エピローグ
樒惣介男爵の急死とともに明るみに出た令嬢誘拐・監禁事件は、世間が騒ぎ立てるほどの大事件にはならなかった。
新聞に載った記事も、小さなものだった。
被害者の氏名は公表されず、人数についても曖昧にされた。
華族令嬢を含む複数の女性が樒邸から保護されたこと。
樒男爵本人は事件発覚直後に死亡したこと。
そして警察が、関係者から事情を聴取していること。
報じられたのは、その程度だった。
世間には、若い華族の放蕩が度を越した末に発覚した醜聞。
その程度の事件として受け止められているらしい。
数日もすれば、もっと刺激的な別の記事に紙面を奪われるだろう。
もっとも、大勢の良家の令嬢が関係する事件が、ここまで静かに処理されたことについては、警視庁内部でも様々な噂が流れていた。
――被害者とその家族への配慮。
表向きの理由は、それだった。
だが、護法院家と星守家が裏で動いたのではないか。
そんな話を口にする者も少なくなかった。
何しろ、事件解決後、護法院伯爵や星守伯爵から警視庁へ直筆の感謝状が届いのだ。
それだけならまだいい。
同時に送られてきた寄付金は、決して少額と呼べるものではなかった。
古くなった警察施設の改修費に充てるだの、殉職者遺族の扶助に使うだの。
上層部は妙に上機嫌である。
真壁剛造はそうした話を聞く度に、何とも言えない顔をするしかなかった。
警視庁、刑事部捜査課。
午後。
真壁は自席で、部下が作成した報告書に目を通していた。
『樒男爵邸監禁事件に関する捜査報告』
随分と立派な表題だ。
だが、内容は肝心なところほど曖昧だった。
保護された女性たちは、全員命に別状なし。
衰弱していた者もいたが、適切な治療を受け、順次家族のもとへ戻されている。
本人たちの記憶には混乱が見られ、監禁中の出来事について明瞭な証言を得ることは難しい。
屋敷の使用人たちについても同様だった。
集団で異常な興奮状態にあったことは確認されている。
しかし、何故そのような状態になったのか。
薬物。
催眠。
あるいは何らかの集団ヒステリー。
医師たちも明確な結論を出していない。
当然だ、真壁は報告書を机へ置いた。
あれを見ていない人間に。
説明など出来るものか。
狼男。
人間の身体を遥かに超える怪物。
銃弾を弾く肉体。
人を獣へ変える呪い。
そして、それを真正面から撃ち倒した少女。
真壁は自分の背中へ手を回した。
厚い包帯の下には、まだ傷が残っている。
痛みもある。
だが、傷口に巣食っていた、あの異様な冷たさはもうない。
星守瑠奈、そして護法院有栖。
あの二人がいなければ、自分も、鳴神秋一郎も今頃どうなっていたか分からない。
「……まったく」
真壁は小さく呟き机の端に置かれたものへ目を向ける。
一通の手紙、そして細長い木箱。
午前中、真壁個人宛として届けられたものだった。
封筒の表には丸みを帯びた、若い女性らしい筆跡。
――真壁剛造警部様。
送り主を見るまでもない、真壁は封を切った。
便箋を広げる、最初に書かれていたのは、事件捜査を邪魔してしまったことへの詫びだった。
勝手に樒邸へ侵入したこと。
警察の到着を待たず行動したこと。
そして、屋敷の一部を壊してしまったこと。
そこだけ妙に言い訳めいた文章が続いている。
真壁は眉間を押さえた。
「あの嬢ちゃん……」
どこまで本気で反省しているのか。
甚だ怪しい。
だが、その後の文章を読んで真壁の表情が変わった。
鳴神秋一郎を守ってくれたこと。
自分自身も重傷を負いながら、最後まで戦ってくれたこと。
そのことへの丁寧な感謝。
真壁はしばらく黙って読み進めた。
そして最後の数行。
そこで、目を止める。
――警部さんへの贈り物は、私が以前使っていた銃を仕立て直したものです。
「……?」
――同封している銃弾を使えば、怪異にも対抗出来ます。
