第七章 異星に響く歌
エレノアは、生まれて初めて自分の歌を恐ろしいと思った。
歌えば人々を助けられる。けれど歌えば、二度と地球へ帰れなくなる。
貨物区画の薄暗がりの中、黒蓮華鏡<クリシュナ・ダーパナ>はただ静寂をたたえて鎮座していた。
黒銀色の鏡面には、エレノアたち四人の姿が歪んで映っている。そしてその奥深く――言葉も通じぬ無数の人影が蠢いていた。
泥に塗れた兵士、幼子を抱く母親、手足の千切れた若者、死を待つ老人。欧州を呑み込んだ世界大戦の惨禍が遺した、無念の記憶。
さらに鏡の奥からは、黒い糸状の触手が幾重にも伸びていた。一方は〈飛鳥〉の船内へ広がり、乗客や乗員たちの精神を吸い上げている。
そしてもう一方は鏡の漆黒の彼方――この異星のどこかに潜む『何か』へと繋がっていた。
「……でも」
エレノアは息を整え、唇を開いた。
「このままでも、先生がもちません」
ナルカミは答えなかった。否定もしない。
額には汗が浮かび、顔色は青ざめている。立っているだけでも相当な無理をしていることは、エレノアにも分かった。
彼がそばにいる間だけ、異星から押し寄せる精神の圧力が弱まる。
なぜそんなことができるのか、先生自身にも分からないと言った。
ただ、その代償を彼一人が引き受けている、それももう限界が近いのだろう。
「それに、乗客の皆さんも……」
遠く船上から、歪んだ声が響いてくる。狂乱の笑い声、嗚咽、祈り、錯乱した叫び。百人を超える人間が、己の過去の記憶という深い底なし沼へ沈みかけている。
「時間がありません」
「……分かっています」
ナルカミは痛む頭を押さえ、鏡の刻印を見つめた。
「だからこそ、手順を間違えてはならない」
「手順、ですか?」
チヨが尋ねる。
「道を閉ざす前に――帰るんです」
ユーランが呆れたように眉を跳ね上げた。
「簡単に言ってくれるわね」
「簡単なら、僕ももう少し晴れやかな顔をしていますよ」
「確かに酷い顔だわ。鏡の中の幻影より、あなたの方がよほど死人らしい」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてないわよ」
張り詰めた空気の中、ユーランとナルカミの軽妙な掛け合いに、エレノアはほんの少しだけ緊張を緩め、微笑んだ。
エレノアは再び鏡へと視線を戻す。
「ですが……どうやって帰るのですか?」
「それを、これから読み解きます」
ナルカミは鏡の縁へ顔を近づけた。触れることすら禁忌とされる黒銀の表面に並ぶ古い文字を、一つ一つ目で追っていく。
◇
黒蓮華鏡に刻まれていたのは、単一の時代の言語ではなかった。
サンスクリット、楔形文字、更には判別不能な古アラビアの異形文字。
彫りの深い古い刻印の上に、後世の何者かが必死の思いで削り足したような新しい刻印が層をなしている。
まるで何世代もの人間が、決して忘却してはならない恐怖の警告を後世へと書き繋いできたかのように。
「――『彼方を見るな』」
ナルカミが掠れた声で文字を読む。
「『彼方より、見られるな』」
指先を動かす。
「これは……『名を記すな』、でしょうか」
「名前?」
チヨが首を傾げた。
「正確な意味は分かりません。名付けるな、記録するな、あるいは……」
ナルカミは一度言葉を切った。
「知ったことを残すな、という警告なのかもしれません」
「知ることそのものが危険なの?」
ユーランが鏡を見る。
「可能性はあります」
ナルカミは答えた。
「こちらが向こうを知ることと、向こうにこちらを知られることが、同じ行為なのだとしたら」
エレノアは無意識に自分の腕を抱いた。
あれには、人間に対する憎しみなどない。
おそらく、善意も、悪意すらない。
人間というものを、人間が蟻を見るほどにも意識していない。
それなのに、ただ「見られる」だけで心が壊れていく。
ナルカミが、別の文字を指で追った。
「そして――」
もっとも不吉な一文。
「『記憶は、道となる』」
エレノアは息を呑んだ。
アッシュワース――最初に消えた英国人技師、彼の記憶から作られた、もう一隻の〈飛鳥〉。
