エピローグ ようこそ帝都へ
後に――〈飛鳥〉号事件と呼ばれることになる、近代航空史の片隅に、ほんの数行の怪異譚として記録された奇妙な事故。
大正十年、初夏。
カラチの空港を発った日本帝国航空の超大型飛行船〈飛鳥〉は、寄港地シンガポールへと向かう航行中、突発的な悪天候による、急激な気圧変化・磁気的異常と猛烈な雷雲に遭遇した。
前後して、無線通信はおよそ五分間にわたって途絶。
その僅かな空白の間、船内にいた百余名の乗客・乗員の大半が、激しい幻視、幻聴、時間感覚の著しい乖離、および記憶の混濁をきたしたという。
死別したはずの肉親と語らったと宣う者がいた。
地図にない古びた街並みを歩んだと語る者がいた。
そして、少なからぬ者が、自船のすぐ側を並走する「もう一隻の〈飛鳥〉」を目撃したと固く証言した。
だが、彼らの証言は詳細に至ると不可解なほど食い違っている。
ある者は霧深きロンドンの街角にいたと言い。
ある者は欧州大戦の凄惨な塹壕の底へ引き戻されていた。
ある者は幼少期を過ごした生家で、とうに亡き母親と卓を囲んでいた。
見知らぬ紫色に歪む星空を見たという者。
黒漆のごとき不気味な大地を見たという者。
さらには、山脈と見紛うばかりの巨大な影を見たと、戦慄と共に証言した者まで存在した。
事態を重くみた帝国航空は、帰国した乗客および乗員に対し、医療機関での精密検査と、綿密な聞き取り調査を実施した。
事故調査には、気象学者、航空工学の専門家、さらには帝国大学の精神医学者や心理学者までが加わった。
しかし、明確な科学的・医学的原因を特定するには至らなかった。
最終的に公表された調査報告は――極度の精神的緊張、悪天候に伴う急激な気圧変化、落雷の放電現象、そして長時間の飛行旅程による過度な疲労。
それらが複合的に作用して生じた「極めて稀少な集団性幻覚」、ないし「一時的な集団精神混乱」というものであった。
もっとも、調査報告書の末尾には、小さな活字でこう書き添えられている。
――上記の仮説を以てしても、得られた全証言を完全に説明することは不可能である。
それが、後世に遺された唯一の公式記録となった。
◇
そして、この不可思議な事故は〈飛鳥〉の名声を失墜させなかった。
むしろ、その評価は決定的なものとなったのである。
激しい電気的擾乱と落雷に巻き込まれ、乗客の多くが混乱状態に陥ったにもかかわらず、〈飛鳥〉という船体そのものには、航行を脅かすほどの重大な損傷が一切見当たらなかったからだ。
『十四の独立した浮揚区画』
『特殊複合繊維によって編まれた多層気嚢構造』
『徹底した静電気対策と、雷電流を安全に外殻へ逃がす最先端の避雷構造』
『可燃性水素ガスを安全に包み込む二重構造のヘリウム緩衝層』
船体各部に落雷による焼損痕を残しながらも、火災はおろか、一分の水素漏洩すら引き起こさなかった。
帝国航空は事件の真相について多くを語らなかった。
ただ、新聞各紙へ向けて一つの厳然たる事実のみを提示した。
――されど〈飛鳥〉は飛び続けた。
新聞はこぞってこの快挙を一面で書き立てた。
『最新鋭空中客船、魔の異常気象を完全突破』
『帝国航空〈飛鳥〉、天の雷霆にも屈せず』
『大空の旅に新時代――絶対の安全性を実証した超大型飛行船』
少々勇ましすぎる見出しではあったが、世間への喧伝効果は絶大であった。
事件後も〈飛鳥〉の乗船予約が減る兆しはなく、ロンドンと東京双方の営業窓口には、相変わらず分厚いキャンセル待ちの名簿が積み上げられた。
人間とは案外、逞しい生き物なのだ。
あるいは単に、最新の文明の利器がもたらす浪漫に魅了されているだけなのかもしれない。
◇
ただし。
その公式記録の陰に、もう一通の極秘報告書が存在する。
宛先は、帝国航空の設立に深く関わり、政財界に絶大な影響力を持つ星守伯爵家、ならびに護法院伯爵家。
執筆者は――帝都大学講師、鳴神秋一郎。
そこには『集団幻覚』という語彙が一度だけ用いられていた。
ただし、その前には次のような一文が冷徹に記されていた。
――公式見解としては。
◇
