第七章 護法院女学園 其の弐
護法院女学園、本館地下――。
地上で学ぶ大半の生徒は、その存在すら知らない区画だ。
低い機械音を響かせながら、昇降機がゆっくりと地下へ降りていく。
鉄骨の軋む音、一定の間隔で頭上へ流れていく煉瓦壁。
やがて小さな衝撃とともに籠が停止し、鉄格子の扉が左右へ開いた。
「ふぅ……」
星守瑠奈は小さく息を吐き、一歩、地下の床へ降り立った。
昨夜からほとんど眠っていない、狼男との戦闘、秋一郎と真壁警部の負傷に治療。
そして夜が明けるまで、秋一郎負傷の報せを受け駆けつけた有栖と交代しながら秋一郎の傍についていた。
身体が重い、瞼にも鈍い疲労が残っている。
けれど――今は休んでいる場合ではなかった。
瑠奈は薄暗い廊下を歩き出した。
壁に取り付けられた電灯が、一定の間隔で淡い光を落としている。
やがて、その先に地下施設とは思えないほど整然とした受付が現れた。
磨き込まれた木製の卓、書類棚。
壁には時計と、いくつかの鍵が掛けられている。
卓の向こうでは、品の良い洋装の女性が帳面を整理していた。
瑠奈の姿に気付くと、女性は顔を上げる。
「ご機嫌よう、星守様」
柔和な笑みだった。
「ご機嫌よう」
瑠奈も微笑み、軽く会釈する。
女性は机上の帳面へ一度目を落とした。
「ご注文の品でしたら、仕上がっておりますよ」
その瞬間、瑠奈の顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
思わず胸へ手を当てた。
「よかった……。急にお願いしてごめんなさい。すぐに必要になるかもしれないから」
「承知しております」
女性の微笑みが、ほんの僅かに引き締まる。
「昨夜の一件も、こちらには報告が届いておりますので」
「……早いのね」
「こういう場所ですから」
悪戯っぽく笑う。
「きっと、お役に立つものになっていると思います」
受付の脇には、地下の壁そのものへ埋め込まれたような分厚い鉄扉があった。
女性は腰から鍵束を取り出す、幾つもの鍵の中から一本を選び、錠前へ差し込んだ。
――ガチャリ。
重い音。
「どうぞ」
「ありがとう」
瑠奈が鉄扉を潜る。
その向こうには――地上の優雅な女学園とはまるで異なる世界が広がっていた。
護法院女学園、地下工房。
護法院家や星守家をはじめとする退魔の家々が、長い年月をかけて蓄積してきた技術。
東洋の法術、西洋の魔術。
そして、近年急速に発達しつつある近代科学。
本来なら決して同じ場所に並ぶはずのない三つの体系を合わせ、実用品へ変えるための施設だった。
長い通路の左右には、大小さまざまな作業室が並んでいる。
開け放たれた扉の一つから、規則正しい機械音が聞こえてきた。
瑠奈が何気なく中を覗く、数人の女性が足踏み式ミシンを操り、濃紺の布地を縫い合わせている。
一見すれば、町の仕立屋とさほど変わらない。
ただし、壁際の棚へ目を向ければ、普通の衣服工房ではないことなど一目で分かった。
細い銀糸を織り込んだ布、何の動物のものとも知れぬ黒革。
符号や文字がびっしりと書き込まれた護符。
ここで仕立てられているのは、単なる衣服ではない。
怪異の牙や爪、呪詛、霊的干渉。
そうしたものから着用者を守るための防具である。
その隣の部屋では、壮年の技師が眼鏡を額へ押し上げながら、三脚に据えられた奇妙な機械を調整していた。
外見だけなら、大型の写真機に見える。
だが、蛇腹の奥にあるのは硝子乾板ではない。
幾つもの水晶、絡み合う細い銀線、精緻な真鍮部品。