倫敦、スエズ、カラチ、工場、航空機。
そして今は、アッシュワース一人ではない。
〈飛鳥〉に乗る百人余りの人間が、それぞれ故郷を知っている、海を知っている、青い空を知っている、
地球を――知っている。
「古代の人々は」
エレノアの声が震える。
「この異星に棲む存在と、戦ったのでしょうか」
「分かりません」
「勝った……から、封印されていたのですか?」
ナルカミは少し思案し、静かに首を振った。
「勝ったというより……遠ざけたのでしょう。倒すことなど不可能だった。だから、道そのものを閉ざした」
「向こうから、地球が見えないように隠した……」
「ええ。そして地球からも、向こうの存在を見れないように遮断した。この鏡は異界への扉であると同時に、世界を切り離すための障壁だったんです。」
ナルカミはそこまで言うと、苦しそうに息を吐いた。
「少なくとも、僕にはそう思えます」
断言はしない。
何千年も前の人間が何を考え、何をしたのか、ここにいる誰にも、本当のことは分からない。
ナルカミは別の文字へ視線を移す。
「問題は……なぜ今になって、この固く閉ざされた封印が弱まったのかです」
エレノアには、すでにその答えが見えていた。鏡の表面に蠢く無数の影。泥に塗れた兵士、包帯を巻いた青年、夫を失い泣き叫ぶ女。
「戦争です」
三人が一斉にエレノアを見た。
「この鏡には……あまりにも多くの悲鳴と苦しみが染みついています」
「欧州大戦……」
ユーランが呟く。
彼女は、大戦で持ち主を失った美術品を数多く見てきた。
焼けた屋敷、崩れた収蔵庫、落命した蒐集家、行方知れずの相続人、売り払われた家宝。
黒蓮華鏡も、混乱の中、巴里でユーランの手に渡った。
「はい。帰りたかった人。誰かを憎んだ人。死にたくなかった人。家族に会いたかった人………沢山の感情の奔流が、鏡を蝕み、封印を弱めたのだと思います」
ナルカミの表情が苦痛に歪んだ。
「……なるほど。『記憶は道となる』。戦争によって生み出された膨大な死者の念そのものが、異界を引き寄せる架け橋になってしまったわけか」
そうであるならば、エレノアの「歌」が果たすべき役割は二つある。
一つは、いま現在浸食されている乗客たちの精神を繋ぎ止めること。
そしてもう一つは、鏡にこびりついた欧州大戦の残留思念を浄化し、封印を本来の強度へ戻すこと。
だが、その清めの歌が完結した瞬間、地球へと続くすべての道は永遠に閉ざされる。
「わたしなら……私の歌で、鏡に囚われた想いを解放できると思います。」
エレノアは自らの胸に手を当てた。
寄宿学校の礼拝堂で、あの少女の心を癒したように。
「それに、<飛鳥>の皆さんと……向こうにいる存在との繋がりも」
「断ち切れる?」
「分かりません」
チヨの問いにエレノアは正直に答えた。
「でも、そう感じるんです。」
ナルカミは目を閉じ、考え、やがて頷いた。
「鏡が本来の役目を取り戻せば、地球とこの場所を結んでいる道そのものが消える可能性が高い」
「なので、歌うのは一番最後です。僕たちが地球へ足を踏み入れた、その瞬間に」
「はい!」
エレノアも黒蓮華鏡を見つめながら、力強く頷いた。
◇
問題は、その『最後』へどうやって辿り着くかだった。
〈飛鳥〉は未だ微動だにしない。
六基の霧島重工製ディーゼル機関は力強く躍動し、プロペラは回転し、舵も正常に動作している。
にもかかわらず、巨体は黒い粘土のような大地に縫い付けられたかのように固着していた。
「エレノアさん。外の気配を探れますか?」
ナルカミが尋ねる。
「地球へ繋がっている『道』です。アッシュワース氏との繋がりを断った後も、僕たちはここにいる。ということは、道そのものはまだ残っている筈です」
エレノアは静かに目を閉じた。視界を捨て、感覚を異世界の闇へと研ぎ澄ます。
黒い触手の群れ、銀色の船体、鏡の残像。その遥か先、空間の歪みの底に――冷たく平らな「何か」が横たわっている。
「……水」
「水?」
「分かりません。でも……鏡のような、平らな場所があります」
四人は再び船外に出る。