「は?」
真壁は慌てて木箱へ手を伸ばした。
留め金を外し蓋を開ける。
「……おい」
中には一挺の拳銃が収められていた。
大型の中折れ式回転拳銃。
真壁にも分かる。
ウェブリー。
英国の軍用拳銃として知られる、頑丈極まりない代物だ。
派手さはない。
むしろ、見るからに質実剛健。
軍人が泥と埃の中で使うような銃だ。
だがこれは普通のウェブリーではなかった。
銃身。
機関部。
回転弾倉。
その一部に細かな紋様が彫られている。
文字にも装飾にも見える。
だが、真壁にはもう分かっていた。
これはただの飾りではない。
箱の中には、さらに小さな弾薬箱。
蓋を開ける。
十数発の銀色に輝く拳銃弾。
こちらにも同じような紋様。
「……」
真壁は。
しばらく何も言えなかった。
そして、再び手紙へ目を戻す。
最後の一行。
――これからも、よろしくお願いします。
真壁は肩を震わせる。
「……は」
小さな声。
「はは……」
そしてついに。
「はっはっはっは!」
声を上げて笑った。
周囲の刑事たちが何事かと振り返る。
だが、真壁は構わなかった。
事件が終わった直後あれほど言った。
勝手に動くな、警察を待て。
華族の屋敷へ勝手に忍び込むな。
命を粗末にするな。
本人たちは神妙な顔で聞いていた。
少なくともそう見えた。
「……まるで意味がなかったな」
真壁は笑いながら呟いた。
贈られてきた拳銃。
怪異に効くという特殊弾。
そして。
――これからも、よろしくお願いします。
これは礼ではない。
いや、礼ではあるのだろう。
だが同時に、明らかに、次も付き合え、という意味だ。
真壁はウェブリーを手に取った。
ずしりと重い、警察から支給されているブローニングとはまるで違う感触。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「怪異、ねえ……」
数日前までなら鼻で笑っていただろうが、今は笑えない。
いや、別の意味では笑うしかない。
真壁はもう一度手紙を見る。
星守瑠奈。
護法院有栖。
鳴神秋一郎。
どうやらあの三人と関わった時点で、平穏な刑事人生というものは諦めた方がよさそうだった。
真壁は苦笑しながら新しい拳銃を木箱へ戻した。
窓の外。
帝都東京には、いつもと変わらぬ日常が広がっている。
市電が走り、人々が行き交い新聞売りの声が響く。
この街の夜に人知れず何が潜んでいるのか。
真壁は机の引き出しを開けた。
そして木箱をその中へ収めようとするが、
少し考えてから。やはり取り出した。
「……まあ」
口元を緩める。
「持っていた方がいいか」
今度は机の横へ置いた。
次、あの令嬢たちと再会する時、
相手がどんな事件を持ち込んでくるのか。
少しだけ楽しみにしている自分がいた。
*
桜庭綾子が目を覚ましたのは、護法院女学園の医務室だった。
清潔な寝台、窓から差し込む柔らかな朝の光。
最初のうちは、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。
記憶も途切れ途切れだった。
夜、自室へ現れた男と目が合ったこと。
ひどく優しい声を掛けられたこと。
そして――。
地下で過ごした日々だけは、不思議なほど鮮明だった。
美味しい食事があった。
菓子も。
紅茶も。
新しい服も。
誰も自分を傷つけなかった。
そして何より、あの場所にいる間の自分は――確かに幸福だった。
そう思っていた。
だからこそ胸が痛んだ。
思い出す、地下の広間で拳銃を握った自分。
そして、自分たちを助けに来てくれた護法院有栖へ、銃口を向け引き金を引いたことを。
本気で彼女を傷つけようとした。
もっと恐ろしいのは、その時の自分が、それを正しいことだと信じていたことだった。
有栖は責めなかった、意識を取り戻した綾子が震える声で謝罪すると。
