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間章 地下の楽園

 帝都某所――。


 高い天井を戴く、豪奢な大広間。


 磨き上げられた大理石の床には深紅の絨毯が敷かれ、壁面には異国の山河や古城を描いた油彩画が、等間隔に掛けられている。


 ただし、窓だけがなかった。


 これほど広い部屋でありながら、外へ通じる窓は一つも見当たらない。


 それでも室内に陰鬱な暗さはない。壁に並ぶ燭台の炎が柔らかな黄金色の光を投げかけ、重厚な調度品や絵画の額縁を静かに浮かび上がらせていた。


 昼とも夜とも分からぬ、穏やかな明るさだった。


 桜庭綾子は、広間の中央に置かれた長椅子へ深く身を沈めていた。


「……ふぅ」


 唇から、かすかな吐息が漏れる。


 身体がひどく気怠い。


 指先を持ち上げることさえ億劫で、頭の奥には薄い霞がかかったようだった。


 けれど、不快ではない。


 むしろ、心地よかった。


 全身の力が抜け、考えなくてはならないことも、心配しなくてはならないことも、何もかもが遠ざかっていく。


 “あの方”から愛を与えられた後には、いつもこうなる。


 初めの頃は、この奇妙な倦怠感に戸惑いもした。だが今では、身体の奥に残る甘い痺れも、ぼんやりとした幸福感も、すっかり慣れ親しんだものになっていた。


 やがて使用人たちが温かな料理を運んでくる。


 肉や魚、香草を使った異国風の煮込み。焼き立てのパン。甘い果物と、香り高い飲み物。


 それらを口にすれば、失われていた力が不思議なほど早く身体へ戻ってくる。


 最近では食事の時間さえ、密かな楽しみになっていた。


 この館には、退屈など存在しない。


 図書室には、国内外から集められた珍しい書物が壁一面に並んでいる。音楽室には最新式の蓄音機のほか、優美な曲線を描く洋琴や、綾子が名も知らぬ異国の楽器まで揃えられていた。


 遊戯室へ行けば、同じように館へ迎えられた令嬢たちが、カードや盤上遊戯に興じている。


 誰もが穏やかで、満ち足りた笑みを浮かべていた。


 綾子は長椅子に身を預けたまま、ゆっくりと広間を見渡した。


 部屋の隅では、淡い藤色の着物をまとった令嬢が、一人静かに書物をめくっている。


 反対側では、華やかな洋装の少女たちが身を寄せ合い、声を潜めて何かを話していた。時折こぼれる笑い声も、どこか夢の中で聞く音のように遠い。


 そのとき、一人の使用人が姿を現した。


 足音はほとんど聞こえなかった。


 黒い燕尾服に身を包んだ男は、和装の令嬢のそばまで歩み寄ると、恭しく一礼した。


「お嬢様。お時間でございます」


 令嬢は顔を上げた。


 驚く様子も、問い返す様子もない。


 ただ穏やかに微笑み、読んでいた本を閉じた。


「ええ」


 その声には、喜びさえ滲んでいた。


 令嬢は何の迷いもなく立ち上がり、使用人の後に続いて広間を出ていく。


 重厚な扉が静かに閉じられ、その姿は見えなくなった。


 綾子は、ぼんやりとその背を見送っていた。


(きっと、あの方にお会いするのね……)


 そう思っただけで、胸の奥がほんのりと熱を帯びた。


 羨ましい。


 けれど、妬ましくはなかった。


 いずれ自分の番も来る。


 そう分かっていたからだ。


 ――数日前。


 何の気なしに、館の外へ出ようとしたことがあった。


 どうしてそんなことを思いついたのか、今となっては自分でも分からない。


 玄関広間を横切り、重厚な扉へ手を掛けた。


 扉は存外あっさりと開いた。


 隙間から白い光が差し込み、次の瞬間、眩しい昼の日差しが床一面へ流れ込んだ。


 そのときだった。


 胸の奥が激しく粟立った。


 心臓を鷲掴みにされたような恐怖が込み上げ、全身から血の気が引いていく。


 眩しさに目を細めた瞬間、頭の奥へ鋭い痛みが走った。


(いけない)


 理由もなく、そう思った。


(あの光の中へ出てはいけない)


 外には何もいなかった。


 誰かが待ち伏せていたわけでもない。


 木々は風に揺れ、青空の下では小鳥が鳴いていた。


 それなのに、その光景はひどく恐ろしく見えた。


 綾子は一歩、後ずさった。


 それから逃げるように扉を閉めた。


 光が細い線となり、やがて完全に消える。


 薄暗く穏やかな館の空気に包まれると、恐怖は嘘のように遠ざかっていった。


 今にして思えば、どうして外へ出ようなどと考えたのだろう。


 ここには、美味しい食事がある。


 読み切れないほどの本も、心を慰めてくれる音楽もある。


 優しい使用人たちは、何一つ不自由がないよう世話をしてくれる。


 同じ境遇の令嬢たちもいる。


 そして何より――。


 “あの方”がいる。


 それだけで、十分ではないか。


 綾子はゆっくりと腕を上げ、自らの首筋へ指先を添えた。


 柔らかな皮膚の上に残る、二つの小さな痕。


 指で触れると、そこだけがほのかに熱を持っているように感じられた。


 あの方の唇。


 あの方の腕。


 耳元へ落とされた、甘い声。


 思い出しただけで、頬が熱くなる。


「あの方……」


 綾子は夢見るように目を細めた。


 自然と、唇に微笑みが浮かぶ。


 家族の顔も、桜庭邸の自室も、かつて大切に思っていたはずの日々も、今ではひどく遠い。


 思い出そうとすれば、薄い霧の向こうに沈んでいく。


 ここ以外の場所など必要ない。


 自分で何かを選ぶ必要もない。


 あの方が望むことを、自分も望めばよい。


 そう考えるだけで、心は安らぎに満たされた。


 綾子は首筋の痕を、愛おしむようにもう一度撫でた。



挿絵(By みてみん)


 窓のない広間で、燭台の炎が静かに揺れている。


 その柔らかな光の中で、彼女の世界はすでに、甘美な檻の内側だけで完結していた。

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