第一章 二人の令嬢
桜庭邸には、朝早くから重苦しい慌ただしさが漂っていた。
正門の前には警視庁のT型フォードが二台停まり、制服姿の巡査と私服刑事が忙しなく出入りしている。
庭では去年発足したばかりの鑑識係が地面を這うように足跡を探り、使用人たちは一人ずつ事情聴取を受けていた。
屋敷全体が、息を潜めるような緊張感に包まれている。
二階にある綾子の寝室、その窓辺に立つ一人の男が、庭を見下ろしていた。
警視庁刑事部捜査課・真壁剛造 警部。
三十八歳。鍛えられた体躯に鋭い眼光。口髭の下の唇は、何かを噛み潰すように固く結ばれている。
「足跡は?」
後ろに控える若い刑事に尋ねる。
「ありません。」
「植え込みは?」
「荒らされた形跡、なし。」
「梯子は?」
「見つかっておりません。」
真壁は窓枠に手を置いた。昨夜は雨も降っていない。
柔らかい庭土であれば、人が歩けば必ず跡が残るはずだった。
しかし庭土も植え込みも、不自然なほど乱れていなかった。
「誰かが庭から侵入し、令嬢を連れ出したなら、少なくとも人が通った跡は残る。」
「はい。」
「だが、残っていない。」
若い刑事は返答に詰まった。
真壁は寝室を振り返る。
ベッドのシーツは乱れず、家具もそのまま、争った形跡は皆無だった。
「自分から出た可能性は?」
「寝間着のままです。」
「履物は?」
「部屋に揃っております。」
「家出じゃないな。」
真壁は短く言い切った。若い刑事も無言で頷く。
「使用人は?」
「全員確認済みです。」
「玄関、裏口は?」
「すべて昨夜十時に施錠。異常なし。」
真壁は小さく息を吐いた。
扉は内側から施錠され、唯一開いていた二階の窓にも、出入りした痕跡はない。
うら若き令嬢の寝室は事実上の密室だった。
殺人、強盗、誘拐――十五年の刑事生活で、様々な事件を扱ってきたが、これほど理屈の通らない失踪は初めてだった。
(……何か、見落としている)
不可思議を不可思議で片付けるのは素人のすることだ。
必ず現実的な説明がある。そう信じて、もう一度部屋を見回す。
しかし、何度見ても答えは出ない。
その時、階下がにわかに騒がしくなった。
「何事だ?」
巡査が息を切らして二階に駆け上がってきた。
「警部殿、申し訳ありません。屋敷に入りたいという女性が二人……」
「婦人記者か?」
真壁は面倒そうに眉を寄せた。
近頃では、事件現場へ足を運ぶ婦人記者も珍しくなくなった。それ自体を悪いとは思わない。
だが、中には被害者や遺族への配慮もなく、捜査中の事件現場へ押し入ろうとする者もいる。
無作法な男性記者なら、襟首をつかんで叩き出せば済む。だが、女性を同じように扱うことには、昔気質の真壁には抵抗があった。
男女を区別すべきではない。理屈では分かっているのだが、こういう時ばかりは何とも扱いに困る。
「いえ……綾子嬢の友人だと名乗っております。二人とも身なりの良い令嬢ですが……帰れと言っても聞かず……」
「分かった。俺が行く。」
真壁は深い溜息をつくと、階段へと足を向けた。
正門では、数人の巡査が対応に苦慮していた。
その中央に立つ二人の少女。
一人は異人の血を引いているのか栗色の長い髪に、澄んだ碧い瞳。白いブラウスに淡い青のスカートを合わせた洋装は、初夏の陽光のように明るく可憐だった。
もう一人は漆黒の髪を優雅に結い上げ、黒の縁取りを施した臙脂色の洋装を端然と着こなしている。その落ち着いた佇まいには、年齢以上の気品が感じられた。
「ですから。」
碧い瞳の少女がはきはきと言った。
「綾子さんは私たちにとって大切なお友達なのです。」
「事情をお伺いするだけでも結構です。」
黒髪の少女が穏やかに続ける。
「ご家族へお見舞いを申し上げたいのです。」
巡査たちは明らかに困惑していた。
身なりと所作から、ただならぬ身分の高さが伺える。無碍に扱うわけにもいかない。
