第八章 決戦 其の壱
夜――帝都郊外、荏原郡大森町、樒男爵邸付近。
月は厚い雲に隠れ、辺りには湿り気を帯びた夜気が降りていた。
富裕な実業家の邸宅が建ち並ぶ一角。その外れに、樒惣介男爵の屋敷はあった。
高い煉瓦塀と鉄柵に囲まれた広大な敷地。
その向こうには鬱蒼とした木立が広がり、さらに奥には西洋風の大邸宅が黒々とした影を落としている。
正面玄関と二階のいくつかの窓には灯りが見える。
だが、それだけだった。
人の暮らす屋敷にしては――妙に静かだ。
そこから少し離れた街路樹の陰に、一台の大型自動車が停車していた。
護法院家のロールス・ロイス・シルヴァーゴースト。
エンジンはまだ止められていない。
低く規則正しい鼓動が、静まり返った夜の底で響いていた。
後部座席の扉が開く。
最初に降り立ったのは、星守瑠奈だった。
昼間と変わらぬ白いブラウスに濃紺の洋装。
しかし、その腰には明らかに普段とは異なるものがあった。
革製のベルト。
その右腰に取り付けられた拳銃嚢には、昼間、護法院地下工房で受け取ったばかりの自動拳銃が収められている。
銀色のコルトM1911。
機関部から銃身に至るまで蓬莱銀で造られ、瑠奈自身の霊力を効率よく弾丸へ伝えるために調整された、彼女専用の退魔武装だった。
続いて、有栖が車を降りる。
こちらはいつもと変わらない。
華美すぎず、それでいて一目で育ちの良さを感じさせる洋装。
武器らしいものは、どこにも見当たらない。
――少なくとも、普通の人間の目には。
有栖にとっては、自らの十指こそが武器だった。
不可視の霊糸。
これさえあれば、鋼鉄の刃も拳銃も必要ない。
最後に秋一郎が降りようとしたところで、瑠奈が扉へ手を添えた。
「兄さまは、ここまで」
「……瑠奈君?」
秋一郎が怪訝そうに眉を上げる。
「このまま警視庁へ行って」
瑠奈の声に、冗談めいた響きはなかった。
「真壁警部に全部伝えてください。私たちが樒男爵のお屋敷へ入ったことも、失踪した令嬢たちがここにいる可能性が高いことも」
「だけど――」
「兄さま」
今度は有栖が遮った。
穏やかな声音。
けれど、その眼差しには有無を言わせぬものがあった。
「お願いいたします」
秋一郎は二人を見る。
そして、首に巻かれた包帯へ無意識に手を添えた。
昨夜の傷。
あの狼男を前に、自分が何ひとつ出来なかったことを、嫌というほど思い知らされた傷でもある。
「……足手まといになるから、ということかな」
自嘲気味に笑う。
瑠奈が一瞬、困ったような顔をした。
「そういう言い方はずるいわ、兄さま」
「ふふ……そうですわね」
有栖も微笑んだ。
「兄さまにしかお願いできないことを、お願いしているのです」
その言葉に、秋一郎は黙った。
有栖は樒邸へ目を向ける。
「私たちが正しければ、あのお屋敷には攫われた令嬢方がいらっしゃいます。ですが、救出した後の保護や、屋敷にいる者たちの拘束は私たちだけではできません」
「それに」
瑠奈が続けた。
「もし私たちの推理が間違っていたら、ただの華族のお屋敷に二人で押し入ったことになるもの」
「その時は不法侵入で大目玉だね」
「笑い事ではございませんわ、兄さま」
有栖が呆れたように返す。
だが――。
三人とも分かっていた。
そんな穏当な結末になる可能性は、おそらく低い。
瑠奈が表情を引き締めた。
「それでも、警察を待ってはいられない」
声が低くなる。
「もし、あそこに綾子さんたちがいるなら――」
腰の拳銃嚢へ、そっと手を添える。
