第一章 二人の令嬢と消えた襲撃者
大正十年(1921年)、七月上旬。
「――大丈夫かな、傾いてない?」
護法院女学園、留学生寮。
二階の開け放たれた窓から初夏の青嵐が吹き込み、薄手の白いレースカーテンをふわりと揺らしていた。
星守瑠奈は木製の三段ほどの小さな脚立の上に立ち、両手で掲げた額縁の傾きを気にしながら振り返った。
額に納められているのは、エレノアの故郷である英国・コッツウォルズの美しい田園風景を描いた繊細な水彩画だ。
「ええ、完璧です、ルナ。……ありがとう、とても落ち着くお部屋になりました」
磨き上げられた板張りの床から見上げるエレノア・スターリングは、心からの感謝を込めて微笑んだ。
家具や大きな行李などの重い荷物は、すでに星守家の使用人たちの手によって運び込まれ、配置を終えている。
二人がこうして行っていたのは、絵画を飾り、小物を並べるといった、新しい部屋に「温かな息吹」を吹き込むための仕上げ作業であった。
倫敦を発つ時にもその手で大切に提げていた、使い込まれた飴色の旅行鞄は、すでにクローゼットの脇に静かに収まっている。
超大型飛行船〈飛鳥〉による長きにわたる大空の旅を終え、帝都・東京へと到着してから、早いもので一ヶ月が経っていた。
最初の1週間ほどは、長旅の疲れと緊張を癒やすための静養。
体調が戻ってからは、星守伯爵夫人であるシャーロットの案内による帝都東京の洗練された街並みの見学と、護法院女学園への編入手続き。
さらに六月後半からは、麻布の星守邸から青いパッカードで学園へ送迎される日々を送りながら、日本の授業や独特の風習に少しずつ身体を慣らしてきたのだ。
そして七月。登下校や帝都の環境にもすっかり馴染んだことで、満を持してこの留学生寮へ引っ越すこととなった。
今日からここが――エレノアの本当の「新しいわが家」であった。
「それにしても……」
エレノアは額縁を飾り終えて脚立から下りてきた瑠奈を迎えつつ、改めてあてがわれた室内を感心したように見回した。
日当たりの良いリビングに、上質な木製の勉強机と寝台が誂えられた寝室。小さいながら簡単な料理ができるガス台付きの台所まであり、奥にはシャワー室と最新式の洋式水洗トイレも備わっている。ベランダからは学園の手入れされた美しい庭園が一望できた。
十六歳の少女が一人で暮らすには、充分すぎるほどに恵まれた空間だった。
「本当に、私一人でこんなに広いお部屋を使ってしまって良いのでしょうか。星守邸でお世話になっていた時もそうでしたが、少し贅沢すぎる気が…」
「何を仰っているの」
瑠奈は白い手袋を脱ぎながら、呆れたように細い腰へ両手を当てた。
「わざわざ英国からお越しいただいた大切な留学生を狭い小部屋へ押し込めたりしたら、それこそ護法院女学園の沽券に関わるわ」
「でも、英国の寄宿学校では――」
「ここは日本!」
ぴしゃり、と応じる瑠奈に、エレノアは呆気にとられて目を瞬かせ、それから可憐に微笑んだ。
「……そうでした」
「それに」
瑠奈も悪戯っぽく唇をほころばせる。
「この程度のお部屋で驚いていたら、護法院女学園では身がもたないわよ。」
「……それは、どういう意味でしょうか」
「そのうち嫌でも分かります」
「なんだか……少し怖いです」
ふたりは顔を見合わせ、楽しげな笑い声を室内に響かせた。
〈飛鳥〉の船上で、世界の理を揺るがすような恐ろしい異常事態に巻き込まれたのが、まるで何年も前の出来事のように感じられる。
あの事件から、まだひと月。
けれど、エレノアを取り巻く世界は一変していた。
◇
部屋の模様替えがひと段落した頃。
「ルナ。お茶を淹れました。少し休みませんか?」
「ありがとう……そういえば、エレノアとゆっくりお茶を飲むのも、これが初めてね」
瑠奈は目を細め、それから嬉しさを隠しきれない笑みを浮かべた。