ただ、
「綾子さんが謝ることではありませんわ」
と、それだけだった。
けれど、だからといって、綾子自身が、簡単に忘れられるわけではなかった。
屋敷へ戻ったあとも、その記憶は胸の奥に、小さな棘のように残り続けた。
「……私、これからどうすればいいんでしょう」
ある日の午後。
見舞いに訪れた星守瑠奈へ綾子はぽつりと打ち明けた。
「お父様もお母様も、もう何も心配しなくていいって言ってくださるんです。でも……」
膝の上で指を握る。
「何もなかったように暮らせる気がしなくて」
瑠奈は何も言わずに聞いていた。
しばらくして、少しだけ考えるように首を傾げる。
そして、思いのほか真面目な顔で言った。
「どうすればいい、じゃなくて」
「……え?」
「綾子さんが、何をしたいかじゃないかな」
綾子は瞬きをした。
瑠奈は続ける。
「全部が思い通りになる人なんて、たぶんいないと思うの」
「……」
「でも、自分で選べることまで、誰かに決めてもらわなくてもいいでしょう?」
その言葉に綾子は息を呑んだ。
何をしたいのか。
そんなことをあの地下へ連れ去られて以来、一度も考えていなかった。
いや、あの場所では考える必要さえなかった。
何を食べるか。
何を着るか。
どこで眠るか。
誰を愛するか。
すべて与えられていた。
そして、それを幸せだと思わされていた。
だから、綾子は初めて自分へ問いかけた。
私は何がしたいのだろう?
ーー二か月後。
桜庭綾子は、護法院女学園へ編入した。
もちろん両親は最初、強く反対した。
無理もない。
ようやく戻ってきた娘が、再び同じ危険に晒される道に進むなど、到底受け入れられない話だった。
だから綾子は父と母の前へ正座し、少し緊張しながらもはっきりと言った。
「私、身を守る術を学びたいのです」
父親が眉を寄せる、それでも綾子は続けた。
「もう二度と、同じようなことにならないように」
そして少しだけ考えてから。
「それに――」
姿勢を正す。
「いつか桜庭家を継ぐ方の妻となるなら、その方を支えるためにも、きっと役に立つと思います」
それは両親を納得させるための言葉でもあった。
嘘ではない。
けれど、本当の理由のすべてでもない。
綾子は、もう一度、誰かに自分の人生を奪われるのが嫌だった。
守られるだけではなく、自分自身で。自分の人生を守れる人間になりたかった。
そうして、護法院女学園の門をくぐった綾子は、
以前とは少し違う気持ちでその向こう側を見つめた。
これから先、自分が何になるのか、どんな人と出会い、どんな人生を歩くのか。
まだ何一つ分からない。
けれど、それを決めるのは少なくとも…
もう、誰かの〈力〉ではなかった。
――桜庭綾子のその後については、また別の話である。
*
東京帝国大学・民俗学研究室
樒男爵の死後、その屋敷は護法院伯爵が買い取った。
一方、樒商会については星守伯爵が引き受けたという。
もちろん、両家が樒家の事業を引き継ぐわけではない。
警察には判断のつかない品々――すなわち、樒惣介が残した遺品の中に、まだ危険なものが紛れ込んでいないか。
それを合法的に調べるためだった。
調査が終われば、屋敷も商会も然るべき相手へ売却されるのだろう。
樒邸で働いていた使用人たちや、突然主人を失った商会社員についても、両伯爵が再就職先を斡旋しているらしい。
星守伯爵曰く、
『事態を丸く収めるために一番大切なのは、関係者を粗略に扱わないことだ』
とのことだった。
秋一郎としても、その考えには同意する。
事件に関係したというだけで職を失い、路頭に迷わせるようでは、新たな恨みを生むだけだ。
もっとも、調査に駆り出された秋一郎自身にも、かなりの謝礼が支払われている。
その点についても、文句はなかった。
「結局――」
応接用の長椅子に腰掛けていた有栖が尋ねた。