「今この瞬間にも、人でなくなってしまうかもしれない」
沈黙。
秋一郎は二人の顔を交互に見つめた。
やがて――観念したように息を吐く。
「……分かった」
「兄さま」
「警視庁へ行く。真壁警部に事情を伝えて、可能な限り早く警官隊をこちらへ向かわせてもらうよ」
瑠奈の顔に安堵が浮かぶ。
「ありがとう、兄さま」
「ただし」
秋一郎の声音が強くなった。
「無茶はしないこと」
瑠奈と有栖が顔を見合わせる。
「…………」
「そこで黙らないでくれるかな」
「善処しますわ」
「善処するわ」
ほとんど同時だった。
秋一郎は深いため息をついた。
「……まったく」
二人は小さく笑う。
それが、最後の穏やかな時間になるかもしれない。
そんな可能性を、誰も口にはしなかった。
やがて扉が閉まる。
シルヴァーゴーストがゆっくりと動き出した。
二人はその場に立ったまま、赤い尾灯が夜の街路の彼方へ消えていくまで見送った。
そして――。
完全に見えなくなったところで、瑠奈が樒邸へ向き直った。
その表情から、少女らしい柔らかさが消える。
「……有栖姉さま」
「ええ」
有栖もまた屋敷を見据えていた。
瑠奈は腰から拳銃を抜かなかった。
ただ、拳銃嚢の留め革だけを外す。
ぱちり。
小さな金属音が、妙に大きく夜気へ響いた。
「私は正面から行くわ」
「……正面から?」
「兄さまを襲った奴」
瑠奈の青い瞳が細くなる。
「あの狼男がここにいるなら、たぶん私を止めに出てくる」
有栖は黙って聞いている。
「私が正門で騒ぎを起こすわ。その間に姉さまは別方向から屋敷へ入って」
「令嬢方を探し出す――ということですわね」
「うん」
瑠奈は頷いた。
「中にいる人たちを助けるなら、姉さまの霊糸の方が向いてる。壁の向こうを探れるし、鍵だって関係ないでしょう?」
「そうですわね」
有栖はあっさり同意した。
戦術としては、それが最も合理的だった。
瑠奈は正面から敵の注意を引きつける。
その隙に有栖が侵入し、霊糸で屋敷内部を探査、囚われた令嬢たちを発見、保護する。
単純だ。
だが、それだけに危険でもある。
「それに……」
瑠奈が少しだけ言い淀む。
「私、あいつには借りがあるから」
有栖が横目で見る。
「借り?」
「兄さまをあんな目に遭わせたでしょう?」
瑠奈は笑っていた。
だが、目は笑っていなかった。
「今度会ったら、一発くらいお返ししないと」
その横顔を見つめ――。
有栖は、ふっと微笑んだ。
「仕方ありませんわね」
「え?」
「その狼男は、瑠奈さんにお譲りいたします」
あまりに上品な言い方だったので、瑠奈は一瞬意味を理解できなかった。
やがて目を丸くする。
「……姉さまも怒ってる?」
「当然でしょう?」
有栖は微笑んだままだった。
「兄さまをあれほど傷つけた相手ですもの」
声音まで、いつもと変わらず優雅である。
だからこそ――逆に怖い。
「本当でしたら、私自身の手で少々お話を伺いたいところなのですが……」
白い指先が、夜風の中で僅かに動いた。
月光を受けて初めて――。
その周囲に張り巡らされた無数の極細の霊糸が、一瞬だけ銀色に煌めく。
「瑠奈さんが外、私が中。それが最も合理的ですわ」
そして、にこりと笑った。
「ですから――これは一つ、貸しですわね」
瑠奈は数秒、有栖を見つめた。
それから堪えきれず、くすりと笑う。
「分かった。兄さまを半日連れまわしていいわ」
「まあ。それでは随分お安い貸しですこと」
「じゃあ、その後、兄さまに何か奢らせましょう」
「それなら考えて差し上げます」
