかく頭を下げた。
「鳴神先生、お待ち申し上げておりました。どうぞこちらへ」
有栖と瑠奈にも、洗練された動作で丁重な一礼が向けられる。
「護法院様、星守様もようこそお越しくださいました」
重厚な両開きの扉が音もなく開かれた。三人は静かに屋敷の中へと足を踏み入れる。磨き上げられた寄木細工の床。
高い天井から吊り下げられた幾つものシャンデリア。
壁一面には西洋絵画や古風な甲冑、東洋の美術品が違和感なく並び、主人の深い教養と財力を静かに物語っていた。
弦楽四重奏の穏やかな調べが館内に流れ、客人たちの談笑と心地よく重なり合っている。
執事に案内され、三人は夜会の会場である大広間へと足を踏み入れた。そこには、およそ五十名ほどの男女が集っていた。
その過半数は二十代前後の未婚の華族や名家の子息、令嬢たちである。
この夜会は単なる文化交流の場にとどまらず、良家の若者たちにとっては将来を共にする伴侶と巡り会う社交の舞台でもあった。壁際では数人の青年が、熱を帯びた口調で新しい芸術について論じ合っている。
「ピカソのキュビスムは、対象を一方向から捉える旧来の芸術を完全に否定した革命ですよ」
「いや、私はドイツ表現主義の方が時代を映していると思いますね。あの歪んだ色彩こそが、人間の内面を描き出している」
少し離れた場所では、活動写真について語る若者たちの輪ができていた。
「活動写真は、やがて演劇を超える芸術になるでしょう」
「いや、無声映画には限界がありますよ。やはり舞台特有の臨場感には敵わない」
「それもあと十年ですよ。私は、いずれ映像そのものに声が吹き込まれる時代が来ると思っています」
あちらでは英国文学。こちらでは最新の航空技術。さらに奥では、大戦後の欧州経済について白熱した議論が続いていた。誰の表情にも影はない。
帝都を騒がせる令嬢失踪事件など、自分たちとは無関係の遠い世界の出来事。
そう信じ切っているかのように、華やかな笑顔と談笑が広間を満たしていた。瑠奈はその光景を静かに見渡した。
「……皆さん、本当に事件のことなんてご存じないみたいですわね」
小さく呟く声に、秋一郎も頷く。
「春日男爵の夜会は昔から教養人の集まりだからね。招待客の多くは純粋に文化交流を楽しみに来ているだけだろう」
有栖は何も言わず、会場全体をゆっくりと見回していた。一人ひとりの立ち居振る舞い。視線。笑顔。談笑の輪。
誰ひとりとして不自然な様子は見当たらない。
――だけど。(……誰であれ、演じることはできますわ)心の中だけで静かに呟く。
仮に犯人がこの中に潜んでいたとしても、顔色だけでそれを見抜くことは不可能なのだ。
秋一郎は何人かの知人に呼び止められ、そのたび穏やかな笑みを浮かべて軽く言葉を交わした。
「鳴神先生、おかえりなさい」
「倫敦はいかがでしたか?」
「飛鳥での旅のお話を、またぜひお聞かせください」
「ええ、落ち着きましたらまた是非」
長話にならない程度に挨拶を済ませ、三人はそのまま広間の奥へと歩を進めた。そこには、一人の老紳士が静かに椅子へ腰掛けていた。
白髪を綺麗に撫でつけ、上質な燕尾服に身を包んだ老人。
この夜会の主催者――春日男爵であった。春日男爵は三人が近づいてくるのに気づくと、穏やかに目を細めた。
「おや、鳴神君」
低く柔らかな声だった。
「珍しいね。両手に花とは……今宵はどうしたのかね」
男爵の視線が、秋一郎の左右に立つ有栖と瑠奈へ向けられる。
驚きと、それ以上に愉快そうな色がその顔に浮かんでいた。
秋一郎は少し困ったように笑みを浮かべる。
「いえ、実は今夜は、私の方がお二人の付き添いのようなものでして」
「ほう?」
春日男爵が興味深げに白眉を上げた。
その前へ、有栖が一歩進み出る。背筋をすっと伸ばし、優雅に一礼した。
「ご機嫌よう、春日男爵様。護法院有栖と申します」
続いて瑠奈も、軽やかでありながら洗練された所作で頭を下げる。
「ご機嫌よう、男爵様。星守瑠奈と申します」
その名を聞いた瞬間、春日男爵の表情に驚きが走った。
「これは、これは……」
男爵はすぐに品の良い笑みを浮かべ直す。
「今を時めく大華族のご令嬢がお二人も。今宵はずいぶんと華やかな夜になりましたな」
男爵は楽しそうに小さく笑った。
その笑い声には威圧感や権威を誇る響きは一切なく、若い客人の訪問を心から喜ぶ老人の温かさだけがあった。
「どうぞ、遠慮なく楽しんでいってください。この夜会は、若い方々が自由に語らい、互いに良い刺激を得るための場ですから。文学でも、美術でも、活動写真でも……あるいは飛行船の未来でもね」
そこで男爵は、秋一郎へ親しげな目を向けた。
「鳴神君などは、気を許すといつの間にか講義を始めてしまうがね」
秋一郎は苦笑した。
「男爵、それは少々語弊がありますよ」
「おや、そうだったかな」
春日男爵は心底楽しげに笑う。
有栖と瑠奈も、その穏やかなやり取りに合わせて微笑みを浮かべた。
だが二人の胸の奥には、鋭い緊張感がくすぶっていた。
この老男爵が、本当に何も知らないのか。
それとも、この穏やかな笑顔の裏に深い陰謀を隠しているのか――。
今のところ、それを見極める術はまだどこにもなかった。
春日男爵としばらく歓談を交わした後、有栖は静かに居住まいを正した。