瑠奈にも用途の分からない小さな円盤が、ゆっくりと回転していた。
さらに奥から。
――シャッ。
――シャッ。
一定の間隔で、鋼を研ぐ音が聞こえてくる。
年老いた刀匠が砥石を前に座り、一振りの日本刀を黙々と研ぎ上げていた。
刃には薄く油が引かれ、その上には梵字にも似た細かな文字が幾重にも刻まれている。
科学者、錬金術師、刀匠、仕立職人。
本来なら交わることのない技術者たちが、同じ地下施設で働いている。
目的は、ただ一つ。
――人ならざるものと戦い、人を守ること。
もっとも、地上で授業を受けている女学生の大半は、自分たちの足元でこんな品々が作られているなど、夢にも思っていないだろう。
しかし瑠奈にとっては、見慣れた風景だった。
職人たちと短く挨拶を交わしながら奥へ進む。
やがて、一枚の木製扉の前で足を止めた。
他の部屋と比べても、特別変わったところのない扉だ。
ただし、その脇には小さな真鍮板が掲げられている。
瑠奈はそれを一瞥すると、二度、軽く扉を叩いた。
――コン、コン。
中で何かを置く音がした。
そして。
「どうぞ」
若い女性の声。
「失礼します」
真鍮の把手を回し、扉を開く。
途端に漂ってきた機械油、火薬、熱せられた金属。
そして、薬品とも香ともつかない、微かな匂い。
「ごきげんよう、瑠奈さん」
明るい声が迎えた。
部屋の中央には、大きな作業台が据えられている。
周囲には工具棚、製図台、薬品瓶の収められた硝子棚。
壁には拳銃や小銃の分解図が幾枚も貼られ、その間には梵字、五芒星、さらには瑠奈にも読み解けない異国の文字が書き込まれていた。
近代的な銃器工房。
そして、古い魔術師の研究室。
その二つを無理やり一つに押し込めたような部屋だった。
作業台の向こうに、一人の少女が立っている。
瑠奈とさほど年齢は違わないように見えた。
腰まで届く黒髪を一本の三つ編みにまとめ、背中へ垂らしている。
白いブラウスの袖は肘まで捲られ、その上から厚手の革製前掛け。
華奢な指先には、工具を扱い慣れた者特有の細かな傷が幾つも残っていた。
「最終調整だけとは言え、随分と急な注文だったけれど」
少女、霧島雷華は両手を腰へ当てる。
「どうにか間に合わせたわ」
「霧島さん、ごめんなさい」
瑠奈は申し訳なさそうに笑った。
「昨夜、ちょっと面倒なのと遭っちゃって」
「聞いてる」
即答だった。
雷華はくすりと笑うと、それから作業台の下へ手を伸ばす。
取り出したのは、黒檀を思わせる深い色合いの木箱だった。
瑠奈の前へ置く。
「お待たせいたしました――星守瑠奈様」
わざとらしく畏まって一礼する。
「ご注文の品でございます」
「もう」
瑠奈が笑う。
カチリ。
留め金が外れた、霧島が蓋を開く。
「…………わぁ」
瑠奈の口から、素直な感嘆が漏れた。
深紅の天鵞絨、その中央に一挺の自動拳銃が収められている。
輪郭そのものには見覚えがあった。
米国コルト社製、大型自動拳銃、M1911。
しかし、軍用として知られるそれとは、まるで印象が違う。
遊底も銃身も、月光を凝縮したかのような淡い銀色。
側面には、唐草文様にも似た細密な彫刻。
その線の中へ溶け込むように、古代文字を思わせる術式がびっしりと刻み込まれている。
握把の中央には、星を象った紋章。
美しい、美術工芸品として飾られていても不思議ではないほどに。
それでいて、決して装飾品には見えなかった。
そこには明確な凄みがある、怪異を滅ぼすために生み出された道具。
「コルトM1911自動拳銃を基礎にした、あなた専用の一挺」