二人は顔を見合わせ――。
笑みを消した。
瑠奈が正門を見る。
有栖は屋敷の側面へ続く暗い木立へ視線を移す。
ここから先は、遊びではない。
屋敷に何がいるのか、敵は何人いるのか、本当に吸血鬼なのか。
そして――囚われた令嬢たちは、まだ人間なのか。
何ひとつ確証はない。
それでも。
「姉さま」
「何でしょう?」
瑠奈は前を向いたまま言った。
「みんな連れて帰ろうね」
有栖は一瞬だけ目を細めた。
「もちろんですわ」
それ以上の言葉はいらなかった。
二人は背を向け合う。
一人は正門へ、もう一人は、塀沿いの闇へ。
*
樒邸――書斎
書斎の大窓は、分厚い臙脂色のカーテンによって隙間なく閉ざされていた。
夜だというのに、である。
卓上灯の淡い光だけが室内を照らし、磨き込まれた書棚と重厚な執務机に長い影を落としている。
その机の向こうで、樒惣介は静かにグラスを傾けていた。
「――藪蛇だったな、月島」
声は穏やかだった。
だからこそ、冷たかった。
向かいの長椅子にだらしなく腰を下ろしていた月島圭吾は、肩を竦める。
「悪かったよ。だが仕方ないだろう?」
いつもの軽薄な笑みを浮かべ、
「華族のお嬢様に、あんな力があるなんて誰が思う?」
そう言って胸元へ手をやった。
衣服の下には、三つの銃創が残っている。
本来ならば、とっくに塞がっていなければならない傷だった。
にもかかわらず、指先が触れただけで鈍い痛みが走ったのだろう。
「……っ」
月島の顔が僅かに歪む。
その様子を、樒は冷ややかに眺めていた。
「それを想像力の欠如と言うのだ」
「なんだと?」
「星守嬢は、事前に私が大澤君に施していた術を容易く解きかけた」
樒はグラスを卓上へ戻した。
「その時点で警戒するには充分だったはずだ」
月島は面白くなさそうに鼻を鳴らす。
そもそも、春日男爵邸での一件など必要のない茶番だった。
月島が言い出したのだ。
金だけでは足りない、と。
商会のために表沙汰にできぬ仕事まで引き受けているのだから、相応の報酬が欲しい。
それも金ではなく――女がいい。
樒は断った。
地下の〈楽園〉にいる女たちは、月島の欲望を満たすために集めたものではない。
彼女たちは樒にとって、もっと重要な存在だった。
生命線と言ってもいい。
だから代わりに、春日男爵の夜会に目をつけた。
月島が気に入った令嬢を選ぶ。
大澤に軽い暗示を施して騒ぎを起こさせる。
頃合いを見計らって月島が割って入り、令嬢を救う。
ただ、それだけ。
馬鹿馬鹿しいほど単純な芝居だった。
それが――。
「英雄になれるはずだった舞台を壊したのも、お前自身だ」
樒の声音に初めて微かな苛立ちが混じった。
「星守嬢ではない」
月島が眉を寄せる。
「目当ての婦人を放り出して、途中から星守嬢に目移りした。挙げ句、彼女の力量も見極めぬまま近づいた」
「……」
「その結果が、その傷だ」
月島の口元から笑みが消えた。
胸に残る三つの傷が、再び疼いたらしい。
だが、すぐにいつもの不敵な表情を取り戻す。
「心配しすぎなんだよ、男爵」
「何?」
「確かに、あのお嬢ちゃんは厄介だ。だが、俺が昨夜襲ったのは学者先生と刑事だぜ?」
月島は長椅子へ深く身体を預けた。
「俺はあの姿だった。誰が見たって人間とは思わない。月島圭吾と結びつけられるはずがないさ」
唇の端を吊り上げる。
「それに――俺の爪を受けた」
樒の眉が僅かに動いた。
「二人とも、もうまともな人生は送れない」
今度こそ月島は笑った。
「だから何も心配ないって」
