断章 伯爵たちの憂鬱
「――まあ何はともあれ、不幸中の幸いだったね。色々あったけれど、〈飛鳥〉は無事、帝都に辿り着けた」
日本帝国航空本社ビル最上階、重厚なマホガニーの調度品で整えられた応接室。
大きな磨きガラスの向こうに広がる初夏の帝都の空を見上げながら、一人の紳士が実に愉しそうに呟いた。
年の頃は四十に届くか届かないか。
英国仕立ての洗練された三つ揃えの背広を寸分の隙もなく着こなし、その整った目鼻立ちには若い頃さぞ無数の浮名を流しただろうと思わせる、かつての華やかな貴公子の面影が濃厚に残されている。
ところが不思議なことに、この男を初めて目にした者が受ける印象は、「財界の重鎮」でも「華族家の当主」でもなかった。
強いて言うならば――悪戯小僧がそのまま大人になってしまったような、独特の天衣無縫さが全身から匂い立っているのだ。
星守 彰人 伯爵。
日本帝国航空の筆頭株主にして、航空、鉄道、自動車、造船、通信、電機、石油採掘に至るまで、時代の先駆けとなる新興事業へ果敢に莫大な資本を投じ、ことごとく成功を収めてきた日本経済界の雄である。
「……呑気なことを言っている場合か」
応接卓を挟んだ対面から、低く重厚な声が落ちた。
「エレノア嬢や秋一郎君たちの決死の働きがなければ、〈飛鳥〉一隻の遭難どころでは済まなかったのだぞ。最悪の場合、我々は世界そのもののを失っていたかもしれないのだ」
星守伯爵より一つ二つ年長であろうか。
丁寧に手入れされた艶やかな黒髭を蓄え、立ち居振る舞いの端々に至るまで厳格な気品と威厳を漂わせる紳士――護法院 泰正 伯爵は、事態の深刻さをどこか他人事のように楽しんでいる旧友を、苦々しく睨みつけた。
もっとも、彼もまた単なる華族ではない。
金融、不動産、保険、海運、製鉄、都市開発といった国家の根幹を支える基幹産業を中心に莫大な資産を築き上げ、その財力、影響力は星守家に勝るとも劣らない。
果ては、皇居や竜宮、蓬莱に住まう『やんごとなき方々』からも絶大な信頼を寄せられているのだから、護法院伯爵は、星守伯爵と並んで大正日本の繁栄に欠かせない重鎮と言える。
新しい技術や浪漫を見つけては、まず資金と人を突っ込んで先陣を切る星守伯爵。
その後ろで綿密な法的・政治的お膳立てを整え、官庁や政治家を説得し、暴走しかねない友人を社会の仕組みの中へ安全に着地させる護法院伯爵。
青年の頃より、二人の関係は常にそうであった。
「勿論、事の重大さは骨身に染みて理解しているさ」
星守伯爵は窓辺から離れると、軽やかに肩をすくめた。
「だからこそ、僕はそこに妙な『星の巡り合わせ』を感じざるを得ないんだよ。あの忌々しい黒蓮華鏡がよりにもよって〈飛鳥〉の貨物室へ積み込まれた時、秋一郎君が搭乗していた。そしてエレノア嬢まで居合わせた」
「偶然として片付けるには、あまりに出来過ぎている……と言いたいのだな?」
「そういうことさ。秋一郎君はあちら側の領域について多少なりとも知識と覚悟があった。エレノア嬢には、うちのシャーロットが目を留めるほどの突出した霊的素質があった。さらには林玉蘭女史が鏡の来歴を知っていたことまで含めれば――飛鳥には、あの災厄を退けるために不可欠な人間が、最初からすべて揃っていたとしか思えない」
「……だが、その運命の悪戯が、次回も我々に味方してくれる保証はどこにもない」
護法院伯爵は卓上に広げられた極秘の報告書へ、冷徹な視線を落とした。
「むしろ今回は、奇跡的な幸運に恵まれたと考えるべきだ。あの手の異形なる遺物が、世界にただ一つしか存在しないという保証などどこにもないのだからな」
「……それは、同感だね」
今度は星守伯爵も冗談めかした笑みを消し、静かに頷いた。
◇
護法院伯爵が、指先で静かに報告書の頁をめくる。
「欧州大戦によって、どれほど多くの古美術品や禁忌の遺物が本来の収蔵場所から散逸したか……正確な数など誰にも把握できん。今回の鏡と同等の危険を孕んだ品が、巴里や倫敦の市場で取引されているかもしれない」