雷華の声から、先ほどまでの気安さが消えた。
技術者の顔になる。
「以前のウェブリー・リボルバーとは違って、主要部品はほぼ新造よ」
瑠奈は慎重に手を伸ばした、握把を包み込む。
「……軽い」
最初に口から出たのは、その一言だった。
大型拳銃なのに、必要以上の重量を感じない。
そして、それ以上に驚いた。
「これ……」
手を見る、銃を見る。
もう一度、握り直す。
「すごく、馴染む」
指が自然に所定の位置へ収まる。
握り込む力、人差し指から引き金までの距離、手首の角度、何一つ無理がない。
まるで、何年も使ってきた愛用品を、久しぶりに握ったかのような感覚だった。
霧島が満足そうに鼻を鳴らす。
「当然」
「握把の太さも、引き金までの距離も、重心も、全部あなた専用に調整してあるから」
瑠奈は安全を確認してから、銃口を誰もいない壁際へ向けた。
両手で構える。
照準線が、すっと視界へ入った。
腕の力で無理に押さえ込む必要がない。
自分が拳銃に合わせているのではない、拳銃の方が、自分へ合わせてくれている。
そんな奇妙な感覚だった。
「すごい……」
「まだ驚くのは早いわよ」
霧島は得意げに人差し指を立てる。
「その銃の一番重要なところは、そこじゃない」
瑠奈が視線を向ける。
「機関部と銃身を中心に、主要な部分へ《竜王銀》を使っている」
「竜王銀……」
瑠奈の顔から、僅かに笑みが消えた。
もちろん知っている。
日本では竜宮諸島の限られた鉱床でしか産出しない、希少な霊的金属、西洋ではミスリルと呼ばれている。
外見こそ銀に似る。
だが、銀ではない。
鋼の数倍の強度を持ちながら、軽く、腐食しない。
しかし、そんな性質は、この金属が珍重される理由の一部にすぎない。
霧島は作業台へ腰を預けた。
「竜王銀は、霊力の流れをほとんど阻害しない」
指先で銃身を軽く叩く。
「普通の鉄や鋼は、霊的な力を上手く通すことができない。途中で霧散するし、効率が悪い」
瑠奈の脳裏へ、昨夜の感触が蘇る。
真壁のブローニング。
そこへ無理やり霊力を流した時。
流れない、押し込んでも、押し込んでも大半が途中で消えていく。
あの感覚。
それでも無理に弾丸へ乗せ、狼男を撃ち抜いた。
「でも、この子なら違う」
雷華の声には確かな自負が宿っていた。
「握把から入った霊力が、そのまま機関部へ流れて、銃身や弾倉内の弾丸へ伝わる」
瑠奈はもう一度、拳銃を構えた。
ほんの僅かに意識を集中する。
その瞬間。
――ふっ。
銀色の遊底に刻まれた細い術式が、淡い蒼白色に輝いた。
「……!」
瑠奈の瞳が見開かれる。
何かを押し込んだ感覚がない。
力を銃に込めよう、そう思っただけ。
それだけで、自分の中にある霊力が、腕から掌へ。
掌から握把へ。
そして、一本の水路を流れる水のように、銃全体へ淀みなく巡っていく。
「……なるほど」
瑠奈の口元が、自然と綻んだ。
「これなら――ちゃんと力が乗る」
「でしょう?」
霧島も満足そうに笑う。
しかし、すぐに指を一本立てた。
「ただし」
「?」
「いくら竜王銀でも、この銃はあくまで器よ」
瑠奈の顔を指差す。
「動力源は、あなた」
「分かってる」
「あなたの『分かってる』は信用ならないの」
「ひどい」
「昨夜、二メートル以上ある狼男へ生身で跳び蹴りを入れた人が何を言ってるの」
「……」
瑠奈が露骨に視線を逸らす。
「しかもその後、借り物の拳銃に霊力を無理やり流し込んだ」
「……結果的には上手くいったし」
「そういう考え方をするから信用できないの」
