第九章 決戦 其の弐
「俺を甘く見るなよ」
月島は怒気を含んだ目で瑠奈を睨みつけた。
次の瞬間、その身体が膨れ上がる。
シャツが肩口から裂け、筋肉が異様な速度で隆起する。背骨が軋み、顔面が前へせり出し、歯列の間から鋭い牙が伸びた。
黒褐色の毛が全身を覆っていく。
昨夜、公園で見たのと同じ姿。
人の形を残しながら、その存在を凶暴な獣へと歪めたもの。
狼男。
そして、その変化を終えるまでの僅かな隙を埋めるように、周囲の獣人たちが一斉に動いた。
正面から二人。
左右から三人。
背後から一人。
連携の取れた動きだった。
だが、瑠奈は慌てなかった。
一歩。
身を沈める。
頭上を爪が通過する。
身体を捻り、その勢いのまま次の腕を躱す。
さらに半歩退き、襲いかかる二人の間へ滑り込む。
その動きは速い。
だが、それ以上に――美しかった。
戦っているというより。
舞っている。
月島には、そう見えた。
――パンッ!
銃声。
だが弾丸は獣人の胸を撃ち抜くことなく、その足元の土を抉った。
月島の眉が動く。
(また外した?)
二人目が瑠奈へ飛びかかる。
彼女はその爪を紙一重で避け、身体を回転させながら腕を伸ばした。
――パンッ!
二発目。
やはり地面。
三発目。
四発目。
どれも獣人たちの身体を掠めるか、その脇を抜けて庭園へ突き刺さった。
月島の口元が吊り上がる。
(なるほどな)
殺せないのだ。
昨夜、公園で自分を撃てたのは、自分には通常の銃弾が通じないと分かっていたから。
今いるのは、元は人間だった使用人たち。
この小娘は、それを知っている。
(あんな物騒な拳銃を持っておきながら)
結局は華族のお嬢様だ。
血を見る覚悟がない。
ならば、やりようはいくらでもある。
月島は低く唸った。
その咆哮に応じて、獣人たちが一斉に散開する。
瑠奈を中心に、円を描くように取り囲む。
前後左右、逃げ道を塞ぐ。
一人なら躱せる。
二人でも。
三人でも。
だが、四方から一斉に掛かれば、どれほどすばしこくとも捕らえられる。
月島の口元が獰猛に歪んだ。
「捕まえろ」
咆哮。
獣人たちが一斉に地面を蹴った。
だが、瑠奈は――。
微笑んだ。
ほんの僅かに。
右手の拳銃が動く。
――パンッ!
五発目。
足元。
続いて。
――パンッ!
六発目。
反対側の地面、その瞬間だった、最初に撃ち込まれた地点から、淡い光が立ち上った。
「……?」
月島の笑みが消える。
二発目。
三発目。
四発目。
五発目。
六発目。
庭園の各所に撃ち込まれた地点が、次々と青白く輝き始める。
そして、その光と光を結ぶように、細い線が地面を走った。
「なんだ……これは」
月島が呟く。
ようやく気づく。
外していたのではない。
一発たりとも、瑠奈は外してなどいなかった。
彼女が撃ち込んだ弾丸には、小さな霊石が封じ込められていた。
地面に突き刺さったそれぞれが、要石となる。
六つの点。
六つの杭。
そして。
その間を埋めるものが――。
瑠奈自身の足跡だった。
月島の表情が凍る。
今までの奇妙な足運び。
爪を躱し。
身体を回し。
跳び。
沈み。
また踏み出す。
一見すれば、ただ敵の攻撃を避けていただけ。
だが違う。
それは。
舞だった。
星守家の舞。
古くから穢れを祓い、土地を鎮め、神を迎えるために伝えられてきたもの。
星守の術は、本来、敵を殴り倒すためにあるのではない。
場そのものを清めること。