千葉県東葛飾郡八栄村 帝国航空東京飛行場
日本へと舞い降りた〈飛鳥〉を迎えたのは、梅雨入り前の澄み渡る初夏の空だった。
長旅を終えた美しい銀灰色の巨体が、ゆっくりと高空から降下し、巨大な鉄骨構造の係留塔へと固定される。
地上では、帝国航空の職員、出迎えの家族、社外の報道陣、そして手際よく動く荷役作業員たちが入り乱れ、久方ぶりに大地の土を踏む乗客たちを迎え入れていた。
タラップを降り立ったエレノア・スターリングは、その賑々しい雑踏の中で、深く胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「……ここが、東京」
雑誌に掲載された写真で見たことはあった。
シャーロット叔母様からの手紙で話を聞いたこともある。
けれど、己の靴底でこの国の土を踏みしめるのは、無論これが初めてだった。
湿り気を含んだ青葉の香りに、東京湾から運ばれてくる潮の匂いがほんのりと混じっている。
ここが日本。
これから自分が暮らす国なのだ。
「正確には、まだ東京ではありませんけどね」
すぐ隣から、もう聞き慣れた落ち着いた声がした。
「え?」
振り返ると、革の旅行鞄を手に提げたナルカミが立っていた。目元には依然として疲労の色が残っていたものの、あの異星の深淵で、今にも魂を削り取られそうになっていた時の面差しに比べれば、ずっと穏やかだった。
「ここは千葉県です。東京は、あちら」
ナルカミが西の方角を示した。
エレノアはしばらくそちらを眺め、それから少しだけ頬を膨らませた。
「……騙されました」
「誰にです?」
「切符に東京行きって書いてありました」
「それは帝国航空に言ってください」
さらりと責任を帝国航空へ押しつけてから、ナルカミは改めてエレノアへ向き直る。
「では、初めて来た日本の感想は?」
「まだ、分かりません」
「素直ですね」
「だって、降り立ったばかりなんですよ」
「それもそうだ」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
少し離れた貨物取扱所では、ユーランが帝国航空の貨物責任者を相手に、荷物の最終確認を行っていた。
係員が読み上げる目録と荷札を照らし合わせるその眼差しは、いつものことながら抜け目がない。
あの黒蓮華鏡――〈クリシュナ・ダーパナ〉も、その荷の中にあった。
重厚な木箱に収められ、頑丈な帯金と錠前によって二重三重に封じられたそれは、傍目には少々厳重に梱包された古美術品にしか見えない。
あれが一度、百人を超える人々をこの世界の理の外側へ引きずり込んだなどと、一体誰が信じるだろう。
「ミス・スターリング!」
帝国航空の制服を着た職員が、慌ただしく駆け寄ってきた。
「星守伯爵家のお迎えが、あちらでお待ちでございます」
「あ……」
指示された先を見やると、群衆から少し離れたロータリーに、一台の大型自動車が停まっていた。
陽光を滑らかに照り返す車体は、混じり気のない鮮やかな青一色に塗り上げられている。
パッカード・ツインシックス――米国製の高級自動車だ。ドアには星守伯爵家の家紋が、小さく上品にあしらわれていた。
エレノアはそれを見て、ようやく長い長い旅が終わりを迎えたのだと実感した。
「行かなくては」
「ええ」
ナルカミが穏やかに頷く。
「シャーロット夫人が首を長くして待っておられますよ」
それなのに、エレノアはすぐには足を動かさなかった。
「先生」
「はい?」
「少しだけ、ここで待っていていただけますか?」
そう言い残すと、エレノアは、帝国航空の職員が運ぶ、自分の手荷物の元へ駆け寄った。
小ぶりの革製鞄を開き、その最も奥、衣服の間に大切に包んでいたものを手早く取り出す。
それは、深い紺色の紙に包まれた美しい化粧箱だった。
金箔押しで誇らしげに刻まれた店名は――『Prestwood’s』。
ロンドンでも名の知られた、王室御用達の看板を掲げる老舗菓子店のチョコレートだった。
エレノアはそれを両手で大事そうに抱え、鳴神の元へ戻ってきた。
「これをお受け取ってください。」