「ごもっともです……」
雷華は大きくため息をついた。
だが、口元には笑みがあった。
「まあいいわ」
化粧箱の別の区画へ手を伸ばす。
「それから、こっち」
そこには銀色の弾倉が、幾つも整然と並んでいた。
瑠奈が覗き込む。
弾倉にも、拳銃と同じような術式が刻まれている。
そして、その隣、小さな専用ケースの中に、十数発の弾薬が整然と収められていた。
瑠奈の表情が変わる、通常の弾丸とは明らかに違う。
弾頭を包み込むように乳白色の素材が組み込まれ、その表面へ肉眼では読めないほど細かな術式が刻まれている。
雷華が、その一本を摘み上げた。
「そしてこれが――」
「対怪異用特殊弾」
弾丸を掌へ載せ、瑠奈へ差し出す。
「実体を持つ存在から、霊体…実体を持たない怪異や術式にまで効果があるわ」
軽い、だが…指先へ僅かな霊的圧力を感じる。
雷華の説明を聞きつつ、瑠奈は異なる色の弾丸を摘み上げた。
弾頭部に不思議な色を放つ小さな石がはめ込まれている。
「これは?」
「試作品」
「試作品……」
瑠奈の顔が僅かに引きつった。
「ちょっと待って。私、今夜使うかもしれないんだけど」
「だから昨日から徹夜して仕上げたんでしょうが」
雷華がじろりと睨む。
「実射試験は終わってるわよ。『試作品』なのは、まだ量産仕様じゃないって意味」
「あ、そういうこと」
「私を何だと思ってるの?」
「たまに危ない実験する人」
「否定できないのが悔しいわね」
二人の間に、小さな笑いが生まれる。
だが、霧島はすぐに表情を改めた。
「瑠奈さん」
「うん?」
「昨夜の狼男」
声が低くなる。
「誰かが、意図的に帝都へ放った可能性も考えてる?」
瑠奈の笑みが消えた。
数秒。
答えない、やがて。
「……まだ、分からない」
静かに答える。
「偶然現れた怪異なのか。それとも――」
月島圭吾に樒惣介。
昨夜の夜会で感じた、あの違和感。
「鳴神さんたちを狙って送り込まれたものなのか」
霧島も何も言わなかった。
瑠奈は拳銃へ視線を落とす。
月光のような銀色、青白く輝く術式、美しい銃だった。
だからこそ、その存在が意味するものを瑠奈はよく理解している。
これを必要とするということは。
これから先、昨夜以上に危険なものと向き合う可能性があるということだ。
瑠奈は一度目を閉じた。
そして、再び開く。
そこに疲労の色はまだ残っていた。
だが、迷いはなかった。
「霧島さん」
「なに?」
瑠奈は銀色の拳銃を見つめた。
「ありがとう」
短い言葉だった。
霧島は一瞬、目を瞬かせる。
それから、少し照れたように鼻を鳴らした。
「……壊さないでよ」
「善処します」
「そこは『大切に使います』でしょう!」
地下工房に久しぶりに、瑠奈の明るい笑い声が響いた。
ただ、深紅の天鵞絨の上で銀色の拳銃だけが、これから訪れる戦いを知っているかのように、冷たい光を湛えていた。
*
午後――。
護法院女学園、本館応接室。
初夏の陽光がレースのカーテンを透かし、磨き込まれた床へ淡い影を落としていた。
午前中の慌ただしさが嘘のように、室内には穏やかな時間が流れている。
その静けさの中で、有栖は一冊の薄い冊子をテーブルへ置いた。
古びた厚紙の表紙。
中身は、幾枚もの書類を綴り紐で束ねただけの簡素なものだった。
「瑠奈さん。あなたが真壁警部にお願いしていたものが届きましたわ」
「えっ、もう?」
瑠奈が目を丸くした。
向かいの長椅子に腰掛けていた秋一郎も、感心したように眉を上げる。
「昨晩頼んだものが、翌日の午後には届くとは。随分と早いね」