それが本質だった。
一歩踏むごとに穢れを削ぎ。
一巡するごとに土地の気を整え。
最後には、己の立つ場所を一時の祭場へと変える。
瑠奈の身体を支える強靱な脚も。
常人離れした跳躍も。
舞うような回避も。
すべて、そのために鍛えられたものだった。
戦いのために舞を応用したのではない。
舞うために鍛えた身体が、そのまま戦いにも通じているのだ。
そして、そこへ拳銃を持ち込んだ星守の娘は――。
おそらく、長い一族の歴史でも瑠奈が初めてだった。
星守の直系に生まれながら。
刀でもない。
鈴でもない。
御幣でもない。
米国製の自動拳銃を手に、祭儀を完成させる。
伝統から見れば、異端。
だが、瑠奈にとっては、違った。
祓えるのなら。
守れるのなら。
手段など、何だっていい。
――パンッ。
最後の一発が、地面へ突き刺さった。
その瞬間、光の紋様が閉じた。
空気が変わる、風が止まる。
庭園を満たしていた生温い夜気が、一瞬にして澄んだ。
月島の身体が揺れる。
「ぐ……ッ!」
重い、まるで鉛を背負わされたように。
皮膚の内側が焼ける。
肺へ吸い込む空気さえ痛い。
「何を……した……!」
答えの代わりに。
周囲から苦悶の声が上がった。
「う……」
「ぐああ……!」
獣人たちが次々に膝をつく。
頭を抱え。
地面へ倒れ込む。
膨張していた筋肉が縮み。
灰色の毛が抜け落ち。
伸びた爪が元へ戻る。
人の形を失っていた顔が、ゆっくりと元の輪郭を取り戻していく。
一人。
また一人。
獣だった者たちが、人間へ戻っていった。
「馬鹿な……」
月島は呆然とする。
「俺の……力が……」
「違うわ」
瑠奈が静かに言った。
「あなたの力を奪ったんじゃない」
人間へ戻った使用人の一人が、その場へ崩れ落ちる。
意識を失っている。
だが、生きている。
「この人たちの中に巣食っていたものを」
瑠奈は月島を見た。
「祓っただけ」
今や樒男爵邸の庭園はほんの僅かな時間だけ、神域に等しい場所へと変わっていた。
人ならざるものを拒み、呪いを焼き、穢れを押し流す空間。
月島の身体からも、何かが剥がれ落ちていく。
だが、彼だけは、人間へ戻らなかった。
「……」
瑠奈の表情が少しだけ変わる。
分かっていた。
他の者たちは、呪いを植え付けられた被害者。
だが、月島は違う。
もう、呪いが身体に巣食っているのではない。
月島自身が怪異へと変わってしまっている。
「く……そ……」
月島が牙を剝く。
震える脚で、なお立とうとする。
瑠奈は静かに拳銃の弾倉を抜いた。
――カチッ。
空になりかけた銀色の弾倉が掌へ落ちる。
腰の弾倉入れから、新しいものを取り出す。
先ほどまで使っていたものとは違う。
術式も。
込められた気配も。
まるで違った。
「……何だ、それは」
月島の声に。
初めて、不安が滲んだ。
瑠奈は答えない。
新しい弾倉を差し込む。
――カチン。
遊底を操作する。
金属音、薬室へ一発の特殊弾が送り込まれた。
先ほどまで使っていたのは人を救うための弾丸。
場を清め。
呪いを祓うためのもの。
だが、今、装填されたものは違う。
怪異を、人に仇なすものを滅ぼすために作られた弾丸。
瑠奈はコルトM1911を構えた。
月島へ照準を合わせる。
銀色の銃身に青白い光が走る。
握把から流れ込んだ霊力が。
機関部。
銃身。
そして。
薬室の弾丸へと伝わっていく。
昨夜とは違う。