ここ一ヶ月、エレノアの世話を焼きつつも、瑠奈自身は帝都を揺るがしていた『華族令嬢連続失踪事件』の調査や、その後始末に奔走し、目まぐるしい日々を送っていたのだ。
こうして二人きりで、何に追われることもなく穏やかにお茶を飲む時間など、一度としてなかった。
「ふふ、あまり上手には淹れられませんでしたが……」
「ううん、そんなことないわ。とても良い香りよ」
二人でテーブルを囲み、温かな湯気が立ち上るカップに口をつける。
喉を潤したエレノアは、テーブルの横に置かれた手荷物の中から一つの化粧箱を取り出した。
「お茶と一緒にいただこうと思って。シャーロット様もお好きとお聞きしましたし……ルナもいかがですか?」
「ええ、喜んで……」
そう言って差し出された箱を目にした瞬間、瑠奈の動きがぴたりと止まった。
「…………」
「ルナ?」
「……それ」
見覚えがある。
いや――確かに、見覚えがあった。
帝都大学にある鳴神秋一郎の研究室を訪ねた際、紅茶と共に出された英国王室御用達『プレストウッド』の高級チョコレート菓子。
独身の学者先生が己のためにわざわざ買ってきたとは到底思えなかったが、後で『飛鳥で知り合った留学生に貰った』と判明した。
「〈飛鳥〉で知り合った日本の方……ナルカミ先生にも、同じものを差し上げたんです」
「…………えっ?」
「先生には本当にお世話になりましたから。日本語の読み書きも教えていただきましたし。それに、シャーロット様のこともご存じでしたから……ルナもお知り合いなの?」
エレノアは何の含みもなく、純粋な微笑みを浮かべている。
対する瑠奈は、しばらく無言で固まっていた。
やがて――深々と、腹の底から息を吐き出す。
「……留学生って、エレノアだったのね」
「ルナ、どうかしたの?」
「ううん。こっちの話」
瑠奈は箱からチョコレートを一つ摘まみ、口へ放り込んだ。
豊かな甘みが口いっぱいに広がる。
なるほど。
研究室にあった、兄さまにしては妙に洒落た菓子の出所は、これで判明した。
――と。
そこまで考えたところで、瑠奈の手が止まった。
「……ちょっと待って」
「?」
「エレノア。いま、〈飛鳥〉で兄さ…鳴神先生にお世話になったって言ったわよね?」
「はい」
「日本語を教わっただけ?」
「え?」
エレノアの表情が、ほんの僅かに曇った。
瑠奈はそれを見逃さなかった。
「……何かあったのね」
「…………」
「聞かせてもらってもいい?」
エレノアはすぐには答えなかった。
手元のティーカップへ視線を落とす。
紅茶の水面が、窓から吹き込んだ風に微かに揺れていた。
「信じて……いただけますか?」
瑠奈は目を瞬いた。
そして、思わず笑ってしまった。
「私にそれを訊くの?」
「え?」
「ついこの間まで、吸血鬼と狼男を追いかけていた人間に」
「…………」
エレノアが、ぽかんと瑠奈を見つめた。
今度は瑠奈が首を傾げる。
「……あら?」
「吸血鬼……ですか?」
「ええ」
「本物の?」
「残念ながら、本物の」
「狼男も?」
「そっちも本物」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
今度は瑠奈の方が、怪訝そうに尋ねた。
「もしかして……知らなかった?」
「はい。初めて聞きました」
「そうなの?」
「ルナが……その、人ならざるものと戦うことがあるというのは知っていましたけれど……」
エレノアは少し困ったように眉を下げた。
「そんな事件があったなんて、何も」
「…………」
瑠奈は改めて考えてみた。
確かに、おかしな話だった。
エレノアが、不思議な力を持っていることを、瑠奈は知っている。
エレノアもまた、瑠奈が古くから怪異と戦ってきた家系の人間であることを知っている。