しかし捜査中の現場に外部の人間を入れるわけにもいかなかった。
真壁は、その低く重い声で均衡を破った。
「捜査中です。」
全員が振り向く。
真壁がゆっくりと歩み寄り、警官たちが自然と道を開ける。
黒髪の少女が優雅に一礼した。
「失礼いたしました。護法院有栖と申します。」
続いて、栗色の髪の少女も頭を下げる。
「星守瑠奈です。」
真壁の眉がわずかに動いた。
(護法院……星守)
帝都でも指折り権勢を誇る華族の名だ。なるほど巡査たちが困惑するわけである。
だが真壁が気になったのは家柄ではなかった。
二人は驚くほど冷静だった。
友人が突然行方不明になったというのに、取り乱す様子がほとんどない。
瞳の奥には深い憂慮の色が宿っている。
しかし感情に流されず、状況を正確に見据えようとしている――その佇まいが、妙に心に残った。
応接間へ案内されると、二人は改めて真壁に深く一礼した。
「お騒がせいたしました。」
「真壁だ。」
真壁は短く名乗るだけにとどめた。余計な挨拶を好まないのが彼の癖だった。
重苦しい沈黙が部屋を支配する。
では桜庭夫妻への事情聴取が続いており、時折、押し殺した嗚咽が聞こえていた。
真壁は二人に向き直った。
「綾子嬢とは、どのようなご関係で?」
「友人です。」
有栖が即答する。
「知り合ってまだ一年ほどですが、茶会や夜会で何度もご一緒しております。突然姿を消すような方ではありません。」
瑠奈が静かに言葉を継いだ。
「今朝、失踪されたと聞いて……どうしても信じられなくて。」
「その話は何処から?」
「桜庭夫人から、わたくしの母へ知らせがございました。」
真壁の問いに有栖が答える。
「心中は察するが、まだ捜査中だ、事件の詳細は話せん。」
「承知しております。」
有栖の返答は早かった。
「事件の詳細を伺いたいわけではありません。」
「では?」
「綾子様のお部屋を、拝見させていただけませんでしょうか。」
真壁は腕を組んだ。
「理由を。」
「普段のお部屋を知る者だからこそ、気付ける違和感があるかもしれません。もちろん、室内の物には一切触れません。気になったことは、すべて警部殿にご報告いたします。」
有栖の口調は終始穏やかで、押しつけがましさは微塵も感じられない。
ただ、友人を案じる純粋な気持ちだけが真っ直ぐに伝わってきた。
真壁は二人をじっと見つめた。
「……分かった。」
短く答える。
「刑事を一人付ける。室内の物には触れないこと。」
「ありがとうございます。」
二人は深々と頭を下げた。その姿を見て、真壁は内心で呟く。
(礼儀を知っている……それだけでも、今朝から押しかけてきた野次馬どもとは大違いだな)
*
綾子の寝室は、昨夜のまま保存されていた。
寝台、読書机、油の尽きた卓上ランプ、開け放たれた窓。
家具の位置ひとつ変わっていない。
争った跡もなければ、慌てて外へ出た形跡もない。
刑事に付き添われて二階まで案内された有栖と瑠奈は、室内の物には触れないよう念を押されたあと、二人だけで寝室へ入った。
瑠奈が一歩、部屋へ踏み入れた瞬間――胸の奥が微かにざわついた。
冷たい風が背骨を伝うような感覚、そして脳裏に浮かぶ鮮やかな赤い血のイメージ。
室内には血痕など一滴も残っていないのに。
瑠奈は思わず隣の有栖を見る。
有栖もまた、わずかに眉を寄せていた。言葉は交わさない。
だが互いに、同じ違和感を覚えていることだけは理解していた。
部屋の空気の中に、人ではない<異質な存在>の痕跡が確実に漂っている。
瑠奈は無意識に右手を胸元へ当てた。
服の下のブローチが、ほのかに温かみを帯びている。
有栖は静かに息を吸い込んだ。
(……やはり)
護法院家に伝わる感応の力は、残された霊的な痕跡を単純な形で読み取るものではない。
ある者には音として聞こえる。