「僕に?」
「はい」
ナルカミは差し出された箱と、エレノアの顔を交互に見比べた。
「しかし……これは日本に着いてから楽しむために、イギリスから持って来たのでは?」
「そうです」
「ならば、ご自身で召し上がるべきだ」
「まだ、ありますので」
「……一体何箱持ってきたのですか?」
「内緒です」
エレノアは少し悪戯っぽく唇をほころばせた。
そして改めて、背筋を伸ばして箱を差し出す。
「授業料です」
「授業料?」
「ええ。日本語の」
「ああ……」
鳴神の表情が和らぎ、小さく苦笑した。
「そういえば、そのような約束をいたしましたね」
カーディントンを出発して間もない頃。
〈飛鳥〉の展望ラウンジで、シャーロット叔母様が書き込みをしてくれた日本語教本を落とし、それをナルカミが拾ってくれた。
思えば、そこからすべては始まったのだ。
あの時は――まさかこの人と共に異星の黒い大地を歩き、世界の命運を懸けた選択をすることになるとは、夢にも思っていなかった。
「それに」
エレノアの視線が、ほんの少しだけ真面目なものへと変わる。
「お礼です」
「お礼なら、僕はもう十分に――」
「いいえ」
エレノアはきっぱりと首を振った。
「私が暗闇の中で怯えていた時、先生は一緒にいてくださいました」
「……」
「誰も信じてくれない私の言葉を、先生は信じてくださいました」
「……それは」
「だから」
エレノアは、可憐な花が咲くように微笑んだ。
「心から……ありがとう、先生」
そう言って。
彼女はほんの少しだけ、つま先を立てて背伸びをした。
柔らかな唇が、ナルカミの右頬へ、羽毛のようにそっと触れる。
「…………」
鳴神秋一郎という男が、完全に氷結した。
エレノア自身も、衝動的に行った後になって猛烈な羞恥に襲われたらしい。
真っ白だった頬をみるみる林檎のように赤く染め上げると、くるりと軽やかに踵を返した。
「では!」
「え……あ、ちょっと、エレノアさん!?」
エレノアは逃げるような足取りで、星守家の自動車へ向かって駆け出していく。
そしてドアの手前で。
くるりと振り返った。
長い金色の髪が、初夏の眩い陽光を受けて輝く。
「ナルカミ先生!」
「……はい?」
「また……会えますよね!?」
鳴神は一瞬だけ呆然と目を丸くし。
やがて、困ったような、けれどこの上なく温かな笑みを浮かべた。
「勿論です」
彼は右手を軽く掲げて見せた。
「同じ東京にいるんです。会おうと思えば、いつでも会えますよ」
エレノアは満面の笑みを咲かせ、大きく大きく手を振る。
そして今度こそ、運転手が開けたドアの奥へと消えていった。
ナルカミは、パッカード・ツインシックスが静かにエンジン音を響かせて走り去るまで、じっと見送っていた。
「……へえ」
不意に、背後から洒脱な声がする。
「随分と好かれたものね、先生?」
「…………いつからそこに?」
「『心から……ありがとう、先生』のあたりからかしら」
「ほぼ一部始終ではないですか」
ユーランが、細い煙草に火を点けながら愉しそうに目を細めていた。
「十六歳の淑女から、頬に口づけを賜って、そんな顔をする男も珍しいわね」
「……どんな顔をしていたと言うのですか」
「異星の神と対峙した時より、ずっと窮地に陥ったようなお顔よ」
「……放っておいてください」
鳴神は深い溜息をつき、手の中の『プレストウッド』の箱を、大切に旅行鞄の奥へとしまう。
「それより、あなたも星守伯爵邸へ?」
「ええ」
ユーランの視線が、帝国航空の係員たちによって慎重に運び出されていく、あの重厚な木箱へ向けられた。
「大切な商談が、まだ残っていますもの」
◇
黒蓮華鏡――〈クリシュナ・ダーパナ〉は、星守伯爵邸の地下に設けられた特別保管庫へと運び込まれていた。
元の封印が戻ったとはいえ、これを単なる美術品として扱うわけにはいかない。
ひとまず星守家と護法院家の共同管理下に置き、十分な準備を整えた後、護法院女学園の地下深くに存在する最重要保管施設へ移送する手筈となっている。
「貴女方であれば」
ユーランが紅茶のカップをソーサーへ戻しながら言った。