そこまで互いのことを知っていながら――。
「……なんだか、変ね」
「はい?」
「私たち、お互い普通じゃないことをしてるって知ってるのに」
瑠奈は自分たちがおかしくなったように笑った。
「最近、何をしてたのかは全然知らなかったのね」
「あ……」
エレノアも、ようやく気づいたらしい。
その青い瞳が丸くなった。
やがて口元へ手を添えて、小さく笑い始める。
「本当ですね」
「でしょう?」
「私、ルナのことを色々知っているつもりでした」
「私もよ」
瑠奈は苦笑する。
考えてみれば無理もない。
エレノアが日本へ到着してから、まだ一ヶ月ほどしか経っていない。
最初の一週間は長旅の疲れを癒やすための静養。
ようやく元気になったと思えば、今度は瑠奈の方が華族令嬢たちの失踪事件に巻き込まれ、帝都中を駆け回ることになった。
顔を合わせる機会は何度もあった。
一緒に食事もしたし、買い物にも出掛けた。
けれど――。
こうして二人きりで腰を落ち着け、互いの身に起きたことをゆっくり話す時間は、今日まで一度もなかったのだ。
「それじゃあ――」
瑠奈は椅子へ座り直した。
「情報交換しましょう」
「情報交換?」
「エレノアは〈飛鳥〉で何があったのか。私は、その後の帝都で何があったのか」
チョコレートをもう一つ摘まみ上げる。
「どうやら、ポットに入った分じゃ足りなくなりそうね」
「……はい」
エレノアは微笑んだ。
「では、お湯をもう少し沸かしておきます」
「お願い」
それから二人は、すっかり冷めてしまった紅茶を何度も淹れ直すことになった。
エレノアは語った。
紅海を越えた〈飛鳥〉の船内で起きた、奇妙な出来事を。
ワイングラスの中に映った、あるはずのない星空。
鏡の向こうから覗いていた黒い影。
少しずつ現実から切り離されていった巨大飛行船。
古い鏡に封じられていた、人の理解を遥かに超えた存在。
そして――自分が歌ったこと。
「歌った……?」
「はい」
瑠奈が聞き返すと、エレノアは少し恥ずかしそうに頷いた。
「上手く説明できないのですが……あの時は、そうしなくてはいけないような気がしたんです」
「そうしなくちゃいけない?」
「はい」
エレノアは胸元へそっと手を添えた。
「多くの人が、とても苦しんでいるように感じました」
「苦しんでいた……」
「壊れてしまったものを、元の場所へ戻してあげるような……そんな気持ちで歌ったんです」
瑠奈は何も言わず、その言葉を胸に留めた。
やがて話す側が入れ替わった。
今度は瑠奈が語った。
帝都から忽然と姿を消した令嬢たち。
人の心を惑わせる吸血鬼。
その傍らにいた人狼。
そして、彼らに囚われた少女たちを取り戻すまでの顛末を。
互いの話が終わる頃には、窓から差し込んでいた夏の日差しはすっかり傾いていた。
テーブルの上には、空になったチョコレートの箱と、何度目か分からない紅茶のカップが残されている。
わずかひと月前の二人は、まだ一度も言葉を交わしたことのない、遠い存在だった。
それぞれ別の場所で、それぞれ異なる怪異事件に遭遇し。
それぞれの方法で、人ならざるものと向き合っていた。
そして今は――同じテーブルを囲んで笑っている。
その夜。
二人は学園の食堂で夕食を済ませ、夜更けまで語り合った。
英国のこと、日本のこと、これから始まる学園生活のこと。
瑠奈はそのまま学園の客間へ泊まることになった。
◇
翌朝。
まだ夏の日差しが本格的な暑さを帯びる前。
瑠奈とエレノアは、朝食までの時間を使って学園の庭園を歩いていた。
朝露を残した芝生。
木々の間から差し込む柔らかな光。
遠くから、小鳥の鳴き声が聞こえる。
「昨日はよく眠れました?」
「はい。でも……」
「でも?」
「目を覚ました時、一瞬だけ自分がどこにいるのか分からなくなりました」
瑠奈がくすりと笑う。