樒は答えなかった。
本当に――そうだろうか。
分からないことが多すぎる。
星守瑠奈。
拳銃弾さえ通さぬ月島の肉体を、ただの蹴りで跪かせた少女。
警察官の拳銃を拾い、それまで傷ひとつ負わなかった獣人の肉体を、いとも容易く撃ち抜いた。
そして――。
もう一人。
樒の脳裏に、春日邸で見た少女の姿が浮かんだ。
護法院有栖。
あの男の娘。
かつて、自分に死刑宣告にも等しい言葉を告げた護法院伯爵。
事業を手放せ。
残った僅かな資産で、身の丈に合った暮らしへ戻れ。
あの日の屈辱を、樒は忘れていない。
だから、その娘だと知った時――。
憎悪すると思っていた。
あるいは。
地下の〈楽園〉に迎えるに相応しい美貌だと、そう思うのかもしれないと。
だが――。
違った。
有栖と目が合った、あの一瞬。
背筋を走ったもの。
あれは欲望でも、憎悪でもない。
もっと原始的な感情だった。
樒は自らの手を見る。
人の理を超えた力を宿した手。
かつて破滅寸前だった青年を救い、富も、力も、望むものすべてを与えてくれた力。
これを得てからというもの、恐怖など忘れていた。
なのに――。
あの少女を前にした瞬間だけ。
自分は、確かに恐れていた。
それはまるで。
森の中で不意に捕食者と出会った、小さな獣のような――。
「……護法院有栖」
樒は無意識にその名を呟いた。
月島が怪訝そうに顔を上げる。
「なんだ?」
「いや」
樒は静かに首を振った。
考えすぎだ。
そう思おうとした。
その時――。
屋敷の遥か外で。
何かが、低く唸った。
樒は顔を上げる。
そして同時に。
今まで感じたことのない、ひどく嫌な予感が胸の奥を這い上がってきた。
*
瑠奈は正門の前で足を止めた。
鉄製の門扉は高く、上部には尖った装飾が並んでいる。
普通なら、門番を呼ぶか、塀沿いに別の入口を探すところだろう。
だが瑠奈は、軽く膝を曲げただけだった。
次の瞬間。
右の門柱を蹴り、反対側へ跳ぶ。
さらに左の門柱を蹴り返し、その勢いのまま身体を高く舞い上げた。
三角飛び。
軽業師を思わせる鮮やかな動きで門扉を飛び越え、瑠奈はほとんど音も立てず敷地内へ着地した。
「ふうっ」
小さく息を吐く。
それから、何事もなかったように屋敷へ向かって歩き始めた。
その姿だけ見れば、夜更けに忍び込んだ侵入者ではない。
まるで午後のお茶の時間になったので、自宅へ戻る令嬢のような気軽さだった。
月は雲に隠れている。
庭園を貫く長いアプローチの両脇には、刈り込まれた生垣と大きな樹木が黒い影を落としていた。
屋敷まで、まだ半分ほど。
その時、瑠奈の足が止まる。
「……」
一人。
二人。
三人。
いや――もっといる。
周囲の木立から、人影が音もなく姿を現した。
男たちだった。
燕尾服姿の者、作業着の者、給仕服を着た者までいる。
おそらく樒邸の使用人だろう。
だが、全員の目が、おかしい。
焦点が合っていない。
淀んだ瞳には意思の光がなく、それなのに互いの動きだけは不気味なほど統制されている。
半円を描くように瑠奈を取り囲む。
「あなたたち……」
瑠奈が低く呟いた。
すると、男の一人の喉から、獣のような唸り声が漏れた。
「グ……ルル……」
次の瞬間。
骨が軋む音が響く、男たちの背が膨れ上がり、肩幅が異様なほど広がった。
衣服が内側から引き裂かれる。
指先が伸び、爪が黒く尖る。
顔面が前へ張り出し、歯列の間から鋭い牙が覗いた。
灰色の毛が、見る間に皮膚を覆っていく。
瑠奈の青い瞳が見開かれた。
(この人たちも……!)