「これを安全な状態で保管できるのでしょう?」
「最善を尽くします。少なくとも、どこかの国のオークションへ出したり、怪しげな蒐集家の手に渡したりするような真似はいたしませんわ」
シャーロットの淀みない返答にユーランは安堵の溜息をつく。
「それを聞いて、肩の荷がおりましたわ」
「それで――」
シャーロットが優雅に微笑む。
「おいくらですの?」
ユーランは、あらかじめ決めていた金額を口にした。
それは帝都の郊外なら、ちょっとした屋敷が土地ごと買えてしまいそうな額だった。
これには流石のシャーロットも数秒間、沈黙する。
「……随分と大きく出られましたのね」
「これも商売ですから」
「一時は世界を滅ぼしかけた、呪われた鏡ですのよ?」
「見方を変えれば、長いあいだ世界を守っていた『防壁』であったとも言えますわ」
「なるほど」
「歴史的価値、美術的価値、希少性、そして来歴。それらを総合的に勘案すれば、決して法外な金額ではございません」
「ふふ、危険手当までしっかり上乗せされているのではなくて?」
「そちらは特別にサービスさせていただきました」
シャーロットは思わず吹き出した。
「分かりましたわ」
小切手帳を取り出すと、万年筆のペン先を滑らせる。提示された金額を淀みなく書き込み、最後に美しい署名を添えて、ユーランへ差し出した。
「どうぞ」
「感謝いたします」
ユーランは小切手を受け取った。
まずは額面の数字を注視する。
次に手筆の署名。
もう一度、数字の桁数。
最後に用紙を透かし、偽造でないかを確認する。
シャーロットが呆れたように言った。
「星守伯爵家の小切手ですのよ?」
「伯爵家であろうと王室であろうと、数字を確認するのが商人の嗜みですの」
「徹底していらっしゃいますのね」
「それで身を立てておりますから」
すべての確認を終えたユーランは、心底満足そうに頷いた。
「確かに頂戴いたしました。これにて《黒蓮華鏡》の所有権は、正式に星守伯爵家へ移りました」
「ええ。確かに」
シャーロットが頷く.
これで商談は成立した。
ユーランは満足そうに小切手をもう一度眺め、それから――今しがた受け取ったばかりのそれを、ローテーブルの上へ静かに滑らせた。
「では――こちらを、護法院女学園へ寄付いたします」
「…………」
その言葉に、女傑として知られるシャーロット・星守が、珍しく絶句した。
「……なんですって?」
かろうじてそう問い返したシャーロットに、ユーランは澄ました顔で首を傾げた。
「お聞き及びではありませんでしたか?」
ユーランは澄ました風に応じる。
「聞こえたからこそ、確認しておりますの」
シャーロットはテーブルの上の小切手を見つめた。
先ほど自らが署名した、巨額の小切手。
「全額……ですの?」
「全額です」
「貴女……」
シャーロットは美しい眉間を押さえた。
「今、散々吹っ掛けたばかりではありませんか」
「人聞きの悪いお言い方はおやめください。適正価格による正当な取引ですわ」
「それを、そのまま全部お返しになるの?」
「返したわけではありません」
ユーランは指を立てて訂正した。
「寄付させていただくのです」
「……何が違いますの?」
「天地の差がございます」
ユーランは涼しい顔で紅茶のカップを傾けた。
「価値あるものを、不当に安く買い叩かれるつもりは毛頭ございません。それでは商売が成り立ちませんもの」
彼女は小切手を細い指先で軽く突いた。
「ですが、正当な取引によって得た私個人の資産を、どこへ寄付しようと私の勝手でしょう?」
シャーロットはしばらくの間、ユーランの顔をじっと見つめていた。
やがて――今日一番の、心からの笑みを浮かべた。
「商売と、寄付は別……ということかしら」
「仰るとおりですわ」
「面白い方ね、貴女」
「よく言われます」
「理由を聞いて良いかしら……どうして、護法院女学園へ?」
ユーランはふと、窓の外へと視線を向けた。
広大な庭園の向こう。
到着したばかりのエレノアが、女中頭に案内されながら、珍しそうに屋敷の佇まいを見上げている。
