第二章 鳴神秋一郎
東京帝国大学文学部――。
その一角にある民俗学研究室の設備は、ここ数年で見違えるほど充実していた。
壁一面を埋め尽くす書棚には、日本各地の風土記や古文書だけでなく、英国・独逸・仏蘭西から取り寄せられた民俗学・宗教学の専門書が整然と並んでいる。
窓から差し込む初夏の陽光が、磨き込まれた床を柔らかく照らしていた。
応接スペースも重厚な木製家具と革張りの長椅子が配され、大学の研究室というより、どこか富豪の私邸を思わせる落ち着いた趣を醸し出している。
これも近頃、華族や実業家から多額の寄付が寄せられている賜物だった。
中でも護法院家や星守家の支援は別格である。
やがて廊下の向こうから、軽やかな足音が近づいてくる。
扉が静かに開き、ひとりの青年が姿を現した。
整った顔立ちに穏やかな笑みを湛えた青年――鳴神秋一郎。
彼は湯気を立てる紅茶と、見慣れぬ化粧箱入りの焼き菓子を載せたティートレーを手にしていた。
「やあ、有栖君、瑠奈君。どうしたんだい?」
有栖はすっと立ち上がり、優雅に一礼した。
「倫敦からお帰りになったばかりでお疲れのところ、お時間をいただき申し訳ございません、兄さま。」
3人に血の繋がりはない。
しかし護法院、星守、鳴神の三家は古くから深交があり、有栖と瑠奈は幼い頃から姉妹のように育ち、秋一郎を実の兄のように慕っていたのだった。
瑠奈も続いて頭を下げる。
その視線が、ふとトレーに載せられた瀟洒な化粧箱に留まった。
(…… Prestwood’sのチョコレート菓子?)
倫敦屈指の老舗菓子店。
英国王室御用達の逸品で、日本ではまず手に入らない。
巨大飛行船「飛鳥」の定期便が就航した今でさえ、入手できるのは一握りの富豪か外交官くらいのものだ。
(兄さま、自分で甘いものを買うような人じゃないのに……)
瑠奈が思わず秋一郎の顔を見上げると、彼は相変わらず柔らかな笑顔のまま、二人分の紅茶を手際よく注いでいた。
視線に気づいたのか、秋一郎がふと顔を上げる。
「どうしたんだい、瑠奈君?」
「えっ? あ、ううん、何でもないわ!」
慌てて首を振る瑠奈。
有栖はそんな妹分の様子に、小さく微笑むにとどめた。
瑠奈は照れ隠しをするように言葉を重ねる。
「『飛鳥』の到着、二日遅れだったのでしょう、兄さま?」
「ああ。悪天候で遠回りをすることになってね。なかなか貴重な体験だったよ。」
秋一郎はティーカップを並べながら苦笑した。
「それでも列車や汽船に比べれば遥かに早い。倫敦から帝都まで、本当にあっという間だった。」
少し遠くを見るような眼差しになり、静かに付け加える。
「『飛鳥』の建造を支援してくださった護法院伯爵や星守伯爵には、心から感謝しているよ。」
そう言うと、いつもの温かな笑みに戻った。
「さて、話は後にしよう。立ち話も何だから、ふたりとも掛けたらどうだい? 何か大切な用があって来たんだろう?」
有栖と瑠奈は顔を見合わせ、小さく頷きあうと革張りのソファへ静かに腰を下ろした。
応接室にはしばらく、ティーカップがソーサーへ触れる小さな音だけが響いていた。
秋一郎は紅茶を一口含むと、静かにカップを戻した。
「なるほど……」
指を組み、考えを整理するように目を伏せる。
「ほとんど密室と言っていい状況で起きた失踪事件、というわけだね」
有栖と瑠奈は揃って頷いた。
「警察の見立てでは、窓から侵入した形跡も、そこから逃げた形跡もない。扉は内側から施錠されていた。そして――」
秋一郎の視線が二人へ戻る。
「君たちは、部屋の中で人ならざる何かの残滓を感じた。それは血を想起させるものだった」
「はい」
有栖が答える。
「血そのものではありません。血痕も血臭もありませんでした。ただ、力の残滓へ意識を向けると……どうしても血の像が浮かぶのです」
「私も姉さまと同じものを感じたわ」
瑠奈が続けた。
秋一郎はしばらく黙っていた。
やがて窓の外へ視線を向け、小さく息をつく。
「……実は、倫敦で似たような記録を読んだことがある」
「え?」
瑠奈が思わず身を乗り出した。
「滞在中に、阿蘭陀の研究者から見せてもらった論文だよ。十九世紀末の倫敦で起きた、一連の怪事件を扱っていた」
秋一郎は記憶を辿るように言葉を継ぐ。
「著者は……エイブラハム・ヴァン・ヘルシング。確か、そんな名前だった」
有栖がわずかに眉を上げる。
「ヴァン・ヘルシング……」
「ああ。その論文には、黒い霧へ姿を変え、鍵穴や窓のわずかな隙間から室内へ忍び込む怪異についての記録が紹介されていた」
応接室に静寂が落ちた。
有栖が慎重に尋ねる。