あの呪い。
昨夜、真壁警部へ入り込もうとしていたものと同じ気配だった。
「まさか、全員――」
言い終えるより早く。
頭上から黒い影が落ちてきた。
「ッ!」
瑠奈は反射的に後方へ跳ぶ。
さらに両手を地面へつき、身体を弧のように反らせて後方宙返り。
直前まで彼女が立っていた場所を、巨大な両腕が掻き裂いた。
石畳が砕ける。
砂埃の向こうで、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
「ちっ」
聞き覚えのある声。
「あいかわらず、すばしっこいお嬢さんだ」
月島圭吾だった。
だが、夜会で見せていた洒脱な青年実業家の姿とは、どこか違う。
立襟の白いシャツは乱れ、袖は捲り上げられている。
無骨なズボンを吊るすサスペンダー。
厚い胸板と頑強な首筋が露わになり、もともと大柄だった身体が、今ではさらに野性味を帯びて見えた。
瑠奈はゆっくり立ち上がる。
「この人たちを『変えた』のは、あなたね」
月島は悪びれもせず笑った。
「ああ」
その笑みは獣のようだった。
「便利だろう?」
瑠奈の表情が冷える。
「人間を何だと思ってるの」
「堅いこと言うなよ」
月島は肩を竦める。
「どうせ傷を受けりゃ、いずれこうなる」
そして、にたりと笑った。
「今頃、お嬢さんの大事な学者先生も、あの刑事も――」
月島の目が愉悦に細まる。
「こんな姿になってる頃じゃないのか?」
瑠奈の瞳から、完全に笑みが消えた。
月島が踏み込む。
凄まじい速度だった。
放たれた蹴りが夜気を裂く。
だが、瑠奈は半歩だけ身体をずらした。
靴底が鼻先を掠めていく。
次の瞬間。
瑠奈は、その突き出された脚へ片足を乗せた。
「な――」
踏み台にする。
月島の腿を蹴って跳躍。
頭上を軽々と越え、その背後へ着地する。
月島が振り返った時には、瑠奈はすでに数歩先で彼を見ていた。
そして、不敵に微笑む。
「残念でした」
「……何?」
「兄さまも、警部さんも」
瑠奈は肩越しに振り返る。
「あなたが思っているより、ずっと元気よ」
月島の顔から笑みが消えた。
「……」
あり得ない、自分の爪を受けた、呪いは確実に入ったはずだ。
なのに。
一瞬。
月島は瑠奈の姿から目を離せなかった。
夜の庭園に立つ、小柄な少女。
華奢な身体、碧い瞳。
それなのに、自分をまるで恐れていない。
むしろ、獲物を見る目をしている。
腹立たしい、生意気だ。
そして――。
美しい。
その感情に気づき、月島は舌打ちした。
夜会の時からだ。
どうにも、この女だけは調子が狂う。
その時だった。
――ドンッ!
屋敷の方角から、鈍い轟音が響いた。
窓硝子が震える。
月島が反射的に振り返った。
「なんだ!?」
何かが起きている。
屋敷の中で。
その瞬間、月島の表情が変わった。
(まさか――)
眼前の少女。
正面から堂々と入ってきた。
派手に暴れ、自分を引きつけた。
(こいつ……囮か!)
「ちっ!」
月島は身を翻す、屋敷へ向かって駆け出そうとした、その足元。
――パンッ!