借り物の拳銃へ、無理やり力を押し込んだ時とは違う。
淀みがない、拳銃そのものが、瑠奈の舞の延長になったようだった。
祭具。
そう呼んでもいい。
ただし、古い星守家の者が見れば、卒倒しかねない祭具だろう。
瑠奈は薄く笑った。
「さあ」
銃口が、月島の胸の中央を捉える。
「次は――」
青い瞳が細くなる。
「あなたの番よ」
月島が咆哮した。
恐怖を振り払うように。
地面を蹴る。
巨大な身体が瑠奈へ突進する。
だが、瑠奈は一歩も退かなかった。
照準を外さない。
十メートル。
八メートル。
六メートル。
爪が振り上げられる。
三メートル。
そして。
引き金を絞る。
――轟音。
四十五口径の特殊弾が、青白い光を曳いて夜を裂く。
その弾丸は月島の胸へ正面から突き刺さり。
分厚い筋肉を。
人外の骨を。
その奥にあるものを貫いて、心臓を撃ち抜いた。
「――ッ!」
月島の身体が止まる。
大きく見開かれた瞳。
口が動く、だが、声は出ない。
一歩前へ、そして、瑠奈の僅か手前で膝をついた。
胸の銃創から青白い光が、血管を逆流するように身体全体へ走っていく。
単なる銃創ではない、撃ち込まれた霊力が月島という怪異そのものを、内側から焼いている。
「なん……で……」
掠れた声。
瑠奈は銃口を下げなかった。
月島は理解できないように自分の胸を見る。
「あの夜……」
息を吐く。
「銃なんか……効かなかった……」
「ええ」
瑠奈は静かに答えた。
「だから」
ほんの少しだけ、いつもの彼女らしい笑みが戻る。
「ちゃんと効くものを、作ってもらったの」
月島は一瞬、呆けたように瑠奈を見た。
そして。
「……は」
小さく笑った。
自嘲なのか、呆れなのか、それとも最後まで、この少女に目を奪われていたのか。
瑠奈には分からなかった。
巨体から力が抜ける。
庭園へ倒れ込む。
鈍い音。
しばらくして。
青白い光も静かに消えていった。
瑠奈は数秒。
倒れた月島を見つめていた。
やがて、ゆっくりと拳銃を下ろす。
「……兄さま」
小さく息を吐く。
「警部さん」
そして。
「借りは返したわよ」
夜の庭園に、静けさが戻る。
だが、戦いはまだ終わっていない。
瑠奈は屋敷を見る。
その奥には有栖がいる。
そして、まだ連れ帰らなければならない人たちがいる。
銀色の拳銃を握り直す。
「姉さま……」
遠く。
屋敷の中で、大きな音が響いた。
瑠奈の表情が鋭くなる。
「待ってて」
星守家の娘は自ら作り上げた小さな神域を背に。
今度は舞うためではなく――。
姉のもとへ向かうために、駆け出した。
*
樒惣介は、地下へ続く階段を駆け下りていた。
背後。
遥か上の方で、銃声が響く。
一発。
二発。
さらに続く。
「……月島」
樒は足を止めなかった。
だが、その瞬間、胸の奥で、何かが切れた。
目には見えない糸。
血よりも濃い、契約のようなもの。
それが、ぷつり、と消えた。
「……?」
樒の足が止まる。
数秒、理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「馬鹿な……」
月島の気配が――ない、完全に。
「あり得ない……!」
思わず壁へ手をつく。
奴には与えた。
あの化粧箱に収められていた――。
〈獣の王〉の血。
人間を獣へ変える、あの力を。
自分と同じ、いや、種類こそ違えど、人の理を超えた存在へ。
それなのに。
(まさか星守の小娘一人に……?)