そこで、先ほどまで存在しなかったものを見た。
アッシュワースを救出し、<飛鳥>に戻るまでは、黒い荒野だった。
なのに今は「湖」がある。漆黒の、対岸も見えない巨大な水面が広がっている。
風が吹いていた。
エレノア金髪が揺れ、チヨの制服の裾やユーランのコートが羽ばたいている。
にもかかわらず、水面には波ひとつ立っていない。まるで研ぎ澄まされた黒漆の鏡のように、完璧に凪いでいた。
「また鏡ね……しばらく鏡を見るのが嫌になりそうだわ」
ユーランが不快そうに眉をひそめる。
岸辺に近づき、エレノアが水面を見下ろした。
「あ……」
そこには、異星の紫色の空も、異形の山影も映っていなかった。
そこに広がっていたのは――透き通るような紺碧の空と、眩しい太陽の光。
「青い星…これが地球なの?」
チヨが息を呑んだ。
水面の向こう側に、白い雲が流れ、青い海が広がっている。それは景色を反射しているのではない。
水面そのものが、地球へと通じる巨大な「窓」となっていた。
「道です」
エレノアは確信をもって呟いた。
「僕たちの望郷の想いが形作った、地球への脱出口……」
ナルカミも深く頷く。
ユーランが果敢に水面を覗き込んだ。
「なら話は早いわ。ここに〈飛鳥〉を滑り込ませればいいのね」
「動けば、の話ですが」
チヨが現実を突きつける。
ナルカミは思案するように水面を見つめ、やがて〈飛鳥〉へと振り返った。
「アッシュワース氏を切り離した時、あの偽りの博物館は崩壊しましたね」
「ええ」
「つまり、向こうの拘束力も絶対ではないということです。乗客たちの精神との繋がりを少し途切れさせれば、船を押さえつけている力も緩むのではないか?」
エレノアが提案する。
「では……私が少しだけ歌いましょうか? 全部を絶ち切らない程度に、ほんの少しだけ」
「そんな器用に、力をコントロールできますか?」
「……やったことはありませんが」
「では、別の方法を探しましょう」
ナルカミの即答に、エレノアは少し頬を膨らませた。
「私を信用していないのですか?」
「あなたを信用していないのではなく、目覚めたばかりの未知の力を過信していないだけです」
「同じです」
「全然違います」
二人の押し問答に、ユーランが可笑しそうに息を吐いた。
「こんな状況で軽口を叩けるなら、二人ともまだ正気ね」
その時、ずっと船体を見上げていたチヨが意を決したように口を開いた。
「……機関を、一度完全に止めてみませんか?」
ナルカミが振り向く。
「どういう事ですか?」
「今は六基のプロペラが全開で回っています。なのに動かない。向こうの力と船の推進力が、完璧に引っ張り合って拮抗しているんです」
チヨは手袋をはめた自分の手を強く握りしめた。
「なら、一度こちらから力を抜きます」
「向こうとの均衡を崩す?」
ナルカミが尋ねる。
「そうです。機関を停止して、船体の姿勢と浮力を調整して。それで拘束の状態に何か変化が起きたら、再始動して一気に前へ出る」
「……賭けね」
ユーランはそう呟いた。
「はい」
「成功する自信は?」
「ありません」
チヨは即答した。
「でも、今のまま機関を回し続けても燃料を消費するだけです」
現実的な答えだった。
ユーランがチヨをじっと見つめた。
「あなた……本当にただの客室乗務員?」
チヨは一瞬気まずそうに視線を泳がせたが、すぐに凛とした表情を作った。
「操縦マニュアルは、暗記するほど読み込みました」
「何のために?」
「いつか……空を自分の手で飛ぶ日のためにです」
チヨは少し恥ずかしそうに、それでもはっきりと言った。
「飛行船を?」
「飛行機も」
ユーランが目を瞬く。
「欲張りね」
「駄目ですか?」
「いいえ」
ユーランは一瞬呆れ、それから心から感心したように微笑んだ。
「そういう女は嫌いじゃないわ」
◇
操舵室へ戻った四人を迎えたのは、依然として混濁した意識の中にいる操縦士たちだった。
ナルカミが近づくことで一時的に正気を取り戻した機関長から、掠れた声で現状の確認を取る。
「六基のエンジン……応答あり。燃料圧力、正常……だが、動かん……こんな怪異、飛行船の事故じゃない……」