「樒男爵たちが怪異へ変じた原因は、分かったのですか?」
「ああ」
秋一郎は机の上へ、一つの化粧箱を置いた。
見覚えのない、黒檀製の古い箱の蓋を開く。
中には、数本の美しいクリスタル瓶が並んでいた。
瑠奈が身を乗り出した。
「香水?」
「見た目はね」
秋一郎は一本を取り上げる。
中には、ごく僅かに赤黒い液体が残っていた。
「だけど、中身は香水なんかじゃない」
「では?」
「血だよ」
瑠奈の眉が上がる。
「血?」
「少なくとも、そう考えるのが一番自然だ」
秋一郎は瓶を光へ透かした。
「ラベルにはラテン語で、吸血鬼を意味すると思われる記述がある。別の瓶には〈獣の王〉――おそらく、月島を変えたものだろう」
有栖の瞳が細くなる。
「では、二人は……」
「これを飲んだ」
秋一郎は瓶を箱へ戻した。
「そして、人ではなくなった」
沈黙。
瑠奈が恐る恐る箱を覗き込む。
「そんなもの、飲むだけで?」
「詳しいことはまだ分からない」
秋一郎は首を振った。
「中身そのものが非常に強い呪いを帯びている。単なる生物の血液とは考えない方がいいだろうね。今、護法院の工房で成分を調べてもらっている」
「血を飲んで、超人になって万々歳……」
瑠奈が呆れたように言う。
秋一郎は苦笑した。
「残念ながら、そんな都合のいい話ではなかったようだ」
樒は確かに力を得た。
病を遠ざけ、人間を遥かに超える身体能力を手に入れ。
人の心さえ操れるようになった。
だが、その代償として人間の血なしには、その力を維持できなくなった。
「だから……」
有栖が静かに言った。
「若い女性を攫った」
「それも」
秋一郎は指を一本立てる。
「霊的な素養のある女性を選んでいた可能性が高い」
瑠奈の表情が曇る。
「綾子さんたち……」
「ああ」
秋一郎は頷いた。
「普通の人間より、そういう女性の血の方が樒にとって都合が良かったのかもしれない。そこはまだ推測だけどね」
少し間を置く。
「ただ、興味深いのは――樒が彼女たちを殺さなかったことだ」
「……」
「伝承通りなら、一人の人間から命を奪うまで血を吸うことも出来ただろう。でも、それを繰り返せば死体が増える」
警察も気づく、世間も騒ぐ、そして、怪異を知る者たちも動き出す。
「だから、多数の女性から少しずつ血を得ることにした」
秋一郎は腕を組んだ。
「十分な食事を与え、衣服や菓子まで用意して、健康を維持させる。そして魅了によって、自分から逃げようと思わないようにする」
瑠奈が嫌そうな顔をした。
「……ずいぶん合理的ね」
「彼なりにはね」
秋一郎は肩を竦める。
「社会との軋轢を出来るだけ少なくして、自分の生活を維持しようと考えたんだろう」
有栖は静かに首を振った。
「ですが――」
その声音には迷いがなかった。
「綾子さんたちを人として愛していたわけではありません」
秋一郎が有栖を見る。
「そうだね」
「大切にはしていたのでしょう」
有栖は続ける。
「けれど、それは……」
僅かに言葉を選ぶ。
「自分に必要なものだから、大切に保管していただけです」
「道具として愛してた、ってことね」
瑠奈が言った。
「そんなもの、愛情じゃないわ」
秋一郎は何も言わず、小さく頷いた。
樒には樒なりの理屈があったのだろう。
殺さない、傷つけない、不自由なく暮らさせる。
本人にしてみれば、それを愛と呼んでいたのかもしれない。
だが、本人の意思を奪った時点で、それは楽園ではなくなる。
「それに」
瑠奈はソファーへ深く腰を下ろした。
「あんなやり方、いつまでも続いたとは思えないわ」
「僕もそう思う」
欲望は膨らむ。
必要とする血の量も増えたかもしれない。
何より、誰か一人でも魅了から覚めれば、それだけで〈楽園〉は崩れる。
破綻するのは、時間の問題だったのだろう。
「……ところで」
秋一郎が突然、話題を変えた。
「なに?」