その首には、まだ白い包帯が巻かれていた。
狼男に締め上げられた痕は完全には消えていない。
時折、喉を気遣うような仕草を見せるものの、本人は昨夜あれほどの目に遭ったとは思えないほど平然としていた。
「警部さんのことだから」
瑠奈はそう言いながら冊子を手に取った。
「春日男爵の夜会へ出入りしている人たちについては、以前からある程度調べていたんでしょうね。」
秋一郎が頷く。
「一から調べ直したわけではなく、既存の捜査資料から僕たちに関係しそうな部分を抜き出してくれたわけか」
「たぶんね」
瑠奈自身も、昨夜ほとんど眠っていないとは思えないほど元気だった。
客間で数時間ほど仮眠を取っただけで、いつもの快活さをすっかり取り戻している。
華奢で可憐な外見からは想像しにくいが、彼女の身体は並の成人男性など比較にならないほど頑健なのかもしれない。
瑠奈は最初の頁をめくった。
「ええと……樒惣介。二十八歳。樒男爵家現当主。樒貿易商会代表――」
紙を繰る音が静かな室内へ響く。
やがて。
その指が止まった。
「……あら?」
有栖がティーカップを置いた。
「何かありまして?」
「うん。これは…不自然だわ」
瑠奈は数枚前へ戻り、改めて文章を目で追った。
「欧州大戦中、樒商会は綿糸と造船関連、それに欧州向け貿易で急成長。でも、大正七年十一月の休戦を境に受注が激減。その後の相場下落も重なって、多額の負債を抱えた」
秋一郎が頷いた。
「珍しい話ではないね。大戦景気で急成長した商社や実業家の中には、休戦後に一気に苦境へ陥った者も少なくない」
「問題は、その後」
瑠奈は頁を一枚めくった。
「大正八年二月。個人債権者の一人、神崎商会の神崎庄兵衛が自宅で死亡。死因は心臓衰弱。六十二歳」
さらに一枚。
「同年五月。別の債権者、長谷川源蔵が別荘火災で死亡」
もう一枚。
「八月。三人目、高利貸しの大庭善吉。自宅階段から転落して死亡」
そこで瑠奈は顔を上げた。
「……ね?」
秋一郎の表情も僅かに険しくなる。
「随分と続くな」
「でしょう?」
瑠奈は再び書面へ視線を落とした。
「しかも、この三人が持っていた樒商会関係の手形や借用証書の一部が、それぞれ死亡後に所在不明になっている」
有栖の眉が僅かに動いた。
「警察は?」
「全部調べてる」
瑠奈は資料の末尾を指先で叩く。
「神崎氏は持病があり、主治医も病死と診断。長谷川氏の火事は使用人の火の不始末。大庭氏は死亡前に飲酒していて、階段から足を踏み外したと判断されてる」
秋一郎が指を組んだ。
「つまり、少なくとも当時の捜査では、三件とも事件性を示す証拠は見つからなかった」
「そういうこと」
瑠奈は頷き、ほんの少しだけ皮肉っぽく唇を曲げた。
「だから、全部ただの偶然なのかもしれないわ」
一拍置く。
「――樒男爵にとって、とても都合のいい偶然が三回続いただけ」
応接室が静まり返った。
有栖は何も言わない。
だが、その横顔から先ほどまでの穏やかさが消えていた。
「……やはり」
小さく呟く。
秋一郎が視線を向けた。
「何か思い出したのかい?」
「樒男爵は以前、一度父を訪ねています」
有栖は静かに続ける。
「援助を求めて」
その頃の樒惣介は、今とはまるで別人だった。
頬は痩せ、視線は落ち着かず、言葉の端々から焦燥が滲んでいた。
護法院伯爵は、事業を整理するための資金であれば援助すると申し出た。
だが、商会をそのまま存続させるための追加融資は断った。
当時の樒商会には、立て直せるだけの収益力が残っていないと判断したのだろう。