「ありがとうございます、機関長。あとは私に任せてください」
チヨは操舵輪の前に立った。
ずっと遠くから見つめていた憧れの操舵輪。真鍮と木でできたそれに、両手を静かに重ねる。
「怖い?」
ユーランが横から尋ねた。
「死ぬほど怖いです」
チヨは即答した。だが、その手は少しも震えていなかった。
「でも、私がやらなきゃ、みんな帰れません」
エレノアは、チヨの背中に確固たる強さを見た。怖くても、やる。それは自分と同じだった。
「全機関停止!」
チヨの澄んだ号令が響く、事前に彼女の説明を受けていたナルカミがレバーを操作し、エンジンを停止させていく。
一基、二基、三基……六基。轟音を立てていたプロペラが回転を落とし、やがてピタリと停止した。
〈飛鳥〉の船内に、静寂が訪れる。
その直後――。
「……沈んだ?」
エレノアが呟いた。
船体が微かに、数十センチほど沈み込んだ。チヨが油断無く計器を見る。
「違います、浮力が戻ったんです! 向こうの『引き留める力』が緩んだ!」
ナルカミが窓の外を見つめる。
「今だ、チヨさん!」
「全機関、再始動! 推進出力、最大!」
チヨとナルカミの手が目まぐるしくレバーを操作する。
セルモーターが狂おしく回り、一基、二基、三基――爆音とともにディーゼル機関が爆発的な回転を再開した。
六基のプロペラが強烈な風を生み出し、空気を切り裂く。
船体が激しく軋み、振動が四人を襲う。
「まだ……耐えて……!」
チヨが操舵輪を強く抱え込む。
そして――ズズ、と嫌な摩擦音が響いた直後、二百五十五メートルの巨体が弾かれたように前方へと滑り出した。
「動いた……!」
エレノアが手すりにしがみつきながら叫ぶ。
「浮揚バラスト調整! 面舵一杯、進路――あの黒い湖へ!」
チヨの叫びとともに、銀色の巨体が異星の空を切り裂き、水面へと向かって急降下を開始した。
◇
船首が湖へと近づく中、エレノアは一人、貨物区画へと戻っていた。
ナルカミの庇護から離れた瞬間、異星の邪念が津波となって彼女の精神を苛む。
昨日までの自分なら、一瞬で狂気に呑まれていたはずだ。
だが、今の彼女は違った。
〈飛鳥〉で未知の怪異に遭遇して以来、エレノアの奥に眠る『力』は静かに、けれど確実に目覚め始めていた。
異能――人によってその形も規模も千差万別である力。しかし、強大な資質を持つ者ほど、そのすべてを最初から自由に扱えるわけではない。
本人の意識とは無関係に、力の大半は深く閉ざされ、封印されている。そうでなければ、成長途上にある未熟な肉体と精神が、その強大な霊性に耐えきれず破綻してしまうからだ。
力は、それが必要とされるその時まで眠り続ける。
エレノアの心の奥底に存在する門番は、今こそ解放の時だと判断したのかもしれない。
苛烈な精神の津波を真正面から受け止めながら、エレノアは一歩、また一歩と黒蓮華鏡<クリシュナ・ダーパナ>へ向かって歩みを進めた。
黒蓮華鏡の前には、チヨが急遽設置してくれた船内マイクが置かれていた。
この送話器を通じて、彼女の歌声はマイクを通じて全船内――各客室、ラウンジ、医務室、機関室に至るまで響き渡ることになる。
「エレノア」
艦内電話からナルカミの声が届く。
「タイミングは一度きりです。早すぎれば、僕たちは異星に取り残される。遅すぎれば――」
「向こうの神性と繋がったまま、地球へ戻ってしまう」
「ええ。それは地球という星そのものの終焉を意味する。絶対に阻止しなければならない」
「……はい。解っています」
◇
〈飛鳥〉の船首が、黒い水面へと突入した。
水しぶきは上がらない。液体ではなく、空間の境界面。銀色の船体が、ぬるりと水面の向こう側――青空へと吸い込まれていく。
操舵室の窓の外が、一瞬で変わった。
眩しい太陽の光。どこまでも広がる雲海。見慣れた地球の空。
「地球……!」
チヨの目から涙が溢れ出た。
だが、まだ終わっていない。船体の中央、貨物区画、尾部は未だ異星の側に残されている。
境界を通過する巨大な船体。その瞬間、異星の天候が劇的に変貌した。