拳が震える。
「何故だ……!」
その時、背後から響く足音。
ゆっくり。
一段。
また一段。
急いでいない。
追い詰められた獲物を逃がさぬような。
静かな足取り。
護法院有栖。
「くそ……」
樒は再び走り出す。
身体中が痛む。
霊糸によって刻まれた傷が、まるで火を押し当てられたように疼いていた。
治らない。
本来なら、この程度の傷など、数分もあれば塞がるはずだった。
なのに、護法院の女につけられた傷だけは。
今も血を流している。
焦燥が膨らむ。
(すべて月島のせいだ)
あの馬鹿が。
女に目移りして。
星守瑠奈を刺激し。
あげく。
恋敵とでも思ったのか。
鳴神秋一郎を襲った。
余計なことばかり。
だが、階段を降りながら樒の思考が止まる。
「……いや」
違う。
月島だけではない。
自分だ。
力を得て。
富を取り戻して。
自分を夜の貴族だと思い込み。
家臣へ褒美を与えるような気分で、あの血を月島へ与えた。
それが、すべての始まりだった。
(私も……浮かれていたのか)
認めたくない。
だが、そうなのかもしれない。
それでも終わるわけにはいかない。
まだ手はある。
地下。
〈楽園〉。
あそこなら〈彼女たち〉がいる。
樒は地下広間へ飛び込んだ。
「皆!」
声が響く。
そこにいた女性たちが、一斉に顔を上げた。
十一人。
誰もが美しく着飾り、誰もが穏やかな生活を送っていたかのように見える。
「樒様?」
桜庭綾子が立ち上がる。
樒は息を整える。
そして。
「侵入者が来る」
令嬢たちの表情が変わった。
「私たちの楽園を壊そうとしている」
その言葉だけで、彼女たちの瞳に、敵意が宿る。
「守ってくれるね?」
「もちろんです」
綾子は迷わず答えた。
その声には陶酔が、愛情があった。
そして、異常な忠誠があった。
彼女たちは動き出す。
戸棚。
長椅子の下。
壁際。
隠されていた武器が取り出される。
二十六年式拳銃。
サベージ自動拳銃。
Kar98a騎兵銃
和弓。
薙刀。
それぞれが、それぞれの武器を手にする。
やがて地下広間の扉がゆっくりと開いた。
――ギィ。
護法院有栖が姿を現す。
その瞬間。
「撃って!」
綾子の声。
銃声と同時に矢が放たれる。
だが、有栖は動かなかった。
銃弾。
矢。
どれも彼女へ届かない。
その手前で。
――切れた。
銃弾は正面から二つに割れ、矢は鏃ごと裂けた、そして力を失い、絨毯の上へぱらぱらと落ちる。
「……」
有栖は何事もなかったかのように、一歩、広間へ入る。
「有栖様!」
綾子が叫ぶ、手には自動拳銃。
「帰ってください!」
瞳には。
憎しみ。
「私たちの楽園を奪わないで!」
「そうよ!」
「帰れ!」
「樒様を傷つけるなんて!」
次々と浴びせられる罵声。
だが有栖の表情は少しも変わらない。
ただ静かに一人ずつ自分の囲む数えていた。
(十一名)
把握していた失踪者より遥かに多い。
そして全員生きている。
少なくとも身体は。
「……」
有栖の視線が、最後に樒へ向く。
樒は令嬢たちの後ろ。
その中央にいた。
「どうだ」
笑み。
まだ余裕を装っている。
「私を攻撃すれば」
樒は綾子の肩へ手を置く。
「この中の誰かが死ぬ」
有栖の瞳がほんの僅か細くなる。
「いや」
樒は続ける。
「これ以上私に逆らうなら」
憂いを帯びたような表情。
「彼女たちは、自ら命を断つだろう」
沈黙。
「もう止そうじゃないか」
甘い声。
「あと数人」
「ほんの数人」
「楽園へ迎え入れることが出来れば」
「私はもう」
「新しい事件を起こす必要もない」
そして。
「むしろ」
樒の視線が有栖を舐めるように見る。
「君がここへ来てくれるなら」
「何人かは解放してもいい」
有栖は何も応えない。
樒は続ける。
「どうだい?」
「悪い取引では――」
「仰りたいことは」
有栖の声は低い。
「それだけですか?」
樒の言葉が止まる。
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
あの夜。
春日邸で護法院有栖と目が合った時。
感じたもの。
