プロローグ 1917年・南フランス
一九一七年、四月上旬――フランス共和国、ロゼール。
欧州全土を血に染める大惨禍――大戦が始まって、三年近くが経とうとしていた。
現在、英仏をはじめとする協商国からの要請に応じ、大日本帝国は欧州へ相当数の戦力を派遣している。
海軍からは、竣工から日の浅い金剛型巡洋戦艦四隻を中核とする派欧艦隊。
そして今年に入り陸軍からは、二個師団を基幹に工兵、衛生部隊、鉄道連隊などを加えた「日本帝国陸軍派欧軍」が主戦場であるフランスに送られていた。
ただし、同じ派遣軍でも、陸海軍の事情はいささか異なっていた。
虎の子ともいうべき巡洋戦艦群を地中海へ投入し、協商国の海上交通線護衛で着実に信頼を得つつある海軍に対し、陸軍の二個師団という規模は、西欧の戦局においてはいささか扱いの難しい戦力だった。
西部戦線では、英仏独がそれぞれ百万単位の将兵を投入し、果ての見えない消耗戦を続けている。
そこへ極東から二個師団が加わったところで、それだけで戦局を覆す決定打とはなり得ない。
とはいえ、二個師団といえば決して小さな戦力でもなかった。
受け入れるフランス側にしても、独自の指揮系統と言語を持つ極東の友軍を、どこへ、いかなる形で投入するのが最善なのか、慎重に見極めている最中であった。
日本側としても、長い航海を経て到着したばかりの将兵を、いきなり西部戦線の泥濘へ放り込むつもりはない。
まずはフランスの気候と風土に慣れること。
言語や文化の壁を越え、仏軍の補給体系と連携した部隊運用を確立すること。
そして何より――この二個師団を、いかなる局面で政治的・軍事的に最も有効に使うべきか。
その答えは、まだ出ていなかった。
ともあれ。
日本帝国陸軍派欧軍の一部は現在、南フランスの内陸部で訓練と待機の日々を送っていた。
地中海沿岸と南西フランスとの間に横たわる中央高地――マシフ・サントラル。
その南部に位置するロゼールは、石灰岩質の台地と森林、深い峡谷が広がる険しい土地だった。
日本とは異なる植生。
乾いた空気。
赤葡萄酒と硬いパン、チーズの匂い。
見慣れない石造りの家々。
目に映るものの何もかもが、故郷から一万キロ以上離れた異国なのだと、兵たちへ否応なく実感させる。
そんな異郷の森の傍らに設けられた露営地で――。
歩兵第九十二連隊第一大隊では、ここしばらく妙な事件が続いていた。
食糧が、消えるのである。
◇
「またか?」
「はっ」
大隊本部付の若い少尉の問いに、三十過ぎの軍曹は困り果てた顔で頷いた。
「今朝の点検で判明しました。陸軍用乾パンが二箱。それから仏軍から支給された牛肉の缶詰と、保存肉を収めた木箱が荒らされております」
「盗まれたのか?」
「いえ。それが……」
軍曹は苦い顔で言い淀んだ。
「食われております」
「……食われた?」
「はい」
若い士官が、綺麗に切り揃えられた眉をわずかに寄せる。
日下部和馬少尉。
二十三歳。
陸軍士官学校を卒業して日の浅い新任少尉である。
新潟県でも指折りの大地主の次男として生まれた。
色白で鼻筋の通った端正な顔立ちに、涼しげな目元、仕立てられた軍服には皺ひとつなく、埃っぽい異国の露営地にあっても身だしなみに寸分の隙もない。
もっとも、彼が部下たちから一目置かれている理由は、その恵まれた容姿でも家柄でもなかった。
まだ若く、経験も浅い。
それを本人が誰よりよく理解している。
だから報告を軽んじず、知ったかぶりをいない。
そして何かが起これば、まず自分の目で確かめようとする。
「案内してくれ」
「少尉殿が直々にでありますか?」
「報告だけでは分からん。現場を見る」
「はっ」
日下部は歩き出した。
軍曹がその後を追う。
問題の糧食貯蔵庫は、宿営地の北端、深い森に近い場所にあった。
もともとは地元の農家が物置として使っていた石造りの小屋であり、簡素ではあるが頑丈で、分厚い木製扉には太い鉄製の南京錠まで取り付けられていた。
中へ足を踏み入れた日下部は、薄暗い室内を見回した。
「……酷いな」
「左様であります」
麻袋が引き裂かれている。
床には小麦が白く散乱し、木箱の一つは蓋を外されていた。
保存肉には、何かが食いちぎった生々しい痕跡が残されている。
人間の盗人による仕業には見えない。
「鼠ではないな」
「鼠なら、まだ可愛いものであります」
軍曹が溜息をついた。