「その怪異は……人を抱えたまま、空を飛ぶことも可能なのですか?」
秋一郎は少しだけ目を見開いた。
「……その可能性も論じられていた」
静かに頷く。
「霧や蝙蝠へ姿を変え、人間離れした膂力を持つ。伝承をそのまま信じるなら、人ひとりを抱えて屋根を越える程度は、不可能ではないだろう」
瑠奈と有栖は顔を見合わせた。
開け放たれた窓。
その下に足場はない。
庭にも、外壁にも痕跡は残されていなかった。
人間なら説明できない。
だが、相手が人間でないのなら――。
「もっとも」
秋一郎の声が、二人の思考を遮った。
穏やかな口調は変わらない。
「だからといって、今回の犯人がその怪異だと決めつけるのは早い」
人差し指を軽く立てる。
「怪異の世界には、似た性質を持つものがいくらでもいる。姿を変えるもの。人の心へ入り込むもの。痕跡を残さず消えるもの」
一拍置く。
「僕が今言えるのは、欧州に、今回の状況とよく似た伝承が存在するということだけだ」
二人は静かに耳を傾けていた。
やがて瑠奈が小さく首を傾げる。
「その怪異……何という名前なの?」
秋一郎はすぐには答えなかった。
ほんの一瞬、視線を落とす。
まるで、その名を軽々しく口にすることをためらったかのように。
「――ヴァンパイア」
異国の言葉が、静かな室内へ落ちた。
「日本語にするなら、吸血鬼だ」
瑠奈が、その響きを確かめるように呟く。
「吸血鬼……」
秋一郎は続けた。
「人の姿を取りながら、人ではない。血を糧とし、蝙蝠や狼、黒い霧へ姿を変える。人間を遥かに上回る力を持ち、通常の武器では容易に倒せない――そう伝えられている」
そして。
「何より厄介なのが、人の精神へ働きかける力だ」
有栖の目が細くなる。
「精神へ?」
「恐怖で身体を竦ませる、という話もある。けれど、もっと直接的な記録もある」
秋一郎は二人を順に見た。
「相手の警戒心を失わせる。自分を信用させる。あるいは、本人が自ら望んで従っていると思い込ませる」
「魅了……」
瑠奈が小さく呟く。
「そう表現してもいいだろうね」
有栖は静かにティーカップを置いた。
昨夜のまま整えられていた寝台。
倒れた家具もない。
争った跡もない。
寝間着のまま消えた綾子。
「もし、その力を使われたのなら……」
声が低くなる。
「綾子様が抵抗しなかったことにも、説明はつきます」
秋一郎は頷いた。
「理屈としてはね」
だが、と穏やかに続ける。
「それでも現時点では、仮説に過ぎない」
瑠奈は窓の外へ目を向けた。
初夏の帝都には、何事もなかったように路面電車が走り、人々が行き交っている。
その明るい日常が、かえって不気味に思えた。
「でも……」
小さく呟く。
「兄さまの話と、私たちが感じたものは、あまりにもよく似ているわ」
有栖も静かに頷いた。
「もし本当に、ヴァンパイアなのだとしたら……」
その続きを、誰も口にはしなかった。
秋一郎は冷めかけた紅茶を飲み干す。
「ヴァンパイアに限らず、西欧由来の怪異への備えはしておいて損はない」
その一言で、応接室の空気が再び引き締まった。
*
秋一郎はカップを置き、少し間を置いてから言った。
「それから、もう一つ」
有栖と瑠奈が顔を上げる。
「綾子嬢の部屋に残されていた招待状だ」
「春日男爵のサロンのものです」
有栖が答える。
秋一郎の眉がわずかに動いた。
「……春日男爵か」
「ご存じなのですか、兄さま」
「ああ。何度か招かれたことがある」
椅子へ深く座り直す。
「若い華族や文化人が集まって、西洋文学や歴史、欧州の風俗について自由に語り合う場だ。僕も西洋の文化、風習に関して簡単な話を頼まれたことがある」
「春日男爵ご本人は?」
瑠奈が尋ねる。
「もうご高齢だ。社交界の第一線からは退いておられる」
秋一郎は懐かしむように目を細めた。
「『私は屋敷と茶と軽食を用意しているだけだよ』と笑っておられたな。若い世代へ交流の場を残したい――少なくとも、僕にはそういう方に見えた」
「では、男爵ご自身が綾子さんを……」
瑠奈が言いかける。
しかし秋一郎はすぐに首を振った。
「そこまで結びつけるのは早い」
口調は柔らかい。
だが否定は明確だった。
「招待状が残っていた。それだけで差出人を疑う理由にはならない」
「ええ」
有栖も頷く。
「私も、春日男爵を疑っているわけではありません」
「では?」
「気になるのは、綾子様が失踪する直前に、その招待状をもう一度取り出していた可能性です」
秋一郎の視線が鋭くなる。
「夜会で起きた何かを思い返していた、と?」
「そこまでは分かりません」