「それが――」
瑠奈が資料を持ち上げる。
「一年も経たないうちに急回復」
頁をめくる。
「南洋航路で大口契約。上海での取引でも利益。欧州から輸入した機械製品が値上がりする直前に大量購入……」
さらに一枚。
「その利益で銀行からの借入金を完済」
瑠奈の指が止まる。
「でも、個人から借りた分については」
「債権者が亡くなり、証書も消えた」
秋一郎が静かに補った。
「そういうこと」
瑠奈は冊子を閉じかけ――。
ふと、その後ろにまだ書類が残っていることに気づいた。
「ん?」
もう一度開く。
そこには先ほどまでとは違う形式の記録が綴じ込まれていた。
有栖が横から覗き込む。
「樒男爵邸への納入記録……のようですわね」
失踪事件の捜査過程で、商人や出入りの業者から聞き取った内容らしい。
瑠奈は目で追っていく。
「牛肉、鶏肉、卵、牛乳、バター。小麦粉、お米、野菜、果物……」
頁をめくる。
「紅茶、珈琲、砂糖……」
さらに視線を走らせたところで、声が僅かに落ちた。
「西洋菓子、チョコレート、果実の砂糖漬け……香水、化粧水、石鹸」
有栖が怪訝そうに首を傾げる。
「随分と女性向けの品が多いですわね」
「それだけじゃない」
瑠奈の青い瞳が細くなる。
「量がおかしい」
秋一郎が立ち上がり、二人の後ろから資料を覗き込んだ。
「どのくらい?」
「食料品は週に二、三度。菓子類は毎週。石鹸や化粧品も定期的にまとまった数が納められてる」
「使用人が多いのでは?」
「あった」
瑠奈は別の頁を探し当てた。
「住み込みの使用人は男が七人、女が四人」
「十一名」
「樒男爵本人を入れて十二人」
瑠奈は納入記録を指先でなぞる。
「なのに、この食料の量はどう見ても十二人分じゃない」
有栖も数字を追った。
「それに、この品々……」
老舗洋菓子店から届く大量のチョコレートや焼き菓子。
百貨店から納められる果物、香水、化粧品、上等な石鹸。
さらに。
「髪油、櫛、リボン、生地……」
有栖が静かに呟いた。
「女性用の室内履きまでありますわ」
三人は顔を見合わせる。
秋一郎が慎重に口を開いた。
「もちろん、これだけなら説明はいくらでもつく」
「ええ」
有栖も頷く。
「客人を頻繁に招いているのかもしれませんし、使用人への支給品という可能性もございます」
「商売に使っているだけかもしれない」
瑠奈もそう言った。
だが。
誰も、その説明で納得してはいなかった。
倒産寸前だった商会。
次々と死亡した個人債権者。
消えた証書。
その直後から始まった、異様なほど的確な商取引。
そして。
屋敷の居住人数とは釣り合わない量の食料と、定期的に運び込まれる女性向けの品々。
一つひとつなら偶然で済ませられる。
一つひとつなら、犯罪ですらない。
だが。
それらを一本の線で結んだ時。
昨日まで見えなかった何かの輪郭が、静かに浮かび上がり始めていた。
「……有栖姉さま」
「ええ」
有栖は小さく頷いた。
瑠奈は資料を閉じる。
「樒男爵のお屋敷――」
青い瞳に鋭い光が宿る。
「一度、きちんと調べた方がよさそうね」
秋一郎は答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
初夏の午後。
陽光に満ちた女学園の庭では、生徒たちが何も知らずに笑い合っている。
その明るさとは裏腹に。
秋一郎の脳裏には、別の疑問が浮かんでいた。
――もし、あれほどの食料が本当に消費されているのなら。
樒男爵の屋敷には。
いったい、何人が暮らしている?