「危険は印度、中東、あるいは欧州だけに留まらないだろうね」
「ああ。危険な品の追跡と回収、管理は、もはや日本国内だけで完結させられる規模の仕事ではない。世界規模の網を張り、情報を網羅する必要がある」
「それには大賛成だよ。必要な資金の工面なら、いくらでも僕に任せてくれて構わない」
「君がそう言うだろうことは分かっていた」
「それに、林玉蘭女史とも今後も関係を継続した方がいい。我々の情報網では逆立ちしても拾えない、極めて上質な情報を拾ってこられるお方だ」
「すでにシャーロットさんが話を詰めているよ」
「流石、我が妻は本当に仕事が早いね」
「彼女も私も、長年、誰かさんの仕出かした事の後始末で慣れているからな」
「誰かさんとは……僕のことかな?」
「そう、君だ」
寸分の狂いもなく即答された。
星守伯爵は可笑しそうに声を上げて笑ったが、ふと卓上に残された一枚の薄い紙へと視線を落とした。
「……それよりだ」
その声のトーンが、先ほどまでの世界平和を語る重厚さとはまた異なる、どこか深刻な湿り気を帯びた。
「こちらの方が、目下のところ僕にとっては遥かに重大な問題でね」
彼の指先が、トントンと一枚の紙を叩く。
〈飛鳥〉が途中の寄港地カラチへ到着した際、電信級室から日本本社宛てに打たれた、短い電報の控えであった。
護法院伯爵は眉をひそめ、怪訝そうな顔を向けた。
「それがどうしたというのだ?」
「これ……うちのお転婆には、絶対に見せたくないんだよ」
「瑠奈君に?」
「ああ」
星守伯爵の顔は、驚くほど真剣だった。
「下手をすると、一ヶ月は僕と口を聞いてくれなくなる」
護法院伯爵は呆れたように大きなため息をつき、卓上の電報へと手を伸ばした。
そして――そこに打ち打たれたカタカナの文面を半分ほど追ったところで、ぴたりと動きが止まった。
「…………」
「……分かったかい?」
「これは……」
護法院伯爵の厳格な顔面から、みるみるうちに血の気が引いていく。
今度は星守伯爵が首を傾げた。
「どうしたんだい、顔色を変えて?」
「……君は、まだいい」
「何がだい?」
「瑠奈君なら、一ヶ月後には許してくれるかもしれんが……」
「いやいや、父親にとって愛娘に一ヶ月無視されるのは、ほとんど死刑宣告に等しい大事件だよ?」
「……我が家は、それでは済まない」
護法院伯爵は、まるでこの世の最も恐ろしい破滅の光景でも目撃しているかのように、遠くの空間を凝視した。
そして、愛娘……有栖の声音と冷徹な語調を完璧に再現して呟く。
「――『お父様は……すべてをご承知の上で、兄さまを死地へお送り込まれたのですか?』」
「…………」
今度は、星守伯爵が絶句した。
「それは……」
「ああ」
「……怖いね」
「怖いとも」
先ほどまで世界が滅びかけた危機について議論していた時よりも。
二人の帝都の重鎮たちの表情は、遥かに深刻で、悲壮感に満ちていた。
静寂が応接室を包み込む。
やがて、星守伯爵がぽつりと、掠れた声で囁いた。
「……秋一郎君にも口止めしておくか」
「……そうだな」
「勿論、彼にはそれ相応の埋め合わせはするよ」
「ああ。私からも個人的に相応の手当てを出すと伝えよう」
「何がいいと思う?」
「何が、とは?」
「埋め合わせの品だよ」
護法院伯爵は苦々しく眉間を強く押さえた。
「まず、本人に直接頭を下げる……詫びの品をどうするかは、謝罪の後で考えれば良い」
「それは勿論だとも、僕もそうさせてもらうよ……」
広大な磨きガラスの向こうには、何事もなかったかのように平和で美しい帝都の初夏の空がどこまでも広がっていた。
世界は今日も、滞りなく続いている。
その平穏な世界がほんの数日前、破滅しかけたことなど、市井の民は誰も知らない。
そして――この時の二人の伯爵は、未だ知る由もなかった。
彼らが決死で隠蔽しようとしていた鳴神秋一郎の危難の真相が。
英国からやって来た可憐な少女と、一箱のチョコレート菓子によって、思いもよらぬルートから瑠奈と有栖の耳へ届くことになるという事実を。