「あの鏡を保管していくには、それなりの資金が必要でしょう?」
「ええ」
「今後の調査にも、研究にも」
「ええ」
「それから――」
ユーランの面持ちが、ほんの少しだけ柔らかく和らいだ。
「あの子の、これからの新しい生活のためにも」
シャーロットはそれ以上、何も言わなかった。
ただ静かに窓の外へと視線をやる。
庭園の池で泳ぐ錦鯉を見つけたらしいエレノアが、子供のように目を輝かせて駆け寄っていく姿が見えた。
シャーロットの口元が、温かな慈愛に緩む。
「……では、ありがたく頂戴いたしますわ」
「私の名前は、表に出さないでくださいね」
「なぜかしら?」
「寄付まで商売の宣伝に利用していると、世間に思われたくありませんもの」
「いいえ、それは駄目ですわ」
「え?」
「寄付者のお名前は、きちんと寄付金台帳に記録させていただきます」
「シャーロット夫人」
「商売と寄付は別、なのでしょう?」
林玉蘭という百戦錬磨の商人が、珍しくも見事に一本取られたという顔をした。
「……なるほど」
やがて、彼女は降参したように苦笑を漏らした。
「エレノアが、なぜこれほど貴女を慕っているのか……少し分かった気がいたします」
「あら、わたくしの魅力は、まだまだこんなものではありませんわ」
シャーロットはそう言って、得意げに胸を張った。
「それは……恐ろしいことですわね」
二人の淑女は、顔を見合わせ、楽しげに微笑みを交わした。
ローテーブルの上には。
黒蓮華鏡の売買契約書。
護法院女学園への寄付金へと姿を変えた小切手。
そして――一通の秘匿報告書。
その表紙には、鳴神秋一郎の簡潔な筆跡で題名が記されている。
『帝国航空国際旅客飛行船〈飛鳥〉航行中に発生した異常現象に関する考察』
その末尾で、秋一郎は次のように締めくくっていた。
――本件を、公式には不慮の航行事故として処理することに異論はない。
世間一般に真実を公表したところで、無用な恐怖と混乱を招く可能性が高く、また現時点における科学的・神秘学的知見のいずれを以てしても、我々が遭遇した現象を完全に説明することは不可能であるからだ。
――ただし、我々の理解が及ばぬからといって、それが「存在しない」ことの証明にはなり得ない。
――そして今回の事変において、我々が一人も欠けることなく蒼い地球へ帰還できた最大の要因が、一人の少女の示した勇気にあったことだけは、ここに記録しておきたい。
◇
その少女は今、自分がそんな言葉で報告書に記されていることなど、知る由もなかった。
初めて仰ぎ見る東京の青空の下、エレノア・スターリングは庭園の池の縁にしゃがみ込み、悠々と泳ぐ錦鯉に目を輝かせていた。
「まあ……!」
水面近くへ浮かんできた一匹の紅白を見つけると、思わず歓声を上げる。
女中頭が何やら説明しているのを、エレノアは興味津々といった様子で聞いていた。
つい数日前。
彼女が見上げていたのは、地球のどこにも存在しない星々だった。
黒い大地の彼方に横たわる、人間の尺度では測ることさえできない何か。その視線に晒されながら、恐怖に震え、それでも歌うことをやめなかった。
そして今、彼女の目の前にあるのは、初夏の日差しを反射する穏やかな池と、その中を泳ぐ色鮮やかな魚たちだった。
英国を発った時、エレノアはまだ知らなかった。
自分の力を恐れずに受け入れてくれる人々がいることも。
その力によって誰かを救えることも。
そして、遠く離れたこの国に、自分を待っていてくれる場所があることも。
これから何が待っているのかは、まだ分からない。
どんな人と出会うのか。
どんな喜びを知り、どんな怪異と遭遇することになるのか。
けれど――今は、不思議と怖くなかった。
「エレノア!」
屋敷の方から、シャーロットの声が聞こえた。
「はーい!」
エレノアは元気よく答えると、もう一度だけ錦鯉へ名残惜しそうな視線を送り、立ち上がった。
そして、初夏の陽光に金色の髪を輝かせながら、シャーロットの待つ屋敷へ駆けていく。
エレノア・スターリングの新しい日々は、まだ始まったばかりだった。
――第二部 了