石畳が弾けた。
月島の靴先から、僅か数寸、抉れた石片が跳ね上がる。
月島は足を止めた。
背後から聞こえた金属音。
ゆっくり振り返る。
瑠奈の右手には、銀色の自動拳銃が握られていた。
コルトM1911。
月光を受けた蓬莱銀の銃身に、淡い青白い光が流れている。
銃口は、真っ直ぐ月島へ向けられていた。
瑠奈は微笑む。
夜会で見せていた、あの令嬢らしい柔らかな笑顔。
けれど、目だけは、まったく笑っていなかった。
「月島さん」
静かな声。
「せっかく、あなたのお誘いに応じましたのに」
わずかに首を傾げる。
「お帰りになるなんて、失礼じゃないかしら?」
一瞬、月島は何を言われたのか分からなかった。
そして思い出す、春日男爵邸。
あの時、自分が彼女へ求めたもの。
――少し二人で歓談しませんか。
月島の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「……なるほど」
身体を瑠奈へ向け直す。
その周囲では、獣人へ姿を変えた使用人たちが低く唸りながら包囲を狭めている。
「ようやくデートのお誘いを受けてくれるってわけか」
「ええ」
瑠奈は銃を構え直した。
「ただし」
蓬莱銀の銃身を走る光が、ひときわ強くなる。
「少し――荒っぽい歓談になりそうですけれど」
月島は牙を見せて獰猛な笑みを浮かべた。
*
屋敷を囲む木立の中。
有栖は一度だけ、二階のバルコニーを見上げた。
次の瞬間。
細い靴の先が、何もない空間を踏んだ。
さらに一歩、もう一歩。
もし、その光景を誰かが遠くから見ていたなら――。
護法院有栖という令嬢が、目に見えない階段を軽やかに駆け上がっているように見えただろう。
彼女の足元には、無数の霊糸が張り巡らされていた。
樹木、外壁、バルコニーの手摺。
それらを結ぶ糸を踏み台に、有栖はほとんど音も立てず高度を上げていく。
最後に軽く身体を翻し――。
ふわり。
ドレスの裾を揺らして、二階のバルコニーへ降り立った。
「……」
目の前には、大きな硝子戸、当然ながら鍵が掛かっている。
だが有栖は、取っ手に触れもしなかった。
右手の人差し指を僅かに動かす。
すると。
硝子戸と枠の僅かな隙間へ、髪より細い霊糸が滑り込んだ。
内側へ回り込み。
鍵へ絡みつき。
――カチリ。
小さな音。
まるで主人を出迎えるように、硝子戸がひとりでに静かに開いた。
「失礼いたします」
誰に言うでもなく呟き、有栖は屋敷へ足を踏み入れた。
廊下には誰もいない。
だが――気配はある。
一階、さらに、その下、人間のもの。
そして、人ではないもの。
有栖の霊糸が、蜘蛛の巣のように屋敷の内部へ広がっていく。
壁の裏、天井、階段、扉の向こう。
建物そのものを指先で触れているような感覚だった。
やがて有栖は、中央階段へ出た。
吹き抜けになった玄関広間。
赤い絨毯の敷かれた大階段。
豪奢なシャンデリア。
その中央に――一人の男が立っていた。
樒惣介男爵。
黒い夜会服に身を包み、片手を背へ回している。
まるで、この時を待っていたかのように。
「ご機嫌よう、護法院嬢」
樒は有栖を見上げると優雅に一礼した。
「突然のご来訪、どうかされましたか?」
有栖は階段の途中で足を止める。
「ご機嫌よう、樒男爵」
こちらも丁寧に一礼した。
「夜分に申し訳ございません」
そして、何事もないように階段を下り始める。
「少々、不躾なお願いがございまして」
「ほう」
「こちらに滞在されている令嬢方を、お迎えに上がりました」
樒の目が僅かに細くなる。
有栖は歩みを止めない。
「ご家族の皆様が、大変心配していらっしゃいます」
一段。
また一段。
「そろそろ、ご自宅へお帰しになってはいかがでしょうか」
樒は沈黙した。
やがて――ふっと笑う。
「これは困りましたな」
有栖が足を止める。
残り数段。
「残念ながら」
樒はゆっくり両手を広げた。
「皆様は、帰りたくないと申されておりまして」
「……」
「それどころか」
声が少しずつ柔らかくなる、甘く、耳の奥へ染み込むように。
「ここでの暮らしを、大変気に入っておられる」
樒の視線が、有栖の瞳を正面から捉えた。
「如何ですかな、有栖様」
声に色香が混じる。