有栖は慎重に答える。
「ただ、綾子様ほど几帳面な方が、一週間も前の招待状を机の中央へ出したままにはなさらないと思います」
秋一郎はしばらく考え込んだ。
「なるほど」
小さく呟く。
「仮に、あのサロンへさっき話したような怪異が入り込んでいたなら、そこで綾子嬢と接触した可能性は考えられる」
瑠奈が腕を組んだ。
「でも……どうして綾子さんだったんだろう」
有栖を見る。
「若くて綺麗だったから……だけじゃないわよね」
その問いに、有栖はすぐには答えなかった。
膝の上で重ねていた手へ視線を落とす。
やがて静かに口を開いた。
「……まだ確証はありません」
秋一郎と瑠奈が同時に顔を上げる。
「心当たりがあります。」
有栖は息を整えた。
瑠奈が振り向いた。
「有栖姉さま?」
「今朝、あなたが訊いたでしょう」
瑠奈の表情が変わる。
「なぜ私が、綾子様の失踪を聞いただけで怪異を疑ったのか」
「あ……」
「そして、どうして朝一番にあなたを迎えに行ったのか」
秋一郎も黙って有栖を見る。
有栖は膝の上で手を重ねた。
「綾子様は、私が護法院女学園への入学をお勧めしていた方です」
「わたしたちの学園へ?」
瑠奈が聞き返す。
「ええ。綾子様には、生まれつき高い霊的素養がありました。ご本人はまだ、それを明確には自覚していませんでしたけれど」
秋一郎の目がわずかに細くなる。
「でも、それだけなら、怪異を疑う理由にはならないね」
「はい」
有栖は静かに頷いた。
「問題は、綾子様だけではないことです」
一人目の名を告げる
「昨晩の桜庭綾子様」
「その一週間前に、北畠雪子様」
瑠奈の表情が変わる。
有栖は続けた。
「さらに、その半月ほど前には西条詩織様が、ご自宅から姿を消しています。ご家族の希望で公にはなってませんが」
応接室の空気が凍りついた。
「三人……?」
瑠奈の声がかすれる。
「ええ」
有栖は小さく頷いた。
「三人とも、私が護法院女学園へお迎えしたいと考えていた方です」
秋一郎の表情から、穏やかな笑みが消えた。
「……どういうことだい?」
「皆様、非常に高い霊的素養をお持ちでした」
有栖の声音には、わずかな苦みが滲んでいる。
「女学園で学ぶに十分な資質があると判断し、一月ほど前までに、それぞれ入学のご案内を差し上げています」
瑠奈が息を呑んだ。
「そんな……」
「今朝、私があなたを迎えに行ったのも、そのためよ」
有栖が瑠奈を見る。
「綾子様まで同じように消えたと聞いて、偶然とは思えなくなった」
瑠奈は何かを言いかけ、結局口を閉じた。
朝から抱いていた疑問が、ようやく形になった。
秋一郎は静かに尋ねる。
「つまり」
その声は、先ほどまでより低かった。
「護法院女学園へ迎えようとしていた令嬢が、短期間に三人、立て続けに姿を消した」
「はい」
「しかも全員、高い霊的素養を持っていた」
「はい」
再び沈黙が落ちた。
壁掛け時計の振り子が、規則正しく時を刻む。
秋一郎はゆっくりソファーへ背を預け、腕を組んだ。
「……三人ともなると、偶然で片づけるのは難しくなってくるね」
有栖も瑠奈も何も言わない。
秋一郎は視線を落としたまま、慎重に続けた。
「ただ」
二人が顔を上げる。
「霊的素養が高いという共通点があるからといって、それが狙われた理由だと決めるのはまだ早い」
「ええ」
有栖が頷く。
「他にも共通点があるかもしれない」
秋一郎は指を折る。
「交友関係。訪れた場所。参加した催し。最近知り合った人物――」
そこで言葉が止まった。
三人の間に、一つの可能性が浮かぶ。
春日男爵の夜会。
秋一郎が有栖を見る。
「北畠嬢と西条嬢も、春日男爵のサロンへ?」
有栖は首を振った。
「そこまでは、まだ確認していません」
「なら」
秋一郎は静かに言った。
「まずは、それを調べよう」
瑠奈が眉を上げる。
「吸血鬼について調べる前に?」
「並行して、だね」
秋一郎はわずかに笑った。
「相手が怪異であっても、足取りまで怪異とは限らない」
有栖の口元にも、小さな笑みが浮かぶ。
「兄さまらしいお考えです」
「地道な方が、案外早いものだよ」
けれど、その笑みは長く続かなかった。
三人の令嬢。
三人とも、高い霊的素養を秘めていた。
そのうち一人の机には、一週間前の夜会の招待状が残されている。
偶然なのか。
それとも。
まだ、答えはない。
窓の外では路面電車のベルが鳴った。
初夏の帝都は、いつもと変わらぬ顔で動き続けている。
その日常のすぐ傍らで、三人の令嬢がすでに姿を消している。
その事実だけが、静かな重みを持って応接室に残った。