ある者には匂いとして感じられる。
そして時には、意味を持った像となって心へ入り込んでくる。
有栖の脳裏にも、やはり濃厚な血のイメージが浮かんだ。
だが、それだけではない。
人を惹きつけるような甘い香りを感じた。
だが、今ここでそれを口にする意味はない。
警察には理解されない領域の話だ。
二人は何事もなかったかのように、部屋の中を静かに見回した。
壁や床といった表面的な部分ではなく、部屋の空気そのものに意識を澄ませるように。
やがて瑠奈の視線が、机の上で止まった。
「有栖姉さま。」
小さな呼び声。
有栖がすぐ傍に寄る。
机の上に、一枚の封筒があった。
深紅の封蝋。
西洋風の紋章が押された、夜会の招待状。二人は顔を見合わせた。
もちろん、手は触れない。
二人は少し離れた場所から封筒を見つめた。
「……綾子さんらしくない。」
瑠奈が言った。
有栖もすぐに意味を理解した。
「ええ。」
綾子は几帳面な性格だった。
日付は一週間も前、既に役目を終えた招待状を、机の上へ何日も放置するような女性ではない。
「昨夜…失踪する直前に引き出しから出したのかな?」
「そうね。」
有栖は瑠奈の言葉に応じながら、招待状をその目に焼き付けるように凝視していた。
*
部屋を出たところで、有栖は足を止めた。
「警部殿」
少し離れたところにいた真壁が振り向く。
「何でしょう」
「事件とは無関係かもしれませんが……ひとつ、気になることがございます」
真壁がこちらへ歩み寄ってくる。
有栖は、開け放たれた寝室の扉越しに、読書机を示した。
「机の上の招待状です」
「招待状?」
「はい。期限の過ぎたものを、綾子様があのような場所へ何日も置いたままになさるとは思えません」
真壁は黙って室内へ目を向けた。
机の中央に置かれた、一通の封筒。
深紅の封蝋に、西洋風の紋章。
一見すれば、ただ期限の過ぎた招待状に過ぎない。
だが、事件捜査というものは、時にそうした些細な違和感から動き出す。
人間は意識せずとも習慣を持つ。
そして事件の前後では、その習慣が不自然な形で途切れることがある。
「……なるほど」
真壁は短く呟くと、近くにいた刑事を呼んだ。
「おい」
「はい」
「あの招待状を証拠品として保全しろ。指紋も採取だ」
「承知しました」
刑事はすぐに寝室へ戻り、慎重に封筒の回収に取りかかった。
有栖と瑠奈は、その様子を黙って見守った。
やがて有栖が深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
瑠奈もそれに続いた。
「お時間をいただいて、ありがとうございました」
「いや」
真壁は短く答えた。
「こちらこそ助かりました」
それ以上、二人は何も口にしなかった。
桜庭子爵夫妻のもとへ改めて挨拶に赴き、悲しみと困惑の最中にある二人へ見舞いの言葉を残すと、そのまま屋敷を辞した。
応接間の窓辺に立ち、真壁は二人の後ろ姿を眺めていた。
正門の外には、黒塗りの自動車が待っている。
先に有栖が乗り込み、続いて瑠奈が振り返ることもなく車内へ姿を消した。
間もなく、自動車は静かに走り出す。
真壁は腕を組んだまま、小さく息を吐いた。
「……不思議な令嬢たちだな」
友人の失踪を本気で案じている。
それは疑いようがない。
だが、取り乱すこともなければ、自らの家柄を笠に着ることもない。
捜査中の部屋では物ひとつ触れず、気付いたことだけを伝え、余計な口出しもせずに去っていった。
今朝から相手をしてきた野次馬や記者とは、まるで違う。
目撃者というには少し違うが――捜査に関わる部外者としては、これ以上ないほど理想的だった。
もっとも、真壁には、どうにも引っかかることがあった。
あの二人は、綾子の寝室で何かを見つけたというより――。
何かを感じ取っていたのでは?