恐怖、それが戻ってくる。
いや、今度はもっと強い。
「……残念だ」
樒は即座に言った。
「なら」
顔を綾子へ向ける。
「綾子」
「はい」
「死ね」
「はい」
迷い無く…綾子の右手が上がる。
自動拳銃の銃口が自分のこめかみへ。
指が引き金へ。
だが。
「……?」
動かない。
綾子の瞳が揺れる。
「え……?」
腕が止まっている。
いや、腕だけではない。
肩。
脚。
指。
動かない。
「何……これ……?」
他の令嬢たちも同じだった。
「動けない!」
「樒様!」
「身体が……!」
樒の顔から血の気が引く。
「貴様……!」
有栖は何もしていない…ように見えた。
だが違う。
樒が喋っていた間も、ずっと無数の霊糸がこの広間へ伸び続けていた。
床。
壁。
柱。
天井。
家具。
そして、十一人の誰も傷つけず、締めつけず。
ただ、関節と武器だけを正確に封じる。
有栖は一歩前へ踏み出す。
「先ほどから」
声は静かなままで。
「随分と」
もう一歩。
「勝手なことばかり…」
樒の顔が歪む。
「護法院有栖!」
次の瞬間、樒の身体が再び霧へ変わる。
「ならば!」
白い霧は幾筋にも枝分かれし、蛇の群れのように、令嬢たちの間を縫って有栖へ殺到する。
霧の先端には鋭利な牙が彼女を狙う。
これなら攻撃できまい――樒は今度こそ勝利を確信する。
有栖の霊糸の刃が樒の霧を裂けば、その余波は背後の令嬢達に及ぶ。
玄関ホールで霧となった樒を切り裂いた糸は、背後の柱まで細切れにした。
(血さえ!)
このまま有栖の血を吸えば終わる。
その瞬間。
――ズッ。
胸に鈍い痛みが走る。
「……?」
樒の動きが完全に止まった。
「な……」
自分の胸を見る樒、霧化した自分にそんなものはない。
しかし、樒の存在を支える核といえるものが、有栖の放った何本もの糸に突き刺されていた。
「馬鹿な……」
霧化が解ける。
人の姿、樒の胸、その心臓の位置に小さな赤い点が幾つも浮かんだ。
そこから血が流れる。
樒の瞳が大きく開く。
「私は……」
声が震える。
「彼女たちの……隙を……」
有栖は静かに見ている。
「ええ」
その指が僅かに動く。
月光、いや地下には月光などない。
なのに一瞬、銀色の線、十一人の令嬢の…
肩。
腕。
脇。
脚。
髪。
その僅かな隙間を縫うように何本もの霊糸が通っていた。
そしてその先は、樒の心臓へ。
「まさか……」
樒の声。
「彼女たちを……避けて……?」
「当然です」
有栖の声は冷たい。
「この方々を傷つける理由など、どこにもありませんもの」
そして指先を僅かに引く。
その瞬間。
「ぐあああああっ!」
樒の身体が大きく仰け反る。
霊糸、それを通って有栖の力が、直接心臓へ流れ込む。
吸血鬼にとって、毒、いや。
毒などという生易しいものではない。
浄化。
破壊。
人ならざる怪異、その存在そのものを滅ぼす力。
「やめ……ろ……!」
樒の膝が落ちる。
「私は……!」
「夜の……貴族……」
有栖は見下ろす。
「いいえ」
静かに。
「あなたは」
一拍。
「人を攫い」
「心を奪い」
「その方々を盾にしただけの」
有栖の瞳は冷たい。
「卑怯な犯罪者です」
樒の顔が歪む。
「この……女……!」
「それから」
有栖は綾子たちを見る。
「楽園と仰っていましたね」
樒の瞳が揺れる。
「ここは」
有栖ははっきりと言った。
「楽園などではありません」
そして。
「牢獄です」
何かが崩れた。
樒の中で力ではなく誇り、幻想、自分は選ばれた存在。
夜の貴族。
彼女たちは自分を愛している。
ここは、楽園。
そのすべて目の前の女によって否定された。
「違う……」
樒が呟く。
「私は……」
顔を上げる、そして有栖を見る。
その瞬間、思い出す。
春日邸、あの時感じた恐怖。
自分でも理解できなかった。
捕食者を前にした小さな獣の感覚。
あれは正しかった。
「……ああ」
樒の顔に初めて本物の恐怖が浮かぶ。
「そう……だったのか……」
有栖の指が静かに動く。
霊力が心臓から全身へ駆け巡る。
樒惣介の叫びが地下の〈楽園〉に響き渡った。