「春日様……ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
男爵は穏やかに頷く。
「構わんよ」
有栖は男爵の深みのある瞳を真っ直ぐに見つめた。
「本日、警察の方がお見えになったと伺いました。……令嬢方の失踪事件についても、すでにご存知だったはずです」
一拍置き、有栖は率直に踏み込んだ。
「それにもかかわらず、なぜ今宵の夜会を中止なさろうとはお考えにならなかったのでしょうか」
周囲の談笑やグラスの触れ合う音は変わらず続いている。
だが、三人の立つその空間だけ、空気がわずかに張り詰めた。
春日男爵は狼狽える素振りも見せず、ゆっくりと紅茶を口へ運ぶ。
そして、磁器のカップを静かに受け皿へ戻した。
「桜庭嬢に北畠嬢……。そして、西条嬢、他の三人のご令嬢も、確かにこの夜会へ何度か顔を見せておった。そのことは警察からも聞き及んでいる」
男爵は静かに頷く。
「だが、それが事件とどう結び付くのかね?」
有栖は言葉を選びながら言葉を継ぐ。
「それは……」
しかし、その先を口にすることはできなかった。
失踪現場の部屋に残されていた、あの人ならざる怪異の気配。霊的な凄惨な残滓――。
科学と理性の時代において、それを今ここで語ったところで、男爵を徒に混乱させるだけである。
男爵は穏やかな口調のまま言葉を続けた。
「それに、四人とも本当に拐かされたと決まったわけでもあるまい。このご時世じゃ」
老人はどこか悪戯っぽく苦笑してみせる。
「想い人と示し合わせて駆け落ちでもしたのかもしれん。警察も言っておったろう。彼女たちの部屋には、争った形跡すら見つからなかったそうじゃないか」
有栖は返す言葉を失う。
その時だった。
「ですが、事件の可能性を完全に否定できるわけではありません」
瑠奈が一歩前へ出た。
澄んだ青い瞳が、真っ直ぐに男爵を見据えている。
「春日様のおっしゃることも理解できます。……けれど、駆け落ちだと決めつけるには早すぎます」
男爵はしばらくの間、瑠奈のまっすぐな眼差しを見つめていた。
やがて目尻に深い皺を寄せると、満足そうに頷いた。
「うむ。……実にもっともじゃ」
老人はゆっくりと立ち上がった。
「よろしい。もしこれが事件だというなら、その痕跡を自分たちの目で探してみるがいい」
三人は思わず顔を見合わせた。
「この屋敷のどこを見て回っても構わんよ。書斎でも図書室でも客間でもな。立ち入りを禁ずる部屋などひとつもない。わしが許可しよう」
「春日様……」
有栖は深く頭を下げた。
「お心遣い、真にありがとうございます」
瑠奈と秋一郎も続いて恭しく頭を下げる。
三人がその場を辞そうと背を向けた、その時だった。
「……待ちなさい」
男爵の静かな声が、三人の足を止めた。
「まだひとつ、君の最初の質問にきちんとお答えしていなかったな」
振り返った三人に対し、春日男爵は大広間全体へとしずかに視線を巡らせた。熱っぽく文学を語り合う青年たち。
可憐に笑い合う令嬢たち。窓辺で映画の未来について議論を戦わせる学生たち。
その光景を慈しむように眺めながら、男爵はゆっくりと語り始める。
「わしがこの夜会を中止しない理由……それは、この若者たちから『出会いと選択の場』を奪いたくないからじゃ」
その声には、確固たる信念が宿っていた。
「華族という家に生まれた者は、己の伴侶を自由に選ぶことすら叶わぬ場合が多い。
家の都合、家格、財産……様々な理不尽なしがらみに縛られている。
だからこそせめて、この夜会だけはそういう枷から解き放たれた場所でありたいと思っておるのだ」男爵は優しく微笑む。
「ここでは自由に語り合い、互いの魂を知る。そしてもしそこに恋が芽生えるなら、それもまた美しいこと。たとえその果てが世間から駆け落ちと呼ばれようとも、若者たち自身が選んだ結果であるなら、わしはそれを尊重したい」
静かな沈黙が流れた。
男爵は改めて有栖へ温かな視線を向けた。
「護法院嬢。君とていつの日か、望まぬ縁談を持ちかけられる時が来るかもしれん。その時、今のわしの言葉が少しは理解できるやもしれぬぞ」
有栖は一瞬だけ睫毛を伏せた。
だが次の瞬間には、迷いのない瞳で真っ直ぐ男爵を見返していた。
「春日様のお考え、深く感服いたしました。……ですが」
その鈴を転がすような声には、揺るぎない芯があった。
「私は何があろうとも、伴侶は自らの意志で選び取ります。誰であろうと、私の選択に立ち入ることは許しませんわ」
広間のその一角が、一瞬でしんと静まり返る。
やがて春日男爵は目を丸くし――次の瞬間、お腹の底から愉快そうに声をあげて笑い出した。
「ハッハッハッ! これは一本取られたわい!」
老人は心底楽しそうに笑いながら、頭を振る。
「護法院伯爵も、ご令嬢がこれほどの女傑にお育ちとはお思いでなかろう。さぞ日々の手綱さばきに苦労しておられることじゃろうな」
「いいえ」
有栖は涼しい顔で、極上の微笑みを浮かべた。
「父はもう、諦めて慣れておりますわ」
その一言に、秋一郎は堪えきれずに思わず吹き出し、瑠奈も口元を両手で押さえて笑いを漏らした。
春日男爵もまた、いつまでも心底愉しそうに笑い続けていた。その朗らかな笑い声は、屋敷を覆う不可解な事件の影を束の間忘れさせるほど温かく、豪奢な大広間へと響き渡っていた。