「飛鳥の客室から、星守邸、それから学生寮。短期間に寝室が何度も変わったものね」
「そうですね」
エレノアは周囲を見渡した。
ここが、自分の新しい生活の場所になる。
そう思うと、不思議な気持ちだった。
遠い英国の寄宿学校。
倫敦。
〈飛鳥〉。
カイロ。
カラチ。
そして帝都東京。
随分遠くまで来た。
けれど――。
「――――ッ!」
不意に。
空気を鋭く引き裂く悲鳴が届いた。
ふたりの足が同時に止まる。
「今の……」
エレノアが弾かれたように振り返る。
鳥や犬猫の声ではない。
幼い子供の声だった。それも明らかに――絶望に満ちた悲鳴。
「学園の外よ!」
瑠奈の洋服の裾が翻り、風を切って駆け出した。
エレノアもその後に続く。
重厚な正門を駆け抜ける。早朝の路地は、まだ人影もまばらだった。
もう一度。
今度は声にならない、押し殺したような途切れ途切れの呻きが聞こえた。
「こっち!」
学園からほど近い小さな公園。
敷地内へ飛び込んだ瞬間――瑠奈の碧い瞳が驚愕に揺れた
「……何、これ」
最初に目に入ったのは、自転車だった。
牛乳配達に使われる、頑丈な鉄パイプ製フレームの自転車。
それが壊れている。
転倒した、などという壊れ方ではなかった。
前輪は大きく歪み、荷台は引き剥がされ、太いフレームそのものが何か途方もない力で掴まれたかのようにひしゃげていた。
周囲には牛乳瓶が散乱している。
割れた硝子。
土へ染み込んでいく白い牛乳。
そして。
「……リュシアン?」
エレノアの声が震えた。
少し離れた場所に、見知った少年が倒れていた。
「リュシアン!」
二人は駆け寄った。
リュシアン・モロー。
十二歳。
フランスから家族とともに日本へ移り住み、家計を助けるため、毎朝この辺りへ牛乳を配達している少年。
星守邸にも、留学生寮にも出入りしていた。
いつも笑っている少年だった。
そのリュシアンが――血まみれで倒れている。
「リュシアン! 聞こえますか!」
エレノアが膝をつく。
返事はない。
瑠奈も隣へしゃがみ込んだ。
一目見ただけで分かった。
まずい、非常に、まずい。
何か巨大な獣にでも襲われたような傷だった。
衣服は裂け、血が止まらない。
呼吸も浅い。
瑠奈の頭の中で、迅速に思考が巡らされる。
――止血。
いや、それだけでは駄目。
――人を呼ぶ?
遅い。
――私が運ぶ。
異能を使い身体能力を極限まで強化して、この子を背負って学園の医療施設まで走れば。
数分。
いや――一分もかからない。
けれど。
瑠奈は唇を噛んだ。
――それで、間に合う?
その時だった。
歌声が聞こえた。
「……?」
瑠奈が顔を上げる。
エレノアだった。
リュシアンの傍らに膝をつき、その手を握り、小さな声で歌っている。
まるで祈るように。
朝の静かな公園へ、澄んだ歌声が広がっていく。
瑠奈は息を呑んだ。
空気が変わった。
目には見えない。
けれど、分かる。
エレノアを中心に、何か柔らかなものが広がっていく。
そして――。
「……血が」
止まり始めている。
完全に傷が塞がったわけではない。
裂けた皮膚も、その下の傷も残っている。
だが明らかに出血が弱まった。
浅く、不規則だったリュシアンの呼吸が、少しずつ安定していく。
青ざめていた顔に、ほんの僅かだが色が戻る。
奇跡。
そんな言葉が瑠奈の脳裏をよぎった。
やがて歌が止まった。
エレノアが大きく息を吐く。
「ルナ……」
顔色が悪い。
額には汗が浮かんでいた。
だが、その目は真っ直ぐ瑠奈を見ている。
「今なら……」
「ええ」
今なら――間に合う。
「エレノア。先に行くわ!」
「はい!」
瑠奈はリュシアンの身体を慎重に抱き上げる。
軽い。
十二歳の少年なのだから当然なのに、その軽さが妙に恐ろしかった。