「あなたも、しばらく滞在されては」
空気が変わった。
「そうすれば――」
樒の瞳が、深い紅へ変わる。
「彼女たちが何故ここを離れたくないのか、きっと理解していただける」
有栖の足が止まった。
樒は確信した。
――掛かった。
これまで何度も繰り返してきた。
若い娘。
商売敵。
債権者。
自分を侮った者。
誰であろうと、この視線から逃れられなかった。
恐怖。
陶酔。
愛情。
服従。
人の心など、僅かに力を加えるだけで好きな形に変えられる。
有栖の瞳の奥、彼女の意識の中へ自らの意識を滑り込ませる。
さらに深く、もっと深く――。
その瞬間。
「――っ!?」
樒の身体が大きく仰け反った、眼球を、内側から焼かれたような激痛。
「ぐ……っ!」
思わず両目を押さえる。
視界が白く弾けた。
何が起きた。
魅了を掛けたのは、自分のはずだ。
なのに、まるで相手の精神へ踏み込もうとした瞬間、鋭い刃でこちらの意識を切り裂かれたような――。
「……なるほど」
有栖の声。
樒が苦痛を堪えながら顔を上げる。
彼女は、何ひとつ変わっていなかった。
頬も赤らんでいない。
瞳も潤んでいない。
ただ、静かに彼を見下ろしている。
「これが、あなたの力なのですね」
「な……に……?」
「相手の心へ入り込み、感情を歪める」
有栖は僅かに眉を寄せた。
「随分と、無粋な術ですこと」
樒の背中を、冷たい汗が流れた。
有栖の周囲、目には見えない。
だが、確かに何かがある。
無数の細い何かが、彼女自身の精神を幾重にも包み込んでいる。
結界。
いや――。
もっと攻撃的な何か。
踏み込めば、こちらが傷つく。
「……ふ」
樒は無理に笑った。
「面白い」
両手を下ろす。
「ならば――」
次の瞬間、その身体が崩れた。
いや、霧になった。
黒い霧が床を這い、一瞬で広間いっぱいへ拡散する。
有栖の左右、背後、頭上、どこからでも襲える。
物理的な肉体を捨てた以上、刃も銃弾も意味を成さない。
(血さえ――)
霧となった樒の意識が、有栖の背後へ回り込む。
(血さえ奪えば――!)
どれほど強靱な精神を持つ人間でも関係ない。
吸血。
直接、自分の血を与え。
支配下へ置く。
この女であろうと。
必ず――。
その時だった。
ぞくり。
樒の意識に忘れていた感覚が走った。
悪寒。
本能が叫ぶ。
――止まれ。
何故、霧なのだ、肉体はない。
斬られるはずがない、撃たれるはずもない。
なのに。
――ドォンッ!
背後で轟音。
大階段を支えていた太い装飾柱が崩れ落ちた。
否。
折れたのではない。
斬られていた。
幾十。
幾百。
まるで目に見えない刃の群れを通過したかのように、巨大な柱が無数の薄片へ分断されている。
破片が床へ降り注ぐ。
同時に――。
「ぐあっ!?」
樒の霧が大きく乱れた。
痛い。
あり得ない、肉体を捨てている。
それなのに――。
身体を切り刻まれるような激痛が走っている。
黒い霧の一部が、赤黒く染まった。
「馬鹿な……!」
霧が急速に一点へ集まり、人型を取り戻す。
樒は数歩よろめいた。
頬に。
肩に。
胸に。
細い切創が何本も走っている。
血が滲む。
「何を……した……?」
有栖は答えなかった。
ただ、右手を静かに持ち上げる。
細い指。
その指先が、ほんの僅かに動いた。
すると月光の差し込む広間の中、一瞬だけ銀色の光が無数に煌めいた。
柱。
手摺。
天井。
壁。
床。
階段。
いつから張られていたのか。
屋敷の玄関広間全体が――。
蜘蛛の巣よりも遥かに複雑な、無数の霊糸に覆われていた。
樒の顔から血の気が引く。
霧になる前には見えなかった。
いや、今も、ほとんど見えない。
有栖は階段を最後まで下りた。
一歩。
また一歩。
樒へ近づいてくる。
その歩みに合わせて、無数の糸が僅かに震える。
「男爵」
穏やかな声。
「先ほど申し上げましたでしょう?」
有栖は微笑んだ。
礼儀正しい、いつもの微笑み。
「令嬢方を――」
指先が、僅かに動く、樒の頬へ新しい一本の傷が走った。
「お迎えに上がった、と」
その瞬間、樒はようやく理解した。
春日邸で感じたもの。
あの時、自分は、この女を欲しいと思ったのではない。
恐れていたのだ。
そして――。
その恐怖は正しかった。