「兄さま?」
瑠奈の声で、秋一郎は意識を戻した。
「……食料」
「え?」
「今も、大量に運び込まれているんだね?」
「ええ」
瑠奈はもう一度冊子を開く。
「少なくとも、この記録では週に二、三度。十二人では食べ切れない量よ」
「菓子や嗜好品も?」
「毎週。焼き菓子にチョコレート、果物の砂糖漬け。それに紅茶。化粧品や石鹸、髪油も定期的に」
そこまで聞いた瞬間。
秋一郎の表情が僅かに変わった。
険しさが、ほんの少しだけ和らぐ。
「……そうか」
「兄さま?」
「そうか。それなら」
有栖もその変化に気づいた。
「何か、お気づきになりまして?」
「ああ」
秋一郎は二人の向かいへ戻り、資料へ手を伸ばした。
「仮に――あくまで仮にだよ」
そう前置きする。
「僕たちが追っているものが、本当にヴァンパイアだとしよう」
有栖と瑠奈の表情が引き締まった。
「ヘルシング教授の記録によれば、彼らは霧や獣へ姿を変え、常人では入り込めない場所へ侵入できる」
秋一郎の指先が、債権者たちの記録へ移る。
「密室同然の寝室へ忍び込み、人を襲い、痕跡を残さず消えることも、伝承上は可能だ」
瑠奈の顔から血の気が引く。
「じゃあ……」
「ああ。三人の債権者の死についても、別の可能性を考える余地は出てくる」
そこで秋一郎は、線を引くように言葉を続けた。
「ただし、それは可能性にすぎない。神崎氏も、長谷川氏も、大庭氏も、警察は事件性なしと判断している。その判断を覆す証拠はまだない」
「でも」
有栖が静かに言う。
「もし本当に、事故や病死に見せかけるほどの力を持つ存在がいるのなら……」
「再検討する価値はある」
秋一郎は頷いた。
「それと、もう一つ」
今度は失踪事件の記録へ視線を移す。
「吸血鬼は、人間の血を糧とする。伝承によっては、血を奪われ尽くした者は死後、同じものへ変じるともいう」
瑠奈が息を呑んだ。
失踪した六人の令嬢たち。
その姿が脳裏へ浮かんだのだろう。
「もし綾子さんたちが……」
声が震える。
だが。
「いや」
秋一郎が穏やかに遮った。
「だからこそ、僕は少し安心したんだ」
「え?」
秋一郎は納入記録を指差した。
「考えてごらん」
「もし屋敷にいる者たちが、すでに人ではなくなっているなら、これほど大量の普通の食事を、継続して運び込む必要があるだろうか」
瑠奈が目を見開く。
有栖も、はっとしたように資料へ視線を落とした。
「……つまり」
「少なくとも、普通に食事をし、菓子を食べ、紅茶を飲み、身なりを整えて暮らしている人間が、あの屋敷にいる可能性は高い」
秋一郎の声音に、僅かな力が戻る。
「もちろん、それが失踪した令嬢たちだとは断定できない。使用人が増えただけかもしれないし、客人を多く招いているだけかもしれない」
それでも。
「もし、これが彼女たちのために買われているものなら――」
瑠奈の表情が変わった。
「……生きてる」
小さな声だった。
「綾子さんたちは、まだ無事かもしれない」
「ああ」
秋一郎は静かに頷いた。
「そう考えるだけの材料はある」
有栖は物資の一覧へ目を落とした。
「食料、菓子、紅茶、化粧品、石鹸、髪油……」
しばらく考える。
「確かに、ただ監禁しているだけとは思えない品々ですわね」
「むしろ」
瑠奈が続ける。
「そこで何不自由なく暮らさせようとしているみたい」
秋一郎の眉が僅かに動いた。
「――そこなんだ」
「え?」
秋一郎は椅子へ深く腰掛け、資料を見つめた。
「なぜ攫った人間を殺さない?」
誰も答えない。
「なぜ閉じ込めるだけでなく、十分な食事を与え、菓子や紅茶まで用意する。衣服や化粧品まで揃える必要がある?」
瑠奈が僅かに眉を寄せた。
「……大切にしている?」
その言葉に。
秋一郎はすぐには答えなかった。
しばらく資料を見つめる。
やがて。
低い声で言った。
「あるいは――」
一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「気分の悪い言い方になるけれど」
秋一郎の指が、納入記録の上で止まった。