瑠奈は、少年の首と背を支え、傷口に余計な負担がかからぬよう抱え直すと、石畳を強く蹴る。
一瞬の後、瑠奈の姿は疾風となって公園から掻き消えていた。
◇
数時間後。
惨劇の現場となった小さな公園は、警視庁の警察官たちによって厳重に封鎖されていた。
割れた牛乳瓶の無数の欠片。
無残に破壊された鉄パイプの自転車。
そして、土を黒く染めた生々しい血痕。
鑑識課の警官たちが写真を撮影し、位置を測定し、一つひとつ証拠品を拾い上げている。
瑠奈は封鎖線の少し離れた木陰から、碧い瞳でその光景を見つめていた。
「――久しぶりだな、星守のお嬢さん」
背後から、低く渋い掠れ声がかけられ、振り返る。
「真壁警部」
警視庁刑事部捜査課・真壁剛造警部。
以前、帝都を震撼させた『令嬢連続失踪事件』の際、何度も顔を合わせた叩き上げ刑事。
「朝っぱらから災難だったな」
「被害者…リュシアンは、学園の病院で集中治療中です」
「聞いている。なんとか命だけは取り留めそうだとな」
「……はい」
瑠奈は、潰れた自転車へ視線を向けた。
「警部。アレをご覧になりましたか?」
「ああ」
「生身の人間の出来る事ではありませんわ」
「……だろうな」
あまりにもあっさりとした返答だった。
瑠奈が怪訝そうに真壁を見つめ返すと、真壁は地面へ屈み込んだ。
「これを見なさい」
彼が太い指先で示した先。
荒らされた土の上に、はっきりと痕跡が残されていた。
足跡。
犬……いや、そんな生ぬるいものではない。
巨大な猛獣――あるいは熊をも上回る、異様に鋭い爪痕を伴う巨大な足跡だった。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
足跡は公園の奥、舗装道路へ向かって続いている。
そして。
「……消えている?」
瑠奈が呟く。
途中で、ピタリと足跡が途絶えていた。
その先にはぬかるんだ土もあるというのに、足跡が浅くなったのではない。
最後の一歩を境界線にして――文字通り「存在そのものが消滅」しているのだ。
「警察犬で調べたんですか?」
「朝から二頭投入して匂いを追わせたが、駄目だった。この地点で匂い自体が完全に途切れている」
「目撃者も?」
「今のところ皆無だ」
真壁がゆっくりと立ち上がった。
「これだけ巨大な獣が、早朝とはいえ帝都のど真ん中を歩き回っているんだ。誰かが目撃してなきゃ変だ」
「……ええ」
「だが、誰も見ていない」
真壁は懐から煙草の箱を取り出しかけたが、ふと隣に立つ瑠奈の姿が視界に入ると、苦々しく眉間を寄せ、そのままポケット奥深く仕舞い直した。
「それだけじゃない」
「……?」
「3日前にもあった」
瑠奈の表情が、一瞬で緊迫したものへと変わる。
「同じような事件が、他でも?」
「ああ」
真壁は、地面の途切れた足跡へ視線を落としたまま低く応えた。
「場所はここからかなり離れた赤坂だ。だが状況は恐ろしいほど酷似している。大型獣に襲われたような不自然な損壊痕。現場周辺に残された巨大な足跡。そして――数メートル先で突然途切れ消えている点までな」
「……被害者の方は?」
真壁は答えなかった。
その重苦しい沈黙だけで、瑠奈には十分だった。
「……お亡くなりになったのですね」
「ああ、悔しいが、間に合わなかった」
初夏のぬるい風が、公園の木々をざわめき揺らした。
遠くから、朝の賑わいを見せ始めた帝都の喧騒が聞こえてくる。
チンチン電車の長閑なベルの音。
自動車のクラクション。
行き交う市井の人々の笑い声。
いつもと変わらない、平和な帝都東京の朝。
その日常の裏側で。
真壁剛造は、何もない地面で唐突に途切れた異形の足跡を、苦々しく見つめていた。
やがて、短く息を吐き出す。
「また――」
彼は瑠奈を振り返り、その鋭い眼光を向けた。
「人智を越えた怪異事件が起こってる」