そんなふうに見えたのだ。
もちろん、確証などない。
刑事の勘というほどのものですらない。
ただの印象にすぎない。
「……考えすぎか」
真壁はそう呟き、窓から離れた。
目の前には、一人の令嬢が消えたという不可解な事件がある。
まず追うべきは、確かな証拠だ。
招待状、夜会。
綾子は失踪時に何を考え、誰を思っていたのか。
真壁は再び捜査へ意識を戻した。
その時の彼は、まだ知らない。
この日の出会いが、自らの常識を根底から覆す数々の怪異事件へと繋がっていくことを。
そして――
護法院有栖。
星守瑠奈。
これが怪異に挑む二人の令嬢と、長い縁を結ぶ最初の日になることを。
*
桜庭子爵邸を後にした二人は、門前で静かに待機していた黒塗り自動車へ乗り込んだ。
護法院伯爵が有栖に与えた専用車――ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト。
世界中の王侯貴族、富豪がその性能と洗練された機能美を高く評価する、英国製の大型高級自動車だ。
華美な装飾はない。
だが、一目見ただけで一流と分かる気品と風格を備えた一台だった。
長身の運転士が後部座席の扉を静かに開く。
有栖と瑠奈が乗り込むと、重厚な扉は音もなく閉じられた。
車内は上質な革張りの長椅子と、美しい木目の内装で統一されている。
外の喧騒が嘘のような静寂だった。
有栖は正面へ視線を向ける。
「東京帝国大学へお願いします。」
「承知いたしました、お嬢様。」
運転士が短く応じる。
静かにエンジンが始動し、車は滑るように桜庭邸を離れた。
石畳を踏むタイヤの音だけが、規則正しく車内へ響いてくる。
しばらく二人は口を開かなかった。
やがて瑠奈が、小さく息を吐く。
「有栖姉さま。」
「どうしたの?」
「一つ、お聞きしてもいい?」
「ええ。」
瑠奈は少し言葉を選ぶ。
「今朝、突然お迎えに来られましたよね。」
「綾子さんの失踪を報せを聞いただけで、すぐに私を連れて桜庭家へ向かった。」
「まるで……最初から事件に怪異が関わっていると分かっていたみたいに。」
有栖は答えず、しばらく窓の外へ視線を向けていた。
石畳を行き交う人々が、ゆっくりと後方へ流れていく。
やがて、小さく息をついた。
「ええ。」
「そう考えた理由はあるわ。」
瑠奈は思わず身を乗り出す。
「やっぱり……。」
「でも。」
有栖は静かに首を横へ振った。
「詳しい話は帝大でするわ、兄さまにも事件のことを聞いていただきたいの。」
「私の推測だけで結論を出したくないから。」
瑠奈はなおも問い掛けようとして、口を閉じた。
有栖の表情は穏やかなままだったが、その瞳には普段見せない硬さがあった。
(そんなに重大なことなんだ……。)
瑠奈はそれ以上尋ねなかった。
幼い頃から実の姉のように慕ってきた有栖の性格を察し、静かに頷く。
やがて、有栖がぽつりと口を開いた。
「『力』の残滓を感じること自体は、珍しくないけれど……あんなものは初めてだったわ」
瑠奈も静かに言葉を継ぐ。
「あの異質な…血を連想させる?」
「ええ。少なくとも、日本由来のものではないでしょうね。西洋の怪異に属する可能性があるわ」
瑠奈は、綾子の机に残されていた封筒を思い浮かべた。
「夜会の招待状ことも、やっぱり気になるよね。」
「ええ。一週間も前のものを、あの几帳面な綾子さんが目立つ場所へ出したままにするなんて、少し変ね。」
再び、静寂が訪れた。
やがて瑠奈が、小さく微笑んだ。
「警察は、人を追う」
有栖も静かに微笑み返す。
「私たちは、人ならざるものを追う」
二人は、それ以上言葉を重ねなかった。
互いが同じ結論へ至っていることだけは、はっきりと分かっていた。
ロールス・ロイスは帝都の街並みを静かに駆け抜け、帝国大学へと向かっていった。