瑠奈を見る。
「一つ、聞くのを忘れていた」
嫌な予感でもしたのか。
瑠奈の背筋が、僅かに伸びた。
「僕と真壁警部が月島に襲われた夜」
「……」
「どうして君は、あんなに早く駆けつけられたんだい?」
「……あ」
瑠奈の目が泳いだ。
有栖が、怪訝そうに妹を見る。
「そうね、車に乗って直ぐに『私はここで降りる』ですもの、私も驚いたわ。」
「ええっと……」
瑠奈は秋一郎から視線を逸らした。
そして。
「……Prestwood’s<プレストウッズ>」
「?」
秋一郎と有栖が同時に首を傾げる。
「Prestwood’s<プレストウッズ>のチョコレート菓子」
瑠奈は観念したように言った。
「兄様の部屋にあったでしょう?」
「……ああ」
秋一郎は思い出す。
先日。
二人が研究室を訪れた時に出した、倫敦の菓子。
「あれが、どうかしたの?」
「だって」
瑠奈は少し頬を膨らませた。
「兄様が、あんなものを自分で買うわけないでしょう?」
「随分な言われようだね」
「だって東京じゃ、まず手に入らないでしょう」
「まあ……そうだけど」
瑠奈は続ける。
「だから」
一拍。
「兄さま、誰か女の人とお付き合いしてて、その人に貰ったんじゃないかって…」
場が沈黙し、秋一郎が瞬きをする。
有栖も瑠奈を見る。
「それで?」
「ほら」
瑠奈は妙に真剣な顔をした。
「妹としては、兄さまがどんな女性と付き合っているのか、ちゃんと確かめる必要があるでしょう?」
「いや、どうしてそうなるんだい」
「変な女の人に騙されていたら大変じゃない」
「それで?」
秋一郎にはもう答えが分かり始めていた。
瑠奈が視線を逸らす。
「……前の日から尾行してたの」
しばらくして有栖が静かに頷いた。
「ああ……」
そして。
「なるほど。それは仕方ありませんわね」
「有栖君?」
秋一郎は思わず姉を見る。
「どうしてそこで納得するんだい?」
「兄さまのことですもの」
「説明になってないよ」
瑠奈が少し得意そうな顔をする。
「ほら」
「『ほら』じゃない」
秋一郎は額へ手を当てた。
「違うよ。あれは飛鳥号で知り合った留学生から貰ったんだ」
「……え?」
「倫敦から持ってきたそうでね。東京では滅多に食べられない菓子だから、君たちにも食べてもらおうと思って取っておいたんだ」
瑠奈が固まる。
「……」
「……」
やがて。
恐る恐る。
「もしかして」
「うん」
「あたしの勇み足?」
「完全にね」
「……あはは」
瑠奈が笑って誤魔化そうとする。
その隣で有栖が真顔のまま言った。
「でも瑠奈さん」
「なに?」
「良いところに気がつきましたわ」
秋一郎の表情が引きつる。
「今度は、私にも教えてちょうだい」
「分かった」
「分からなくていい!」
一瞬の沈黙。
そして、瑠奈が吹き出した。
有栖も口元を押さえる。
とうとう秋一郎まで笑い出した。
三人の笑い声が午後の研究室に響く。
窓の外では。
帝都の街が、いつもと変わらず動いている。
市電の音。
遠くの汽笛。
学生たちの声。
数日前まで、怪物と命を賭けて戦っていたことがまるで遠い昔のことのようだった。
やがて笑いが収まり、秋一郎はふと机の上の化粧箱へ目を向けた。
〈夜の貴族〉の血。
〈獣の王〉の血。
そして。
まだ意味の分からない文字が刻まれた。
残りの小瓶。
誰が、何のためにこれを作ったのか。
それは、まだ分からない。
だが、今日くらいは考えなくてもいいだろう。
「兄様」
瑠奈の声。
「お茶、もう一杯もらっていい?」
「ああ」
秋一郎も微笑んだ。
「もちろん」
三人で過ごす穏やかな午後。
何でもない会話を交わし、同じ菓子を食べ、一緒に笑いあえる時間。
このような関係を続けられるのは、そう長くないかもしれない。
だからこそ、それは三人にとって何ものにも代えがたいものだった。
――第一部 了