「最初は我々もそう考えました。しかし、この有様です」
日下部は腰を落とした。
保存肉に残された痕を確認する。
齧ったというより、強い顎で噛みつき、そのまま強引に引き裂いている。
「野犬か?」
「そのあたりではないかと。現地の野良犬か、あるいは森の狼でも入り込んだのではないかと考えております」
「なら、話は簡単だろう」
日下部は立ち上がった。
「侵入口を見つけて塞げばいい」
「それが――」
軍曹が困った顔をした。
「ありません」
「何?」
「侵入口が何処にも無いのであります」
日下部が軍曹を見る。
「石壁も、床も調べました。窓には鉄格子があります。獣が通れるような穴は見つかっておりません」
「扉は?」
「昨夜、私が施錠を確認しております」
「錠を壊された形跡は?」
「ありません。鍵も当直士官室で保管しておりました」
日下部は黙って扉へ目を向けた。
南京錠にも、掛け金にも、破損した痕跡はない。
「これで何度目だ?」
「五度目です」
「……五度」
さすがに日下部の表情も変わった、軍曹が声を潜める。
「兵どもの間で、妙な噂が出始めております」
「妙な噂?」
「化け物じゃないか、と」
日下部は軍曹を見た。
「仏蘭西まで来て怪談話か?」
「自分も馬鹿馬鹿しいとは思いますが……」
軍曹は困ったように頭を掻いた。
「扉を閉めても、翌朝には食料が荒らされている。穴もない。外で見つけた足跡を追っても、途中で消える。昨夜からは歩哨まで立たせましたが、誰も出入りを見ておりません」
「それで、今朝にはこの有様か」
「はっ」
日下部は腕を組んだ。
戦時である、食糧を失うこと自体、部隊運用上看過できない。
だが、それ以上に好ましくないのは、説明のつかない出来事が兵の心へ与える影響だった。
異国の地。
いつ前線へ送られるかも分からない、故郷からの手紙が届くにも長い時間がかかる。
そんな環境では、平時なら笑い飛ばせる怪談じみた話でさえ、兵の心へ容易に入り込む。
「分かった」
日下部は言った。
「今日中に、中の物資を一度すべて出す」
「すべてでありますか?」
「ああ。木箱も袋も全部だ。奥に何か潜んでいるかもしれんし、見落とした穴があるかもしれない」
「了解いたしました。人を集めます」
軍曹が敬礼した。
立ち去ろうとしたところで、日下部が呼び止める。
「それから」
「はっ」
「兵たちには、妙な噂をするなと強く言う必要はない」
「よろしいので?」
「口を塞げば、余計に気味悪がる」
日下部は散乱した乾パンを一つ拾い上げた。
「今日中に正体を突き止める。それで済む」
軍曹が少し笑った。
「少尉殿は、幽霊など信じておられませんか」
「幽霊が陸軍の乾パンを盗み食いするなら、随分と世知辛い話だな」
軍曹が吹き出した、日下部も微かに笑う。
「腹を空かせた、少々知恵の回る野犬だろう」
その時は――本気でそう思っていた。
◇
午後二時。
「せーの!」
掛け声とともに、二人の兵士が大きな木箱を持ち上げた。
石造りの貯蔵庫は、朝とは様変わりしていた。
積み上げられていた物資の大半が外へ運び出され、兵たちが帳簿と照合しながら改めて中身を確認している。
「小麦粉、残り六袋!」
「六だな。次!」
「牛肉缶、異常なし!」
「印をつけろ!」
兵たちの声が飛び交う。
開け放たれた扉から午後の日差しが差し込み、薄暗かった小屋の床を照らしていた。
日下部自身も軍帽を脱ぎ、作業に立ち会っている。
本来なら士官が付きっきりになるような仕事ではない。
だが、自分の目で確かめたかった。
どこかにあるはずなのだ。
崩れた石壁。
排水溝。
床の隙間。
天井近くの穴。
何か、獣が出入りできる場所が。
「少尉殿」
「どうした?」
奥の壁を調べていた兵長が首を振った。
「やはりありません。壁の石積みに崩れなし。床も同じです」
「天井は?」
「異常ありません」
「そうか……」
日下部は眉間へ指を当てた。
計算が合わない。
本当に野犬なら、どこから入った。
いや、そもそも――。
ガタン。
その時、倉庫の奥で物音がした。
全員の動きが止る。
「…………」
日下部が顔を上げる。
「今のは?」
「自分ではありません」
「俺も違います」
ガサッ。
まただ。
貯蔵庫の奥。
まだ動かしていない、最後の木箱の向こうから聞こえる。
日下部が右手を上げた。
兵たちが黙る。
静寂。
外から鳥の鳴き声が聞こえる。
森を渡る風。