「あの屋敷そのものが、吸血鬼にとっての“牧場”なのかもしれない」
瑠奈の表情が強張った。
「……牧場?」
「人間を一度殺してしまえば、そこで終わりだ」
秋一郎は淡々と続ける。
感情を排しているようでいて、その声には明らかな嫌悪が滲んでいた。
「けれど、健康なまま生かしておけば、血はまた作られる」
有栖の瞳が細くなる。
「十分な食事を与え、衛生を保ち、体調を崩さないようにする」
秋一郎は納入記録を指先でなぞる。
「嗜好品の数々も、生活を安定させるためと考えれば説明はつく」
「そして」
一拍置いた。
「命に障らない程度に、定期的に血を得る」
瑠奈の顔に、露骨な嫌悪が浮かんだ。
「……人が人を家畜扱いするなんて」
「ああ」
秋一郎も短く答える。
有栖は何も言わなかった。
ただ。
その指が膝の上で静かに握り込まれていた。
「もし、この推測が正しいのなら」
秋一郎は続ける。
「失踪した令嬢たちは、殺されるために攫われたわけではない」
瑠奈が顔を上げた。
「……生かしておくこと自体に、意味がある」
「ああ」
その言葉は希望だった。
同時に。
ひどく残酷な意味も持っていた。
有栖が静かに口を開く。
「では――」
声は穏やかだった。
けれど、そこには冷たい怒りが宿っている。
「彼女たちは、人として扱われているのではありませんわね」
秋一郎が有栖を見る。
「生きていられるように世話をされているだけ」
有栖はゆっくりと言葉を続けた。
「相手にとって都合のよい状態で」
秋一郎は答えなかった。
否定できない。
瑠奈が小さく呟く。
「でも……」
二人が視線を向ける。
「もし本当に、そんな暮らしをさせられているなら」
瑠奈は俯いた。
「どうして逃げないの?」
その問いに。
三人とも。
すぐには答えなかった。
綾子の寝室。
争った跡はなかった。
何者かを拒んだ形跡もない。
そして。
春日男爵の夜会で見た大澤。
本人の意思とは無関係に、感情を歪められていた青年。
有栖が静かに顔を上げる。
「……魅了」
瑠奈の表情が変わった。
秋一郎も目を細めた。
「そう考えると」
有栖の声音が、さらに低くなる。
「逃げないのではなく――」
言葉を切る。
「逃げたいと思えなくされている」
室内の空気が、静かに冷えた。
秋一郎は何も言わない。
まだ証拠はない。
しかし。
それまで散らばっていた断片が。
一つの、極めて不快な形へとまとまりつつあった。
生かす、食べさせる、着飾らせる、心を満たす――そして、血を得る。
その全てを、相手が幸福だと思い込んでいる状態で。
「……許せませんわ」
有栖が呟いた。
静かな声だった。
だが、瑠奈も秋一郎も。
その一言に込められた怒りの深さを、はっきりと感じ取った。
有栖は立ち上がる。
「もし、兄さまの推測が正しいのであれば」
真っ直ぐ前を見る。
「彼女たちは、まだ助けられます」
瑠奈も勢いよく立ち上がった。
「うん」
腰へ手を添える。
そこには今朝まで存在しなかった革製の拳銃嚢があった。
地下工房から受け取ったばかりの、銀色の自動拳銃。
昨夜と同じ失敗を繰り返さないための、新しい備え。
「まだ間に合うなら――」
瑠奈の青い瞳に、強い決意が宿る。
「絶対に連れて帰ろう」
有栖が静かに頷いた。
「ええ」
そして、ほんの僅かに目を伏せる。
まだ見ぬ犯人へ。
あるいは、その行為を正しいと思っているかもしれない何者かへ向けるように。
「どれほど快適な暮らしを与えられていたとしても」
ゆっくりと顔を上げる。
「それを本人が選べないのであれば――」
声には、揺るぎのない芯があった。
「そんなものを、幸福とは呼びません」
秋一郎はその言葉に、僅かに目を細めた。
やがて静かに頷く。
「ああ」
まだ何も証明されてはいない。
全ては仮説だ。
けれど、一つだけ三人の間で共有されたものがあった。
もし彼女たちが生きているのなら。
まだ取り戻せる。
「まだ、間に合う」
秋一郎の声が静かな応接室へ落ちた。
それは推理の結論ではなかった。
確証さえない、ひとつの希望に過ぎない。
それでも今はその希望だけで十分だった。