天空の星々が狂乱したように回転し、遠くに見えていた山のような巨大な影――あの『神性』が、ゆっくりとこちらへ向け駆動し始めたのだ。
「エレノア! まだです!」
ナルカミが叫ぶ。
「船体が完全に抜けるまで耐えてください!」
「……っ!」
貨物区画で、エレノアは鏡を見つめていた。
(お願い。早く。早く。)
異星の空間が崩壊を開始している。アッシュワースの記憶、ロンドンの街並み、世界大戦の惨状、それらがドロドロに溶け合い、巨影の口へと呑み込まれていく。そして、その巨大な意思の『視線』が、〈飛鳥〉へと注がれた。
「残り三十メートル……二十メートル……!」
チヨが悲鳴のような声を上げる。
船尾が境界を越える、まさにその瞬間――。
「――今です、歌ってください!!」
◇
エレノアは深く息を吸い込み、魂の底から声を放った。
最初の一音。それだけで黒蓮華鏡が不協和音を上げて震えた。
送話器を通じて、彼女の澄み渡る歌声が〈飛鳥〉の全区画へと流れていく。
英国の寄宿学校で、誰にも顧みられず、悲しみと憎しみの中に取り残されていた、一人の少女へ歌った讃美歌。
傷つき疲れた者よ――
重荷を下ろすがいい――
夜は明け――
光が、あなたを包むから――
一等客室で鏡に話し掛けていた老婦人が、ふと正気に戻り目を見開いた。
床に伏して涙を流していた客室の紳士が、ゆっくりと顔を上げる。
耳底にこびりついていた爆音と悲鳴が、清らかな旋律によって洗い流されていく。
機関室で、存在しない敵兵と戦っていた機関士の耳から銃声が消え、自分の手に握られているのが銃ではなく具であることに気づいた。
歌声は、人間と神性を繋いでいた不吉な黒い触手を、優しく、けれど断固とした意志でもって解ほどいていく。
力ずくで断ち切るのではなく『もうあなたの場所へお帰りなさい』と宥めるように。
黒蓮華鏡の表面から、黒い霧が引き剥がされていく。
そこから浮かび上がる無数の死者たちの幻影。欧州大戦で散った兵士たち、看護婦、母親たち。
エレノアは彼らを排除しようとはしなかった。ただ、深く包み込むように歌い続けた。
――もう戦わなくていい。苦しまなくていい。休んでください。
黒い霞が眩い光の粒子へと変わり、人々の残留思念は安らかに消滅していく。
その時――異星の彼方に眠る「巨大な意思」が、明確にエレノアへと視線を向けた。
「――あ」
声が激しく揺れた。
星々を呑み込む絶対的な虚無。人間の理解を超絶した膨大な思考の奔流が、歌声を伝ってエレノアの頭脳へ直接流れ込んできた。
自我が吹き飛ぶ。自分が人間であることすら失われかける。歌が途切れかけた。
あまりの恐怖に手が冷たくなり、足が膝から崩れ落ちそうになる。
怖い、逃げたい、私には無理だ、こんなもの――耐えられない。
エレノアの心が壊れてしまう――その直前、誰かが優しく、彼女の右手をとった。
温かく、細い、少女の手。
隣を見ると――寄宿学校の制服を着た、あの少女が立っていた。
だが一年前のような憎悪と絶望の影はない。穏やかな笑みを浮かべ、しっかりとエレノアの手を握っている。
『大丈夫だよ、エレノア』
声は聞こえない。だが、確かにそう言っていた。
彼女には何の特別な力もない。神性に抗う術もない。ただ、かつてエレノアが全霊をかけて救った、小さな魂の残滓。
エレノアの目から溢れ出た涙が、頬を伝う。
歌は途切れなかった。力強く、どこまでも気高く響き渡る。
神性の圧力が強まる。
なぜ拒むのか、なぜ砕けないのかという不可解な問いとともに、宇宙の深淵が押し寄せる。
けれど、エレノアはもう怯まなかった。
傍らに立つ少女の姿が眩い光に包まれ、少しずつ粒子となって溶けていく。
それでも微笑んでいる、そして唇が動いている。
声は聞こえない、なのにエレノアには分かった。
同じ歌。
少女も一緒に歌っている、エレノアは歌いながら、心の中で彼女に語り掛けた。
『ありがとう……私の大切な、初めての友達』
少女は天使のように微笑み、そのまま光の中へと溶けて消えた。
◇