木々の葉擦れ。
そして。
ガリ。
ガリッ。
何かを噛んでいる、軍曹が日下部へ顔を寄せた。
「……鼠でしょうか」
「随分大きな鼠らしいな」
日下部は、静かに右手を腰のコルトM1903自動拳銃が収めされたホルスターへ伸ばし、蓋を外した。
「銃を構えろ」
日下部の命令を受けた兵たちの顔つきが変わる。背負っていた三八式歩兵銃を静かに外し、遊底を操作して、弾薬を装填する金属音がジャキリと響いた。
「ただし撃つな。まず確認する」
「はっ」
ゆっくり進む。
音は木箱の向こうから聞こえている。
ガリ。
ガリッ。
時折、犬か何かが鼻を鳴らすような音もする。
生き物だ、間違いない。
日下部は僅かに安堵した。
何のことはない、やはり動物だったのだ。
問題は、どうやって入り込んだか。
それは捕まえてから調べればいい。
軍曹が木箱へ手を掛け、日下部を見る。
日下部は小さく頷いた。
「動かせ」
「はっ」
木箱が床を擦れ、ずるずると引かれていく。
それまで暗闇だった場所へ、扉から差し込む午後の日差しが伸びた。
最初に見えたのは――目だった。
ふたつ。
いや――よっつ、むっつ。
「……え?」
誰かが抑えきれない困惑の声を漏らした。
そこに「何か」がいた。
一頭ではない。数頭の群れが、倉庫の奥で身を寄せ合い、うずくまっている。
「犬……?」
兵士が呟いた。
確かに、全体的な大きさだけで言えば、中型の猟犬ほどに見えた。まだ幼い個体なのだろうか。
一頭がゆっくりと顔を上げる。
その太い顎には、噛み砕かれた陸軍乾パンの欠片が咥えられていた。
兵士と獣が、互いに見つめ合う。
「……お前たちだったのか」
軍曹が拍子抜けしたように呟いた。
だが、日下部は答えなかった。
犬。
そう呼ぶには、何かがおかしい。
狼にも似ている。
だが狼とも違う。
胴体に比べて頭部が大きく、顎が異様に発達していて、前脚も太い。
耳の形も、日下部の知る犬や狼とは微妙に異なっていた。
そして何より。
こちらを見ている。
怯えて逃げようとしているわけでもない。
牙を剥いて飛びかかろうとしているわけでもない。
ただじっと、人間たちの出方を窺うように見つめている。
一頭、二頭、三頭……少なくとも四頭。
そのうち一頭が、咥えていた乾パンを噛み砕いた。
パキリ。
乾いた音が、静まり返った小屋へ響く。
「少尉殿……」
軍曹が囁いた。
「こいつら、何という獣でしょう」
「分からん」
日下部は拳銃を抜かなかった。
「生け捕りにする」
「しかし――」
「まだ幼獣だろう。無闇に殺す必要はない」
「はっ」
日下部はそう答えてから、周囲を見回した。
そして、動きを止めた。
「…………」
何かがおかしい。
いや、最初からおかしかった。
食糧を荒らしていた犯人は見つかった。
ならば事件は解決したはずだ。
それなのに、日下部は入口の扉を見る。
開いている。だがそれは、自分たちが作業を行うために鍵を開けて解錠したものだ。
昨夜は間違いなく施錠されていた。
窓を見る。鉄格子は嵌まり、しっかりと閉じられている。
壁を見る。頑丈な石積み。
床を見る。崩れのない石畳。先ほど兵たちが徹底的に調べたばかりだ。
日下部の顔から、先ほどまでの安堵が消えていった。
「少尉殿?」
軍曹が気味の悪さに声を震わせるが、日下部は何も応えない。
薄暗い貯蔵庫の奥。
見たこともない四頭の獣。
その足元には、木箱が作る濃い影が落ちている。
そして入口から差し込む日差しを背負った兵たち自身も、長い影を石床へ伸ばしていた。
一頭の獣が、ゆっくりと首を傾げた。
日下部は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……軍曹」
「はっ」
「昨夜、この扉は確かに施錠したんだな」
「間違いありません。自分が確認しました」
「窓も?」
「閉まっておりました」
「歩哨は?」
「誰も出入りしておりません」
日下部は黙った、兵たちも、ようやく同じことに気づいたらしい。
一人。
また一人。
獣から、扉へ。
扉から、窓へ。
そして壁へと視線を動かしていく。
誰も口を開かなかった、四頭の獣だけが、そんな人間たちを静かに見つめている。
そのうち一頭の口から、食べかけの乾パンがぽろりと落ちた。
日下部は獣を見つめたまま、呟いた。
「――ならば」
誰も答えない。
「こいつらは、どこから入った?」