その瞬間、〈飛鳥〉の最後尾が境界を突破した。
「抜けましたあぁぁっ!」
操舵室のチヨの歓喜の叫びをあげる。
ここまで気を張り続けていたユーランはへなへなとその場に座り込む。
その横で、限界を超えて三人を守り続けていたナルカミは、周囲の安全を確認した途端、糸が切れたように意識を手放しその場に倒れ込んだ。
「ナルカミ!」
ユーランは這うようにナルカミに寄り添うと、呼吸と脈を調べ安堵の表情をうかべた。
「……まったく、最後まで格好をつけるからよ」
操舵室の窓の外には青空が広がり、見慣れた地球の大気が船体を包み込んだ。
エレノアの歌が最後の一節を奏で終えると同時に、黒蓮華鏡から最後の黒霧が剥がれ落ち、鏡面は静かな、ただの黒銀色の金属へと戻る。
そして異星と地球、人間と神性を繋いでいた一切の道が、完全に閉ざされた。
◇
異星の闇の中で、巨大な何かが佇んでいた。
追跡はしない。怒りも後悔もない。
ただ、自らの理に抗い、逃げ切った矮小な生命の、あまりにも美しい歌の残響を――子守歌代わりに反芻しながら、神性は再び永い眠りへと沈んでいった。
◇
窓の外には、眩いばかりの青空と白い雲が広がっていた。
操舵室内は奇妙なほどの静寂に包まれていた。
そんな中、無線機から激しいノイズとともに、切羽詰まった人間の声が飛び込んできた。
『――こちらカラチ航空管制! 応答せよ、飛鳥!』
操舵室で、チヨが両手で顔を覆い、感情を爆発させて泣き伏した。
呼吸を整え、震える手で送話器を取る。
「……こちら、飛鳥。聞こえています……!」
『飛鳥! 良かった、通信途絶を確認していた! 落雷の影響か!? 機体に損傷はあるか!?』
「通信……途絶……?」
『そうだ、約五分間にわたり応答が途絶えていた! 状況を報告せよ!』
五分間。
チヨは呆然と時計を見た。針は確かに、五分しか進んでいなかった。
あの大異界での長い戦い、狂気の発狂、脱出劇のすべてが――地球の時間においては、わずか「五分間」の出来事に過ぎなかったのだ。
誰も、すぐには言葉を発することができなかった。
◇
アッシュワースはその日の夕刻、〈飛鳥〉の最下層にある整備用シャフト内で発見された。
ナイトガウン姿に裸足、極度の疲労は見られたものの、怪我ひとつなかった。
本人は
「昨夜、ラウンジでシングルモルトを数杯煽り、自室へ戻った、その後、気付いたら博物館にいた」
と証言した。その後の記憶は極めて曖昧であり、正気に戻った時には狭い点検通路で丸くなっていたという。
医師は、極度のストレスと深酒による夢遊病、および船内で発生した一時的な集団パニックに巻き込まれた結果と断定した。
「私は異世界の博物館に囚われていたんだ!」
と熱弁する彼に、医師は優しく肩を叩き、
「しばらくお酒は控えなさい」
と告げた。アッシュワース氏が暫く酒を断ったのは言うまでもない。
◇
貨物区画。
歌い終えたエレノアは一人、黒蓮華鏡の前に立っていた。
鏡面にはもう、恐怖の触手も、異星の空も、戦場の死者たちも映っていない。
ただ、十六歳のイギリス人の少女――エレノア・スターリングの姿がそのままに映っているだけだ。
自分がこれからどうなるのか、どんな運命が待っているのかは分からない。
けれど、一つだけ心に決めたことがある。
もう、自分の力から逃げたりはしない。
すべてを救えるなんて思わないし、聖女になるつもりもない。
けれど、もし誰にも聞こえない悲鳴が聞こえたなら、その時は足を止めよう。自分のこの手で、救える誰かがいるかもしれないから。
鏡の中、自分の隣に、あの少女が寄り添って笑っているような気がした。
エレノアは振り返らず、ただ鏡の中の自分に向かって、優しく微笑みかけた。
今はそれで十分だった。
エレノアは黒蓮華鏡に背を向け、静かに貨物区画を後にした。
扉の向こう、銀色の巨体〈飛鳥〉は、悠然と東の空へ向かって飛行している。
シンガポール、高雄、そして終着点――東京へ。
そこにどんな運命が待ち受けているのか、エレノアはまだ知らない。
ただ今は――その未来が、ほんの少しだけ楽しみだった。




